2010年12月30日木曜日

4_97 秩父帯:西予12月

 いよいよ今年も終わりとなります。これが今年最後のエッセイです。いろいろ12月中にいろいろやりたいことがあったのですが、やり残しがいろいろでてきそうです。今回は、やり残しの原因となった、西予の地質図にまつわる話をしようと思っています。

 12月になって西予市の地質図をデジタルで作成しました。今後の印刷も考えてA3版カラーで作成しました。地質図は、以前、講演会用に新たにつくったものがあったのですが、大雑把過ぎたのですが、時間切れで充分な検討をせずに終わりました。まあ、一回の講演会用なのでそれで仕方がないと思っていました。
 このたび、別のグループからまた講演を依頼され、1月にする予定となりました。ですから、今回は、やり残した感のある地質図をより詳細にして作成しようと考え、12月中旬に作業を始めした。
 参照していた地質調査所の最新の地質図は、付加体のモデルに従ってまとめられています。なかなかよくできているのですが、西予市では、その区分が混乱しています。また、区分や構造線が従来の考えとは違っていることもわかってきました。さらに、新しい造山運動モデルが提唱されたことによって、いくつか検討をしなければならないこともでてきました。それをまとめていこうと思い立ち、地質図の作成をはじめたのですが、実は、これが結構大変でした。
 西予市には、秩父(ちちぶ)帯とよばれる堆積岩を中心とする岩石が広く分布しています。秩父帯の北に御荷鉾(みかぶ)構造帯、南に四万十(しまんと)帯がほんの少しですが市内に分布しています。西予市の境界より少し広めに地質図は作成しますので、北側には三波川(さんばがわ)変成帯が入ります。
 この三波川変成帯が、四国の大歩危(おおぼけ)の地域の研究で、原岩や変成作用の時代に違いがみつかり、従来の三波川変成帯を「厳密な意味での三波川変成帯」と新しい時代の「四万十変成帯」に二分しょうようと提案されています。
 「厳密な意味での三波川変成帯」は、原岩の形成年代が1億4000万~1億3000万年前で、変成作用のピークの年代が1億2000万~1億1000万年前です。一方、「四万十変成帯」は、新しいもので、原岩の形成年代が9000万~8000万年前で、変成作用のピークの年代が8000万~6000万年前となります。この「四万十変成帯」の年代は、四万十帯北帯の付加体の年代と重複するもので、同じ起源であると考えれます。
 そして、より北の方では、それぞれの造山運動に対応する火成岩類の対応もされています。
 西予市の北方には「四万十変成帯」と「三波川変成帯」が分布することになりそうです。できればそれを区分して図示しようと考えてました。
 秩父帯の堆積岩は、いくつかの付加体で形成されたと考えられています。そして、秩父帯の中には、黒瀬川構造帯と呼ばれる岩石が点在します。西予市では、東(野村、城川付近)には黒瀬川構造帯の岩石があり、中央部(宇和付近)で見えなくなり、西端(三瓶の海岸付近)でまた少しだけ分布しています。
 黒瀬川構造帯は、古い時代の大陸(オルドビス紀からデボン紀)を構成していた黒瀬川変成岩(寺野変成岩類)や深成岩類(三滝花崗岩類)、またその大陸の斜面で形成された海成の地層(シルル紀からデボン紀、ペルム紀)が、ペルム紀に形成されたメランジュの中にあります。それを地図上で区分する必要がありますが、西方の小さな岩体ではどうも混乱しているようです。それを整理する必要があります。
 黒瀬川構造帯の北には、秩父帯北帯があり、前期から後期ジュラ紀の付加体やメランジュで、その中には古生代のチャートや石灰岩、玄武岩など海底でできた岩石類(海洋底層序と呼ばれています)が、異質岩塊として含まれています。
 黒瀬川構造帯の南は、秩父帯南帯があり、後期ジュラ紀から前期白亜紀の付加体です。その中には、ペルム紀から前期白亜紀の海洋底層序が含まれています。
 ところが、黒瀬川構造帯が西予市の中央部でいったんなくなります。秩父帯の北帯と南帯の境界をどこにするかが問題となり、従来の考えと新しい地質図では違っています。それをどう判断するかが問題となります。
 こんなことを12月中ごろから悩んでいます。まあ、これもまとめれば、重要な成果となるはずと考えて、師走の最後の日々を過ごしています。

・集中・
12月中旬に論文を投稿したあと、
やりたいことがあったのですが、
地質図を作成していたり、
今回の件で、いろいろ調べたりしていて、
なかなか時間が取れませんでした。
でもこれが、なかなか面白い作業でもありました。
また、まとまれば、1年間お世話になっている
西予市にもお返しができることになります。
それもあって来年1月までは、
この件に集中しようと考えています。

・師走気分・
いよいよ今年最後のエッセイとなりました。
毎年、大晦日は物理的な境界ではなく
人為的な境界なので
あまりあわてないと思っていましたが、
ところが、単身赴任ですと、
暮れから正月には帰省することになりますので、
少々、日常とは違って、
師走気分、正月気分にもなりそうです。
ただ、このエッセイは、帰省前に作成して、
予約していますので、
これからその気分を味わうことになるのですが。
よいお年をお迎えください。

2010年12月23日木曜日

6_85 根拠:イトカワ4

 イトカワの試料は、今回、はじめて手にしたものです。それが、どうしてイトカワのものと判別されたのでしょうか。その根拠について紹介しましょう。問題もありますが、期待も高まっています。

 「はやぶさ」が小惑星イトカワの砂粒発見は、小惑星の試料回収としては人類初のことです。「はやぶさ」が回収してきた試料が、予備的な分析がなされ、イトカワのものであると判断されました。それがニュースとなり、新たな「はやぶさ」の快挙となりました。
 イトカワの試料は、今回、はじめて手にしたものです。それが、どうしてイトカワのものと判別されたのでしょうか。
 じつは、直接手にしなくても、どのような物質からできているかを解析する方法があります。それは、光の成分を分析する方法(スペクトル解析)です。近赤外線の波長での観測で、イトカワでは、輝石やカンラン石に特徴的なスペクトル(Sタイプ小惑星)が得られており、普通コンドライト(隕石の種類)ではないかと推定されています。なお、このスペクトル解析も、2005年に「はやぶさ」が行ったものです。
 このデータに基づいて、回収されたカンラン石と輝石の分析がなされました。すると、イトカワのスペクトル解析のデータと一致しました。これが一番の根拠となっています。
 そしてさらに重要なことは、見つかった鉱物の種類とその比率(鉱物組み合わせといいます)です。それは隕石(普通コンドライト)のものと一致しています。隕石は小惑星帯から由来していると考えられているので、隕石といっちすることが重要となります。
 さらに、地球の岩石ならよくある岩石(火山岩)の破片や、石英や水を含んだような雲母や角閃石などの鉱物も見当たりませんでした。
 以上のことから、イトカワ起源だとされた主な根拠です。
 ただし、科学的には検討が不十分なところもあります。
 たとえば、今回、発表されたプレス用資料には問題があります。輝石は結晶構造や組成が多様です。ですから、本来ならどのようなタイプで、化学組成の輝石かを示す必要があります。多分、今回発見されたのは、隕石との類似からすると斜方輝石と推定されますが、もし単斜輝石だとすると、違った組成範囲になるかもしれません。
 そして、発見された粒子の分析値との比較のために、地球の岩石のカンラン石と輝石のデータも図示されていました。図には、イトカワのスペクトル解析の組成範囲と、今回発見された粒子の平均値、参考として地球のマントルの岩石の組成範囲が示されていました。
 この比較は、少々乱暴です。もしコンテナに地球の岩石が混入したとしたら、それは地表の岩石のはずですから、地球の鉱物の組成範囲の可能性は、もっと多様になります。マントルの岩石が混入する可能性は低いはずです。地球の岩石の組成範囲を占めせば、イトカワのものを完全に覆ってしまいます。
 さらに、分析の平均値を示すのなら、その誤差や範囲を示すべきです。そうでないと、データの信頼性を評価できません。また、分析したのは、ばらばらの鉱物の分析ですから、カンラン石と輝石が同時に形成された保障はありません。ですから、両者の組成を2軸にもってくる根拠がありません。
 まあ、論理的に追及すれば、問題もありますが、速報ですからよしとしましょう。いくつかの証拠は、確かにイトカワを支持しています。今後は、専門家がさらに分析や検討を進めて、論文として公表していくはずです。そこでは、すべてのデータが開示されるはずです。
 前回紹介したように、コンテナから大きな岩石が見つかりました。一つの岩石なら、くっついている鉱物が同時にできた保障を与えます。それは、成因究明に非常に役立ちます。もちろんその成分は、図の軸に選ぶことができます。これによっていくつかの問題はクリアできます。今回の大きな粒子の調査が進むことを期待しています。
 実はコンテナは、もうひとつあります。そちらにももしかすると試料が入っているかもしれません。期待は膨らみます。

・みぞれ・
とうとうこちらも霙(みぞれ)が降り
山も雪景色になりました。
いよいよ冬です。
高原ではもう雪でしょうか。
行き残したところがまだいくつもあるので気がかりです。

・イルミネーション・
クリスマス前には、こちらまでも
イルミネーションをつけます。
ただ、外の人里は慣れたところばかりなので
なかなか見る勇気がわきません。
でも、なんとか一度は見ておきたいので、
天気や気温をみながら出かけようと思っています。

・サンタ・
北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)は、
1955年からサンタを追跡しています。
サンタとは、サンタクロースのことです。
http://www.noradsanta.org/ja/index.html
時間があれば覗いてください。
本当にサンタがいるのか、
なぜ、NORADが追跡するのか、
なぜ、サンタは24時間で世界を回れるのか
このための費用はどうなっているのか
などなどいろいろな質問がありますが、
その答えはホームペ-ジにすべて書かれています。

2010年12月16日木曜日

6_84 粒がざくざく:イトカワ3

 前回、イトカワ由来の根拠を説明するといっていたのですが、最新ニュースがありました。なんと、コンテナを逆さにしてたたいたら、大きな砂粒がたくさん出てきたそうです。そのニュースを紹介しましょう。

 「はやぶさ」がイトカワの試料を回収してきたコンテナは、地球からの汚染を恐れて、クリーンルームやその中に特別に用意されたクリーンチェンバーの中で、慎重に処理されてきました。
 「はやぶさ」は、イトカワに2回着陸しています。それぞれの着陸では、別々のコンテナで、試料を回収していました。最初に開けられたのは、イトカワに長く(約30分)接地していたほうのコンテナでした。
 2つのコンテナのうち一個分の検査がやっと終わり、小さいですが多数の試料が見つかりました。そして、それらがイトカワからのものであるという結果が発表されました。それを受けて、このエッセイのシリーズをはじめました。
 ところが、新たなニュースが流れてきました。なんと、大きな砂粒がたくさん一個目のコンテナの中から出てきたというのです。
 最初のコンテナの中を見たところ、何も見えなかったので、慎重な取り出し作業が進められていました。ところが、コンテナは非常に複雑な構造をしているため、奥まで見ることができません。複雑な構造なので、特注の専用ヘラを使って、取り出しにも苦労をしました。その様子は、前回までのエッセイで紹介しました。
 11月29日、2個目のコンテナの検査に移る前に、念のためにコンテナをひっくり返して側面をたたいところ、なんと、数百個の粒子が出てきたとのことです。もともとこのような方法でのチェックを最初にするつもりだったそうですが、目でみたとこと、何も確認できなかったので、その操作は省いたのです。
 ひょうたんから駒、まさに逆転の発想でしょうか。
 粒子は、100μmから10μmほどの大きさがあります。それまで見つかっていたものより大きなものも、かなりあったようです。さらに、これまではすべて小さな鉱物片でしたが、今回のは、鉱物がいくつかくっついた複雑なもの、つまり岩石も見つかったそうです。数百個のうち20個ほどを電子顕微鏡で調べたところ、半分ほどがこのような岩石質だったそうです。
 その岩石については、これから由来を調べるそうです。イトカワのものであれば、ますます期待が高まります。
 前回、砂粒がイトカワ由来である根拠を説明するといっていたのですが、最新ニュースがあったので、それを優先させました。次回、その話を紹介します。

・経験の蓄積・
今回の逆さにしてたたくという
「きわめて原始的」方法は、
人の先入観が生み出した
いい例かも知れません。
外からX線で確かめても砂はなく、
目で確かめても見えませんでした。
だから、あったのしても目に見えないような
非常に小さいものだと考えたのでしょう。
予定していた手順を省いて
より慎重な方法へと急いだのでしょう。
そんな先入観が、回収作業をより難しく
困難な道へと導きました。
しかし、そこで生まれた技術は
今後必要になるはずです。
ひっくり返したとき
粒子が壁にくっついたかもしれません。
2個目のカプセルの時の手順は
今回の経験で、変わってくるでしょう。
いろいろな失敗も含めて経験です。
そんな経験の蓄積が、
知的資産となってくのかもしれませんね。

・想像・
ひっくり返した担当者は、
さぞかし驚いたことでしょう。
そして、大いに喜んだでしょう。
その喜びは、試料が見つかったことより、
容器をさかさまにしてたたくという
思いつきの方が大きかったのではないでしょうか。
思い付きを実践してみた自分の行為こそ
喜びだったのでしょう。
そして、多分その日は、関係者一同
祝杯を挙げたことでしょう。
きっと、大笑いしながらの
楽しい宴席となったことでしょう。
そんな想像をしてしまいました。

2010年12月9日木曜日

6_83 試料回収作業:イトカワ2

 今回のイトカワ由来の粒子は、非常に慎重な作業の結果、発見されたものです。「はやぶさ」の快挙に応えられるように、粒子検査のために特別に用意された設備で回収作業がなされました。その様子を紹介しましょう。

 「はやぶさ」がイトカワから回収したかもしれない試料がはっているコンテナは、非常に厳重に管理された環境で開封されました。また、回収から確認までの作業も慎重になされました。もし非常に小さい試料しか入っていない場合、地球のゴミが紛れ込んだら(汚染 "contamination" といいます)、判別が困難になるかもしれないためです。そのため、非常にクリーンな環境の中で処理がおこなわれました。
 試料回収のために用意されたのは、クリーンルームとその中の置かれたクリーンチェンバーという装置です。
 カプセルから取り出されたコンテナ(イトカワの試料が入ってるところ)は、きれいに外側を洗浄されてから、X線で断層撮影されました。もし、中に試料が入っていれば、この段階で見つけることができます。しかし残念ながら、X線で観測できるほどの大きな試料はなさそうだという結果でした。
 その後カプセルは、チェンバーに入れられました。このチェンバーの中は、地球の大気からの汚染も防ぐために、純度の高い窒素を入れた状態にしてありました。
 実は普通に地球にある空気の中には、10μm以下の微粒子がかなり紛れ込んでいます。このサイズは、今回見つかった粒子のサイズと同じ程度です。ですから、身の回りにある空気すら汚染源となります。空気からの汚染を防ぐために、純度の高い窒素がチェンバーに入れられています。そして圧力を高めしておけば、外から空気は入ることはありません。つまり、大気の汚染を防ぐことができます。
 チェンバーの中に、さらに真空の部屋が用意されて、そこでコンテナのフタをあけられます。まずは、コンテナの中に入っているかもしれない気体の採取です。もしあれば、イトカワ由来の気体の可能性があります。
 開封後に、コンテナの中の壁面についているかもしれない粒子を、「掻き出しヘラ」を使って取り出していきます。もしヘラに粒子がついていれば、それがイトカワのものかが判別されます。
 このような何段以下もの手順を踏んで作業は進められました。その結果、1,500個ほどの粒子が見つかりました。
 それらを走査型電子顕微鏡で分析したところ、イトカワに由来する岩石片(多分多くは結晶片)だとわかったそうです。粒子は10μm(100分の1mm)以下のごく小さい粒子なので、非常に慎重な分析が必要となります。
 今後は、より詳しい初期分析をするために、取扱うための技術と関連装置の準備を進めていくそうです。関係者以外の研究者に試料がとどくには、まだ時間がかかりそうです。
 ところで、そもそも「はやぶさ」がイトカワにいって試料回収をしたのは、イトカワがどのような物質でできているのかを調べるためです。イトカワがどのような物質でできているかがわからないから資料採取にいったのです。では、なぜイトカワ由来の粒子だと判別したのでしょうか。それは、次回としましょう。

・風邪・
風邪を引きました。
冬の明け方の寒さにやられたようです。
部屋や家全体を温める北海道の冬の暖房に比べると
今いる部屋の寒さは、堪えます。
起きているときはストーブをたきますが、
寝るときはストーブをきります。
ですから、明け方が一番冷え込みます。
まあ、インフルエンザではなく、
鼻風邪だったようで一晩ぐっすりと寝たら
だいぶよくなりました。

・集中・
ここしばらく12月中旬締め切りの論文に
かかりきりなっています。
なんとか今週末までに初稿を
書き上げたいと思っていたのですが、
ここで風邪の不調だったので、
少々あせりを感じています。
週末も利用して集中して書いていこうと思っています。

2010年12月2日木曜日

6_82 はやぶさの偉業:イトカワ1

 小惑星探査機「はやぶさ」の帰還カプセルの中から見つかった小さな粒子は、イトカワのものであることが判明しました。そのニュースと背景について、紹介します。

 今年6月13日「はやぶさ」の帰還が大きなニュースになりました。それ以来、「はやぶさ」のニュースは、今までの偉業を称えるかのように、報道されるようになりました。暗い日本のニュースの中では、人々に明るい話題として、受け入れられます。
 「はやぶさ」、ニュースにもあまり取り上げられることもなく、2003年5月9日に打ち上げられ、トラブルに見舞われながらも、航行し2005年9月に小惑星イトカワに到着しました。そして、2005年11月には、イトカワにタッチダウンし、サンプルを取得しました。しかし、そのとき先日(11月29日)のニュースによれば、岩石採取のための金属球を発射する予定が、発射しないというトラブルがありました。それが、地上から送ったプログラムにミスがあったのが原因だったことが分かったとのことです。過去の出来事に「もし」はないのですが、機械的なトラブルでなかったことなので、人為ミスはチェックさえできていれば、うまくいったかもと、悔やまれます。
 予定を大幅に上回る7年以上におよぶ飛行の後、イトカワのサンプルが入っているかもしれないカプセルを地球に送り返して、本体の「はやぶさ」はその使命を終え、大気圏で燃え尽きました。
 その後、カプセルは、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の相模原キャンパス内の今回のために用意されたキュレーションセンターに持ち込まれました。帰還カプセルのサンプルコンテナの開封、採取作業が、6月24日から続けられていました。その作業状況は、ニュースとして流れ、一喜一憂した人も多かったのではないでしょうか。
 そして10月8日に、カプセル内の微粒子が見つかり、その粒子がイトカワ由来かの調査に入りました。そして、11月16日、その微粒子が、小惑星イトカワ由来のものと判明したというニュースとなりました。関係学会からのメッセージも出されました。
 これでまた、「はやぶさ」の偉業が付け加わったことになります。その微粒子はどのように見つけられ、そしてなぜイトカワのものと確認されたのでしょうか。それは次回としましょう。

・科学者へ・
私は、アポロの偉業をみて少年時代を過ごしました。
ですから、科学が偉大な成果を上げると、
ついつい興奮してしまいます。
その偉業の背後には、
不眠不休の血のにじむような
努力を続けている科学者を存在を感じます。
自分とは違った道を歩んでいる科学者たちですが、
同じ科学を志す人の偉業にも感動します。
今回、科学者たちは、
失敗も成功も、ミスもそのミスを補ったことも、
そしてけっして諦めていないことを
市民にメッセージを出してくれました。
そのオープンマインドと執念が心を打ちます。
これからも、「はやぶさ」は私たちを
楽しませてくれことを願っています。
そして「はやぶさ2」にも期待しています。

・師走・
秋から冬に季節は巡ります。
紅葉もだいぶ終わりになってきました。
そして、月日は流れ師走となりました。
私も、あわただしくなります。
12月締め切りの論文があるのと、
年末の行事がいくつかあるためです。
残されたサバティカルの4ヶ月を
満喫しようと思います。

2010年11月25日木曜日

4_96 鳥巣石灰岩:西予11月

 城川は、地質学的に見所がいくつかありますが、古生代や中生代の化石が産出することでも有名です。その地質学的研究は、今も継続しています。今回は、観光客が見れるような場所での研究の一端を紹介しましょう。

 西予市城川町の旧役場、現城川総合支所は、下相(おりあい)というところにあります。下相は、黒瀬川が大きく曲がるところあたり、広くはありませんが、河床平野ができていて、耕作地もあり、国道も通っています。古くからの集落からははずれているのですが、いくつかの公共施設や旧役場、道の駅「きなはい屋しろかわ」もあります。市民にとっても、通行する人や観光客にしても、集まりやすい中継所となっています。
 その道の駅のすぐ下の黒瀬川の河床は、知る人ぞ知る、化石の産地となっています。その露頭では、現在も研究され、成果が報告されています。興味のある方も、眺めるだけにして、むやみな採取はしないようにしましょう。
 城川地域の秩父帯南帯(三宝山帯とも呼ばれます)は、南から高川層群、古市(ふるいち)層群、そして今井谷(いまいだに)層群に区分されています。今井谷層群は、さらに下部の下相層と上部の中津川層に区分されています。
 今井谷層群は、鳥巣層群に相当すると考えられています。鳥巣層群というのは、日本列島の太平洋側(日本外帯と区分されています)に広く連続的に分布する地層です。この地層は、ジュラ紀後期から白亜紀後期に陸棚で堆積したもので、化石が出ることが特徴です。鳥巣石灰岩とよばれる岩石から、アンモナイトや二枚貝などの大型化石がでることから、古くから研究もされてきました。
 道の駅の下の地層は、今井谷層群下相層に属します。この下相層は、砂岩と泥岩が繰り返す互層(ごそう)で、この地層本体には化石をあまり含まないのですが、別のところでできた岩塊が紛れ込んでいます。このような別の地域でできたものを、地質学では異地性と呼びます。この異地性岩塊が化石をたくさん含んでいる鳥巣石灰岩なのです。
 鳥巣石灰岩は浅い海(200m以浅)である陸棚で溜まったものであるのに対し、下相層は陸棚から急に傾斜がきつくなっていく大陸斜面での堆積の場(堆積盆)でたまったものです。つまり、堆積環境が違っているのです。それが、今では混在してみることができます。
 ストーリーとしては、浅海にたまっていた大型化石を含む石灰岩が、斜面崩壊によって、ブロック状にくずれて、より深い大陸斜面へ流れ込み、そこで異地性岩塊として溜まったと考えられています。その時代は、ジュラ紀末期(1億5000万年前ころ)だと考えられています。
 穏やかな黒瀬川の流れ、観光客でにぎわう裏で、そんな壮大な大地の物語が見れます。ぜひ、見学に来られてはいかがでしょうか。

・言い訳・
発行が一日遅れました。
一昨日から昨日にかけて調査に出かけました。
今週末か、来週に調査に行こうと思っていました。
できれば今週に行きたいと思っていたのですが、
23日には地元の公民館で講演会をして、
その夜、懇親会に出席する予定だったので、
翌日の出発は疲れるなと思っていたのですが、
天気予報が降水確率0%だったので、
体調さえ良ければ出かけることにしました。
うまくすると日帰りも可能なので、
宿も予約せず、出かけました。
ですから、このメールマガジンのことを
忘れていて、一日遅れで配信しました。
以上、言い訳でした。

