2010年8月26日木曜日

1_95 新生代の玄武岩:最古のマントル 1

 最古のマントルの証拠が見つかったという論文が発表されました。しかし、その結果は少々注意が必要のようです。その論文を紹介しながら、最古のマントルとはどんなものかを見ていきましょう。

 2010年8月12日発行のイギリスの科学雑誌Natureに、「最古の地球マントルの貯蔵庫の生き残りの証拠(Evidence for the survival of the oldest terrestrial mantle reservoir)」という論文が発表されました。ボストン大学のジャクソン(M. G. Jackson)らの6名の共著による論文でした。
 この論文のことをインターネットのニュースで最近知りました。Natureのサイトで要約(アブストラクト)を読んで、あとは関連のニュースをいくつか読みました。現在、私は大学から離れているので、Natureを手することでができません。ですから原典にあたっていませんので、以下の話には、もしかすると誤解や間違いがあるかもしれません。その点を含みおきください。
 タイトルをみるとわかるのですが、少々もってまわった表現となっています。マントルの貯蔵庫(mantle reservoir)、生き残り(survival)という言葉が使われています。「最古の岩石」でもなく「最古のマントル」でもないところに注意が必要です。つまりは直接的な最古の年代を示す岩石や鉱物が見つかったのでないということです。間接的な証拠があったことを示しています。その点に注意をしておく必要があります。
 今回の研究の対象となったのは、つまり素材の岩石は、カナダ北部のバフィン島と西グリーンランドの溶岩です。この溶岩は、新生代(約6200万年前)に噴出した玄武岩溶岩です。なぜ、このような新しい岩石から、最古のマントルの証拠が見つかるのでしょうか。それは、マントルの同位体組成に基づいています。
 玄武岩はマントルで直接マグマが形成され、上昇中も地殻の物質の混入などもほとんどないと考えられています。素材として玄武岩は、マントルの情報を知るには適しています。そして、玄武岩の同位体組成は、新しいものほどマントルの値をそのまま保持していることががあります。同位体には放射性核種は改変しますに、元素によっては変質や変成で変化したり、抜けていくこともあります。比較的新しい岩石の同位体組成を用いて、この論文ではマントルの特徴を探っているようです。
 バフィン島と西グリーンランドの溶岩は、鉛同位体組成が、45.5から44.5億年前のマントル年代をもっていると考えてよい始原的な値をもっていることがわかっています。さらに、ネオディニウムの同位体組成(143Nd/144Nd)も地球初期(だいたい45億年前)に形成されたマントルの値といわれているものを持っていました。これらは、まだ傍証にすぎません。その玄武岩が古いマントルから由来しているらしいということを示しているにすぎません。決定打が必要ですが、まだ見つかっていないようです。でも、この論文は傍証を積み重ねていきます。それは次回としましょう。

・祭・
先日の地元の祭に2日つづけていきました。
一つは伝統的な神社の祭で、
「花とり踊り」という市の無形文化財となっています。
私のいる支所のすぐ近くの神社でおこなれてました。
伝統芸能と信仰が結びついたものです。
地域のコミュニティが古くから守られてきた行事です。
こじんまりとしてなかなかよかったです。
翌日は、市庁舎のある少々遠い宇和の町でおこなわれている
「卯のほたる」という行事です。
ちょうちんや行灯で町内を飾るというもので
今年で7回目の祭でした。
ほのかな灯りのすばらしさを味わいました。
また、コンサートもおこなわれていました。
ろうそくに照らされた古い校舎とコンサートがマッチしていました。
コンドルは飛んでいく、五木の子守唄・・・
すばらしい夜を過ごしことができました。

・源氏ヶ駄馬・
前回のエッセイで紹介した
西予市の最高峰である源氏ヶ駄馬に
先日行ってきました。
夏なので涼しいと期待していたのですが、
その日は少々暑かったです。
もちろん下界と比べれば涼しいのですが、
地元の人も今日は暑いといってました。
少々湿度が高かったようです。
しかし、日陰に入るとやはり涼しく、
風が吹けばすがすがしいものでした。
標高が高いので、車の窓をあければ
涼しく走ることができました。
その時かかっていた音楽は
平原綾香のJupitarでした。
大野ヶ原の高原の形式と
その音楽は不思議とマッチしていて
何度のリピートして聞いてしまいました。
近いうちに、今度は高原の稜線ルートを
いってみたいと思っています。
秋になる前に。

