2012年11月29日木曜日

6_105 不確定の破れ 2:乱れ


 一見確固たる対象があったとしても、ごく微小な世界でみると、そこにさまざまな不確かさが紛れ込んでいます。観測による不確かさ、対象自身がもっている「乱れ」も不確かさを生みます。不確かさを正確に観測するということは、いろいろな困難、問題があるようです。

 ハイゼンベルクは、素粒子のような小さな物質では、位置と運動量を同時に観測しようとすると、ある一定量以下に誤差が下がらないことを示しました。どちらか一方を正確に測ろうとしたら、他方が不確かになっていくというものです。さらに観測は、実験系に影響を与えるという深刻な問題も提起しました。この観測者の影響は重要な概念であったので、大きな反響がありました。
 しかし、ハイゼンベルクの「不確定性原理」には、いくつかの課題もありました。
 ひとつは、量子力学では、素粒子の位置も運動量も「もともと決まっていない」という、ボーアたちの解釈(コペンハーゲン解釈とよばれるもの)があります。そもそも同時に正確に測ることなど、できないことだというのです。この解釈には、アインシュタインは強く反発をして、「もともと決まってるのだが、人間にはわからないだけだ」と考え、「隠れた変数理論」と呼ばれています。のちに「神はサイコロを振らない」(1926年12月にアインシュタインからマックス・ボルンに送られた手紙)とい有名な言葉となる批判をしました。
 解釈論争だけでなく、実際には、ハイゼンベルクの「不確定性原理」は仮説であり、厳密な証明がされないまま使われてきたという経緯もありました。さらにハイゼンベルクの不等式には間違いがあることは、以前から知られていました。実際には、測定装置による測定誤差と、観測によるエネルギー添加での生じる素粒子本体の誤差があるはずなのに、それが区別されないで表現されている点です。これは、ボーアらがすでに指摘していました。概念やその指摘している内容の重要性のみが、独り歩きしてきました。
 2003年、小澤正直(名古屋大学)さんによって、ハイゼンベルクの式の不備が理論的に改善され新たな不確定性原理である「小澤の不等式」が提唱されました。この不等式には、位置と運動量の誤差のほかに、測定前の位置と運動量における量子の「乱れ」が導入されています。不確実性には、測定するときに生じる誤差以外にも、素粒子のような小さいの物質がもっている量子的な状態がもっている不確さ、つまり「乱れ」(量子的乱れ)があります。その両者は区別して取り扱うべきであるというのです。
 小澤の不等式では、一方を精度よく測定しても(誤差が0に近づく)、他方が限りなく大きくなることはなく、一定の範囲に留まるというのです。小澤さんとの長谷川祐司(ウィーン工科大学)さんたちのグループが、精密な中性子観測実験で、これを実証したという報告をしました。それが、今回のテーマとしたものでした。

・改変・
学問は基礎的な部分になればなるほど、
改変は大きな衝撃をもって多くの科学者に届き、
多くの人の目に触れ、
チェックを受けることになるはずです。
ハイゼンベルクの「不確定性原理」の出現の時もそうでした。
ボーアやアインシュタインなど
当時の錚々たる科学者が
その内容を検討し、反論し、問題を指摘しました。
基礎的、根本的な理論になるほど
それが改変されることは稀で
「改変」のほうが間違いであることも多くなります。
「光より速いニュートリノ」もそうでした。
今回は少々違っています。
まず、従来から不備があったにものかかわず、
それを修正することなく
有耶無耶にして生き残ってきた理論だったことがあります。
さらに改変の手続は、まずは理論ありきでした。
つぎに実験による検証がなされました。
手順としてはもっとも堅実な歩みをしてきています。
その真偽の検証には時間がかかるはずです。
たとえ、現状で正しそうに見えても
やがて間違いが見つかるかもしれません。
この研究も、先の研究を破れを塗り替えるという
同じ道を歩んでいるからです。

・大荒れ・
北海道は、週の初めから、大荒れの天気が続いています。
私たちの街は、雪が毎日降っているだけで、
多少の交通障害はありましたが、
雪による大きなトラブルはありませんでした。
室蘭や新冠など噴火湾沿いでは、
停電や交通に大きな乱れがあったようです。
まるで真冬のような吹雪模様でした。
根雪にはまだ早いのですが真っ白な日が続ています。