・達成感・
今回の調査で見る場所は二箇所だけです。
7時前に自宅を出発して、8時半頃に一箇所目に到着しました。
調査を終えると、11時を過ぎていました。
でも、体力的には次がきつそうなので、
そこからいつも泊まるホテルに予約を入れて、
二箇所を目をまわりました。
予想通り、二箇所目の調査で
くたくたになりました。
ここしばくなったことがないような
筋肉痛に、今も見舞われています。
体力の衰えを感じますが、
でも、達成感はあります。

2010年11月18日木曜日

3_93 巨大火山噴火:丹沢山地 4

 丹沢には、比較的新しい時代の火山岩があります。その火山岩は、火山噴火をともったはずです。新しければ、その噴火による火山灰が残されているかもしれません。これは、結果論で、実際には特異な火山灰の発見から、火山の探求がスタートしました。

 今年の7月30日に、丹沢山地を噴火の中心とする大きな火山噴火があったというニュースが流れました。なぜ、このようなニュースが流れたのかよくしりませんが、首都大学東京の田村糸子客員研究員とその今日研究者の仕事によるものです。
 田村さんは、北陸や中央山地の火山灰の研究をされていたのですが、数年前から関東地方の調査も始められたようです。千葉県銚子市の屏風(びょうぶ)ケ浦を調査しているとき、ざくろ石(柘榴石とも書かれ、ガーネットとも呼ばれます)含んでいる2cmほどの厚さの火山灰層を発見しました。ざくろ石を含む火山灰は時々見つかっていたのですが、屏風ケ浦のものは大量にざくろ石を含む特異なものでした。
 それまでにざくろ石を大量に含む特異な火山灰層は、神奈川県相模原市の中津川層群と鎌倉市の上総層群でも見つかっていましたが、田村さんは、ざくろ石を含む同時期の火山灰に注目されて調査されてきました。東京都江東区の地下からもガーネットを含む火山灰を見つけていました。
 それらの火山灰の噴火年代は、同じ頃であると推定されていました。また、ざくろ石のサイズも、東になるほど小さくなっていきました。こられは、噴火口は相模原市より西にあるということを意味しています。
 4箇所の火山灰のざくろ石の化学組成を比べたところ、一致していることが判明しました。つまり、同一の噴火に由来することが明らかになってきたのです。そして、火山灰にざくろ石を含んでいるということは、噴火したマグマに、もともとざくろ石を含んでいたことになります。
 ざくろ石を含んだマグマは珍しいものですから、きっとどこかに火山岩があるはずです。それを探せば、噴火口にたどり着くはずです。探す場所は、相模原市より西方です。そこには丹沢山地が広がっています。
 実は丹沢山地の細川谷には、ざくろ石を含む火山岩があることは良く知られています。私も神奈川の岩石\図鑑をつくるときに、標本を見て、撮影もしています。そして、年代測定もされており、243万年前のざくろ石流紋岩(マグマが地表で固まった溶岩の一種)であることも分かっています。ただ、以前の研究で、この溶岩のざくろ石の組成は、火山灰のものとは違うという研究結果が報告されていました。
 しかし、田村さんは、いくつかの露頭でざくろ石を取り出して、分析したところ、一致するという結果を得られました。この試行がすばらしいものでした。
 関東地方にいると、丹沢と千葉県は近いように感じますが、距離にすると、165kmも離れています。そんなに遠くまで、2cmの火山灰層をためた噴火です。これは、非常に大規模な噴火であったことになります。同じ頃、中部山岳地帯でも巨大噴火が相次ぎました。それに呼応した火山活動ではないかと考えれています。
 丹沢に火山岩があり、その年代もわかっていました。しかし、それを火山噴火や噴出物と結びつけて考えることがあまりされていませんでした。今回の発見によって、大規模な火山噴火が日本列島では繰り返し起こっていること、それも神奈川県で箱根や富士山以外にも巨大が火山があることがわかってきました。
 もうひとつ重要なことは、論理を積み上げていき、これしかないという推定の元に、先入観(先行研究)を覆したことです。科学の結果には、誤謬は紛れ込みます。それは、研究者が意図せずにも入り込むことがあります。原因はさまざまでしょう。これは、なかなか難しい問題ですが、それを打ち砕くには、根気強い調査研究が必要となります。その一例を示したことが、今回の重要な成果ともいえます。

・冬の準備・
紅葉が里にも下りてきました。
天気のいい日に、枯葉が舞散るのをみると、
きれいよりうら寂しさを感じてしまいます。
これからは、秋から冬に向かいます。
先日厚手のジャンバーを購入しました。
私も、冬の準備を整えています。

・桜の狂い咲き・
桜の狂い咲きが、
またしてもありました。
数本の桜で起こっていました。
結構な数、花をつけていました。
この秋に桜の狂い咲きを見たのは、
これで2度目です。
寒暖の繰り返しが激しいせいでしょう。
来年の春の桜は、
少々、寂しくなるのでしょうか。

2010年11月11日木曜日

3_92 大陸の急成長:丹沢山地 3

 丹沢山地の岩石が、大陸成長の歴史を明らかにできることがわかってきました。大陸と比べる小さい山ですが重要だったのです。また、年代測定に用いた鉱物の化学成分が、大陸形成のメカニズムを解き明かしました。山と比べると小さい結晶が重要な役割を持っています。

 丹沢山地をつくる岩石の年代測定で明らかになったことは、花崗岩類(大陸地殻の構成物)が、沈み込みによる作用だけでなく、衝突によって形成されることでした。
 近年、島弧では大陸構成物の花崗岩類が形成されることがかってきたのですが、島弧が大陸になるためには、衝突合体を繰り返し起こさなければなりません。その実態は、まだよくわかっていませんでした。
 しかし、今回の研究で、大陸地殻は、島弧の沈み込みの作用で形成されるだけでなく、島弧が衝突することによって花崗岩マグマが新しくでき、大陸地殻が形成され、成長していくことがわかってきました。大陸形成には、プレートの沈み込みだけでなく、衝突も重要な働きがあることが明らかになりました。
 現在、形成中の島弧である伊豆-小笠原島弧、そして島弧の衝突の場である丹沢が、重要なフィールドになります。日本の地質学者には地の利があることになります。
 地質学的条件を考えていくと、マグマが形成後、最速で100万年の間に約660℃という冷却をしたことがわかってきました。このような急速な冷却速度は、通常の深成岩では起こりません。ですから、丹沢では、マグマ形成後、急速に固まりながら上昇していったと推定されます。
 これは丹沢だけの事例ではなく、一般化すると、衝突の場ということにあります。そこでは、花崗岩マグマ形成後すぐに固化する、つまり大陸地殻は一気に(200から300万年で)形成されることを意味します。さらに、衝突した島弧の岩石も加わりますので、大陸は、間欠的に急成長することになります。
 また年代測定に用いたジルコンの微量の化学成分から、形成されたマグマには、伊豆・小笠原島弧の地殻物質のほかに、衝突された側(本州島弧)の成分も加わっていることもわかってきました。この成分とは、トリウム(Th)とニオブ(Nb)です。ニオブに比べてトリウムの方が大陸地殻に集まりやすい化学的性質を持ちます。古い大陸やその堆積物では高い値を持ちます。同じ鉱物でTh/Nb比の比較をすると、違いは明瞭になります。
 伊豆・小笠原の海にできたばかりの島弧(未成熟島弧といいます)と本州島弧(成熟した島弧)のジルコンのTh/Nb比を見ると、違いがあります。Th/Nb比をみていくと、丹沢のものは、明らかに高くなっています。これは、沈み込み帯に溜まった、成熟した本州島弧から由来する堆積物の影響があることと推定されています。
 首都圏に近い丹沢でもまだまだ新発見があるのです。さらに、関東平野全体に広がる新しい発見が、この夏ありました。次回に紹介する予定ですが、丹沢で大噴火があったというものです。

・秋の深まり・
四国の山里も寒くなってきました。
山の方では紅葉が盛りのようですが、
里でも紅葉がはじまっています。
いよいよ秋が深まってきました。
でも、今年の秋は、短いような気がします。
それに、寒暖の差が日ごとにありすぎ、
体調を崩しそうです。
皆さんも体に気をつけてください。

・目に見えない満足感・
私は、食に関してはあまり気にしないたちです。
栄養と量さえ満たされれば、いいと考えます。
それに見合った価格であればいうことがありません。
基本的に昼食は外食ですので、
店のランチタイムのメニューになります。
店の雰囲気が満足感に変化を与えます。
そんな私が満足できるところが、
地元でもいくつか見つかってきました。
そんな店が見つかるとうれしいいものです。
満足感には、雰囲気や人という
目に見えない、心でしか感じられないものが
大いに関係していることが分かります。

2010年11月4日木曜日

3_91 新しい地殻形成:丹沢山地 2

(2010.11.04)
 丹沢の深成岩の年代から、沈み込みよって形成されたのではなく、ほとんどが衝突によって形成されたことがわかってきました。丹沢は、新しい地殻形成の場ではなかいかと考えられてきました。正確な年代値が、またまた従来のモデルを書き換えてきました。

 丹沢の斑レイ岩や花崗閃緑岩(トーナル岩とも呼ばれます)などのマグマが固まり、深成岩が形成されました。その年代が、カリウムーアルゴン(K‐Ar)年代測定法によって、700万年前ころとされていました。このK‐Arによる年代測定の方法によるものは、実はいろいろ含みのある年代となります。
 カリウム40(40K)は放射性元素で、半減期12.5億年で崩壊して、12%が40Arに、残りの88%が40Caになります。Caはもともと岩石にたくさん含まれている元素なので、40Kからできたものか、もともとあったものかが区別しにくいので、40Arだけを用いて年代測定をします。Arは希ガスですので、岩石が高温だと抜けていきます。Arによる年代は、岩石が冷却してArが動かなくなった時を示しています。ですから、マグマが固まっても岩石が地下で高温のままであれば、Arは抜けていって、放射性元素の時計がスタートしたことになりません。実際には丹沢のマグマの固結には、1100万から400万年前くらいまでかかっていると考えれていました。
 一方、SHRIMPによる年代測定では、ジルコンという鉱物が形成されたら時計がスタートします。ジルコンの中に含まれていたウラン(U)が崩壊してPbになるというシステムを利用しますので、K-Arで行ったような元素の出入りの問題はなく、ジルコンが形成された年代、つまりマグマが固まった年代を示しています。
 丹沢の深成岩類の年代は、西の花崗閃緑岩は890万年前(892万、883万年前)古いので、これは別の時期の成因だと考えられます。主体ともいうべき花崗閃緑岩(535、500、468、462、425、402万年前)や斑レイ岩(559、499万年前)は、500万年前ころという年代になりました。かなり幅をもっていますが、丹沢深成岩類の本体のマグマの活動は、560万から400万年前に形成されたことになります。
 前回紹介した丹沢の衝突に続いて起こった、伊豆半島になっている海山(伊豆・小笠原弧と呼ばれています)が本州に衝突したのは、周辺の堆積岩から約700万年前くらいだと考えられています。
 丹沢深成岩類本体の年代は、560万から400万年前に形成されたことがわかりました。この年代が出る前は、衝突によって深成岩マグマが形成されたと考えたら都合がよかったのですが、どうもそうはいかなくなりました。200万から300万年年代が若くなったのです。その結果、いくつか考え直さなければならないことがででてきます。
 今までは、丹沢深成岩類は伊豆・小笠原弧の衝突以前に通常の沈み込みによる活動で形成されており、衝突の結果、深部から隆起し、地表に露出しと考えられていました。しかし、そのような通常の沈み込み活動によってできたのは、西の花崗閃緑岩だけで、丹沢深成岩類の主体は、伊豆・小笠原弧の衝突後の活動となります。
 伊豆・小笠原弧の衝突は一時期のものではなく、プレート運動によるもので、継続しています。継続する衝突作用によって、マグマが形成されたことになります。形成されたのは、花崗岩、つまり大陸地殻です。これは、丹沢山地が、大陸が形成され、成長している現場を見ていることになります。その現場を解き明かすのに、丹沢は便利な地です。
 そこでわかってきたことがいくつかありますので、次回に紹介しましょう。

・北国・
一時帰宅で北海道に戻っています。
千歳から札幌に向かう列車で
まず、感じたことは、
空が広いことです。
愛媛県では山地で暮らしていたので、
北海道の平野部では、
地平の広さに圧倒されます。
やはり、この北国の透明な空気の感じ
そして広さはいいですね。

・帰省・
子供の行事、
自分のいくつかの医者通いをしました。
まあ、それ以外はのんびりとしていたのですが、
後半天気がよくなかったので、
インフルエンザの予防接種の影響か
余り体調がよくなかったので、
あまり出歩けませんでした。
まあ、家族と過ごすのが目的ですが、
少々残念でした。

2010年10月28日木曜日

3_90 形成史:丹沢山地 1

 丹沢は奥深い山です。自然がまだまだ残っています。神奈川という大都会抱えた地域に、こんな奥深い自然があろいうことを教えてくれます。そんな丹沢の地質で新しい2つの研究成果が出されました。それらを紹介しましょう。

 神奈川には、箱根と丹沢の二つの山系があります。首都圏の人にとっては、いずれもよく知られている山ですが、丹沢より箱根のほうが馴染みがあるかもしれません。私は神奈川に11年間住んでいました。丹沢山地にも何度かでかけています。ですから丹沢もなじみのある山となっています。
 今年の春から夏にかけて、丹沢山地に関するいくつかの新しい研究成果が報告されました。それを紹介したいと思います。その前に、丹沢とはどんなところかを概観しておきましょう。
 箱根は静岡県にもまたがっていますが、丹沢は山体のほとんどが神奈川にあります。丹沢山地は箱根より大きくなっています。地理的に、神奈川においては、丹沢の方が存在感があります。しかし、箱根は温泉が多数あるので、観光地化しています。一方、丹沢にもいくつか温泉はありますが、鄙びて、観光地としてよりも、ハイキングや登山など、自然の中に浸る場所になっています。
 地質学的にみると丹沢山地の形成史は、次のように考えられていました。
 最初の丹沢山地の岩石は、1700万~1200万年前に形成された海底火山によるものでした(丹沢層群)。その火山活動した海は、サンゴの化石があることから暖かい南の海であることがわかります。そのような海洋島に、石英閃緑岩や斑レイ岩類(現在の丹沢山地の西部にある)のマグマが貫入してきました。そのような海洋島の連なった列島(島弧)が、フィリピン海プレートの北上に伴って移動し、日本列島に衝突します。
 その後もフィリピン海プレートは北上をし、伊豆半島になっている海山が衝突します。その衝突によって、丹沢山地は押し上げられ、山地となっていきました。その上昇は現在も継続してます。その結果、丹沢山地の深部でゆっくり冷え固まって深成岩となったマグマが、今では地表に露出しています。
 丹沢の深成岩類を形成したマグマ活動の年代は、カリウムーアルゴン(K‐Ar)年代測定法によって、700万年前ころであるとされてきました。それが今回の発見で、年代が新たに決定されました。その年代は、このエッセイではもうおなじみになったSHRIMPによるものです。そしてもう一つは、今まで知られていなかった火山活動の発見です。それらを、次回から紹介します。

・祭見学・
先週末は、出歩きました。
土曜日の夜は隣の高知県津野町の
高野農村歌舞伎を見学しました。
日曜日の午後は、地元で七鹿踊りを見学しました。
歌舞伎は有名で多数の人が見学しましたが、
七鹿踊りは外部からの見学は私くらいでした。
いずれもなかなか面白かったです。

・体調不良・
先週、調査から帰ってから
急に冷え込んだせいでしょうか
体調を崩しました。
朝起きるとすっきりしているのでが、
午後になると不調になってきます。
どうも風邪っぽいのですが、
寝込むほどではありません。
まあ、無理しないようにします。

・帰省・
このメールが届く頃、
私は、帰省しています。
定期的に通ってる医者に行くこと、
人間ドックなど医者がよい。
そして子供の学芸会見学です。
まあ、久しぶりに家族の顔を見てきます。

2010年10月21日木曜日

4_95 宇和盆地:西予10月

 宇和盆地は、空の開けた明るいところにあります。ひと山越えれば、海が望めるようところに宇和盆地は位置します。しかし、宇和盆地は、山間の野村を流れた肱川の最上流部で、源流もあります。

 いよいよ秋も深まり、四国の高い山々での紅葉の便りが届きはじめました。西予市やその周辺では、稲刈りもほとんど終わり、秋祭りが盛んに行われています。今、秋も盛りとなっています。
 今回は宇和盆地を紹介します。私は西予市の城川町に住んでいます。城川町は市町村合併により、西予市になりました。町の名前は西予市のあとにそのまま残されて、城川なら西予市城川町となりました。
 現在、市の庁舎があるのは、駅前の宇和町です。宇和町にはJRも通っており、道路の幹線というべき国道56号線も通っています。高速道路も宇和を通っています。
 城川から宇和にいくには、隣町の野村町(西予市になっています)の県道を経由していくことになります。バズの便がよくないので、車を使うことになります。城川から野村に向かうときは、肱川の支流を遡り、峠越えをして、肱川の本流のある野村に出ます。
 城川も野村も肱川上流域の山間の町であるという趣がします。一方、宇和町は明るく、盆地を取り囲む山並みも城川や野村のものとは違って、たおやかに感じます。宇和町は、南や西にひと尾根越えれば、海がみえる盆地になっています。海に近い町という印象があります。宇和に向かうということは、海に近づくということでもあります。
 ところが宇和盆地は、肱川最上流になっています。盆地の一番低いところでも、標高200m以上あります。ですから、宇和から海に出る道は、険しい坂道を下り降りることになります。そんな位置に西予市の明浜町や三瓶町があります。
 これは、肱川が非常に不思議な流れ方をしているためです。特に明浜側の急な崖のような斜面になっています。このような地勢をもっているのは、この地域の地質によるものものです。宇和が盆地であるのは、周りに山が形成されるためにです。南の明浜側の急な崖は、仏像構造線という大きな断層によって南側が落ち、北側が持ち上げられているためです。また、宇和町の付近は、秩父帯の砂岩を中心とした地層に層状チャートと呼ばれる硬い岩石をはさんでいます。秩父帯がこのあたりの地質を構成しています。いずれの中生代に形成された古い岩石です。
 秩父帯は、岩質の違いから大きく2つに分けられています。新しい時代の秩父帯は宇和に、古い時代のものは城川・野村のあたりに分布しています。古い秩父帯には、城川に主に分布している黒瀬川帯と呼ばれる、もっと古い火成岩や変成岩も含まれいます。そして四国カルストに続く、石灰岩地帯もあります。ですから、より古く硬い岩石が城川・野村にはあることになります。そんなこともあって、城川・野村地域は険しい山となっているのでしょう。
 宇和は、地形的に持ち上げられていることと、古くて硬い岩石ですが、城川・野村とくわべれは軟らかい岩石であるため、高い標高をもっていますが、開けた盆地となっていると考えられます。
 野村から宇和に向かう道筋は、肱川の上流へと向かいます。海に近い盆地でありなら、冬には雪も降るそうです。上流に向かっているのは確かなのですが、野村から宇和に入ると、山が開けて、明るく感じる平野部の宇和盆地へと入ります。その広さと明るさに、肱川の上流域であるとはこをと忘れ去ります。この錯覚は、何度も宇和に出かけても、ぬぐうことができません。まだまだ住んでいる時間が短いよそ者だからでしょうかね。

・順番の変更・
予定より1週、早いですが、
西予のシリーズをお送りします。
毎回、月の終わりに
お送りするつもりでいたのですが、
次に予定しているエッセイが
何回か続きそうなので
途切れるのはよくないと思い、
順番を入れ替えました。
ご了承ください。

・調査中・
いよいよ秋が深まってきました。
このエッセイが届く頃、
私は、山ではなく、高知の海岸沿いに調査をしています。
18日(月)から21日までの4日間の短めの調査です。
21日は、調査の最終日ですので、
帰途に向かっています。
秋は天気が変わりやすいので、心配ですが、
台風はそれていきそうなので、
とりあえずは一安心です。

2010年10月14日木曜日

1_101 日本最古の鉱物2

 今回見つかった日本最古の年代は、新発見です。新しい発見によって、今までの考えを改めるべきことがでてきました。そしていくつかの疑問も投げかけてきました。その疑問を解くことが、科学の醍醐味でもあります。

 今回報告された花崗岩は、そもそも2つの試料が分析され、そのうちの一方から日本最古の年代が得られました。
 2つの試料の花崗岩の中には、時代の違う2種類のジルコンが含まれていました。花崗岩は、約2億5800万年前にできた岩石を貫入しているので、それより新しい時代であることがわかります。花崗岩の中の角ばっているジルコンは、新しい年代で、その貫入した花崗岩マグマの年代を示していると思われる2億2900から5600万年前(2種類の試料の年代)のものでした。
 ところが、丸みを持ったジルコンは古い年代を示しました。一方の花崗岩からは約19億年前ころの年代、他方からは約35億年前あたりの年代を示しました。一つの試料から複数のジルコンが分離されているので、いくつもの年代が得られます。後者の中で最古のものが37億5000万年前を示しました。
 一つの岩石中で新旧2種類の年代を示すのは、問題です。今回の場合、新しい年代は、花崗岩マグマの形成年代を示しているようです。古いほうの年代は、花崗岩が形成される際、材料物質の溶け残りだと考えられます。花崗岩は、マグマが固まってできる火成岩ですが、堆積岩を起源としてマグマが形成されるものもあります。花崗岩マグマは、一般に、玄武岩マグマと比べると低温で形成されることが知られています。さらに、ジルコンは変成岩の年代測定にも利用できるように、高温状態でもなかなか溶けにくく変化しにくい鉱物です。その堆積岩が変成を受けて変成岩になっていてもジルコンは形成時の年代を肘していることがよくあります。ですから、この古い年代のジルコンは、溶けて花崗岩になった材料の堆積岩(変成を受けているかもしれない)の中にあった砕屑物だったと考えられます。古いジルコンが丸みを帯びていたのも、そのような砕屑性の起源を反映していたのでしょう。
 「飛騨片麻岩」と呼ばれる古い大陸地殻の構成物があり、それが宇奈月周辺の地域の下(基盤といいます)にはあると考えれていました。しかし、いずれの年代も、飛騨片麻岩のものとは一致していませんでした。ですからそのような年代をもった基盤岩石の由来が問題となります。
 このよう基盤岩類の由来を探るとき、対比できるような岩石が近くにないかを探し、見つかったら、地質学的関係を考え、地域の歴史を考えていきます。
 約19億年の年代は、韓国中部の片麻岩や日本の隠岐片麻岩の年代に対比できます。そのような岩石に対比可能なものが基盤として宇奈月の地下にあるのかもしれません。
 ところが、約35億年前の年代が問題なのです。古い時代には日本列島は、大陸の一部で、辺縁域でした。ですから、飛騨片麻岩のように大陸地殻の岩石や大陸沿岸の浅い海でできた堆積岩(南部北上帯の石灰岩や砂岩・泥岩)が見つかります。また、堆積物の中には、20億年前の礫(前回述べた上麻生礫岩)や30億年以前のジルコン(33~34億年前)も大陸への付加体の中に見つかっています。しかし、36億年前より古い年代は、ありませんでした。
 現在ユーラシア大陸の東部は1つの大陸になっていますが、数億年前までは、いくつかの大陸に分かれていました。日本列島は、北中国地塊(現在の中国の北部で、中朝地塊ともいわれます)と南中国地塊(現在の中国南部で、揚子地塊ともいわれます)付近にありました。
 36億年前より古い年代は、朝鮮半島よりもっと西の渤海の奥、黄河河口地域の華北平原の古い岩石地帯の、北中国地塊の北東部のAnshan複合岩体(38億年0400万年前、日本名がわかりません)とQianxi複合岩体(~38億年5100万年前)からしか見つかっていません。年代的にはこれらと対比できます。
 しかし、そのような対比が可能なのでしょうか。それとも何か基盤岩があるのでしょうか。「日本最古のジルコン」は、私たちに新たな謎を投げかけています。このジルコン、何をは語りかけているのでしょうか。これからの研究課題です。