2010年8月19日木曜日

4_93 大野ヶ原:西予8月

 愛媛県西予市は、西は宇和海に面し、東は四国脊梁にまで達する東西に長く延び町です。もともと5つあった市町村が合併して西予市となり、多様な自然や景観をもつ市となりました。私がいるのは山里の西予市城川町です。そんな西予とその周辺の風物誌を月に一度紹介しようと思います。今回は東の端の大野ヶ原を紹介します。

 現在滞在している愛媛県西予市城川町について、このエッセイでは書いてきませんでした。それは、別の月刊エッセイ(大地を眺める)で、今年1年は四国を中心に紹介していたことと、ホームページ(西予の自然史と風物誌)で写真と一言のコメントをつけて毎日紹介していたからです。
 ところが、エッセイでは四国全体の話になり、西予市や城川は5月に黒瀬川を紹介したので、もう紹介する予定はなくなりました。また、ホームページでは短い文章なのであまり詳しい紹介はできません。ですから、本エッセイで、月に一度くらいのペースで、城川や西予市、その周辺を紹介していこうかと考えています。さて、前置きが長くなりました。本編をはじめましょう。
 まず紹介するのは、8月の暑いときですので、涼しい場所にしましょう。大野ヶ原です。7月下旬、論文の投稿が終わったので、近くの山里をいくつか回ったときにも大野ヶ原にいきました。近隣は非常に暑かったのですが、大野ヶ原までくるとほっとするほど涼しくなりました。大野ヶ原は、標高が1000m前後あり、下界と比べてかなり涼しくなります。西予市の最高峰1402.8mの峰(源氏ヶ駄馬と記されているがその上にある峰)が大野ヶ原にあります。
 源氏ヶ駄馬という地名は、源平に時代まで由来は遡るようです。壇ノ浦の合戦で敗れた平家残党が大野ヶ原に逃げてきたのですが、源氏の騎馬軍団が追ってきたので平家はさらに逃亡していったといいます。その逃亡には、次のような逸話がありました。ある朝、平家の見張り番が、源氏の騎馬軍団が攻め来てたのを見つけました。その知らせで、あわてて平家の残党は逃げたといいいます。平家は赤旗、源氏は白旗を用いていたのですが、源氏の色である白の軍団が白馬にのってきたのを見張りが見つけたのです。
 しかし、見張りは、石灰岩を白い騎馬兵と見まちがえたのです。びくびくしていると石も敵にみえるようです。この白い騎馬軍団にみえたのは、ピクナルやカレンフェルトなどのカルストの特有の浸食によってできた石灰岩の形状でした。カルストとは、石灰岩が露出している地帯で、浸食によって特有の地形ができているところをいいます。大野ヶ原は、四国カルスト西端にあたります。石灰岩は、秩父帯に属し、大野ヶ原より西側にも点々と分布しています。しかし、石灰岩の規模が小さいとカルスト地形と呼ばれるものにはなりません。それなりの広さの分布が必要になります。
 何度か大野ヶ原には来ているのですが、7月には源氏ヶ駄馬の一番上の駐車場まで車でいったのですが、山頂までは登りませんでした。思い返したら、何度も大野ヶ原には来ているのに、山頂までは行ったことがありませんでした。ですから、近いうちに西予市の最高峰を制覇したいと考えています。駐車場から直登すれば、30分ほどでいけると思います。そして大野ヶ原にはおいしいアイスクリームがありますので帰りの楽しみとしましょう。大野ヶ原は下界が暑いときこそ、いいところなのです。

・地元シリーズ・
地元シリーズを月一回ほどのペースで
はじめることにしました。
せっかく西予市にいるのだから、
その滞在記をいろいろな形で出していこうと思います。
東西を車で縦断するには3時間以上かかるほどです。
西予市の地質データベースをつくるときに、
一通り巡っています。
でも、再度一人でのんびりと見て回ろうと考えています。
走行しているうちに滞在の期間の半分近くもたってしまいました。
月日の流れるのは早いものです。
せっかくに機会ですから、
きっちりと残ることをしておきたいと考えています。

・暑い夏・
今年の夏は暑いですね。
私は、北海道から四国に来てるので
夏の暑さにはかなり参っています。
城川は山里なので
夜から明け方には涼しくなるので、
なんとか寝れるので、ばてずにすんでいます。
でも、なかなか熟睡はできないようで、疲れが抜けず、
朝も寝起きが悪くなっています。
特にお盆の暑い時期から
寝過ごすことが多くなっています。
8月いっぱいはこんな調子でしょうか。
なんとかがんばって乗り切るしかありませんね。