2012年11月22日木曜日

6_104 不確定の破れ 1:観測


 不確定性原理とは、物理学における観測には限界があることを示しています。それ以上に、客観性や観測者の影響について考えるためにも重要なきっかけとなっています。最近、不確定性原理に破れがあるという報告がなされました。それを紹介しながら、不確定性について考えていきます。

 少々前の話しになるのですが、重要な研究成果が報告されました。現在の物理学、あるいは科学において、非常に根源的な問題に関する報告です。それは「不確定性原理」に関するものです。量子的な世界における論理的な方程式で表されたもので、観測の限界を示すものです。最先端の実験装置を用いておこなわれた観測なので、実証性の高いものです。報告も、2012年1月15日付の"Nature Physics"の電子版に掲載されました。権威ある科学雑誌なので、実験やデータの信頼性はあるものです。
 そもそも不確定性原理とはどういうものでしょうか。いくつかのバリエーションがあるのですが、1947年、ドイツの物理学者ハイゼンベルクによって、思考実験として提唱されたものです。
 素粒子のような小さな物質で、位置と運動量を同時に観測しようとしたときに生じる問題です。素粒子の位置を決めるためには、素粒子を見なければなりません。見るためには「光」が必要となります。正確に測るには、できるだけ波長の短い「光」でなければ誤差が大きくなります。素粒子は小さいので、光でも当たると、その影響で運動量が変わってしまいます。光の波長が短いほど、そのエネルギーが大きくなります。正確に測ろうとするほど、光の波長が短くなければならず、エネルギーも大きくなり、運動量の変化も大きくなります。逆に運動量を測るときも、正確を期するほど、位置の精度が不確かになるということが起こります。
 これは、素粒子の世界では、観測誤差をある量より下げることができないことを意味します。つまり、観測の精度には限界があるこということです。さらに、科学にとって、もっと深刻な事態を招くことになるかもしれないのです。
 そもそも実験や観測とは、研究者によってなされているものです。観測者の影響をなしに実験や観測ができるかということです。実験や観測の客観性が保証できるのかという問題提起です。
 観測者の関与しない実験や観測もあるでしょうが、観測者の影響を与えるものもあるはずです。実験や観測は、基本的に観測者の影響は「ないはず」とみなして、データを集めています。繰り返し実験を行なったとき、明らかにおかしなデータがでてきたら、原因不明でもそのデータはとり除いてしまいます。実験システムで、おかしなデータは取り除くようなプログラムがなされていたら、たびたび出てくるデータがあっても、無視されているかもしれません。あるいは、プログラムのデータの取り除き規制を強くすれば、恣意的なデータを集めていることになるかもしれません。そんなデータでも多数集めると、統計上は、正しさを保証しているように見えます。もしそのデータが稀にしか起こらない現象を捉えていたとしたら、どうなるでしょうか。
 深く考えると、なかなか大変な問題です。科学の根本的な問題ともいえます。不確定性原理ではハイゼンベルクの誤解あったことがわかっています。紹介する報告では、限界を超えた測定が可能であることを示しています。そ内容は次回としましょう。

・貴重な経験の場・
大学は、来年度に向けて入試が
もうスタートしています。
AO入試は夏からすでにはじまっており、
もう合格発表も終わっています。
今週末から推薦入試がはじまります。
一般入試についで受験者が多い入試なので、
大学では、教職員が総出で対応します。
受かる人もいれば、落ちる人もいます。
悲喜こもごもですが、
人生にはそんな勝負の時期も
必要なのかもしれません。
ただ、若者にとって受験戦争がないのは
いいことなのでしょう。
しかし、最大限の努力、その努力が報われない挫折を
味合わなければならないときもあること。
周りの同世代の中で自分の置かれている位置を知ること。
そんな精一杯の自分実力、能力が
社会にどの程度通用するのかを
教えてくれてもいたのかもしれません。
そんな競争を経験しない受験生もいいます。
大学全入時代の若者は、幸せかもしれませんが、
貴重な経験の場もなくしてしまったかもしれませんね。

・冬到来・
北海道は一気に冬になりました。
週末から雪に一気に降り積もり、寒波襲来です。
ただし、札幌気象台観測史上、
3番目に遅い初雪の記録だそうです。
戦後ではもっとも遅い初雪だそうです。
その後も、寒気が居座り、寒い日々が続いています。
地域のよっては、雪で列車が遅れも出ています。
今年は、夏も長く、秋もそれほど寒くなかったのですが、
冬は少々遅れましたが、
寒さはしっかりときたようです。