・修正・
前回のエッセイで、
新しい花崗岩の年代の表記で
「2つの花崗岩からジルコンを取り出し
年代測定をしたところ、
それぞれ2億2900±800万年前と
22億5600±200万年前の年代が得られました。」
と書きました。
後者の年代は明らかにミスで
「2億5600±200万年前」
が正しいものです。
ホームページは修正していますが、
メールマガジンは修正できません。
申し訳ありませんでした。

・高知へ調査・
10月も半ばとなると秋も深まります。
来週は、高知のほうに4日ほど調査に出かけてきます。
秋の深まった高知の海岸沿いは快適でしょうか。
それとも寒くなっているでしょうか。
春や夏とは違った趣になっていることでしょう。
楽しみにしています。

2010年10月7日木曜日

1_100 日本最古の鉱物

 最古シリーズです。もともとシリーズにするつもりはなかったのですが、たまたまこの夏、最古の報告が連続してありました。そんなシリーズで、今回は日本最古の鉱物です。

 日本最古の鉱物の報告が行われたのは、今年の8月下旬(科博では20日に発表、ニュースでは25日)でした。一番古いデータは、37億5000万年前という年代でした。
 以前紹介しましたが、最古の地層は、茨城県常陸太田市に分布している約5億1100万年前のものでした。最古の岩石は、岐阜県七宗町のジュラ紀の堆積岩の中に含まれている礫です。「上麻生(かみあそう)礫岩」と呼ばれる層には、片麻岩の礫があり、その礫は以前から古いと考えられており、年代測定をした結果、約20億年前のものであることが判明しました。
 そして、今回、富山県の黒部流域から飛騨山脈にかけての宇奈月地域の花崗岩のジルコンの年代でした。手法は、SHRIMPによるU-Pbによる年代測定です。SHRIMPによるU年代測定は、このエッセイでは何度も紹介しているお馴染みのもので、確立された手法です。
 宇奈月地域は、複雑な履歴の岩石が混在している地域で、日本でも古い岩石が産出する地域と考えられていました。古い岩石の多くは、変成作用を受けている岩石のために年代を決めることが難しくなっています。
 今回の報告は、堀江憲路さん(研究当初は学術振興会特別研究員で、現在は国立極地研究所に所属)を中心にして、国立極地研究所と広島大学、国立科学博物館の共同研究によってなされました。試料は、2006年に採取した花崗岩でした。
 今回見つかったジルコンは、新しいと考えられている岩石の中から得られたものでした。この地域には、広く流紋岩質変成岩が分布し、その年代は約2億5800万年前であることがわかっています。それより新しいと考えられている花崗岩があります。それはマグマと周りの岩石との関係からわかります。流紋岩質変成岩を割って入っている(貫入するという)マグマが固まった岩石があれば、その岩石のほうが後からできたことがわかります。今回みつかったのは、そのような新しく貫入した花崗岩でした。貫入した岩石より、貫入された岩石のほうが新しいのです。矛盾した年代となります。
 しかし、この花崗岩がなかなか複雑のなのです。2つの花崗岩からジルコンを取り出し年代測定をしたところ、それぞれ2億2900±800万年前と2億5600±200万年前の年代が得られました。これらは、貫入関係とは矛盾しない年代でした。このような新しい年代を示すジルコンは、角ばった結晶だったのですが、見かけの違った丸いジルコンも、花崗岩には多数含まれていました。このようなジルコンから、古い年代が得られたのです。
 もしこのような年代が、まだ確立されていない手法や、誤差の大きな方法であれば、測定ミスではないかという判断がなされたり、いろいろな議論をわき起こすことになったはずです。しかし、今回の年代は、すでに確立された手法で、だれもが疑うことのないものでした。
 データが正しいとすると、解釈をどう考えるか。つまり、成因です。それは次回としましょう。

・季節を感じる時間・
一週間、愛媛を留守にしていました。
すると秋も深まり、
朝夕はかなり涼しくなっていました。
各地の秋を見に出かけたいものですが、
なかなかそうもできないのがつらいです。
でも、今が一番時間を作れるときなのだから
そんな季節を感じる時間を持ちたいと思います。

・人物写真・
最近写真をとっていても、
景色や露頭、自然だけでなく、
ついつい人物をいれたり、
人物を中心に置いて撮ることもあります。
人の表情はなかなか興味深いものがあります。
視線の向きのちょっとした違いで、
表情が大きく変化します。
ただ、人の写真は、肖像権があり、
表に出すことができないのが残念ですが、
コレクションとしています。
あまり、度が過ぎると危ない人になりそうなので、
ほどほどにしていますが。

2010年9月30日木曜日

4_94 My Earth Name:西予9月

9月になって涼しくなり、出歩きやすくなりました。そんな中、私は西予市を中心に、いろいろ動き回っています。10月から11月にかけても出歩く予定です。でも、今、住んでいるとところを、よく知ることも必要です。My Earth Nameとして表現しましょう。

西予市のメイン・リバーは肱川(ひじかわ)です。肱川は、大洲市長浜で伊予灘に流れ込みます。肱川を遡ると、大洲の市街地を越えると、山合の流れる川となります。そこから上流にかけて、大きな支流が次々と合流してきます。小田川、川辺川、船戸川、黒瀬川、富野川、稲尾川など、深い山を抱えた豊かな水量をもった支流です。本流は、時計回りに曲がりながら、西予市の中心地の宇和の盆地を流れ、さらに曲がりながら、西予市と大洲市の境界の山並に達します。そんな川沿いを、車ででかけています。
城川町は、野村町、宇和町、明浜町、三瓶町とともに西予市に統合されました。そのうち、城川町と野村町、宇和町は、ほとんどが肱川の流域になります。私がいる城川は、肱川の大きな支流の黒瀬川流域となっています。黒瀬川は、城川の東端で、源流となります。源流は、高知県の梼原(ゆすはら)町の境界の九十九曲峠のある山並みあたります。坂本竜馬らの脱藩のコースに当たるそうです。
私の住んでいるのは、城川町土居ということろで、黒瀬川のさらに支流で、三滝川です。三滝川の最上流には、寺野の集落があります。
城川で出てきた地名は、地質学を学んだ人には、なじみある言葉です。私は、北海道で地質学を学んだのですが、黒瀬川構造帯、三滝変成岩類、寺野火成岩類という名称は、授業で習って知っていました。ただその頃、城川に来たこともありませんし、位置もよく知りませんでした。
ところが今では、私には黒瀬川はなじみある川となり、My Earth Name(注)となっています。肱川の支流なのですが、黒瀬川と舟戸川が合わさって肱川に流れ込むために、合流部では肱川本流より、水量も多く見えます。それは野村ダムで水量が減ったためかもしれませんが。今度時間があったら、黒瀬川を遡っていきたいと思っています。ほとんど通ったところばかりですが、川だけを眺めていこうかと思います。

(注)「アースネーム」
「地球をあるがままの姿を捉え、その姿を用いて自分自身を記述することがいいのではないかと思います。海、陸、川など自然物だけから、位置を記述するのです。海と陸の大区分で、その地点はどの大地に属しているのか、そして、その大地を流れる川は何というもので、その川のどのあたりに位置するのかを記述していくのです。このようは地域の記述の仕方を「アースネーム」と呼びましょう。」(小出「Monolog No. 32 アースネーム(2004年9月1日)」)とすると、現在の私のMy Earth Nameは、「日本列島四国、肱川水系、黒瀬川支流三滝川、上流へ2kmの右岸、西方へ500m」となります。これで私の家の位置がわかります。

・鵜飼・
先日、大洲の城下町を歩きました。
お城のすぐ脇を肱川がながれています。
今シーズン最後となる鵜飼船に乗りました。
平日の夜乗りました。
船は私を含めて6名の乗り合い一艘だけで、
鵜飼船も一艘でした。
観光案内所の人もお勧めの少なさでした。
他の乗合船もあると、横を並走しても、
5分ぐらいしなじっくり見れないのですが、
今回は、終わりまで並走して、
鵜匠の人(女性でした)とも会話をしながら、
写真もいっぱい撮りながら、
楽しいひと時が過ごせました。
私以外、地元の人のグループ
(観光案内所の人も一人おられました)でしたが、
こんなにじっくりと見たことがないというくらい、
心行くまで堪能しました。

・音楽の力・
肱川支流の小田川流域には
内子があります。
古い町並みが残っている町で、
そこに今も人が暮らしています。
そこを訪れたとき、
昼食にはいった喫茶店は、
コースしかメニューはないのですが、
食事の出てくるのが遅く、
本当ならいらいらするところなんですが、
かかっていた曲が、
1980年代のなつかしの歌謡曲でした。
それを聞いていると、
耐えられ、心地よくなってきた。
これが音楽の力なのかと思いました。

2010年9月23日木曜日

1_99 5億1100万年前:日本最古の地層

 最古シリーズです。今回は、日本列島における最古の地層の発見です。今年の夏に、その発表がなされました。ニュースには学会発表に先立って成されましたが、地質学では、通常印刷論文が公式なものとして扱われます。まあでも、公認された分析装置によるデータに基づくものですから大丈夫でしょうが。

 最古の地層が見つかりました。茨城県常陸太田市長谷町の茂宮川上流に分布している地層が、約5億1100万年前のものであることが判明しました。
 この発見は、田切美智雄茨城大学名誉教授たちのグループが発見したと8月18日に報道されました。その詳細は日本地質学会第117年学術大会(富山大会)で9月18日に報告(Great Hiatus in the Cambrian Hitachi metamorphic terrane comparable to the North China Craton)されるそうです(出席してないので発表内容は聞いていません)。
 このエッセイでも何度か紹介したことがありますが、年代測定には、国立極地研究所にあるSHRIMP(Sensitive High Resolution Ion MicroProbe)と呼ばれる高感度高分解能イオン質量分析計が利用されました。岩石に含まれているジルコンという鉱物で、ウラン-鉛年代測定法によって求められたものです。
 田切さんは、長年、阿武隈山地周辺を地質調査しておられます。2008年にも、5億0600万年前の地層を日立市小木津町で見つけられ、ニュースになりました。また、今回も約5億1100万年前の地層以外にも、約5億0700万年前のものも一緒に発見しています。ですから、阿武隈山地周辺には、古い地層が分布していることになります。
 5億0600万から5億1100万年前は、カンブリア紀(5億4000万年から4億9000万年前)の中頃の時代にあたります。報道情報だけで、正確なところはわかりませんが、ある地層の中の石英長石質岩層(火山岩あるいは凝灰岩でしょうか)の年代測定をしたところ、上記の年代がわかったということだそうです。
 阿武隈山地には、変成作用を受けた地層があり、日本列島でも古い岩石が出ることは、古くから知られていました。3億5000万年前(石炭紀)のサンゴの化石が見つかっていたからです。しかし今回、もっと古くカンブリア紀まで遡ることになったわけです。
 日本列島は、その頃にはまだ存在していませんでした。ユーラシア大陸の端っこにあり、大陸辺縁部として、活動的な地域でした。これまで、断片的にしかなかった日本列島の古生代初期の岩石だったのですが、カンブリア紀まで遡る地層が見つかりました。これによって、大陸地域と日本列島の関連や、日本列島の地質史も明らかになると期待されています。

・秋の実り・
いよいよ秋めいてきました。
小学校の運動会も終わり、
稲穂も色づいていきました。
早いところでは刈り入れも、
もう終わっています。
秋の虫の声も心なしか
元気になってきた気がします。
この地域は栗の産地なので、
栗がそろそろ収穫時期を迎えつつあります。
山里も秋の実りの季節となりました。

・秋を味わう・
秋を迎えるとなると、
この地域の秋を味わいたくなります。
食べ物ではなく、秋の自然を味わうのです。
夏は暑くて控えていた外出も、
秋めいて涼しくなると、
あちこちでかけたくなります。
野外調査も本格的に行っています。
しかし、この地域、周辺域で
見ておきたいところ、
再訪したいところもあります。
これらかは、野外での活動も忙しくなります。

2010年9月16日木曜日

1_98 60Fe:太陽系最古の物質2

 太陽系最古の物質とは、隕石の中のCAIから求められた年代によるものです。その報告にはいくつかの問題を生じそうです。一つは、前回紹介しましたが、以前のデータとの整合性です。もう一つは、この年代が正しいとすると、太陽系の形成スピードの問題が起こります。

 NWA 2364という炭素質隕石の中にあるカルシウム・アルミニウム包有物(CAIと呼ばれている)で、45億6820万年前という年代が得られたということを前回紹介しました。その年代は、従来の隕石の年代より、「最大で約200万年(30万~190万年の間)まで遡る」ことになると伝えています。その解釈には、従来から得られている年代と照合すると、矛盾があることを前回紹介しました。そのほかにも問題があります。
 NWA 2364のCAIの鉛同位体年代が、45億6820万年前となり、従来の隕石の年代より古くました。その年代が正しいとすると、200万年遡ることになります。すると問題が生じます。
 その問題とは、原始太陽系ガスが形成されてどれくらい後に太陽系形成が始まったかという時間に関係します。原始太陽系ガスは、別の恒星の超新星爆発によって形成されます。その超新星爆発では、さまざまな核種の合成が起こり、非常に半減期(放射壊変によってもとの量が半分になる時間)の短いものもあります。もし隕石に、半減期の短い核種が含まれていたら、超新星爆発から固体物質の凝縮までの期間が短くなります。核種を限定し、測定することで、その期間を推定することできます。従来の推定と、今回の年代が、矛盾がないかが問題となります。
 質量数26のアルミニュウム(26Alと書く、半減期72万年)が、隕石から見つかっています。それらがなくなる前に固体が形成されなければなりません。年代が遡れば、26Alが取り込まれる可能性は大きくなります。形成年代が早まるのは問題ないわけです。
 しかし、鉄の放射性核種、60Fe(半減期150万年)の値との矛盾がでてきます。隕石の中の60Feの量からは、200万年ころに固体形成されたと考えられています。それが200万年遡るともっと大量の60Feがあることにり、誤差ではすまなくなり、矛盾をきたします。
 この問題に対して、ブービエは、太陽系に近いところで別の超新星爆発あり、それがFeを含む重金属を撒き散らしという考えを述べています。そうでも考えないと、両者の矛盾が説明できないからです。
 この説明には、少々無理がありそうです。太陽系形成のために、恒星がひとつ超新星爆発しています。その近くで、そのすぐ後に、別の恒星が超新星爆発するというのは、確率的に非常に低く、それを問題解決の説明にするのは、やはり科学的にはあまり信じられないことになります。
 つまりは、これらの事実をうまく説明するためには、まだまだ情報、つまり研究が足りないようです。この年代値の正誤も、説明の可不可もこれからの研究が答えを出すことでしょう。

・秋風・
一気に涼しくなりました。
こちらです、13日月曜日から
秋風が吹き出しました。
涼しくて過ごしやすくなりました。
北海道に長くいるせいでしょうか、
秋風が吹くと、長くて暗くて寒い冬がすぐ来るので
寂しさばかりが募ります。
しかし、四国では、もっと長く秋を楽しめるはずです。
秋の夜長を楽しんでいきましょう。
秋祭りもいろいろありそうですから。

・ジオパーク・
来月は室戸岬周辺を調査する予定でした。
すると14日のニュースで
日本ジオパーク委員会が世界ジオパークネットワークに
室戸を加盟申請したそうです。
結論は来年10月に下るそうです。
今年の10月には昨年申請した
山陰海岸(京都府、兵庫県、鳥取県)の
最終審査の結果が出ます。
経済効果ばかりを考えていると
うまくいかないような気もします。
加盟しても、どう運営維持をするかも
なかなか大変でしょうが、始めなければなりませんからね。

2010年9月9日木曜日

1_97 CAI:太陽系最古の物質1

 最近、最古のもののニュースが続いています。その中のひとつである太陽系最古の物質を、今回は紹介します。最古の年代は、アフリカから見つかった隕石のある部分から見つかりました。でも、いくつか問題がある報告だと思っています。

 太陽系最古の物質が見つかりました。そのニュースは、イギリスの科学雑誌Natureの姉妹誌のNature Geoscienceの2010年08月22日号に掲載されました。アリゾナ州立大学のブービエ(Audrey Bouvier)とワダワ(AMeenakshi Wadhwa)が報告しました。
 その報告によると、隕石の中にある物質の年代が、45億6820万年前なったということです。その年代は、今まで最古であった隕石の年代より、最大で約200万年(30万~190万年の間)まで遡ることになると伝えています。
 太陽系のはじまりは、一つ前の恒星が超新星爆発でばら撒まかれた物質の集まっているところ(原始太陽系ガス)が舞台になります。何らかの原因で原始太陽系ガスの収縮が始まり、中心部に原始太陽ができます。原始太陽ができた頃、周辺のガス全体がいったん高温なります。
 高温になった時、ほとんどすべての物質は一度溶融して均質化されます。その後温度が下がりはじめて、固体物質が形成されていきます。最初は高温で凝縮する物質ができます。それは、カルシウムとアルミニウムに富む物質で、「カルシウム・アルミニウム包有物(calcium aluminium-rich inclusions、CAIと略されています)」と呼ばれています。
 CAIは、一つの鉱物からできているわけではなく、スピネル、ペロフスカイト、アノーサイト(長石の一種)などの小さな鉱物の集合物です。その物質が太陽系で手に入る最古のものとなります。その物質で、正確に年代測定すれば、最古の年代が求められることになります。
 今回分析されたのは、2004年にモロッコで発見された1.5kgの「NWA 2364(Northwest Africa 2364の略)」と名づけられた隕石でした。この隕石は、太陽系のはじまりに形成された原始的なもので、炭素質コンドライト(CV3)というタイプに分類されています。もともと小惑星帯をただよっていたものが、地球に落下したものです。
 ブービエらはNWA 2364のCAIの鉛同位体組成を分析しました。その鉛同位体組成から年代を計算したところ、45億6820万年前という値を得たのです。地球や太陽系の形成の45億年前という古さに比べれば、年代が200万年遡ったところで、大きな問題はないように思われますが、実は問題があるのです。
 私が以前、論文をまとめていたとき、もっと古い年代データがありました。当時は、同じCV3タイプの隕石、アエンデ(Allende)のCAIで、年代測定が多数されていて、平均すると45億6600万年前(Manhes, et al., 1988)の年代にあっています。年代データの誤差は、300万から700万年で、最古のものは45億6900万年前(Ireland et al., 1990)が報告されていました。ですから、ブービエらの年代は、最古ではないはずです。この論文を手に入れていないので、この年代値が最古とされた理由はよく分かりません。まだ他にも問題があります。それについては、次回としましょう。

・縦断道・
このマガジンがお手元に届く頃、
私は、調査に出ています。
四国山地沿いに東西に縦断する道があります。
行きは、国道439号線で
剣山のふもとの見ノ越という峠を越えます。
その南に土佐中街道とよばれる
阿南から高知まで続く縦断道が
もう一本あります。
帰りはそちらを通る予定をしています。
天気であればいいのですが。
こればっかりは、
人には如何ともし難いものです。
空まかせです。

・隕石収集・
博物館にいるころ、
隕石の収集を担当していました。
できるだすべての種類を収集するというので、
試料やデータも集めました。
手に入りにくいものが、早くに手に入ったので、
後の資料収集は比較的楽でした。
その集大成として、目録も作成しました。
その後、隕石からは手を引きましたが、
それももうずいぶん昔の話ですね。

2010年9月2日木曜日

1_96 He同位体:最古のマントル 2

 最古のマントルというのは、間接的証拠の積み重ねで示されています。でも、間接的証拠でも積み重なると、論理的には完結しなくても、信頼性は上がります。

 最古のマントルされたバフィン島と西グリーンランドの溶岩は、ヘリウムの同位体組成(3He/4He比)が非常に高いことが特徴です。これに、どのような意味があるのでしょうか。
 Heは原子番号が2の希ガスで、同位体(同じ元素だが質量数の違うもの)として、質量数が3と4のものがあります。質量数4のHeが大部分で、3のものはほとんどありません(0.000137%程度)。質量数4のヘリウム(4Heと書く)は放射崩壊(アルファ線のこと)で形成されるものもあるのですが、質量数3のヘリウム(3Heと書く)は、太陽系初期につくられたものです。
 希ガスの性質から、地球初期に起こった脱ガス(大気や海洋の形成)や、現在も続く火山活動によって、地球内部から希ガスは、ほとんどなくなっていると考えられています。実際のマントル由来の岩石には、3Heが少ないことは知られています。ただし、放射性核種の崩壊によって4Heはマントル内で今でも形成されています。
 ですから、バフィン島と西グリーンランドの溶岩に3Heが多いということは、その溶岩のもとととなったマントルは、地球初期以来、ほとんマグマを出すことなく、原始のまま地球内部に存在し続けたということになります。
 さらに、鉛同位体から推定される年代が45.5から44.5億年前と考えてよく、ネオディニウム同位体も原始マントルの値と考えてよいという証拠もあるので、このマントルは、地球初期のものがそのまま残っていると考えられました。これが、「最古の地球マントルの貯蔵庫の生き残りの証拠」の骨子になります。
 残念ながら、直接マントルの岩石の年代や組成が分かったわけでなく、いずれも間接的なものです。いくつかの間接的証拠が同じ結果を示唆しているので、それはもっともらしいと考えられるわけです。このような間接的証拠をいくら積み重ねても、論理的に証明が完結するわけではありません。しかし、説得力は増していくようです。ですから、世界的に権威ある科学雑誌Natureに掲載されたわけです。
 直接的証拠ではないので、それらの証拠のひとつでも、なんらか別の原因で説明可能となったりすると、論理が崩壊する危険性もあります。
 まあ、大きな地球ですから、マグマを今までほとんど出したことがないマントルがあってもいいのかもしれません。しかし、地球は、45億年間も地表にマグマを供給し続けてきました。海洋プレートの海洋底の玄武岩や斑レイ岩は、すべてマグマからできたものです。大陸地殻も花崗岩の一種の火成岩がその一番の構成物となります。ですから、始原マントルが残っているのは、もしかすると奇跡的なのかもしれません。

・山里の初秋・
いよいよ9月になりました。
各地はまだ暑い日が続いているようですが、
私がいる山里は、朝夕は涼しくなり、
虫の音も大きくなってきました。
秋の気配が感じるようになってきました。
昼間は暑いですが、青空の抜けるような蒼が、
秋の色に見えてきます。
ワセの稲は刈り取りがすでに終わっているところもあります。
スーパーでは新米を見かけます。
通常の稲は、やっと花が終わり、実を付け出しました。
山里の秋の始まりでしょうか。