2010年8月12日木曜日

1_94 気候変動:IRD 5

 ハインリッヒ・イベントの後続いて起こるダンスガード・オシュガー・サイクルが見つかりました。気候変動は、周期性を持ちながらも、複雑な変化を行っているようです。そんな変化がやっと認知されるようになって来ました。しかし、その原因究明は、まだまだこれからです。


 氷河期が単調な寒冷期ではなく、激しい変動を起こしていた時期という認識をもらたしました。さらに、気候は大気だけの現象ではなく、海洋とも重要なかかわりがあることも分かってきました。海洋底堆積物に気候変動が記録されていたことから、海洋も気候変動に重要な役割を果たしていることになります。そうなると、過去の気候変動は、海底で形成された地層にも記録されていることになります。過去の気候変動の記録が地層に残されている可能性を提示してくれたことになります。
 その後の研究で、ハインリッヒ・イベントの気候変動の実体がかなり詳細に分かってきました。コロンビア大学のブロッカーの仕事を引き継いだジェラード・ボンドは、グリーンランドの氷床のコアと海洋底の堆積物のコアを比較しました。その結果、気候変動の周期性を見つけました。
 世界的に(海でも陸でも)激しい温暖化の時期が起こると、1500年後に穏やかな温暖化が、3回から5回ほど繰り返し起こっていることがわかってきました。このような穏やかな温暖化の繰り返しを、ダンスガード・オシュガー・サイクルと呼びます。ダンスガード・オシュガー・サイクルの後、再度大規模な温暖化が起きます。
 寒冷化の時期に、北米大陸に数1000年かけて氷床が溜ります。その大量の氷床がハドソン湾から北大西洋へ、たった200年から300年ほどで氷山として一気に流れ出ていきます。このような氷山が、ハインリッヒ・イベントのIRDを形成したと考えられます。大量の氷山が流れ出たあと、氷床が少なくなり、再度氷床の蓄積の時期になります。
 ダンスガード・オシュガー・サイクルとハインリッヒ・イベントはいずれも繰り返し起こる気候変動です。しかし、同じ現象ではなく、上述のようにタイムスケールの違う現象をみているようです。ハインリッヒ・イベントが起こった後、ダンスガード・オシュガー・サイクルが起こっているようなのです。
 このような気候変動を、天体運動の周期的変化(ミランコビッチ・サイクル)では説明できないようです。ハインリッヒ・イベントとその後続いて起こるダンスガード・オシュガー・サイクルの温暖化という気候変動の原因は、いくつかのアイディアはありますが、まだ定説にはなっていません。今後の研究が期待されます。
 19世紀中ごろになって氷河期の存在が、やっと認知されました。その後、繰り返し氷河期あったこと、新生代末以外にも氷河期あったことなどが、わかっていました。そして近年、第四紀の氷河期のより詳しい実体がやっと分かりかけているに過ぎません。このような気候変動の認識は、今後も更新されていくはずです。
 私たちの地球の歴史について認識や理解は、まだまだ浅いものです。その原因もまだ不明のままです。このような理解しかないのに、未来の気候変動の予測は本当にできるのでしょうか。気候変動の予測ができたとしても、子孫たちの運命を託すことができるでしょうか。予測に心もとなさを感じるは私だけでしょか。
 氷床を用いた研究は、精度よくできるのは、今のところ2万年前までです。年代測定の精度の2万年前以前は精度が落ち、必ずしも正確な対比ができるわけではありません。上述したように、今後、気候変動の原因究明には、過去の地層が重要な役割を果たすと思います。その時、地質学者が重要な役割を担うことになります。まずは、過去を知ることが、未来を知る一番の近道かもしれませんね。急がば回れでしょうか。

・お盆・
暑い夏休みとなっていますが、
いかがお過ごしでしょうか。
私の夏休みは終わりました。
お盆の時期は込んでいますので、
じっと仕事をすることにしています。
お盆が過ぎたら、また近隣を見て回ろうかと考えています。
9月になったら、また、四国を見て回るつもりです。
それまで、落ち着いて仕事をしようと思います。