2012年11月15日木曜日

6_103 評価と徒労感


 日本はいろいろな面で制度疲労が起きている気がします。研究の世界でも、研究の評価システムが導入されていて、それに追われています。評価システムが研究の成果公開を促してることは事実です。その影では、研究者の大きな徒労感が漂っています。それを憂いて日本学術会議が提言を出しました。

 このエッセイの読者の中には、研究者の方もおられると思います。そして、国公立の教育研究機関におられるかた、特に理系の方々は、日々何かに追われている気がしませんか。日々研究自体に追われているのは、健全な状態と思いますが、それ以外の何かかに追われていませんか。研究の本来の成果とは違う、「業績数」や「業績評価」、「社会貢献度」などのような得体のしれないものに、日々追い回されている気がします。
 毎年、業績を申告するとき、一喜一憂していませんか。順調に研究が進んでいるときはいいでしょう。しかし、上手くいかない時もあるはずです。そんな年の業績報告はつらいものです。でも、業績数と研究の進捗と、あるいは成果と満足感が、本当に一致するのでしょうか。
 有能な研究者のところには、学生や院生が多数いて、研究費も多く得られ、彼らを動員して研究業績を増やしている研究者も多々います。業績が増えれば研究費が増え、そして学生も増える、という好循環をうんでいるように見えます。そのような研究方法もありでしょう。
 大きな予算で行う研究もあるでしょうが、多くの研究者は、個人の興味に基づく個人規模の研究に従事しています。これが大多数の研究者の姿のはずです。ひとりの研究者として、自分自身の興味や好奇心にもとづいて、自分でその答えを得るという喜びが基本ではないでしょうか。
 研究なんて、見通しが違ったり、失敗のこともあるでしょう。そんな一年もあるでしょう。同じような努力や熱意を持って研究を進めても、うまくいかに時もあるはずです。ところが、研究室や研究費が多くなるほど失敗は許されない状況に追い込まれます。代表者たるもの、その心労は大きなものとなります。
 さらにいえば、研究の評価は、掲載された雑誌のレベル、他の研究者がどれだけ引用するか、などに基づいて数値化されています。自分が面白いと思って取り組んだ研究に、だれも注目しなければ、どんなに先見性があっても、評価を受けないでしょう。したがって、どうしても評価を受けそうな「今はやり」テーマを中心にして、要領よく研究しようという風潮が生まれます。今やそれこそが現在の研究の正しいありかたと思っていないでしょか。地球温暖化、iPS細胞しかり、地震・津波の研究もしかりです。
 日本学術会議が10月26日に「我が国の研究評価システムの在り方」という提言を公開しました。そこで、若手の研究者が評価に大きな負担を感じていることを指摘して、その改善を求めています。研究の評価システムは必要ですが、その評価システム自体が、研究者の徒労感を生んでいるといっています。私も同感です。
 そもそも評価システムは、かつて国家予算を使っている研究者が何をしているのかわからない「象牙の塔」になっていたため、研究成果の公平な評価が必要とされました。科学技術基本法(1995年)を受けて、「国の研究開発全般に共通する評価の実施方法のあり方についての大綱的指針」(1997年)ができ、研究の評価システムが導入されました。
 この制度は一定の成果を上げたと思います。ところが現在では、必要以上に評価が重んじられている気がします。評価を考えるあまり、個人のレベルでの好奇心の基づく研究、息の長い研究などを捨てているように思います。評価システムへの過剰な対応が、研究の健全性を失わせている気がします。
 もしかすると、このような徒労感、閉塞感は、研究者だけでなく、背景は違っているでしょうが、日本のいろいろな社会、階層、業種で起こっていることなのかもしれません。少々、日本の将来が心配になりますが、老婆心でしょうか。

・私の不健全さ・
私のいるのは私学の文系大学です。
ですから私のような理系の研究者は少々異質です。
しかし、自分の存在理由を示し、
自分自身で確認、確保するために、
毎年決まった成果を出すことを
自分に義務付けています。
途中経過でもいいから一定の基準になったら
それを公開するようにしています。
ですから、論文ネタというべきもものを
いくつも抱えています。
実は下書きレベルですが、
論文の粗稿を2、3編もっています。
1年間の研究休暇の間に書き溜めたものです。
定期的に論文が書けなかった時の非常用です。
でも、これって非常に不健全ではないでしょうか。
定期的に成果を出すことが第一義になっていて、
研究することが二の次になっています。
研究して成果が出たら報告するというのが
健全な研究パターンのはずです。
反省を兼ねてこのエッセイを書いたのですが、
論文を定期的に公表することが
今の私の研究動機になリ下がっています。
私の研究の状態は明らかに
業績中心の不健全なものになっています。
いかがなものか、悩ましいいです。