・最古のもの・
最近、「太陽系最古の物質発見」や
「日本最古の鉱物発見」、
「日本最古の地層」というニュースが
立て続けに入ってきました。
それを紹介しようかと考えているのですが、
いずれも文献が手に入りにくいので
紹介できるどうか不安です。
まあ、分かる範囲でお伝えできればと思っています。

2010年8月26日木曜日

1_95 新生代の玄武岩:最古のマントル 1

 最古のマントルの証拠が見つかったという論文が発表されました。しかし、その結果は少々注意が必要のようです。その論文を紹介しながら、最古のマントルとはどんなものかを見ていきましょう。

 2010年8月12日発行のイギリスの科学雑誌Natureに、「最古の地球マントルの貯蔵庫の生き残りの証拠(Evidence for the survival of the oldest terrestrial mantle reservoir)」という論文が発表されました。ボストン大学のジャクソン(M. G. Jackson)らの6名の共著による論文でした。
 この論文のことをインターネットのニュースで最近知りました。Natureのサイトで要約(アブストラクト)を読んで、あとは関連のニュースをいくつか読みました。現在、私は大学から離れているので、Natureを手することでができません。ですから原典にあたっていませんので、以下の話には、もしかすると誤解や間違いがあるかもしれません。その点を含みおきください。
 タイトルをみるとわかるのですが、少々もってまわった表現となっています。マントルの貯蔵庫(mantle reservoir)、生き残り(survival)という言葉が使われています。「最古の岩石」でもなく「最古のマントル」でもないところに注意が必要です。つまりは直接的な最古の年代を示す岩石や鉱物が見つかったのでないということです。間接的な証拠があったことを示しています。その点に注意をしておく必要があります。
 今回の研究の対象となったのは、つまり素材の岩石は、カナダ北部のバフィン島と西グリーンランドの溶岩です。この溶岩は、新生代(約6200万年前)に噴出した玄武岩溶岩です。なぜ、このような新しい岩石から、最古のマントルの証拠が見つかるのでしょうか。それは、マントルの同位体組成に基づいています。
 玄武岩はマントルで直接マグマが形成され、上昇中も地殻の物質の混入などもほとんどないと考えられています。素材として玄武岩は、マントルの情報を知るには適しています。そして、玄武岩の同位体組成は、新しいものほどマントルの値をそのまま保持していることががあります。同位体には放射性核種は改変しますに、元素によっては変質や変成で変化したり、抜けていくこともあります。比較的新しい岩石の同位体組成を用いて、この論文ではマントルの特徴を探っているようです。
 バフィン島と西グリーンランドの溶岩は、鉛同位体組成が、45.5から44.5億年前のマントル年代をもっていると考えてよい始原的な値をもっていることがわかっています。さらに、ネオディニウムの同位体組成(143Nd/144Nd)も地球初期(だいたい45億年前)に形成されたマントルの値といわれているものを持っていました。これらは、まだ傍証にすぎません。その玄武岩が古いマントルから由来しているらしいということを示しているにすぎません。決定打が必要ですが、まだ見つかっていないようです。でも、この論文は傍証を積み重ねていきます。それは次回としましょう。

・祭・
先日の地元の祭に2日つづけていきました。
一つは伝統的な神社の祭で、
「花とり踊り」という市の無形文化財となっています。
私のいる支所のすぐ近くの神社でおこなれてました。
伝統芸能と信仰が結びついたものです。
地域のコミュニティが古くから守られてきた行事です。
こじんまりとしてなかなかよかったです。
翌日は、市庁舎のある少々遠い宇和の町でおこなわれている
「卯のほたる」という行事です。
ちょうちんや行灯で町内を飾るというもので
今年で7回目の祭でした。
ほのかな灯りのすばらしさを味わいました。
また、コンサートもおこなわれていました。
ろうそくに照らされた古い校舎とコンサートがマッチしていました。
コンドルは飛んでいく、五木の子守唄・・・
すばらしい夜を過ごしことができました。

・源氏ヶ駄馬・
前回のエッセイで紹介した
西予市の最高峰である源氏ヶ駄馬に
先日行ってきました。
夏なので涼しいと期待していたのですが、
その日は少々暑かったです。
もちろん下界と比べれば涼しいのですが、
地元の人も今日は暑いといってました。
少々湿度が高かったようです。
しかし、日陰に入るとやはり涼しく、
風が吹けばすがすがしいものでした。
標高が高いので、車の窓をあければ
涼しく走ることができました。
その時かかっていた音楽は
平原綾香のJupitarでした。
大野ヶ原の高原の形式と
その音楽は不思議とマッチしていて
何度のリピートして聞いてしまいました。
近いうちに、今度は高原の稜線ルートを
いってみたいと思っています。
秋になる前に。

2010年8月19日木曜日

4_93 大野ヶ原:西予8月

 愛媛県西予市は、西は宇和海に面し、東は四国脊梁にまで達する東西に長く延び町です。もともと5つあった市町村が合併して西予市となり、多様な自然や景観をもつ市となりました。私がいるのは山里の西予市城川町です。そんな西予とその周辺の風物誌を月に一度紹介しようと思います。今回は東の端の大野ヶ原を紹介します。

 現在滞在している愛媛県西予市城川町について、このエッセイでは書いてきませんでした。それは、別の月刊エッセイ(大地を眺める)で、今年1年は四国を中心に紹介していたことと、ホームページ(西予の自然史と風物誌)で写真と一言のコメントをつけて毎日紹介していたからです。
 ところが、エッセイでは四国全体の話になり、西予市や城川は5月に黒瀬川を紹介したので、もう紹介する予定はなくなりました。また、ホームページでは短い文章なのであまり詳しい紹介はできません。ですから、本エッセイで、月に一度くらいのペースで、城川や西予市、その周辺を紹介していこうかと考えています。さて、前置きが長くなりました。本編をはじめましょう。
 まず紹介するのは、8月の暑いときですので、涼しい場所にしましょう。大野ヶ原です。7月下旬、論文の投稿が終わったので、近くの山里をいくつか回ったときにも大野ヶ原にいきました。近隣は非常に暑かったのですが、大野ヶ原までくるとほっとするほど涼しくなりました。大野ヶ原は、標高が1000m前後あり、下界と比べてかなり涼しくなります。西予市の最高峰1402.8mの峰(源氏ヶ駄馬と記されているがその上にある峰)が大野ヶ原にあります。
 源氏ヶ駄馬という地名は、源平に時代まで由来は遡るようです。壇ノ浦の合戦で敗れた平家残党が大野ヶ原に逃げてきたのですが、源氏の騎馬軍団が追ってきたので平家はさらに逃亡していったといいます。その逃亡には、次のような逸話がありました。ある朝、平家の見張り番が、源氏の騎馬軍団が攻め来てたのを見つけました。その知らせで、あわてて平家の残党は逃げたといいいます。平家は赤旗、源氏は白旗を用いていたのですが、源氏の色である白の軍団が白馬にのってきたのを見張りが見つけたのです。
 しかし、見張りは、石灰岩を白い騎馬兵と見まちがえたのです。びくびくしていると石も敵にみえるようです。この白い騎馬軍団にみえたのは、ピクナルやカレンフェルトなどのカルストの特有の浸食によってできた石灰岩の形状でした。カルストとは、石灰岩が露出している地帯で、浸食によって特有の地形ができているところをいいます。大野ヶ原は、四国カルスト西端にあたります。石灰岩は、秩父帯に属し、大野ヶ原より西側にも点々と分布しています。しかし、石灰岩の規模が小さいとカルスト地形と呼ばれるものにはなりません。それなりの広さの分布が必要になります。
 何度か大野ヶ原には来ているのですが、7月には源氏ヶ駄馬の一番上の駐車場まで車でいったのですが、山頂までは登りませんでした。思い返したら、何度も大野ヶ原には来ているのに、山頂までは行ったことがありませんでした。ですから、近いうちに西予市の最高峰を制覇したいと考えています。駐車場から直登すれば、30分ほどでいけると思います。そして大野ヶ原にはおいしいアイスクリームがありますので帰りの楽しみとしましょう。大野ヶ原は下界が暑いときこそ、いいところなのです。

・地元シリーズ・
地元シリーズを月一回ほどのペースで
はじめることにしました。
せっかく西予市にいるのだから、
その滞在記をいろいろな形で出していこうと思います。
東西を車で縦断するには3時間以上かかるほどです。
西予市の地質データベースをつくるときに、
一通り巡っています。
でも、再度一人でのんびりと見て回ろうと考えています。
走行しているうちに滞在の期間の半分近くもたってしまいました。
月日の流れるのは早いものです。
せっかくに機会ですから、
きっちりと残ることをしておきたいと考えています。

・暑い夏・
今年の夏は暑いですね。
私は、北海道から四国に来てるので
夏の暑さにはかなり参っています。
城川は山里なので
夜から明け方には涼しくなるので、
なんとか寝れるので、ばてずにすんでいます。
でも、なかなか熟睡はできないようで、疲れが抜けず、
朝も寝起きが悪くなっています。
特にお盆の暑い時期から
寝過ごすことが多くなっています。
8月いっぱいはこんな調子でしょうか。
なんとかがんばって乗り切るしかありませんね。

2010年8月12日木曜日

1_94 気候変動:IRD 5

 ハインリッヒ・イベントの後続いて起こるダンスガード・オシュガー・サイクルが見つかりました。気候変動は、周期性を持ちながらも、複雑な変化を行っているようです。そんな変化がやっと認知されるようになって来ました。しかし、その原因究明は、まだまだこれからです。


 氷河期が単調な寒冷期ではなく、激しい変動を起こしていた時期という認識をもらたしました。さらに、気候は大気だけの現象ではなく、海洋とも重要なかかわりがあることも分かってきました。海洋底堆積物に気候変動が記録されていたことから、海洋も気候変動に重要な役割を果たしていることになります。そうなると、過去の気候変動は、海底で形成された地層にも記録されていることになります。過去の気候変動の記録が地層に残されている可能性を提示してくれたことになります。
 その後の研究で、ハインリッヒ・イベントの気候変動の実体がかなり詳細に分かってきました。コロンビア大学のブロッカーの仕事を引き継いだジェラード・ボンドは、グリーンランドの氷床のコアと海洋底の堆積物のコアを比較しました。その結果、気候変動の周期性を見つけました。
 世界的に(海でも陸でも)激しい温暖化の時期が起こると、1500年後に穏やかな温暖化が、3回から5回ほど繰り返し起こっていることがわかってきました。このような穏やかな温暖化の繰り返しを、ダンスガード・オシュガー・サイクルと呼びます。ダンスガード・オシュガー・サイクルの後、再度大規模な温暖化が起きます。
 寒冷化の時期に、北米大陸に数1000年かけて氷床が溜ります。その大量の氷床がハドソン湾から北大西洋へ、たった200年から300年ほどで氷山として一気に流れ出ていきます。このような氷山が、ハインリッヒ・イベントのIRDを形成したと考えられます。大量の氷山が流れ出たあと、氷床が少なくなり、再度氷床の蓄積の時期になります。
 ダンスガード・オシュガー・サイクルとハインリッヒ・イベントはいずれも繰り返し起こる気候変動です。しかし、同じ現象ではなく、上述のようにタイムスケールの違う現象をみているようです。ハインリッヒ・イベントが起こった後、ダンスガード・オシュガー・サイクルが起こっているようなのです。
 このような気候変動を、天体運動の周期的変化(ミランコビッチ・サイクル)では説明できないようです。ハインリッヒ・イベントとその後続いて起こるダンスガード・オシュガー・サイクルの温暖化という気候変動の原因は、いくつかのアイディアはありますが、まだ定説にはなっていません。今後の研究が期待されます。
 19世紀中ごろになって氷河期の存在が、やっと認知されました。その後、繰り返し氷河期あったこと、新生代末以外にも氷河期あったことなどが、わかっていました。そして近年、第四紀の氷河期のより詳しい実体がやっと分かりかけているに過ぎません。このような気候変動の認識は、今後も更新されていくはずです。
 私たちの地球の歴史について認識や理解は、まだまだ浅いものです。その原因もまだ不明のままです。このような理解しかないのに、未来の気候変動の予測は本当にできるのでしょうか。気候変動の予測ができたとしても、子孫たちの運命を託すことができるでしょうか。予測に心もとなさを感じるは私だけでしょか。
 氷床を用いた研究は、精度よくできるのは、今のところ2万年前までです。年代測定の精度の2万年前以前は精度が落ち、必ずしも正確な対比ができるわけではありません。上述したように、今後、気候変動の原因究明には、過去の地層が重要な役割を果たすと思います。その時、地質学者が重要な役割を担うことになります。まずは、過去を知ることが、未来を知る一番の近道かもしれませんね。急がば回れでしょうか。

・お盆・
暑い夏休みとなっていますが、
いかがお過ごしでしょうか。
私の夏休みは終わりました。
お盆の時期は込んでいますので、
じっと仕事をすることにしています。
お盆が過ぎたら、また近隣を見て回ろうかと考えています。
9月になったら、また、四国を見て回るつもりです。
それまで、落ち着いて仕事をしようと思います。

・盆踊り・
昼間の暑い時期は
支所では全館冷房ありますので
何とかしのげます。
私の自宅は、エアコンもなく
暑いことは暑いのですが、
体がだいぶ馴れてきたのでしょうか。
なんとか耐えることができています。
でも、寝る頃には涼しくなり、
睡眠時間が確保できるので助かります。
お盆には祭があります。
自宅の裏のグランドで、
今週末には盆踊りがあります。
屋台もいろいろ出るようです。
見学するつもりです。

2010年8月5日木曜日

1_93 ハインリッヒ・イベント:IRD 4

 IRDはハインリッヒ・イベントによるものとされ、それは激しい温暖化の事件でした。歴史を調べていくと、地球の環境は激しく変動していることが分かってきました。現在、温暖化が危惧されていますが、解明への道は、地球史をよりよく解読し、そのメカニズムを解明することが、遠回りに見えるけれど、近道なのかもしれません。


 北大西洋の深海底のコアから見つかった砂の層は、氷山からもたらされたということを、ハインリッヒは主張しました。
 この論文にいち早く注目したのは、アメリカのコロンビア大学のブロッカーでした。追試をするために、大学の保管庫にあるコアを調べたところ、似たようなIRDを再確認しました。ブロッカーは、このようなIRDをもたらすような出来事を発見者にちなんで、ハインリッヒ・イベントと呼びました。
 ブロッカーが調べた結果、ハインリッヒ・イベントは、新しい時代から順に、1万7000年前(H1)、2万5000年前(H2)、3万3000年前(H3)、3万9000年前(H4)、4万4000年前(H5)としました。年代は、ハインリッヒの求めたものとは違っていましたが、ほぼ1万年間隔でIRDがたまるイベントがあることを示しました。
 その後この研究は、コロンビア大学のボンドが引き継ぎ、より詳細なIRDの記載や研究が行われました。IDRはハドソン湾やその周辺から主にみつかり、他の地域では見つからないこと、IRDがハドソン湾周辺の大陸からもたらされたこと、砂の堆積後にかならず急激な温暖期が訪れていること、などを突き止めました。
 砂層は、氷山による砂(IRD)であることも多くの科学者も認めています。現在では、ハインリッヒ・イベントは氷河期の中で一時的に急激な温暖期に向かう過渡期の現象として砂の層ができることがわかっていました。そしてイベント自体は、500年程度の気候変動で、2、3年から10数年で急激な温暖化が起こっていることもわかってきました。
 最後の氷河期は、ヴュルム氷期(ウィスコンシン氷期とも呼ばれています)で、7万年前ころにはじまりましたが、2万年前に最寒冷期(最終氷期最盛期、Last Glacial Maximum、LGMの略されます)を迎えます。そして氷河期は、1万5000年前ころに終了し、現在も続く間氷期に移行します。
 氷河期とは、ずっと寒い時期が続くわけではなく、寒冷を基本としていますが、激しく気候が変動していた時期であることがわかってきました。最も寒い時期が、2000年ほど続き、あとは寒暖が激しく繰り返されたと考えられています。以前から知れていた有名な気候変動として、1万2000年前のヤンガードリアス期があります。これは、間氷期の温暖期の中で、寒冷化が起こったことが知られています。これも地球は激しい気候変動が起こっているという一例です。
 ハインリッヒが見つけたのは、ヤンガードリアス期とは逆で、寒冷期に急激な温暖化が起こった事件だったのです。では、その原因はなんだったのでしょうか。次回としましょう。

・涼しい話・
もう8月です。
月日の流れるのは早いのですね。
今年は、梅雨が長く、
梅雨明けは暑く、激しい雨も降りました。
四国で暑さにやられそうです。
ただ、滞在しているところは
山里なので、夜は涼しいので
エアコンがない生活でも寝れるので助かります。
こんな暑い時には、氷河期の話は
涼しくていいのでしょうか。
なといっても、ハインリッヒ・イベントは、
氷山によってもたらされたIRDが由来となっています。
でも、急激な温暖化の話ですので、
涼しくはならないでしょうかね。

・歴史解明・
地球の歴史は、最近非常に詳しく読めるようになり、
いろいろ新しいことがわってきました。
特にここ数10万年の環境についての歴史は
非常に詳しく読まれてくるようになってきました。
しかし、その原因となると、
なかなか難しい問題で分からないことも多いようです。
その原因は、単純ではなく、
陸海空の要素が複雑に絡んでいるようです。
でも、その謎の解明が、
私たちの未来像を描くときの
大きな助けになるはずなのです。

2010年7月29日木曜日

1_92 氷山より:IRD 3

 深海底から回収されたコアの砂の層は、6層ありました。その砂が由来した時代も決定されています。コアの時代が、なぜ決められるのでしょうか。そして、砂はいったいなぜもたらされたのでしょうか。今回は、それらについて考えたいと思います。


 コアはタイムレコーダです。その時間軸として、一番よく利用されているのが、プランクトンの化石です。
 深海の堆積物の多くが、マリンスノーとして海底に降ってきたプランクトンの遺骸からできています。遺骸の有機物の部分は腐敗や捕食されてなくなってしまいますが、硬い殻の部分は、残ることがあります。
 殻を持ったプランクトンはいろいろなものがいますが、石灰質の殻をもつ植物性プランクトンのココリス(円石藻)、動物性プランクトンの有孔虫、珪酸質の殻をもつ植物性プランクトンの珪藻、動物性プランクトン放散虫が主要なものとなっています。
 珪質の殻は海底にそのまま保存されるのですが、石灰質の殻は、条件によって残る場合と残らない場合があります。浅い海では殻のまま残りますが、深度が深くなると溶けてしまいます。その深度は、炭酸塩補償深度(Carbonate Compensation Depth、CCD)と呼ばれています。大西洋の赤道付近では5000mあたりで、高緯度ほどその深度は浅くなっていきます。北大西洋の付近の海底はCCDより浅かったようで、前回紹介したように有孔虫が残っていました。ただし、なぜか砂のあたりでは、有孔虫が極端に少なくなっていました。
 プランクトンは進化が早い生物で、時代ごとに特徴的な種が多数でてきます。もしコアから有孔虫や珪藻などの化石が多量に見つかれば、示準化石となり時代をかなり詳細に決めることができます。深海堆積物のコアは、化石による年代決定が有効になります。
 ハインリッヒが調べたコアは、13万年分の地層がありました。それを詳細に調べると、13万年分の海洋域の様子を知ることができます。コアの中の年代をみていくと、砂は、1万6500年前、2万3000年前、2万9000年前(?)、3万7000年前、5万0000年前、7万0000年前(?)に見つかりました(?は少々問題があるもの)。
 前回紹介したように、深海底には通常の地質学的作用で砂はもたらされません。もし届いたとしても、円磨された淘汰のよい砂になるはずなのですが、コアでは角ばった砂でした。それも北大西洋の北緯50度あたりに広域に広がり、繰り返し(6層あったので6度にわたって)起こっています。
 ハインリッヒは、この砂を、氷山からもたらされたと考えました。漂流してきた氷山は陸地を流れてくるので、その中には砂礫を多数取り込んでいます。その氷山が海流に乗って流れて、ゆっくりと溶けていき、中の砂礫が海底に落ちていきます。ハインリッヒは、コアで見つけた砂が流れてきた氷山からの砂だ、というのです。このような砂をIce Rafted Debris(岩屑)と呼び、IRDと略されています。
 氷山だと考えれば、砂の特徴をうまく説明することができます。でも、氷山が、大量にある時期に北大西洋を漂ったのです。それも繰り返し起こっています。いったいこの出来事に、どんな意味があるのでしょうか。その出来事と化石(有孔虫)の減少とは、どんな関係があるのでしょうか。続きは、次回としましょう。

・発行予約・
先週半ばに、何とか論文も仕上げて、投稿しました。
一息つくまもなく、夏休みの準備です。
夏休みは1週間ほど休んで北海道に戻ります。
その間に、発行予定のメールマガジンが2つあります。
その原稿を作成して、発行予約をしておきます。
予約をやっておけば、
メールマガジンは途切れることなく、発行できます。
マグマグでは2週間先まで予約可能です。
以前は1週間だったので、
長期の不在には定期発行がなかなか困難でした。
でも、今は、長期の不在がなくなったのと、
2週間の予約が可能になったので、
滞ることなく発行ができます。
その代わり、出かける前が大変なのですが。

・北海道の夏・
梅雨が明けてから、暑い日が続いています。
からりとはしてるのでしょうが、
はやり北海道と比べると湿度が高く感じてしまいます。
北海道に帰るのですが、
じつは一番暑い時期でもあります。
本州と変わらない暑さなることがよくあります。
そんなことにならないように祈っています。

2010年7月22日木曜日

1_91 不思議な砂:IRD 2

 陸上で砂を見ていると、あるのが当たり前で不思議でも何でもありません。ところが、砂のないはずのところにあれば、それは、不思議な砂となります。深海には、一般的には砂はたまりません。ところが、深海の堆積物のコアから薄いですが、砂の層が見つかりました。その砂とは、どんな砂だったのでしょうか。


 海洋底の掘削のDSDPからIPODにかけては、多くの研究者が注目していました。私も、昔の海洋地殻(オフィオライトと呼ばれています)の研究をしていたので、それらの報告書にマメに目を通していた時期がありました。海洋底の基盤にある岩石に注目していたのですが、初期のころはなかなか玄武岩層まで達しませんでした。ところが、海洋底の堆積岩は、あちこちで採取されてきました。
 北大西洋の海底堆積物のコアを観察していたドイツの海洋地質学ハインリッヒ(Hartmut Heinrich)は、そのコアの中に、岩片が多数入っている砂の層を発見しました。岩片は、海洋底を構成している火山岩や堆積岩のものではなく、大陸を構成しているような石英や長石などでした。そのサイズは、180μmから3mmほどの範囲でした。
 3mmもの大きさになると海流で運ばれてくることありません。ですから、何か特別な作用があったはずです。
 実は、深海で砂の層が見つかることがあります。それは、海流ではなく、混濁流というものによって運ばれてきたものです。このような深海に運ばれた砂を、深海砂(deep-sea sand)と呼び、堆積物をタービダイト(turbidite)と呼んでいます。
 大陸斜面で地震や海底地すべりで発生した重力による物質の流れは、時に深海まで届くことがあります。混濁流によってたまった地層をダービダイトと呼んでいます。タービダイトは、砂から泥まで物質で地層を形成します。タービダイトの砂の由来は、河川から海にまで運ばれたものが、再度、混濁流によって深海へと運ばれたものです。その砂は河口や海岸よくみる砂で、円磨され、淘汰のよい砂となります。
 ところがハインリッヒのみつけた砂は、タービダイトの砂ではなく、円磨されておらず、角ばっていました。なおかつ、砂の層は、いくつかのコアで見つかました。これはその砂の層が、広く北大西洋に広がっていることになります。その砂の層は、北緯50度あたりで、なんと3000kmにわたって見つかっています。タービダイトでは、こんな大きな規模にはなりえません。
 そのほかにも、その層の上下には有孔虫がたくさんみつかるのですが、砂の層では、有孔虫の化石が異常に少なくなっていました。
 海洋底の地層のコアとは、一種のタイムレコーダです。深海は、堆積物があまりたまらない穏やかな、変化の少ないところです。深海底では、非常にゆっくりとしか堆積しません。深海の堆積物は、長い時間をかけて薄い地層が積み重なっていきます。そのようなタイムレコーダとして、海洋底の各地からコアとしてあるわけです。
 この深海堆積物に、広域的に特徴的な砂があるということは、北大西洋全域におよぶような、なんらかの事件があったことを意味しています。このような砂の層を、ハインリッヒは、コアの中から6つ見つけています。それを1988年に、報告しました。その6度におよぶ事件とは、いったどのようなものだったのでしょうか。
 その事件の詳細は、次回としましょう。