・盆踊り・
昼間の暑い時期は
支所では全館冷房ありますので
何とかしのげます。
私の自宅は、エアコンもなく
暑いことは暑いのですが、
体がだいぶ馴れてきたのでしょうか。
なんとか耐えることができています。
でも、寝る頃には涼しくなり、
睡眠時間が確保できるので助かります。
お盆には祭があります。
自宅の裏のグランドで、
今週末には盆踊りがあります。
屋台もいろいろ出るようです。
見学するつもりです。

2010年8月5日木曜日

1_93 ハインリッヒ・イベント:IRD 4

 IRDはハインリッヒ・イベントによるものとされ、それは激しい温暖化の事件でした。歴史を調べていくと、地球の環境は激しく変動していることが分かってきました。現在、温暖化が危惧されていますが、解明への道は、地球史をよりよく解読し、そのメカニズムを解明することが、遠回りに見えるけれど、近道なのかもしれません。


 北大西洋の深海底のコアから見つかった砂の層は、氷山からもたらされたということを、ハインリッヒは主張しました。
 この論文にいち早く注目したのは、アメリカのコロンビア大学のブロッカーでした。追試をするために、大学の保管庫にあるコアを調べたところ、似たようなIRDを再確認しました。ブロッカーは、このようなIRDをもたらすような出来事を発見者にちなんで、ハインリッヒ・イベントと呼びました。
 ブロッカーが調べた結果、ハインリッヒ・イベントは、新しい時代から順に、1万7000年前(H1)、2万5000年前(H2)、3万3000年前(H3)、3万9000年前(H4)、4万4000年前(H5)としました。年代は、ハインリッヒの求めたものとは違っていましたが、ほぼ1万年間隔でIRDがたまるイベントがあることを示しました。
 その後この研究は、コロンビア大学のボンドが引き継ぎ、より詳細なIRDの記載や研究が行われました。IDRはハドソン湾やその周辺から主にみつかり、他の地域では見つからないこと、IRDがハドソン湾周辺の大陸からもたらされたこと、砂の堆積後にかならず急激な温暖期が訪れていること、などを突き止めました。
 砂層は、氷山による砂(IRD)であることも多くの科学者も認めています。現在では、ハインリッヒ・イベントは氷河期の中で一時的に急激な温暖期に向かう過渡期の現象として砂の層ができることがわかっていました。そしてイベント自体は、500年程度の気候変動で、2、3年から10数年で急激な温暖化が起こっていることもわかってきました。
 最後の氷河期は、ヴュルム氷期(ウィスコンシン氷期とも呼ばれています)で、7万年前ころにはじまりましたが、2万年前に最寒冷期(最終氷期最盛期、Last Glacial Maximum、LGMの略されます)を迎えます。そして氷河期は、1万5000年前ころに終了し、現在も続く間氷期に移行します。
 氷河期とは、ずっと寒い時期が続くわけではなく、寒冷を基本としていますが、激しく気候が変動していた時期であることがわかってきました。最も寒い時期が、2000年ほど続き、あとは寒暖が激しく繰り返されたと考えられています。以前から知れていた有名な気候変動として、1万2000年前のヤンガードリアス期があります。これは、間氷期の温暖期の中で、寒冷化が起こったことが知られています。これも地球は激しい気候変動が起こっているという一例です。
 ハインリッヒが見つけたのは、ヤンガードリアス期とは逆で、寒冷期に急激な温暖化が起こった事件だったのです。では、その原因はなんだったのでしょうか。次回としましょう。

・涼しい話・
もう8月です。
月日の流れるのは早いのですね。
今年は、梅雨が長く、
梅雨明けは暑く、激しい雨も降りました。
四国で暑さにやられそうです。
ただ、滞在しているところは
山里なので、夜は涼しいので
エアコンがない生活でも寝れるので助かります。
こんな暑い時には、氷河期の話は
涼しくていいのでしょうか。
なといっても、ハインリッヒ・イベントは、
氷山によってもたらされたIRDが由来となっています。
でも、急激な温暖化の話ですので、
涼しくはならないでしょうかね。

・歴史解明・
地球の歴史は、最近非常に詳しく読めるようになり、
いろいろ新しいことがわってきました。
特にここ数10万年の環境についての歴史は
非常に詳しく読まれてくるようになってきました。
しかし、その原因となると、
なかなか難しい問題で分からないことも多いようです。
その原因は、単純ではなく、
陸海空の要素が複雑に絡んでいるようです。
でも、その謎の解明が、
私たちの未来像を描くときの
大きな助けになるはずなのです。