・気の緩みに注意・
私の町では、天気がいいと雪虫がいっぱい飛び交い、
秋も終わり冬も近くなってきました。
ところが、冷え込みがそれほどではありません。
雨も温かいものです。
気圧配置で一気に冬になってしまうので、
気を抜かないようにしないといけません。
長男が研修から帰国した翌日
風邪で寝込んでしまいました。
これは気の緩みでしょう。
我が家は長男の風邪菌が蔓延しているので、
体調には注意です。

2012年11月8日木曜日

2_111 ウイルス 3:関係の有無


 ウイルスと他の生物の系統上の違いは、それほど大きくかけ離れているものではないようです。他の生物内にみられる違いよりは少ないほどのようです。ただし、ウイルスと他の生物との系統関係を論じるには、いくつかの課題もあるようですが。

 2012年8月24日にナシャーたちは、「巨大ウイルスは細胞を持つ祖先と共存していて、古細菌、細菌、真核生物などのグループとともに一つの別のグループをなしていた」という論文を発表しました。ウイルスは、すべての生物と共通の祖先から進化してきたことになるということを報告したものです。
 生物の系統関係は、DNAの塩基配列を比較することが通常の調べ方です。今回、ナシャーたちは、タンパク質を大規模に比較する方法を用いて検討して、系統樹を再構築しました。もちろん、分析したタンパク質は、ウイルスや他の生物も共通してもっているものです。系統解析したのは、ウイルスとバクテリア、古細菌、真核生物です。まあ、すべてのドメインの生物に対しておこなったということです。
 実は、私には、論文に示された系統解析の図の見方がよくわかりません。論文では、いくつかの図が示されていますが、それらの図から類推すると、ウイルスは、やはりバクテリア、古細菌、真核生物とはかなり違っているようです。
 ある図では、ウイルスを根っこ(root)とすると、そこから古細菌につながり、そしてバクテリアと真核生物に分かれるという系統樹が示されています。また別の図では、やはりウイルスは古細菌に一番近縁のようですが、ウイルスと古細菌の違いは、真核生物と古細菌の違いほどのようです。見ようによれば真核生物内の違い大きくは、古細菌とウイルスの違い以上にありそうです。
 もしこの研究結果が本当であるならば、ウイルスは生物の仲間になります。現生の生物とは分子レベルでみると結構違っているようですが、その違いは、生物のドメイン間の違いやドメイン内の違いよ大きくはなさそうです。
 さらに、もしかするとウイルスが生物のより祖先に近いのかもしれません。そうなると、ウイルスは生命誕生の謎を秘めているかもしれません。
 ただし、いくつかの疑問もあります。
 そもそも系統関係がない生物で系統解析ができるのか。できるとしたら、共通するなんらかのタンパク質があるということになり、すでに生物として系統関係があることが判明しているのではないか。
 ウイルスは、生存戦略として寄生という仕組みをとっていますので、不要な機能は極力排除、捨てていく方向で進化しています。DNAがやタンパク質でも同じことが起こっているはずです。となると、そもそも「間引かれたタンパク質」による系統解析を適用していいのかという疑問があります。するにしても、消えた情報をどう補って比較するのかという疑問があります。
 もし従来通り、ウイルスは生物でも無生物でもないと所属不明の存在と考えるなら、ウイルスと生物の進化上の関係は、解けない謎となります。でも、今回の研究をもとに「関係あり」として進めば、ウイルスの誕生の謎を解き明かすことできるかもしれません。そんな可能性を感じさせてくれる研究でした。今後の展開が期待できるのですが、生物学ではあまり注目されていないのは、なぜでしょうか。