・水泳大会・
いよいよ夏休みです。
私の滞在している町では、
夏休みの初日に、小学校の水泳大会が行われました。
役場の横にあるプールで、行われていたので
執務室にも、その歓声が響いてきました。
昼食後少し見学したのですが、
人数は少ないですが、盛り上がっていました。
梅雨明けの真夏の青空のもとでの大会で
水の中が気持ちよさそうでした。

・帰省・
7月23日締め切りの論文で
私はたばたしていました。
ほぼ完成したので、なんとか間に合いそうです。
今回は、なかなかてこずりました。
これが終われば、少し、息抜きをしたいと思っています。
暑いので、あまり外に出る気にならないのですが、
北海道に一時帰宅するつもりです。
家族サービスで旅行をする予定です
北海道も一番暑い時期ですから
涼しければいいのですが。

2010年7月15日木曜日

1_90 深海底の記録:IRD 1

 IRDとは"Ice Rafted Debris"の略です。「流氷岩屑」とでも訳のでしょうか。IRDについて紹介するシリーズです。少々専門的かも知れませんが、思わぬ現象がわかってきて、それが現在の私たちに関係があることが分かってきました。


 陸から遠く離れた海底の堆積物を採取して、調べることが、1960年代後半から国際的に行われました。深海掘削計画(DSDP:Deep Sea Drilling Program)と呼ばれ、国際的な研究プログラムで、日本も参加していました。
 名称に「掘削(Drilling)」とあるように、深海底の堆積物から岩盤まで円筒状(真ん中に穴があいた)のドリルを用いて、円柱状に岩石を掘りぬいていきます。その円柱(コア、coreといいます)を回収すれば、海底の岩石試料が連続的に手に入ることになります。そのような掘削が海域のあちこちでなされました。そして、技術も進歩していきました。
 私たちが日ごろ目にしている地層の多くは、陸から由来したり、火山起源の砕屑物からできているものがほとんどです。しかし、陸地から遠く離れた深海底は、あまり堆積物が来るところではありません。深海は、生物の遺骸や海流や風に運ばれた微小な粘土のような粒子などが、ゆっくりと沈んでくるだけです。しかも、深海には海流や波もなく穏やかな状態が長く続きます。非常にゆっくりとしか堆積していきません。ですから、長いスパンでみるときには、重要な過去を記録しているタイムレコーダーの役割を果たします。
 地質学者は、自分の足であることで調査をしてきました。しかし、海は調査ができず、まして深海底は深く、科学がなかなか到達できないところでもありました。宇宙開発より遅れていました。地球の表面の3分の2が海ですから、月に到達したのに、自分たちの住む地球の海の底が未知の領域だったのです。現在も深海は神秘に満ちた場所で、深海の調査は継続されています。
 掘削の技術さえあれば、位置さえ変えれば、いたるところで、試料が手に入ります。ただし、3000mを越えるような深海ですので、掘削は技術的には大変です。専用の掘削船も必要です。掘削自体に費用もかかります。深く掘るためには新しい技術開発も、人手も必要になります。ですから、国際プロジェクトになっています。
 掘削は大変ですが、得られる情報は重要です。DSDPは、1968年から1983年まで実施され、1985年から2002年までは国際深海掘削計画(IPOD: International Phase of Ocean Drilling)になり、2003年からは統合国際深海掘削計画(IODP: Integrated Ocean Drilling Program)になって、現在も継続されています。世界最高の掘削能力を持つ「ちきゅう」は、IODPの目的のために建造された船です。
 DSDP以来、深海底の掘削は50年以上に渡っておこなわれ、科学に多大な成果をもたらしました。そして掘削された試料は現在も保管され、研究者の必要に応じて提供されています。50年以上に渡る研究によって、海洋底の荒く網羅的な調査は終わり、概略はつかめました。現在は、目的を絞った研究に推移しています。
 深海底は、まだまだ未知の領域があります。その領域は場所のことではなく、微細な詳細についてです。それまで見過ごされてきた、非常の小さな石の屑のようなものが、大きな意味をもつことが分かってきました。そんな発見と展開の話をシリーズで紹介します。

・本がきっかけ・
今回のシリーズのきっかけは、
大河内直彦さんの書かれた
「チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る」
という本を読んだからです。
そこで紹介されていた
"Heinrich event"が元になっています。
本を読んでいただければわかりますが、
過去をみる分解能の精密さ、
そして現状の限界も書かれていて
気軽に読めますが、なかなか読み応えもあり、
いい本だと思います。
本の中で、H. Heinrichという若い研究者が
書いた論文の話題が取り上げれています。
それを私になり紹介していきたいと思っています。

・梅雨・
皆さんのところは大雨の影響はどうでしょうか。
私のいる愛媛県の山奥は、
先日も激しい雨が降りましたが、
いまのところ被害はないようです。
今年の梅雨は長くなかなか明けませんが、
北海道からきた私に梅雨は体に答えます。
熟睡できないせいか、
朝起きても疲れがなかなか抜けません。
そのせいか集中力がでず、
仕事がなかなかはかどりません。
私だけが長梅雨にあっているわけではなく、
皆同じ状況です。
まあ、愚痴を言わずに
気力でなんとかしなければならないところでしょうかね。

2010年7月8日木曜日

1_89 新生代の再編の決着

 新生代の再編が1月に決着がつきました。それまのでいきさつは、このエッセイで何度か紹介しましたが、議論の末、一番混乱のないような、穏やかな再編に落ち着きました。その最終的な決着を遅ればせながら紹介します。


 このエッセイで何度か取り上げましたが、時代区分の変更が国際地質科学連合(IUGS)によってなされました。新生代から第三紀という時代区分をなくし、パレオジン(Paleogene)とネオジン(Neogene)、第四紀(Quaternary)に区分し、第四紀の下限を258万年前とするという再編がされました。
 IUGSの提案を受けて、日本でもその対応が求められ、日本地質学会を中心にしていくつかの関連学会で、さまざまな検討、議論がされてきました。まず、区分を受け入れるかどうか、受け入れるとしたら日本語名称をどうするかなどの検討が求められました。
 その結果が、2010年1月22日に出ました。紹介しようと思いながら、昨年の暮れに時代区分の再編をシリーズで紹介したので、また同じような内容になるので、ついつい躊躇していたら、遅くなってしまいました。遅ればせながら、紹介します。
 第四紀の下限が258万年前まで古くなったことを受け、これまで新第三紀鮮新統になっていたジェラシアン期は、第四紀更新世前期に組み入れらることになりました。第四紀と新第三紀の境界が変更になりました。
 第四紀は、更新世(Pleistocene)と完新世(Holocene)に区分されているのは従来のままです。ただし、日本では、洪積世と沖積世が現在でも使われていたのですが、これが廃止され使用しないように決まりました。
 時代の名称については、パレオジンは古第三紀に、ネオジンは新第三紀にすることが正式に了承されました。これは従来から使われてきたもので、馴染みのあるもので、再編の影響が最小限になる配慮からでしょうか。
 当初は第三紀とともに、第四紀も廃止するという提案でした。蓋を開けてみると、結果的にはあまり大きな再編ではなかったことになりました。専門家だけの対応で済んでしまうことになるのでしょう。
 学問は進歩します。その結果、研究領域も細分化されていきます。今回のように体系が再編されると、研究者の社会では、混乱が起こります。その再編を研究テーマにしていたり、深く影響を受ける人は、それなりの対応が必要になり、反発する人もでてきます。
 IUGSののワーキングループからの提案があってから、このエッセイでも何度か紹介したのですが、長い議論、紆余曲折がありましたが、なんとか現状に至りました。各国が数年がかりでやっと再編を消化して受け入れることになりました。これによって、新生代の再編が終わることになります。
 再編が達成されれば、これからは定着がされていく時期になります。研究者はその再編に従います。論文を書くときや発表の場では、正式名称を使うことが義務付けられます。でも、社会に普及していくのには、時間がかかるでしょうね。でも、あまり影響はないのかもしれません。

・再編・
今回の再編の結果は、地質学会の他、
日本学術会議のIUGS分科会とINQUA分科会、
日本第四紀学会との連名で報告されました。
同様の報告の例として、
冥王星が準惑星とされたときがありました。
冥王星のときは、話題になり、
多くの人がこのニュースを知り、
今では、冥王星が惑星でないということを知るようになりました。
そして教科書にも反映されているはずです。
このように広く周知ができると、
定着する時間は短くてすみます。
今回の新生代の再編は、ニュースにあまりならないため、
定着しにくいかもしれません。
第四紀とともに第三紀はずっと使われるかもしれません。
でも、内容的には研究者に周知徹底されれば、
とりあえずは混乱が生じない程度の
再編ですんだというべきなのかもしれません。

・はやぶさ・
前回まで紹介していた日本の宇宙探査シリーズで
「はやぶさ」を紹介しました。
その「はやぶさ」のカプセルから
小さな粒子がいくつか見つかった
というニュースがありました。
まだ、イトカワのものはどうから分かりませんが、
もし、そうだったらなかなか興味深いことになります。
違ったとしても、今回の一連の技術は
次回にきっと活かされるはずです。
期待して見守っていきたいと思います。

2010年7月1日木曜日

5_89 きぼう:日本の宇宙探査4

 今回で日本の宇宙探査のシリーズは終わりとします。最後に日本が今後も継続的に運営し、宇宙飛行士も滞在させていく予定の「きぼう」について紹介します。若田さん、野口さんも「きぼう」を建設作業をしながら、施設で実験するという仕事をされていました。


 「きぼう」は、国際宇宙ステーション(International Space Station、略称ISS)に接続されているモジュールのことです。国際宇宙ステーションには、アメリカ、ロシア、日本、カナダ、欧州宇宙機関(ESA、11ヶ国加盟)が参加しており、いくつかのモジュールが接続されています。「きぼう」もそのうちの一つで、日本が中心になって実験ができる施設となっています。
 建築は、最初、船内保管室が2008年3月11日に打ち上げられたスペースシャトル「エンデバー」で運ばれました。その後、ロボットアームが取り付けられ、2009年7月に打ち上げられたエンデバーによって船外実験プラットフォームが取り付けられ、基本部分はほぼ完成しました。その後もいくつもの装置が加わっています。
 ISSに最初に長期滞在をしたのは若田光一宇宙飛行士で、2009年3月16日から137日間滞在されました。「きぼう」を完成させての帰還となりました。その後、2009年12月から、野口聡一宇宙飛行士が、ISSに滞在することになります。その滞在期間は、若田さんよりも長く161日間という滞在でした。
 さて、ISSに日本のモジュール「きぼう」がつけられ、日本の宇宙飛行士が滞在しているのは、なぜでしょうか。もちろん長期滞在記録が目的ではありません。ワレリー・ポリャコフ宇宙飛行士がミールで437.7日間という破れそうにない記録があります。
 宇宙に滞在する重要な目的は、宇宙の環境、条件を用いた実験をすることです。さらに、その重要性を市民に理解してもらうための広報や教育活動も重視されています。市民からの実験を一般公募したりしています。
 若田宇宙飛行士の滞在中、面白実験と称したものがなされました。その様子は映像が公開されました。見た方もあると思います。たとえば、宇宙空間で、ラジオ体操ができるか、水鉄砲はどうなる、目薬ができるか、魔法のじゅうたんができるか、腕相撲をするとどうなるか、紙飛行機はどう飛ぶか、などの興味がわきそうな実験もいろいろなされました。いろいろ予測できることもあるのですが、予測できないものもあります。これらは市民からの公募によるもので、教育現場などで利用できるようになっています。今でも、その様子の動画は、インターネットで見ることができます。
 野口さんは、若田さんより研究に徹した作業が多くなっていました。無重量、真空、宇宙線などの条件を利用したり、生命の宇宙空間での影響を調べる実験が各種行われています。重力下ではうまくできない結晶(シリコンなど)を無重力でつくってみたり、宇宙空間の哺乳類やイネの細胞への影響、宇宙飛行士を検体にした人体への影響などの実験がなされました。もちろん広報や教育のための時間も確保はされていましたが。
 今だに一般の人が気軽に宇宙空間に行くことできません。地球を離れられるのは特別な人だけです。このように日本人宇宙飛行士の宇宙滞在や、広報教育活動などのさまざまな努力で、宇宙がかなり身近なものになってきました。そして、今後も日本人宇宙飛行士は、養成は続く、宇宙ステーションでの活動が予定されています。
 さて、野口さんは、6月2日にカザフスタン共和国の草原に無事帰還を果たしました。このニュースは、鳩山総理辞任劇の陰であまり伝わることがありませんでした。残念です。

・訂正・
「はやぶさ」の回で、「イトカワ」が
火星と木星の間の小惑星帯にある
と書きましたが、これは間違いでした。
Tabさんからご指摘を受けました。
「イトカワ」は、小惑星ですが、
火星軌道よりも内側をまわる小惑星群のひとつで、
地球接近小惑星(NEO)と呼ばれているものです。
地球に衝突する危険性のある小惑星です。
「イトカワ」は、もともと小惑星帯でも
太陽に最も近い側をまわっていたものが、
なんらかの原因で、より内側を巡る軌道に
変わったと考えらています。
現在は、地球の公転軌道を横切っています。
地球に近づく可能性もあります。
長い年月の後は、太陽、水星、金星、地球、火星のいずれかに
衝突して終わるだろうと考えられています。
そんなNEOの様子を調べるのも
「はやぶさ」の目的であったようです。
JAXAの報道によると、
サンプルコンテナの開封が24日から始まったとのことです。
その作業に1週間ほどかかるようです。
この開封作業、装置もなかなか面白いのですが、
別の機会にしましょう。

・宇宙の話題・
今回のシリーズで紹介したように、
日本が関係する宇宙の話題が、
いくつも連続してありました。
他にも、山崎宇宙飛行士のISSへの15日の滞在や、
陸域観測技術衛星「だいち」の話題、
準天頂衛星「みちびき」など、
いろいろな話題があります。
それぞれのミッションで得られた成果は
報道の多い少ないに左右されませんが、
その重要性が市民に伝えられる機会が減ったのは事実です。
報道はそれなりにされているので、
興味のある人は知っていたでしょうが、
やはり報道量が少ないようです。
政治問題が混迷していためでしょうか。
私の現在の情報ソースは、テレビ、ラジオでないので
興味のある情報をインターネットでは追いかけることになります。
そのため、ついついここで紹介したような話題に目が行きました。
皆さんはどうだったでしょうか。
ぜひJAXAのホームページを覗いてみてください。
http://www.jaxa.jp/

2010年6月24日木曜日

5_88 はやぶさ:日本の宇宙探査3

 この「日本の宇宙探査」シリーズを書き始めたときは、宇宙のことがあまり注目されていなかったのですが、「はやぶさ」のおかげで、一気に宇宙への注目も高まりました。問題は、試料が取れているかどうかなのですが・・・。


 「はやぶさ」は、火星と木星の間に多数ある小惑星のひとつ「イトカワ」を探索するための探査機です。小惑星は非常の遠くにあるため、地球から信号を送っても届くのに10分以上かかるため、地球からの制御では、危機回避ができません。そのために、自立的に考えて行動できる能力を持った探査機でした。
 火星より遠くの小惑星からの試料を持って帰るという非常に難しいミッションも含まれていました。隕石をのぞけば、人類が手にしている地球外の天体の試料は月だけです。「はやぶさ」には、小惑星から試料を持ち帰るというミッションも含まれていました。
 2003年5月9日の打ち上げから7年以上の長きにわたる探査を終え、6月13日オーストラリア上空で試料採取カプセルを分離して、機体は大気圏の摩擦によって燃え尽きました。夜の暗い空に、「はやぶさ」の燃える光は、最後の輝きと記憶に残るものでした。その映像を、ご覧になられたでしょうか。インターネットの動画で今でも見ることができます。
 「はやぶさ」は、小惑星「イトカワ」に着陸して試料を回収するためのミッションをもっていました。長いメガホーン(サンプラー・フォーンと呼ばれています)をイトカワの表面につけ、その中で玉を打ち込んで、飛び出た石の破片を回収しようというものでした。地表に降りてきたカプセルは、イトカワの試料が入っているかもしれないものなです。「はやぶさ」は人類初の試みばかりに挑戦するもので、試料回収も非常に意義のあるミッションでした。
 試料回収の作業は行われたようですが、試料が実際に入っているかどうかは、回収されたカプセルを開けてみないとわかりません。18日未明には相模原の施設にカプセルが搬入されています。その後の開封せずにX線で調べられたところ、1mm以上の大きさの粒子がないらしいことがわかりました。もし破片が入っていたとして、非常に小さな粒子になるので、慎重な処理が成されなければなりません。そのために時間が必要になりそうです。
 もし試料が入っていたとしたら、現在の化学分析の技術非常に進んでいるので、ごく微小、微量でも分析可能です。サイズでいえば数10μm(マイクロメートル)、重さでいえば数10μg(マイクグラム)の試料があれば、いろいろな情報を読み取ることができます。期待したいものです。
 そもそも今回の「はやぶさ」の一番の目的は、いろいろなミッションをこなす技術を実証的に開発することでした。ですから、地球への帰還、試料回収もあわよくばというミッションでもあったと思います。地球を離れる前に制御不能になったり、小惑星に向かう前に行方不明になる危険性だってありました。実際に何度も故障があったり、通信が途絶えたり、さまざまな困難がありました。それを乗り越えての帰還、そしてカプセルの回収だったのです。

・ニュースバリュー・
私は、吉田 武著の「はやぶさ―不死身の探査機と宇宙研の物語」を
以前読んで、はやぶさのいろいろな危機があったことを知りました。
今回のミッション終了を受けて
続編を期待したいものです。
それにして、せっかくの「はやぶさ」帰還直前の
いろいろなニュースが、
6月2日の鳩山首相の突然の辞任劇で
あまり伝わらなかったのは残念です。
非常に偉大な業績であったのに、
ニュースバリューが低くなったのは
今後の予算獲得に影響がありそうで不安です。
できれば、小さくてもいいですから、
試料が発見さればと思います。
そんなニュースが仕分け作業中に届き、
予算が削減されなければと思います。

・梅雨・
久しぶりの本州の生活で、
梅雨の洗礼を受けています。
かつては長年本州で暮らしていながら、
北海道の涼しい夏に馴れたせいか
梅雨の蒸し暑さに参っています。
支所では、暑ければエアコンが入りますが、
自宅では、扇風機が一台あるだけです。
谷間で、標高200mほどしかないですが
裏には標高400mを越える山が控えています。
ですから、夜になって山風が吹けば
結構過ごしやすいのではないかと期待しています。
暑さに耐えられる馴れを持つことの方が重要なのでしょうかね。

2010年6月17日木曜日

5_87 あかつき:日本の宇宙探査2

 日本の探査機の技術は、非常に優れています。「かぐや」の航行は、月が地球に近いため、燃料も少なくてすみます。しかし、遠くなると燃料がたくさん必要になり、その分、装置がコンパクトで厳選されたものでけねればなりません。惑星探査機「あかつき」を紹介しましょう。


 2010年5月18日に打ち上げが予定されていたH-IIAロケット17号機は、気象条件が整わなかったため、延期となりました。5月21日に変更された打ち上げは、無事、成功しました。このH-IIA 17には、「あかつき」という探査機が載っていました。「あかつき」の総重量は約500kg、半分は燃料および酸化剤となります。そのうち観測機のために35kgほどしか残されていません。軽量コンパクトが観測装置の必須条件となります
 「あかつき」は、金星を探査することが目的です。金星は、地球より太陽に近いところで公転をしています。太陽に近いため、地球から見ると太陽の近くに見えます。ですから、日の出の直前(明けの明星)や日の入り直後(宵の明星)の短い時間しか見ることができません。水星とともに観測しづらい天体となっています。
 金星は、大きさや質量が地球に似ているため、「兄弟星」や「双子星」と呼ばれています。金星の起源やたどった惑星の履歴は、地球と似ているはずなので、金星の探査は、地球の謎の解明にも役立つと考えられます。
 兄弟星と呼ばれる金星ですが、地球とは表層環境があまりに違います。地表の温度が約460度という苛酷な環境です。厚い雲に覆われていて、可視光では、地表を見ることができません。空には硫酸の雲が浮かび、二酸化炭素が主成分の大気です。金星は243日かけてゆっくりと自転しています。ところが、大気の動きは激しく暴風(スーパーローテーションと呼ばれています)が吹き荒れています。その速度は自転の60倍(時速400km)もあり、4日間で金星を1周してしまいます。そのメカニズムは不明です。
 「あかつき」は、そんな金星の不思議な気象を調べることを目的としています。さまざまな波長で大気を観測するためのセンサーが搭載されいています。
 近赤外線を調べるための1μmカメラ(IR1と略されています)と2μmカメラ(IR2)は、大気を突き抜けて観測できるので、地表面の様子や低い位置の雲や水蒸気を調べます。地表面の撮影によって鉱物分布や活火山についても調べられると期待されています。波長10μmの中間赤外カメラ(LIR)では、雲の最上部の温度分布を調べたり、雲の上のでこぼこや風の様子を調べます。紫外線の紫外イメージャ(UVI)では、二酸化硫黄を調べ、雲の形成メカニズムや風を調べます。雷放電発光をとらえる雷・大気光カメラ(LAC)では、超高速撮影ができ、雷が起こっているかどうかを調べます。また、雲の上にある酸素も調べることができます。
 「あかつき」によって金星の気象が解明されることが期待されています。
 実は、H-IIA 17には、「あかつき」のほかにも、小さな衛星3個と「IKAROS」という衛星も搭載されていました。「IKAROS」は、帆を広げて太陽の光子を受けて航行します。その実験するための衛星です。帆には薄い太陽電池がはってあり、電力も帆から得ることができます。
 H-IIA 17のすべての衛星は、無事切り離しができ、「あかつき」も順調に飛行を続けています。2010年末には金星に到着する予定となっています。そして2年間(金星は3回公転します)、金星を観測し続けます。金星でも日本の貢献が期待されます。

・蛍の撮影・
近所で蛍が一杯飛び交っています。
毎夜写真撮影に挑戦しています。
蛍の撮影は簡単のようでなかなか難しく、
人工の灯りがないことが一番重要な条件となります。
街頭や人家の明かり、車の往来などがあると、
30秒ほどの露出で撮影しますので、
失敗の撮影となります。
しかし、比較的暗いところセットして、
30秒の連射を設定すると、
車の往来が稀にあるところでも、
いずれかのショットはOKになります。
蛍の光は暗いので、あとで画像合成をすることになります。
でも、完成した写真はなかなか幻想的なものとなります。
撮影は一度スタートすると、
カメラ任せで連射をさせるだけです。
30分ほどじっとしているだけです。
その間ただただ蛍の飛び交うのを
真っ暗らな川原の土手で眺めています。
心静かなで豊かな時間を過ごしています。

・JAXAチャンネル・
YouTubeのJAXAのチャンネルには、
面白いコンテンツがいろいろあります。
日本の宇宙開発のさまざまなプロジェクトを
市民に分かりやすく広報するための番組が
いろいろ用意されています。
でも、このようなYouTubeに公開されていると、
いつでもみられるのですが、
ついつい見入ってしまいます。
ほどほどにしないと
仕事が滞ってしまいます。

2010年6月10日木曜日

5_86 かぐや:日本の宇宙探査1

 あまり話題にはされていませんが、最近、日本の宇宙探査において、さまざまな成果が挙げられています。JAXA(宇宙航空研究開発機構)発のニュースが相次いで、いくつも流されました。しかし、その扱いはあまり大きくありません。このエッセイで最近のニュースをいくつか紹介していこうと思います。


 日本の宇宙探査で私の記憶に残っているのは、最初の宇宙飛行士の秋山さん、2度宇宙に行った毛利さんなどです。日本の月探査「かぐや」は記憶に新しいところです。最近でも、野口宇宙飛行士の宇宙空間での長期滞在、「あかつき」の打ち上げ、「はやぶさ」の帰還など、つぎつぎと重要な成果が報じられているのですが、その扱いはあまり大きくありません。他のニュースの影に隠れていて、非常に残念です。その成果をいくつか紹介していきます。まずは、少し前の成果ですが、「かぐや」からです。
 「かぐや」は、以前このエッセイでも紹介したのですが、2007年9月14日に打ち上げられた月の起源や進化を探るための探査機です。科学探査用機器や高精細の映像を写すハイビジョンカメラも搭載されていました。また、2つの子衛星(「おきな」と「おうな」)と連携した探査もなされました。
 「かぐや」に関するハイビジョン映像を、NHKもニュースや特集番組で何度も流したり、鮮明なカラー画像がいくつも紙面を飾りました。私も、その詳細な月面の地形をみて感動をしました。また、打ち上げ前には、市民からメッセージを集め、それを「かぐや」にとりつけ、月に運ぼうという「月に願いを」キャンペーンをおこなわれました。予想を超える41万人からメッセージが届きました。そのようなNHKやキャンペーンなどのせいもあって、多くの人が「かぐや」には関心を持っていました。
 2009年6月11日、「かぐや」は、月面に落下して、約1年半に渡る役目を終えました。しかし、「かぐや」の得たデータは、これからも解析が続けられます。JAXAでは、ホームページが現在も更新され、SELENE通信ではいろいろ情報が公開されています。
 JAXA ChannelがYouTubeで開設され、「かぐや」が撮影したハイビジョン映像などが、次々と公開されています。2009年10月20日には、30分ほどのハイビジョン番組「遥かなる月へ2009~月周回衛星「かぐや」の軌跡~」が公開されました。「かぐや」の概要を知るためにはいい番組です。
 科学探査の研究成果でも、2009年2月1日発行のアメリカの科学誌「サイエンス」で、「かぐや」に関する特別編集号が組まれました。研究者間にも「かぐや」の活躍が華々しく伝わりました。
 1961年から1972年にかけて実施された6回の有人月探査であるアポロ計画によって得られた試料はデータは、長い年月をかけて研究され、多大な成果があげられました。その後月の探査はあまりなく、今回の「かぐや」の探査データは、持ち望まれたものです。アポロの結果を塗り替えるほどの成果を挙げるはずです。少なくとも、月面の解像度は格段に上がり、月面地図は完全に更新されました。
 市民参加のためのキャンペーンやNHKのハイビジョンの搭載などによって、多くの人の関心を集めました。研究や成果普及なども、「かぐや」ではすべてがうまくいきました。その陰に隠れながら、あまり光が当たらないところで、重要な成果も上がっています。次回から、そのいくつかを紹介します。

・JAXA Channel・
JAXA Channelは、
http://www.youtube.com/jaxachannel
「かぐや」だけでなく、
日本の宇宙探査に関する映像がいろいろみることができます。
YouTubeの利用が少々気になるところですが、
URLが".com"になっていますから、
アメリカ合衆国のドメインになります。
管理がどのようになっているがわかりませんが、
何かことがあったとき、
データは大丈夫かどうか心配です。
JAXAのような大規模な組織なら、
独自の動画サイトを運営してもいいのではないかと思います。
以前はあったようですが、
現在では、動画はすべてYouTubeに移動しているようです。

・場所選び・
先日、香川から徳島の海岸線、
そして中央構造線沿いを調査してきました。
祖谷(いや)の方に入ったときは
雨に降られましたが、
それ以外は天気もよく日焼けしました。
今回が、四国に来て2度目の調査となりました。
毎月のように調査をする予定です。
梅雨を警戒して、6月は早めに調査を実施しました。
7月にも出かける予定ですが、
梅雨明けと暑さを見ながら、
行く場所を選んでいこうと考えています。

2010年6月3日木曜日

6_81 何処を目指すのか:人工生命2

 DNAの塩基配列であるゲノムをすべて解読するには、労力も資金力も必要です。しかし、研究や医療などで重要な役割を果たしている生物のゲノムがすべて解読されれば、大きな役に立ちます。そんな目的だけであればいいのですが・・・


 前回紹介した人工的な細胞合成について報告された論文の著者24名全員が、すべて同じ研究所の研究者です。彼らは、J・クレイグ・ヴェンター研究所(J. Craig Venter Institute)というとろこに所属しています。ただし、カリフォルニア州サンディエゴとメリーランド州ロックビルの同名の研究所、2箇所に分かれています。その研究所のリーダーが、ジョン・クレイグ・ヴェンター(John Craig Venter)です。論文の著者名の最後には、ヴェンターの名前もあります。
 ジョン・クレイグ・ヴェンターの名前をご存知でしょうか。ヒトゲノムの解読競争として一時ニュースで騒がれたことがあります。ヴェンターはアメリカの分子生物学者で、かつては国立衛生研究所(NIH)にいたことがあるのですが、遺伝子配列を特許出願して、上司(DNAの分子構造発見者のジェームズ・ワトソン)や他の研究者から批判を受けて、研究所をやめることになりました。そして、各種生物のゲノム研究とその利用を目的に、ゲノム科学研究所を設立しました。現在では、いくつかあった研究所は、J・クレイグ・ヴェンター研究所に統合され、ヴェンターが会長となっています。
 1990年にアメリカが予算を計上して、15年かけて、世界各国の研究施設が協力してヒトのゲノムをすべて解読する計画(HGP)がスタートしました。ところが、ヴェンターは、それに対抗して、セレラ・ジェノミクス社で商業的に利用するためにヒトのゲノムを解読して、特許登録して有料のデータベースをつくろうとしました。そして彼らがヒトゲノムを猛烈なスピードで読み出したと情報が流れました。
 幸いながらヒトゲノムはバミューダ原則(1996年2月)という合意によって、ヒトゲノムの解読結果は公開されることになりました。まあその競争があったおかげで、ヒトゲノム解読が一気に加速したという効果がありました。
 2000年6月26日にゲノムのドラフト版が完成し、2003年4月14日には完成版が公開されました。その情報は、ヒトの全遺伝子の99%の配列が99.99%の正確さで含まれるとされています。現在もその精度を上げる努力が続けられています。
 その後、ゲノムの解読の技術は進み、高速かつ廉価に行えるようになりつつあります。2007年には、ほぼ同時にヴェンターとジェームズ・ワトソン自身の完全ゲノム配列が読めたという報告がでました(ここにも過去の因縁を感じます)。そのような解読技術の進歩を背景に、2008年に始まった国際協力研究では、「1000人ゲノムプロジェクト」というのがあります。3年以内に、異なる民族から1000人分の匿名ゲノムの配列を読むという計画です。このプロジェクトが完成すれば、民族間の違いやゲノムの多様性を理解することができると期待されています。
 ヴェンターが今目指しているのは、、最終的には人に役立つ(商目的に叶うもの)人工生命の合するということです。難病治療や食物増産などという、善意に基づいたものや節度があるものであればいいです。しかし、営利に走りすぎれば、金さえ積めば倫理を外れた行為も可能になるのではという不安もあります。また、すべての研究が公開のもとで行われればいいのですが、あるグループ内で非公開でおこなわれるようなものだと、歯止めが利かなくなるのではという不安があります。そんなことを考えさせられた論文でした。

・蛍・
蛍の季節です。
天候不順のため、
1週間ほどの遅れているようですが、
地もとの蛍のニュースを新聞で見ました。
地元の人に聞くと
どこどこの沢で見たというのも聞きました。
ちょっと蛍をみにうろついてみようかと思っています。

・調査中・
現在、調査中であります。
データ通信カードがあるので、
調査中でもインターネットにつなぐことができるのですが、
できるだけ調査に集中したいのと
山奥にはいることもあるので、
留まったところがDOCOMOがつながらないこともあるかもしれません。
メールマガジンを出さなければという気持ちが働いていると
落ち着かないので、事前に予約してあります。
ですから、このメールマガジンも、
一週間前に配信しています。
エッセイの内容は、前回続きなので、
一気に2話分書いたので、連続性は問題ないと思います。
では調査に集中します。

2010年5月27日木曜日

6_80 人工細胞の増殖:人工生命1

 生命は人工的に合成できるのでしょうか。実は最近、合成されたという報告がなされました。それは科学にとって重要な進歩ではあるのですが、その背景にある重要性を見過ごしてはいけません。


 先日(2010.05.20版)のアメリカの専門雑誌「科学」(Science)の電子版に、ある論文が報告されました。この記事をみて、とうとうここまできたかという思いが沸きました。記事のタイトルは「Creation of a Bacterial Cell Controlled by a Chemically Synthesized Genome」というもので「化学合成された遺伝子によるバクテリア細胞の創造」という意味です。ギブソン(D. G. Gibson)他23名の著者が、名前を連ねている共著論文です。
 人工的に合成した最近が細胞増殖をしたという内容です。私は生物学にあまり詳しくないのですが、この研究結果は、重要な節目を示していると感じました。その論文を少し詳しく紹介しましょう。
 用いられたのは、マイコプラズマ・マイコイデス(Mycoplasma mycoides)という細菌です。この細菌が用いられたのは、塩基配列が少なく、操作しやすいためです。つくり方は次のとおりです。
 マイコプラズマ・マイコイデスのDNAの短い一部部分を、化学合成でつくります。そのようにして合成したパーツが、DNA全体になるように部分部分をつくっていきます。それらの全パーツを、大腸菌などの中でつないでいき、ひとつのDNAとして、人工的に合成します。合成で完成したDNAを取り出して、同じ属ですが、別種のマイコプラズマ・カプリコラム(Mycoplasma capricolum)を用意して、もともとのDNAは抜いておき、合成したDNAに入れ替えます。つまり、別種のマイコプラズマ・カプリコラムのDNA以外の細胞を、これからつくろうとするマイコプラズマ・マイコイデスの入れものとするわけです。すると、合成したマイコプラズマ・マイコイデスが、細胞として機能をもち、増殖をしたという報告です。完全に合成されたDNAが、増殖という生命の重要な機能を発揮したのです。
 彼らの用いた技術は、それぞれの部分をとれば、既存の技術を利用しているようです。もちろん見えないノーハウや苦労はたくさんあったのでしょうが。そして、最終的に到達した結果も、ありえるだろうなと思える範疇のものです。つまり、そこには虚偽はなく、実際の合成ができたようです。
 しかし、問題は真偽ではなく、結果を受け入れた上で、見逃すべきでない重要な点があります。別の生物の細胞組織を利用はしていますが、DNAを完全に化学的に人工的に合成しているという点、そしてその合成したDNAが生命活動(増殖)したという点が重要です。
 彼らのグループは、2008年には、ある細菌(Mycoplasma genitalium)の全DNAの合成に初めて成功していました。ですから、次なる目標はその合成したDNAを機能させることだということも理解できるものです。そしてその延長線上には、いろいろと人間の役に立つ生物もできるかもしれません。実際今回の報告をした研究者たちが属している研究施設は、エネルギー生産などに役立つ微生物の創出を目的としています。今回の研究も、その一環だったのかもしれません。
 生命の遺伝情報を司るDNAが人工的に合成され、それが機能しているとなれば、それは生命のキーとなる部分が合成された、人工生命と呼べる可能性があります。もしそのDNAが細菌ではなく、もっと複雑なDNAを持つ生物であったら、どうなるでしょうか。そんな疑問を多くの人が持つのではないでしょうか。哺乳類、あるいはヒトになったら、という危惧ももちろんあります。
 節度ある研究が必要なのですが、実は今回の研究グループはいろいろ話題の多い人が指導者なのです。続きは次回としましょう。

・香川徳島へ・
ここしばらく晴れ間が見えても、
すぐに雨や曇ったりします。
はっきりしない天気なので、
日程を立てづらくずっと悩んでいたのですが、
来週、香川と徳島にでかけることにしました。
昨日、宿をすべて手配しました。
海岸沿いをめっぐて、
その後中央構造線沿いをいくつもりです。
天候しだいなのですが、
なんとか予定通りいきたいものです。

・友人の来訪・
先週末に、友人が私のところを訪ねてくれたのですが、
たままた私が不在のときでした。
非常に残念でしたが、
週明けにすぐにその友人と連絡をとりました。
友人は松山に在住なのですが、
奥さんの実家が隣町なので
わが町も時々通るとのことです。
また、学生の調査でこらから時々来るそうです。
日程は未定ですが、今度調査の折には
付き合うことにしました。
また松山のほかの友人にも会うことにしているので
いずれ松山にいくことにしました。
会えそうで会えないのは、歯がゆいものです。
近くて遠いのは、友人なのかもしれません。
意図しないとなかなか会えないものですね。

2010年5月20日木曜日

2_85 獣脚類が祖先:恐竜から鳥へ4

 現在の説では、獣脚類が鳥類の祖先だとされています。また、始祖鳥も鳥類と同じ祖先ですが、現在の鳥類は栄えてきますが、始祖鳥は絶滅したと考えられています。まあ、これも現状での説ですが。

 そもそも恐竜が鳥類の祖先であるという説は、今まで述べてきた化石になりやすい骨格だけでなく、珍しいですが羽毛の化石がみつかったことだけが証拠ではありません。恐竜の卵化石を詳しく観察して、鳥類の卵と同じように、多層微細構造をもつことがわかりました。2005年にマジュンガトルスという恐竜の脊椎骨の化石の研究から、鳥類のような気嚢をもっていたということが言われています。前にも紹介しましたが、いくつかの根拠から、恐竜にも恒温性があったこともいわれています。このような根拠から、今では研究者も、恐竜は鳥類の祖先であると信じています。
 どのような恐竜が、鳥類の祖先なのかについては、いくつかの説があります。
 三畳紀(2億5100~1億9960年前)ころの樹上性の小型の四足歩行をした原始的な主竜類(祖竜とも呼ばれる)を祖先とする説、古生代末から中生代前期の二足歩行をした地上性の槽歯類を祖先とする説、もっと後の二足歩行をする獣脚類という恐竜類を祖先とする説などがありました。
 その後、鳥類の特徴をもった恐竜の化石や原始的な鳥類の化石などが、発見されてきたことも紹介しましたが、それによって前回紹介した槽歯類を祖先とするダイノバード説は否定されました。また、アメリカの古生物学者のオストロムは、1973年、恐竜の獣脚類にも鎖骨があることを見つけ、獣脚類から鳥類が進化したという説を復活させ、現在ではこの説が定着しつつあります。
 恐竜は、大きく鳥盤目と竜盤目の2つの系統に分かれ、竜盤目のうちの竜脚類と獣脚類に別れ、いくつかの枝分かれをしながら、最終的にジュラ紀後期に鳥類の直系の祖先がでてきます。鳥類の祖先は少なくとも2系統あり、ひとつは現在の鳥類へ、もうひとつは始祖鳥になりました。始祖鳥の系統は、残念ながら子孫の化石が見つからないことから、絶滅してしまったと考えられています。
 以上の話は、あくまでも現状ではという但し書きがつきます。学説は、研究者がその時点まで手にした証拠によって考えた最良のものです。しかし、それは、あくまでもその時点での証拠に基づいたものです。新しい化石が発見されたら、状況は変わることは大いにあります。たった一つの化石の発見が、それまでの説に大きな変更を迫ることもあります。
 これからの大発見に、期待したいものです。これこそ科学の醍醐味でもあるのですから。

・科学の進歩・
恐竜から鳥のシリーズはとりあえず
今回で、いったん終了とします。
恐竜の発掘は、現在も世界各地で続けられています。
特に中国やモンゴルでは、新しい発見が続いています。
そんな発見の中で、今までの学説を覆すものも
出てくるかもしれません。
そんな発見は、現在の説を唱えいている人には
心穏やかではないかもしれませんが、
それも、学問の進歩の一形態ですから歓迎すべきでしょう。

・足摺行・
先日、愛媛から半時計周りに
足摺岬を一周し、四万十川を経由してもどってきました。
4日間をかけて巡りました。
ただ走るだけなら、2日ほどで
走破できる距離かもしれません。
でも、ここぞともうところを
じっくり見ることが私の目的です。
地層をみて、いろいろ思うところがありました。
まあ、それは別の機会にしましょう。

・山派・
ところで、山派と海派に分けるとすると
私は、山派です。
海沿いの景色は、私にはまぶしすぎます。
それに比べて川沿いは川面を渡る風は涼しく、
暑くとも木陰が涼をもたらしてくれます。
四万十川沿いを走って非常に心地よい思いをしました。
自宅から1時間足らずでそんな環境があります。
これから、時々出かけましょう。

2010年5月13日木曜日

2_84 ダイノバード:恐竜から鳥へ3

(2010.05.13)
 古生物学は、まず化石の発見から研究がスタートします。たくさんの化石がみつかれば、いろいろなことが分かってきます。ところがダイノバードという生物は、化石も見つかっていないのに提唱されたことがありました。それは、ミッシング・リンクですが、架空の化石でした。

 鳥類とは、そもそもどのような特徴をもっている動物をいうのでしょうか。私たちがよく知っている鳥(分類学上は鳥綱になります)の特徴は、羽毛に覆われ、羽があり、卵を産み、恒温性で、歯がなくくちばしをもち、声を出すというところでしょうか。これらは、分類学上も重要な特徴です。
 でも、このような特徴は鳥類だけのものでしょうか。前回までで紹介したように、羽毛をもち、羽を持つ恐竜の化石は見つかっています。もちろん恐竜は卵を産むことは化石からもわかっています。また、くちばしは、恐竜の獣脚類(オルニトミムス、オヴィラプトルなど)でも、鳥盤類(カモノハシ竜、角竜など)の多くが、持っていたことが分かっています。
 ただ、恒温性については、まだ決着をみていません。なぜなら、恒温性は化石から判別できないからです。しかし、根拠となりそうな重要な証拠があります。アメリカの古生物学者オストロム(John H. Ostrom)が、1964年にディノニクス(Deinonychus)という恐竜の化石を発見しました。そのディノニクスが、重要な証拠になっています。
 ディノニクスは、体長が2mから4mほどで、2足歩行をする恐竜でした。その特徴は、大きく鋭い鉤爪、そして大きな脳を持っていることでした。前肢もよく動くことが化石からわかり、鋭い鉤爪は狩をする肉食獣の特徴です。脳が大きいことから知能が高かったと考えられます。さらに、ディノニクスの化石は、いくつもの個体が集まってみつかることから、群れで暮らし、狩も共同でしていたと考えられました。
 このような活発な行動をする動物は、恒温性がなければならないとして、オストロムやその弟子のバッカー(Robert T. Bakker)は、恐竜の恒温説を唱えました。
 まだ、恐竜の恒温性を持っていたかどうかは不明ですが、科学者によっては恒温説を唱える人もいるわけです。
 以上見てきたように、個々の特徴を比べていくと、恐竜と鳥はよく似ていることがわかります。
 鳥類が恐竜の類似性は、古くから知れていました。ダーウィンの進化論に賛同し急進的に広めようとしたことで有名なハクスリーは、恐竜から鳥が進化したとすでに主張していました。
 しかし、当時知られていた恐竜の化石には鎖骨がなく、鳥類にはあることが問題でした。解剖学的には、恐竜から鳥類が進化したと考えるには、無理があるということになります。その問題を解決するために、恐竜と鳥類の共通の祖先(古生代末に誕生した槽歯類)から進化したという説(ダイノバード、dinobird)、あるいは鳥類のほうが先に誕生して恐竜があとから進化してきたという説(BCF仮説、Birds came first hypothesis)などが提唱されました。
 しかし、これらのダイノバード説は現在では否定されています。その証拠を見つけたのも、やはりオストロムでした。それは次回にしましょう。

・調査・
こちらに来てやっとまとまった調査に
出ることになりました。
高知県の西部を調査しています。
3泊4日で見て回っています。
北海道からすると、近いので、車ですぐにいけます。
天気を見ながら、晴れが続きそうなときに
宿を予約してさっといけます。
これが近場のメリットです。

・母の日・
皆さんは先週末の母の日になにかしましたか。
私は、電話をしただけでした。
電話をしたら、法事で、親戚にいっているときで、
何人もの人に電話で話をすることになりました。
知っている人ばかりなのですが、
懐かしい人の声も聞けました。
弟も一緒に法事にいっていたのですが、
母とその姉妹の親戚とたくさん話しました。
これも親孝行なのでしょうかね。

2010年5月5日水曜日

2_83 羽毛恐竜:恐竜から鳥へ2

 始祖鳥をめぐっては、議論が二転三転しています。鳥類の祖先であるなしをめぐって長年議論されています。それは、化石の保存の良さによるものです。ゾルンホーフェン以外からも保存のよい化石が見つかるようになり、鳥の起源については、いろいろ情報が加わるようになりました。