・学問の限界・
ウイスルを生物でないといっているのは、生物学者です。
ウイスルを調べているのも、生物学者です。
ウイルスを生物として調べているのも生物学者です。
今回のウイルスは生物と
密接な系統関係があるとしたのも、生物学者です。
こうしてみると、生物学界内の意見の不統一が
外部に漏れてきているにすぎないのかもしれません。
ウイルスという実在のものが、
生物か無生物かすらわからないのは、
あまりに生物学が非力にみえます。
なにも生物学だけに限ったものではありません。
学問全体が同様の限界をもっています。
今回のような究極の生物?ウイルスは、
その学問の限界を見るために
いい話題なのかもしれません。

・秋深し・
北海道はここしばらく冷え込みも一段落です。
ただし、自宅はもう冬モードになっているので、
室内のストーブは温度設定をして
つけっぱなしです。
20度を下回ると自動的に点火するようになっています。
ですから、自宅内では寒さを感じることはないのですが、
着込んでさえいれば外部もそれほど寒くありません。
次男は、自宅で温かいとすぐに裸足、半袖になってしまいます。
そのまま学校にいってしまうので風邪をひかないか心配ですが、
今のところ大丈夫のようです。
秋は深まっているのですが、
里の雪はもう少し先のようです。
次男にも冬はまだまだのようです。

2012年11月1日木曜日

2_110 ウイルス 2:共通祖先


 ウイルスが生物であるという報告が、今年8月に出されました。その結果を、私は衝撃をもって受け取りました。しかし、生物学界の方では、それほど反響が聞こえてきません。なぜでしょうか。まあ、そんな疑問はさておき、報告をみてきましょう。まずは、タイトルからはじめましょう。
<hr>
 私は、ウイルスは生物だと考えています。なぜなら、ウイルスは、生物学の範疇で扱われているし、生物との比較なくしては語れないからです。少なくとも無生物としては、決して扱えない存在だからです。
 生物学では、ウイルスは、「生物と無生物の中間的な存在」とされています。つまり、生物と認めたくない、という主張が見え隠れしています。実際、ウイルスは、前回も紹介しましたが、さまざまな点で生物と大きく違っています。
 ウイルスは、タンパク質と核酸だけで構成されています。核酸は、生物ではDNAとRNAの両方をもっているのですが、ウイルスは、どちらかしか持っていません。ウイルスは、単独でいるときは、生命活動をほとんどしません。他の生物(宿主とよびます)の細胞に入った時のみ、増殖していきます。ただし、自身では材料も用意することなく、エネルギーもつくることなく、すべて宿主の細胞の機能を利用しています。
 生物としての営みを極力排除して、遺伝情報のみをもち、それ以外の機能はすべて宿主のものを利用しています。この生存戦略が一番の違いといえます。生命活動をしていない点を重視する人は、ウイルスは生物ではないと主張します。
 もし、生物とウイルスが進化のどこかの段階で関係が判明すれば、ウイルスが生物であるという重要な根拠となります。その関係とは、生物からウイルスが派生した、ウイルスから生物が派生した、共通の祖先となる生物から派生した、という3つの可能性が考えられます。
 2012年8月24日にナシャーたち(Arshan Nasir, Kyung Mo Kim and Gustavo Caetano-Anolles)が、次のような報告をしました。
"Giant viruses coexisted with the cellular ancestors and represent a distinct supergroup along with superkingdoms Archaea, Bacteria and Eukarya"
 訳すると、「巨大ウイルスは細胞を持つ祖先と共存していて、古細菌、細菌、真核生物などのグループとともに一つの別のグループをなしていた」となります。つまり、ウイルスは、すべての生物と共通の祖先から進化してきたことになるという報告です。
 これは上で述べた、ウイルスが生物を決定づける可能性の3番目のものを発見したこと意味しています。
 もしこの報告が本当であれば、ウイルスは生物だ、もしくは生物であった、ということになります。さてさて、本当のところは、どうなるでしょうか。

・紅葉・
北海道では、秋が里に降りてきました。
里の木々は、一気に紅葉が進み、
葉を落としています。
ある講義で、落ち葉を拾ってしようするので、
雨がふらなければ、絶好の時期となります。
そんな天気になればいいのです。
こればかりは、どうしようもありません。

・Monolog・
次回、論文をもう少し詳しく紹介する予定です。
もしこの報告が本当であれば、
ウイルスを生物扱いすべきだ
という主張が通りやすくなります。
そしてなにより、生物学を
より広いものにしていく可能性が生まれてきます。
詳しくは、別のエッセイで紹介しました。
興味ある方は
Monologの
http://terra.sgu.ac.jp/monolog/2012/130.htm
で見てください。