 始祖鳥の化石は、1855年に発見され、1861年に記載され科学者たちが知るところになりました。19世紀中ごろといえば、科学の歴史に少しでも詳しい人なら、ダーウィンの「種の起源」の出版された時期と思うでしょう。「種の起源」の初版がでたのは、1859年11月24日でした。
 ダーウィンは始祖鳥化石の発見のニュースは聞いていたかもしれませんが、出版の時期にあたります。科学的な記載がなされていなかったのか、それともこのニュースをしらなかったのかわかりませんが、ダーウィンは初版の中では、始祖鳥についてはふれていません。しかし後の版では、爬虫類と鳥類を繋ぐ発見として評価したしたそうです(手元には初版の日本語訳しかないので確認してません)。
 では、始祖鳥が、恐竜と鳥類のミッシング・リンクとなるのでしょうか。それが、なかなか一筋縄ではいかないところなのです。
 まず、始祖鳥は、鳥類より恐竜の獣脚類(恐竜の2大グループ竜盤目のひとつ)に似ている特長がいくつもりました。ただ、決定的な違いもありました。それは、恐竜にはない羽と叉骨(胸骨を固定しているしている骨)の存在でした。ところが、当時の恐竜の化石がまだたくさんの種類が発見されていなかったため、恐竜の多様性が充分おさえられておらず、始祖鳥と恐竜の違いが強調され、現在の鳥類の祖先ではないとされたこともあります。
 恐竜の多様性が分かるにつれて、恐竜にも上で述べたような鳥類がもつような特徴のある化石が見つかってきました。
 アメリカ合衆国のテキサス州で始祖鳥より7500万年も古い(三畳紀の2億2500万年前ころ)「プロトエイビス」という化石が、1986年に発見されました。この化石は、骨が中空であること、竜骨突起というものがついた胸骨をもつことなど、現在の鳥に似ていました。しかし、現在の鳥類の祖先ではなさそうです。
 また、1996年、中国遼寧省からシノサウロプテリックスという羽毛も持った恐竜が見つかりました。羽毛恐竜の発見です。ただし、この化石は白亜紀前期(1億2000万年前ころ)のもので、始祖鳥よりずっと新しい時代でした。実はこれはかなり深刻な問題で、祖先ともいうべきタイプが、時代が新しいのです。これは、非常の矛盾したことになります。
 しかし、2009年に、中国東北部にあるジュラ紀後期(1億6100万年~1億5100万年前)の地層から、トロオドンという肉食恐竜の仲間で、羽毛を持った恐竜が見つかりました。これで、やっと始祖鳥より古い時代に、恐竜の仲間に羽毛をもったものがいたことになりました。
 恐竜の多様性は大きく、その中には現在の鳥の特徴をもった種類が何度か出現していたようです。その多様性が起こりだしたのは、ジュラ紀中期ころからではなかいかと考えられています。
 では、始祖鳥と現在の鳥との関係は、またそもそも鳥類といったいどのような特徴をもったものをいい、いつのどの系統から生まれたのでしょうか。それは次としましょう。

・種の起源・
ダーウィンの「種の起源」は正式には、
"On the Origin of Species by Means of Natural Selection,
or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life"
という長いタイトルの本です。
現在では
「自然選択、もしくは生存競争における適者生存による種の起源」
とでも訳すのでしょうか。
当時の本は、通常このように長いタイトルが付けられています。
また、本の中の章立ても長いもので
文章となっていることもあります。
私は、渡辺政隆訳の光文社古典新訳文庫『種の起源』(上下)
を手元においています。
実は、始祖鳥の記載が種の起源にないが
さんざん探したのですが、
初版なのでないことが、あとで判明しました。

・運動・
長いゴールデンウィーク、
皆さんはどのように過ごされたでしょうか。
私は、地域の祭に2日、
1日は近所の子供と化石採りに出かけました。
あとは、おとなしく仕事をしていました。
運動もしっかりやっています。
執務室まで、片道1.5kmほどあるのですが、
歩いて通っています。
また、夕方は、温泉プールがあるのですが、
そこの年会員になっています。
毎日夕方ひと泳ぎして、
シャワーもしくは温泉にはいって
帰るようようにしています。
来週から天候を見ながら調査をはじめようかと思っています。
論文を書くことも重要な仕事なので、
抜かりなく進めていきたいと思っています。

2010年4月29日木曜日

2_82 始祖鳥化石:恐竜から鳥へ1

 「恐竜は、白亜紀末ですべてが絶滅したのではない。子孫が鳥類として生き残っている」という話は、それほど真新しい話題ではありません。この内容が、今ではだいぶ普及して、多くの人が知るようになったようです。でも、なぜそのようなことがいえるのでしょうか。その理由をみていきましょう。

 恐竜の化石が、日本の各地でいくつも見つかるようになり、恐竜は馴染みのある存在になりました。博物館でも、何年かごとに行われる恐竜展でも、実物を目にしことがある非常にポピュラーな存在になりました。恐竜の新情報もメディアに登場することも多くなりました。このように恐竜に関する情報が広く伝わるようになると、正確な情報も広がります。そんな一つに鳥類が恐竜の子孫であるという説があります。今回は、その説についてみていこうと思います。
 現在までに、始祖鳥の化石は、10個発見されていますが、すべてドイツの南部のゾルンホーフェン近郊から見つかっています。そのうち2個は残念ながら行方不明になっています。
 ゾルンホーフェンは、ミュンヘンの北にある町で、古くから石灰岩を建材用に採石をしてる地でした。18世紀になると、石版印刷(リトグラフ)のために、ここの石灰岩が適しているため、たくさん採石されました。始祖鳥の化石は、そんな石灰岩の採石中に見つかりました。
 最初の始祖鳥化石は、1855年にみつかっていたのですが(ハールレム標本と呼ばれています)、その記載は1875年にドイツの古生物学者であるヘルマン・フォン・マイヤー(Hermann von Meyer)によって記載されました。記載されてはじめて化石は世に出ますので、世界中の研究者が引用することができます。ハールレム標本は、発見が一番早かったのですが、記載が遅れてしまいました。
 ハールレム標本の発見から5年ほど遅れて1860年に見つかったものが、1861年に、同じくフォン・マイヤーによって最初に記載されました。この標本が、タイプ標本なりました。タイプ標本とは、新種と定義するための記載の根拠としている標本のことです。現在この化石は、ベルリンのフンボルト自然史博物館に保管されています。
 タイプ標本発見の直後の1861年に、頭部が欠落した始祖鳥がみつかり、イギリスの古生物学者リチャード・オーウェン(Sir Richard Owen)が1863年に記載しました(ロンドン標本)。他にも、1876年(1877年とも)発見のベルリン標本は、頭部までの残っているもっとも保存のよい化石があります。その後始祖鳥の発見は、20世紀中ごろまでとだえます。
 さて、この始祖鳥を産した石灰岩は、中生代のジュラ紀後期キンメリジアン(Kimmeridgian、1億5560万から1億5080万年前)に形成されたものです。始祖鳥以外にも、エビ・魚・カブトガニ・アンモナイト・ウミユリ・トンボ・ナナフシなど、1000種ほどの化石が発見されています。当時のゾルンホーフェンは、サンゴ礁の化石などもあることから、暖かいラグーン(礁湖)のような環境であったと考えられています。
 始祖鳥が発見されたジュラ紀は、恐竜が生きていた時代にです。鳥の祖先の始祖鳥と恐竜は同時期に生きていたことになります。さて、19世紀中ごろの始祖鳥の発見は、学問の上でどのような影響があったのでしょうか。それは次回としましょう。

・天候不順・
今年は、天候不順の春です。
野菜への影響が強く現れています。
今後、稲作への影響も気になります。
不作にならなければいいのですが。
アイスランドの火山噴火による気象への影響も懸念されます。
そんな、不安を抱えたままの春ですが、
さすがに、晴れると心地よい春めいた空になります。
愛媛の山里の空は、北海道の突き抜けるような青空とは違って、
しっとりとした湿度を感じる青空です。
それは、森や山の緑越しに眺めるせいでしょうか。
こんな青空もいいものです。
早く気候が落ち着いてもらいたいものです。

・日本の心・
いよいよゴールデンウィークになりました。
私は、愛媛の山暮らしですが、
地元の行事にでるだけ顔を出すようにしています。
そこには、地域の人々に守られ、継続してされてきた
習慣や風俗が息づいています。
それは形骸化することなく、
あるべきものとして存在しています。
神社や寺はいまだに信仰の対象として祭られ、
実際に利用されています。
ここでは、昔ながらの日本の心が
残されている気がします。
行事に参加するということは、
そんな日本の心に触れることかもしませんね。

2010年4月22日木曜日

3_89 ダイヤモンドアンビル:マントル7

 今回は、マントルシリーズの最後ですが、最新の情報をお届けします。それは、地球内部のあらゆる場所の物質合成実験が可能になったというニュースです。ダイヤモンドを使った手のひらサイズの実験装置です。そんな小さなものが偉業を達成したのです。

 高温高圧発生装置を利用したマントルの再現実験は、上部マントルからマントルの遷移層までの条件は達成できていました。しかし、もっと深部となるとなかなか難しいものです。なぜなら、同じタイプの装置でより深部を再現するには、高圧を発生しなければなりません。そのためには装置が大きくなります。また、温度を上げると保持する材質が高圧に耐えられなかったりして、なかなか困難なものとなっていました。
 それを克服する試みはいろいろなされてきたのですが、最新の話題として、東京工業大学の廣瀬敬さんを中心として開発された高温高圧発生装置を紹介しましょう。
 その装置は、それほど大きくありません。手のひらに乗るほどのサイズです。ダイヤモンドを利用する方法です。ダイヤモンドはそれほど大きくはありません。ダイヤモンドを二つ、先端のとがった方を同士を合わせて圧力をかけます。
 ハイヒールで足を踏まれると、普通の靴で踏まれるより、ものすごく痛いものです。それは、ハイヒールを履いた人の体重が、ヒールのとがったところにすべてかかると、その圧力は大きなものになるためです。このハイヒールの原理を利用するわけです。ダイヤモンドアンビル超高圧発生装置とよばれるもので、以前から利用されていました。この装置は、以前から高圧発生装置の中でも、もっと高圧を発生させられるものとして、利用されてきました。
 高価にも関わらずダイヤモンドを利用するのは、高圧を発生するために硬いので適しているのですが、そのほかにもいろいろメリットがあります。ダイヤモンドは透明なので、光を通すという特性が利用できることです。
 ダイヤモンドアンビルの場合、狭いところなので熱をどう発生するのかが問題となります。その問題をレーザーを使って解決しています。レーザーを透明なダイヤモンドの中を通して、先端の試料に照射して温度を上げてきます。これで、ある程度温度の問題も解決できました。問題は、どこまで温度や圧力を上げられるかです。
 特に圧力は狭い範囲にする必要があるので、固いダイヤモンドを精巧に加工する必要があります。廣瀬さんは、ダイヤモンドの先端を40μmほどの直径の円形の平坦な面をつくり、そこに20μmの試料をつめて実験を行います。そこまで加工精度を上げられたことが、廣瀬さんが長年取り組んできた成果でした。
 20μmの試料というのは非常に微小です。しかし、入舩さんも利用したSPring8での強力X線を用いることで、そのような小さなものの構造解析が、高温高圧を発生したままでおこなえるようになりました。
 廣瀬さんは、これまでに、ダイヤモンドアンビルの改良を加えながら、発生圧力を上げてこられました。2008年4月には、マントルの最下部の条件を達成しています。そこには、電気の通りやすい層(高電気伝導層と呼ばれています)があり、その層が地球の自転速度を変動させていることを明らかにしました。
 そしてとうとう、2010年4月5日に、広瀬さんたちは、364万気圧、5550℃という人類未踏の条件での実験に成功しました。実は、この条件は、地球の中心部(364万気圧、5000℃以上)を越えるのもでした。この小さなダイヤモンドアンビルのおかげで、地球内部のすべての条件を、再現することができるようになったのです。もちろん広瀬さんたちの技術をもってしてですが。この技術を利用して、今後いろいろな成果が出されることになるはずです。期待したいものです。

・シリーズが終了・
今回でマントル・シリーズが終了です。
本当は、マントルの全貌を紹介するために
はじめたつもりだったのですが、
ついつい後半は高温高圧発生装置の話になりました。
それは、4月になってすぐに
廣瀬さんの研究成果の発表があったためでした。
また、すでに報告されていた入舩さんたちの成果も
紹介してなかったことあって、
ついつい話が変わっていきました。
まあ、最新情報を織り込んでいますから、
ご容赦ください。

・ミクロとマクロの融合・
小さなダイヤモンドを利用する実験手法です。
しかし、そこには硬いダイヤモンドを、
高精度に加工し、レーザーを絞り正確に照射するという
最先端技術が必要になるあずです。
そして、なんといってもSPring8という大型の装置も
不可欠でした。
このシリーズで紹介したものは、
すべてミクロとマクロの融合してはじめて達成された技術です。
これらは、日本が世界に誇れる技術だと思います。

2010年4月15日木曜日

3_88 メガリス:マントル6

 マントルの遷移層までの実態が明らかになってきました。その物質は、よく知られているものでしたが、予想外の広がりをもって横たわっていました。それを解明したのは、SPring-8という巨大な装置でした。

 SPring-8を用いた入舩さんたちの実験を紹介している途中でした。それを続けましょう。
 入舩さんたちは、高温高圧条件においたマントル物質に、強力なX線をあてて、試料の長さを正確に測定しました。また、超音波を用いてその試料を通過する時間も正確に測定しました。この2つの測定データから、長さ/時間=速度ですから、その物質を波(弾性波)が伝わる速度を精度よく決めることができます。この弾性波速度が、地球では地震波速度に相当します。つまり、入舩さんたちは、マントル遷移層の地震波の様子を実験で再現することに成功したことになります。
 いくつかの候補の物質を用いて実験し、そこから求めた弾性波速度と、実際の地球の地震波速度を比べました。すると、マントル遷移層も上部マントルと同じカンラン岩であることがわかりました。その結果、遷移層が柘榴石が多いという説が否定されたことになります。これで、マントルの化学組成の問題がかなり限定されたことになります。
 また他にも、新たなことが分かってきました。遷移層の下部には、従来から想定されていたマントル物質ではない、ハルツバージャイトと呼ばれるカンラン岩があることが明らかになりました。
 ハルツバージャイトとは、カンラン岩の一種だですが、少々特殊で、普通のカンラン岩から玄武岩の成分が抜けたものです。このようなハルツバージャイトは、玄武岩組成のマグマである海洋地殻が抜けたあと、その下にあるマントルを構成していると考えられています。つまり海洋プレートの主たる成分と同じものが遷移層の下部にあるようなのです。
 これは沈み込んだ海洋プレート、メガリスと同等にものであると考えられます。メガリス自体は、地震波でもその姿は捉えられています。
 今回の入舩さんたちの報告は、メガリスの存在根拠を見つけただけでなく、実は重要な問題提起もしています。メガリスの成分(海洋プレートの残骸)が、深度650kmあたりに全地球的にたまっていることになります。
 しかし、メガリスは、沈み込み帯の先に形成され、ある一定時間が経過すると、下部マントルに落下していくもので、全地球的にあるものとは考えられていませんでした。地震波のデータもメガリスは一時的にある場所に形成されているように見えていました。
 ところが、入舩さんたちのデータは、全地球に数10kmから100kmの厚さで、ハルツバージャイトの成分があることを示しています。これは、メガリスが、すべて落ちてしまうのではなく、一部がマントル遷移層下部に残ってしまうことを意味しています。それが、長年にわたって蓄積されたため、プレートの墓場の層ができているのではないかと考えられます。これも、今後のさらなる検討が待たれます。
 入舩さんたちの高圧発生装置は遷移層までの条件しか到達できませんので、下部マントルについてはまだ実験がされていません。しかし、別の方法で、もっと深部まで実験に挑んでいる人たちもいます。それは次回としましょう。

・新たな謎・
入舩さんたちは、上部マントルと遷移層が
カンラン岩からできていることを示しました。
それは、マントルの上半分が化学組成に
大きな違いはないことを示しました。
一方、遷移層下部がハルツバージャイトであることを示し
化学的に不均質があることも示しました。
沈み込んだプレートがメガリスとして
マントル対流が完結させるはずでしたが、
しかし、地球はどうも残渣をマントルの境界に残していたようです。
その数10kmの残渣を科学者は捕らえたのです。
今までの議論があったところは解決したのですが、
新たな謎を提示したことになります。
こんな繰り返しが、科学の進歩といえます。

・日常・
やっと研究の態勢が整い、
日常と呼べるものが始まりました。
校務の束縛がなく、
やりたいことを中心に生活ができる幸せを感じています。
家族と離れる寂しさがありますが、
メールと家族間の無料通話で連絡を取っています。
やるべきことも進めなければなりません。
それは、深く考えて論文を書くことと、
調査のために野外に出ることです。
しかし、野外での地質調査は、
5月以降から始めるつもりですが、
市内のいろいろな名所や風物を
見て回ることも目的としています。
その散策も日常に組み入れる必要があります。
それも考えているところです。

2010年4月8日木曜日

3_87 SPring-8:マントル5

 マントルの様子を、直接見ることは不可能です。しかし、マントルの条件を、実験室で再現していけば、間接的ですが、マントルを垣間見ることはできます。さらに、SPring-8を利用すれば、マントルの条件のままで、覗くことも可能なのです。

 温かいマントル物質が上昇していくものをホットプルーム(正式にはスーパーホットプルームと命名されています)と呼び、冷たいプレートが沈み込んで落ちていくマントルの流れをコールドプルーム(こちはスーパーはつきません)と呼んでいます。これらのプルームが、なぜ、670km付近で留まるのでしょうか。それには、マントルの構造と鉱物学的な理由があります。
 地球内部は深さとともに、温度と圧力が上昇していきます。鉱物は、温度や圧力が増すと、よりコンパクトになるために結晶構造を変化させて、高密度の結晶になっていきます。そのような変化を、結晶の相転移と呼びます。
 マントル物質はカンラン岩と呼ばれるもので、地上で見られるカンラン岩は、カンラン石や輝石を主として、長石などを少し含んでいます。カンラン岩を構成する鉱物は、結晶ごとに相転移の温度圧力条件が変わります。相転移は、深度400kmあたりから起こり始めて、670kmあたりまでで終了します。カンラン岩を構成する結晶の相転移がおこっているのゾーンを、マントル遷移層と呼んでいます。
 このような遷移層は地震波でもみえているため、地震波から物質の密度が推定されるのですが、その密度を満たすものはどのような物質であるかが、いろいろ推定され、議論されてきました。
 マントルのカンラン岩は、一様ではなく、上部マントルと遷移層、下部マントルでは、化学組成が違うのではなかという説もあります。それは、密度を満たすために推定した物質は、結晶の組み合わせによっていくつかの考え方ができたためです。
 たとえば、カンラン石の多いカンラン岩(パイロライト、pyrolite)という説と、柘榴石(ガーネットの高温高圧タイプのメージャライト)の成分が多い岩石(ピクロライト、piclogite)という説もあり、決着をみていませんでした。
 そのような疑問に対して、愛媛大学地球深部ダイナミクス研究センターの入舩徹男さんたちと高輝度光研究センターの肥後祐司たちのグループが、高温高圧発生装置とSPring-8を使って調べました(Nature 2008.2.14)。SPring-8は、高温高圧装置が作動中でも、その中を通り抜けていけるほどの強力なX線を発生することできます。SPring-8を用いれば、高温高圧をかけた状態の結晶を観察することできます。つまり、高温高圧発生装置が再現しているマントルの条件で物質がどのような状態にあるかを測定できるのです。
 以前の高温高圧発生装置を用いた実験では、物質を高温高圧状態にしたのち、常温常圧にもどして、その物質の性質を調べていました。ですから、本当の高温高圧状態でその物質の性質が信頼できるのかという不安がありました。また、測定できない物性もありました。それを入舩さんたちのグループが、SPring-8を用いて解決していたのです。
 その成果については、次回紹介しましょう。

・日々精進・
四国に引っ越してきて1週間ほどが過ぎました。
やっとインターネットも開通できました。
メールの受信は大学のメールサーバからもできたのですが、
送信だけはいろいろ試したのですが、できませんでした。
データ通信の契約しているプロバーダー経由なので、
そこからの送信がうまくいかないようです。
仕方がないので、以前からメールの保存用に利用していた
WEBメールのGmailを利用して送信するようにしました。
送信と受信が別々なので少々わずらわしいのですが、
しかたがありません。
新生活は、わくわくして、今までできなかったことをはじめたり、
これからやっていきたいことに胸がわくわくしています。
でも、やはり重要なことは、
せっかくもらった時間を有効に利用して、
成果を上げることだと思っています。
そのためには、日々精進しかないですね。
これは、いつもの生活での心がけと同じですね。

・反面教師・
今回紹介した研究の中心人物である入舩さんは、
大学院時代の先輩でした。
当時、寡黙ですが淡々と仕事を進めていく、
非常に頭のきれる人でした。
そして必要とあらば新しい世界に思い切りよく飛びこみ
新しい道具などもすぐに取り入れられる能力もありました。
彼に比べると、自分の才能のなさを痛感したものです。
私も負けずに何度か新天地に飛び出しました。
その後も、自分なりに地道な調査をしたり、
人があまり考えない視点で
しつこく喰らいつくような研究を目指していきました。
入舩さんは、私にとっていい意味での
反面教師だったのかもしれませんね。
そして今回の新天地でも研究を進めたいと考えています。

2010年4月1日木曜日

3_86 プルーム:マントル4

 マントル対流とは、プルームの上下運動がその原動力となっています。プルームは、定常的な流れではなく、大量の物質がある時期大規模に移動することが、実体でした。その運動に基づいて地球の営みが再構成されてきました。プルームとは何で、何を明らかにしてきたかを紹介しましょう。

 地震波トモグラフィーをみると、670kmあたりにプルームの滞留場所があります。670kmを境に、温度の低いマントル物質がマントルの底の核に向かってと沈んでいき、温かいマントル物質が地表に向かって上昇していることがわかってきました。
 温かいマントル物質の上昇流をホットプルーム(正式にはスーパーホットプルームと命名されています)と呼び、冷たいマントル物質が落ちていく下降流をコールドプルーム(こっちにはスーパーはつきません)と呼んでいます。
 コールドプルームは、670kmあたりに一定期間留まるのですが、やがては下に向かってマントルの中を落ちていきます。670kmあたりにある巨大なコールドプルームのもとを、メガリス(megalith)や滞留プレート(stagnant slab)と呼んでいます。
 メガリスは、数千万年ほどの670km付近に滞留すると、下部マントルに落ちていくと考えられています。このようなメガリスの落下をフラッシング(flushing、トレイの洗浄の様子)といいます。地震波トモグラフィーでマントルの底に見えていた低温域が、落下したメガリスに相当すると考えられています。
 巨大なメガリスが、マントルの底に落下するというフラッシングは、大量の物質が、マントルの底に向かって流れ込むことになります。マントルの物質収支を考えると、メガリスに相当する量のマントル物質が上昇しなければバランスがとれません。マントルの底で一番上昇しやすい部分は、一番密度の小さい物質、つまり温度の高いものが上昇することになります。これがホットプルームとなります。
 ホットプルームも、670kmあたりにいったん留まります。そこから小さなプルームとして枝分かれするようにして、周辺地域にマグマ活動を起こします。これがいろいろな地質現象を説明します。
 今まで、ハワイ諸島の火山列のように8000万年以上の長期に渡って活動する火山の起源、デカン高原やシベリア、アメリカのコロンビア台地などの大量の溶岩を流す火山の仕組みなど、よくわからなかったことがあったのですが、このようなホットプルームの巨大なマントル物質があれば、説明できます。また、海嶺がなぜそこにあるのかも、下にホットプルームがあるからだという必然的な理由があったことになりました。
 このようなプルームの上下運動が、マントル対流の実体であると考えられるようになりました。マントル対流は、一様な物質の流れでははなく、間欠的な活動になっていました。そのようなマントルの運動論の全体を、プルーム・テクトニクスと呼んでいます。
 プルーム・テクトニクスは、地表付近の造山運動やマグマ活動に間欠性があることを示唆しています。その活動周期は、数千万年におよぶ長期のものですが、そのような痕跡を地質学者は確かめつつあります。
 プルーム・テクトニクスは、地表部分での大地の営みを説明するプレート・テクトニクスを内在しています。そして、マントル全体の物質循環をも説明しています。しかし、670kmあたりで見つかった新事実によって、新たな展開を見せるかもしれません。それは次回としましょう。

・愛媛県西予・
私は、4月1日に北海道を発って
四国に向かっています。
ですから、このメールマガジンも
予約して配信しています。
このエッセイでも何度かアナウンスしていたのですが、
1年間、大学のサバティカ(研究休暇)をもらって
愛媛県西予市城川町地質博物館に所属することになります。
主には四国西部を中心とする地質調査、
そしてその成果を科学教育に活かす方法を考えることです。
しかし、一番の目的は「雑音」のない環境で
自分の研究を見つめ直すということです。
地質の哲学的な深まりを追求したいと思いながら、
なかなか深められずにいました。
いろいろの手がかりは得ていたのですが、
なかなか進まず欲求不満でもありました。
そこの部分を、この機会に深めていきたいと思っています。

・科学の進歩・
マントル対流のアイディアは、
大陸移動を最初に提唱したウェゲナー以来
その存在が考えられていました。
そしてやっと実体を見ることができるようになってきました。
それは、いわゆる「対流」とは、少々違っていました。
しかし、その「対流」は、戸惑いを誘いますが、
最終的にはより確かな実体を見ることになりました。
理論はあるとき完成するわけではなく、
新しい事実、特に理論に合わない事実が、
新しい理論へと導きます。
このような理論と事実の積み重なりが
科学の進歩なのでしょうね。

2010年3月25日木曜日

3_85 トモグラフィー:マントル3

 断層撮影は、体を傷つけることなく、体内を見ることができます。非常に優れた技術です。一種の非破壊検査ともいうべきものですが、その原理を地球と地震波を利用しておこなわれています。地震波トモグラフィーと呼ばれています。地震波トモグラフィーが見せてくれた地球内部を紹介します。

 プレート・テクトニクスの原動力は、地球内部の熱が外に出ようとするマントル対流です。そのマントル対流が、地震波トモグラフィーという手法で見てくるようになりました。地震波トモグラフィーとは、医療で使用されているような断層撮影(Tomography)を、地震波でおこうものです。
 地震波トモグラフィーは、現代の地震学の基礎を築いた安芸敬一(当時マサチューセッツ工科大学教授)が、1978年にカリフォルニアで上部マントルに用いたのが最初でした。1980年代になると、コンピュータの進歩と地震計波測網の発達などによって、地球全体の地震波トモグラフィーがおこえるようになりました。現在においても、まだ海洋域の地震観測は陸地に比べる手薄になっていますが。
 地震波トモグラフィーは、地震波の性質を利用しています。地震波には、いくつかの種類があるのですが、固体を地震波が通過するとき、固体の状態によって地震波の伝播速度に違いがでます。その違いを精度よく測定すれば、地球内部の状態が見えてきます。
 地震波速度の伝播の仕組みから、速度が速いところは物質の温度が高く、遅いところは低くなっている、と解釈されます。いろいろな前提や仮定をおくことになりますが、地震波速度の違いが、マントルの温度の差を反映しているとみなすことできるのです。地震波速度の1%の速度差は、温度に換算すると100℃の温度差に相当することになります。
 地震波トモグラフィーによって、マントルの温度分布を見ることができるようになったわけです。プレート・テクトニクスに基づけば、プレートの下降部(沈み込み帯)では、冷たいマントル物質が落ち込み、海嶺のようなプレート形成部では、温かいマントル物質が上昇していることになるはずです。海溝や海嶺がマントル内の温度分布とが一致しているはずです。
 地震波トモグラフィーは、大雑把には、そのような結果を示しましたが、実は、もっと別の情報も含んでいました。マントル物質の下降部と上昇部の様子が、単なる対流ではないことがわかってきたのです。
 マントルの下降部では、沈み込んだプレートが、そのままマントルの底までいくのではなく、マントルの670kmあたりでしばららく留まっている様子がみえてきました。一番顕著であったのでは、日本列島の海溝で沈み込んだプレートが日本海から大陸の下部に溜まっていたのです。そして、そのさらに下のマントルの底には、まだ完全に温まっていない、かつての冷たいプレートの残骸のようなものがみえていました。
 マントルの上昇部も、単に対流の上昇流があるのではなく、温かいマントル物質が670kmあたりで留まっていました。南太平洋に大きな暖かいマントル物質があります。また南アフリカの下では、マントルの底に暖かいマントル物質があり、これから上昇しようとしているかのようなマントル物質にみえます。
 このようなマントルの姿は、どうも単純なマントル対流ではないようです。それを取り入れて、新たなテクトニクスが考えられるようになりました。

・里帰り・
現在は私は、京都に帰省しています。
このメールマガジンは予約機能によって
配信しています。
京都に帰省しているのは
長男が中学生になると、
家族そろって里帰りがしにくくなるため
最後の家族全員での帰省となるかもしれません。
その日程にあわせて、父に13回忌も行うことになっています。
まあ、うちうちのことですので、気苦労はありません。
時間があれば、京都や奈良も回りたいのですが、
子供たちは、初日と2日目に行く予定の
海遊館と大阪城が一番の目的でもあります。

・法要・
父が死んで13年目となります。
長男が生まれてすぐ3ヶ月に
病床の父を見せに帰省しました。
3回忌には次男の誕生を見届けて
すぐに私は長男だけを連れて帰省しました。
7回忌は、長男の入学式でした。
父の死やその法要と、我が家の節目の年が
重なっています。
たまたまなのですが、
子供たちに父の影を見てしまいます。

2010年3月18日木曜日

3_84 水平か上下か:マントル2

 かつて、大地の営みは上下運動によって説明されていました。プレート・テクトニクスの登場によって、水平運動によって説明されるようになりました。プレートの運動は、地表で見ると水平運動に見えますが、マントルまで含めてながめると水平運動だけでなく、上下運動も含まれています。

 マントル最上部と地殻が、硬い岩石(リソスフェア)のプレートとして振舞います。プレートの下にあるマントルは、可塑性がある岩石からできているアセノスフェアと呼ばれています。アセノスフェアの上を、プレートがスムースに動くことができるます。リソスフェアとアセノスフェアによるプレートの動きが、プレート・テクトニクスとして体系されて、地球の表層における大地の営みの原理だと考えられています。
 プレート・テクトニクスは、地向斜とよばれるテクトニクスのアンチ・テーゼとして、1960年代後半に登場してきました。テクトニクスとは、大地の営み(運動)の仕組みのことで、運動論とも呼ばれています。
 地向斜テクトニクスとは、大陸内で堆積物がたるような盆地(これが狭義の地向斜のことです)の沈降運動から始まります。地向斜が堆積物がたまってくると、その重さで地向斜はますます沈降します。堆積物が厚くなってくると、地向斜の深部が高温高圧になり火成作用や変成作用がおこします。マグマの活動で、地向斜は上昇運動へと転換します。この上昇運動が山脈を形成していきます。このような山を形成する運動を造山運動と呼びます。地向斜形成に端を発し、造山運動にいたる運動論を、地向斜テクトニクスと呼びます。
 一方、プレート・テクトニクスは、地表では、プレートが水平運動するという考えで、大地の営みを説明することになります。プレート同士の衝突で造山運動を説明することになります。厚い堆積物は、沈み込み帯における付加体で説明されます。プレート・テクトニクスの提唱当初は、地向斜テクトニクスと論争が起こり、水平運動と垂直運動の対立ともいわれました。
 地向斜テクトニクスに対して、新しくプレート・テクトニクスが提唱されるに当たり、いくつかの理由がありました。
 ひとつは、地向斜テクトニクスでは説明できない現象があったことです。たとえば、上下運動の原動力の問題です。地向斜の下降運動や花崗岩の上昇運動の原動力を、浮力(もしくはアイソスタシー)で説明しようすると、どちらかの運動で矛盾をきたします。
 もうひとつは、新しい証拠として、海底探査によって得られたデータありました。海嶺やトランスフォーム断層などの海底固有の地形が発見されたり、海底の古地磁気の探査によって海嶺に対して対称な縞模様が発見されたりしました。
 地向斜かプレートかで、当初いろいろ論争があったのですが、上述のような理由に加えて、超長基線電波干渉計(VLBI:Very Long Baseline Interferometer)と呼ばれシステムで、年間数cmから十数cmという非常に小さいなプレートの動きが、測定できるようになりました。まさに、プレートの水平運動が実測されたのです。
 これらの証拠や根拠によって、プレート・テクトニクスは、その地位を不動のものにしました。
 プレート・テクトニクスの原動力は、地球内部の熱が外に出ようとする、対流という単純な原理に基づいています。プレートの動きは、地球表層では、水平運動にみえますが、地球全体を通してみると、マントル物質の対流による上下運動が不可欠なものになります。ですから、マントル深部まで考えると、プレート・テクトニクスは、マントル物質の上下と水平の両方の成分を持った運動ということになります。
 ところが、肝心のマントル対流は、なかなか見ることができませんでした。地震波を用いた地震波トモグラフィーと呼ばれる手法ができて、やっと対流の証拠となるようなものが見えるようになってきました。それは次回としましょう。

・旅立ちの季節・
いよいよ3月も半ばが過ぎて
卒業のシーズンとなりました。
今日は長男の卒業式ですが
私は所用で出席できません。
明日は、大学の卒業式です。
それには、校務ですから出席しなければなりません。
その後の、謝恩会が2つも連続でありますが、
いずれも出席することになります。
3月は旅立ちの季節です。
皆さんの周りでは、
旅立ちがあるのでしょうか。

・年度末・
今週末から、京都への帰省をします。
途中大阪に立ち寄ります。
そして、3月最後の週は、
引越しがあり、どたばたになりそうです。
3月下旬の帰省とどたばたのために
原稿を書きだめておかなければなりません。
また、研究費の申請も取り急ぎすることになりました。
まあ、いつものごとくあわただしい年度末になりそうです。

2010年3月4日木曜日

6_79 持続可能:エネルギー問題6

 これまで、エネルギー問題について5回にわたって考えてきました。前回と今回、最後に、解決策について検討しています。前回は、その解決策の一つを提案しました。今回は、策というより考え方、姿勢について考えていきます。問題解決には、従来のアプローチではなかなか困難のようです。原則、予測、対処、姿勢などが重要なキーワードになりそうです。正攻法ですが、問題解決の道を探っていきましょう。

 エネルギー問題の根底には、現在文明はエネルギーの多くを化石燃料に依存していること、そして有限の資源を消費すればなくなること、このような動かしがたい事実があります。この事実を受けとめ、どのような解決策を取るかということです。前回示した解決策は、物理学に反しないで、小さくて安価で効率的な発電蓄電装置を一人の天才が発明できればというものでした。実現すればいうことはないですが、現状では夢にすぎないので、現在でも目指せる目標を考えていきましょう。
 資源は、科学技術を背景にし、経済学に基づいてコントロールされています。ですから、将来見通しや見積もりには、不確定要素がどうしてもでてきます。しかし、やがてはなくなることは誰にでも理解できるはずです。問題は対処です。口で言うのはたやすいのですが、実行がなかなか大変なのが一番のボトルネックになっています。そこで科学技術や経済以外の視点で、このようなやがて来る問題に望むべきではないかと考えています。
 現在の文明が、「持続可能」な文明ではなく、消費型文明だからこのような問題が起きるのかもしれません。持続可能性にこだわるのであれば、太陽エネルギーと生物、そして循環可能な水や大気などに基づいた文明を再構築する必要があります。もちろん、その手段として、最先端の科学技術を導入し、最小限の資源物質で、耐久性のある、できれば再利用可能な道具を用いておこなうべきでしょう。
 最優先すべきは、経済性ではなく、資源やエネルギーの有効利用です。人はいったん手に入れた快適さや安楽から抜け出るのはなかなか大変でしょう。しかし、上で述べた事実を理解するのであれば、少々の苦労はしなければならないことを誰でも納得できるはずです。そのような納得を得るためには、教育による知識や教養やそして倫理観などを身につけた人が前提となります。
 人類が改変している自然環境は、実はそれほど大きなものではありません。地球はもっと大きな環境改変を行ってきました。このエッセイを読み返していただければわかるはずです。現在の環境問題は、人類の問題です。ですから、他の生物種や自然などを持ち出さなくても、自分たちの問題として考えればいいのです。エネルギー問題は、環境問題では一番分かりやすい例ではないでしょうか。
 残された資源や時間は、どれくらいか分かりません。でもたとえ長い時間が残されていたとしても、やがてエネルギー危機はくるはずです。そのときにあわてても手遅れです。資源のある今のうちに考えれば、資源を燃料としてだけではなく、多方面に使える資源として有効活用できるはずです。
 人類は、ほんの数百年前までは、太陽エネルギーと生物、そして循環可能な水や大気などに基づいた生活をしていました。今さらその時代に戻る必要はなく、科学技術を導入して、もっと安全で豊かな生活が営めるはずです。太陽エネルギーと生物、そして循環可能な水や大気があれば、生きていくの必要な衣食住はまかなえるはずです。そこにこそ、活路と、幸せや充足感を見つけるべきではないでしょうか。
 カロリーと栄養は必要最小限の量を旨とし、余すことなく、飽食することなく、足るを知りことを生活の基調とすべきでしょう。そのために、調理法や調理技術を、調理器具を駆使し、今まで蓄積してきた科学を注ぎ込むのです。エネルギー効率の悪い肉食は最小限にすべきでしょう。贅沢な食べ物なたまにしか食べられないかもしれません。それでも満足できる精神的な充足感を得るために、科学を利用するのです。
 幸福感を満たすに必要充分な衣食住を得ることが目標です。それこそ人類が一致団結して目指すべき持続可能な目標に違いありません。少々の困窮は受け入れるべきです。困窮を忍ぶために、人間性と文化を豊かにすればいいのです。
 春の心地よい草原、夏の川原の木陰、秋の紅葉に囲まれた林の中、森の雪原に残された生き物の足跡、そんな中にいるとき困窮を感じるでしょうか。癒しや心地よさを感じるはずです。忙しい時間の合間の休息、親しい友人の会話、家族との何気ない触れ合い、そんな瞬間に幸せを感じることでしょう。
 もっと精神性や文化、自然を重んじる知性を身につけ、その知性を背景にした文明を築かなければなりません。そんな社会ができ、数世代を重ねればきっと豊かな文化も育むことになることでしょう。
 ちょっとSF的な結論になりましたが、こんな解決策、未来像はいかがでしょうか。

・教育を・
現在の政治をみていると、
経済だけが議論されています。
環境問題も背景に経済があります。
人類の幸せも経済がなければ生まれないような口ぶりです。
しかし、みんなは知っているはずです。
金がすべてではないし、
金が幸せを与えてくれるものではないことを。
でも、皆、目先の金が気になってしかたがないのです。
このような精神を構造を改革する
構造改革こそ重要ではないでしょうか。
これは、もはや政治ではなく、
教育の範疇になると思います。
そしてその目標達成には
数10年でのスパンでの時間が必要となります。
教育とはそれほど、時間と手間のかかるものです。
でも、その成果は、金では得られないものです。
それも皆、知っているはずなのですが。

・燃料電池・
前回のエッセイで示した私の究極の解決策は
実は「燃料電池の仕組みそのもの」で
「エネルギー分野で最も盛んに開発が行なわれている」
ものだというご教示をSkaさんから受けました。
それに対して私は、次のような返事を書きました。

このアイディアがかなり長い期間検討され
今が旬の研究とは知りませんでした。
貴重なご指摘でした。
水素と酸素の仕組みが検討されていることは
おぼろげに知っていましたが。
それはまだまだの途上の技術や
始まったばかりの研究だと思っていました。
認識不足でした。
でももし、大きなブレイクスルーがあれば、
ものになる可能性ある思って今回のエッセイを書きました。
もちろん背景に多くに人が努力し、知恵を絞った後、
ある人のブレイクスルーを起こすのを理解したうえです。
「現実には、結局、石油から水素と酸素とを製造するのが
経済的に一番安価なのが現状だと数年前に聞きました。」
ですが、もしブレイクスルーとして触媒か特殊膜などの新素材で、
電気分解のように水から水素と酸素ができれば、
価格の問題は解決されるかもしれません。
また、大気の酸素を利用すれば、
水素だけを安全にコンパクトに保存運搬できれば、いいはずです。
たとえば、ブレイクスルーで白金やポリマーのようなものに
吸わせるとかできれば解決できるのではないか、
などいろいろ想像したわけです。
もちろん私が思いつくようなことは、検討されているでしょうが。
既存の技術ではなく、今はない理論や技術があればというのが
私の想像でのエッセイでした。
それと次回のエッセイの話題にするのですが、
「経済的に一番安価なのが」
という点を考えたいと思っています。
経済を中心にした考え方を問うことです。
現状の生活を維持することと
困窮に耐えて幸せを求めるのかという選択が
今後、重要になるということです。

というものでした。
Skaさんに対するさらなる答えが
今回のエッセイもであります。

2010年2月25日木曜日

6_78 天才:エネルギー問題5

 エネルギー問題の理想的な解決とは、どんなものでしょうか。できるかどうかはさておき、理想の解決策を考えてみましょう。解決には、一人の天才の誕生が必要かもしれません。その天才を人類は待っていられる時間があるのでしょうか。時間との勝負がはじまっているのかもしれません。

 これまで、エネルギー問題を4回にわたって考えてきました。そして、今回から2回にわたって解決策を検討したいと考えています。荒唐無稽かもしれませんが、私には解決のためにひとつのアイディアがあります。もしできれば、画期的な、そして誰もが得する解決策となります。それを紹介しましょう。
 まずは、解決のために、いろいろな条件を考えていきましょう。非常に効率的な理想のエネルギー発生装置でエネルギー問題を解決することを想定しましょう。理想の装置は、どのような仕様を持つべきでしょうか。
 利用すべきエネルギー源は、太陽エネルギーでしょう。あと50億年近くは今と同じように地球にエネルギーを注いでくれます。これがエネルギー源です。ただし、太陽エネルギーは利用しにくいので、私たちが利用しやすいエネルギーの形にしなければなりません。生成とともに、蓄積もできなければなりません。もちろん、充分なエネルギー量も必要でしょう。
 そのエネルギー装置のメカニズムは、地表を循環している物質、埋蔵量が多く使用量が少なくてすむ素材によるものがいいでしょう。たとえば、海洋の主成分の水(H2O)や空気の成分である酸素(O2)、窒素(N2)、あるいは生物の燃焼から生じる二酸化炭素(CO2)などは、地表付近を循環している物質として利用できるでしょう。
 この素材を聞いて、思い浮かぶのが、H2とO2があれば爆発的な酸化が起こるという現象です。つまり、水から太陽エネルギーを用いて効率的にH2とO2に分解でき、それを蓄積して緩やかに酸化させてエネルギーを生み出せばいいのです。廃棄物H2Oの水ですから、安全です。この仕組みが、根本的なエネルギー問題の解決になるかもしれません。
 そんな仕組みを達成する装置ができればいいわけです。ただし、装置は小型で、大量生産でき、堅牢で、安価でなければなりません。一部の金持ちや特権階級の人だけが益を得るような装置では問題解決にはなりません。人類全体の幸福に繋がらなければなりません。
 携帯電話や100円ライターのようなサイズ、価格で恒久的に利用できるものが、全世界で販売、利用されれば、エネルギー問題を解決する方法となるでしょう。その装置に水を入れ、一日太陽のもとにおいておけば、個人が2、3日使うエネルギーが確保できる。また、大型の装置を屋根につければ、その家にすむ家族が必要とするエネルギーをまかなえるものがあればいいのです。
 その装置は、科学の力を総動員して、開発していかなければなりません。太陽光をあてれば、水が簡単に水素と酸素の分解するような特殊な触媒や有機膜、新素材などを発見しなければなりません。水素と酸素を小さな装置の中に効率的に安全に充分な量を蓄積できる装置も、酸化作用から電気エネルギーを効率的に発生させる装置も、これからです。まだまだ未完成な理論、未開発の技術ばかりです。
 もしこれが究極の解決策であれば、人類はそれを目指すべきでしょう。ブレイクスルー(飛躍的な発展や進歩)をもたらすためには、今までの技術や科学の延長線ではだめでしょう。ブレイクスルーには、天才的な才能や能力が必要です。そんな人を約70億人の人類の中から、たった一人でいいから生み出さなければなりません。
 ただし、残念ながら分母は70億人の人類すべてではありません。そんな発想ができるのは、若者です。多分20歳代から30歳代の若者でしょう。これで、分母は20億くらいに減るでしょう。
 また、すばらしい発想をしたり、その発想を現実に試すためには、その日に食うに困るような環境で生活している若者では無理でしょう。さらに、飛躍的な技術や科学を生み出すためには、高度な教育を受けていなければならないでしょう。たとえば、先進国で大学や大学院での教育を受けたような人です。
 このように考えていくと、分母がかなり数億人、あるいは数千万人くらいの少ない数になっていくでしょう。もちろん、日本の大学に通っている学生は、その分母に入るでしょう。
 その天才が誕生し、なんとか装置をつくり上げても、それは非常に大きな装置になるでしょう。原理だけが実証できた状態です。製品化するためには、効率化、小型化、なにより安全性を高めるために、長い時間をかけて改良しなければならないはずです。
 天才や改良を何世代にわたって待つわけにいきません。あと何年待てるかは、エネルギー資源の残量にかかっています。もしかすると、もう時間との勝負がスタートしているかもしれませんが。
 今回は、少々理想論的な解決策でしたが、次回はシリーズの最後として、もっと根本的な解決を考えていきましょう。

・廃雪・
我が地区では、廃雪という作業が現在行われています。
これは、自治会費の積み立てと市の援助によって、
年に一回だけ、道路の雪の廃雪をおこなうものです。
廃雪とは、雪を、雪捨て場に持っていくということです。
自治体が積雪のたびにおこなっている除雪は、
道路の雪をよけるだけで、
雪を捨ているわけではありません。
道の両側に雪をよけるわけです。
必然的に、道路は狭くなっていきます。
車一台通るのがやっとという道路だらけになります。
地区ごとに、狭い道路も一気に
廃雪作業が年に一回行われます。
廃雪のあとの道路を歩くと、
こんなに広かったんだという気がします。
2、3度雪がふれば、すぐに元に戻るのですがね。
でも、もう、春は近いです。

・準備・
春から愛媛にでかけるので、その準備をしています。
すべき作業を淡々と進めています。
細々したことがいろいろあるのですが、
大事なことから順番に進めています。
もちろん、新生活で必要なものの用意などありますが、
それは3月になってからです。
荷造りは直前の予定です。
今こちらでしておかなければならないこと、
今しておかなければ、愛媛で困ることを中心にしています。
家族にかかわることも、いろいろ同時に進めています。
なかなか大変ですが、
予定をたてて、漏れがないように進めています。

2010年2月18日木曜日

6_77 資源:エネルギー問題4

 資源とは、回収可能な濃度があるかという技術的問題と、採算がとれるかという経済的問題を解決できたものです。有限のものを使えばやがてはなくなります。エネルギー問題は広義に考えると、資源の枯渇問題といえます。やがてはなくなるものに依存しているのが現在文明なのではないでしょうか。

 エネルギー問題の本質は、化石燃料という有限の資源に頼っているためです。これは、なにもエネルギー問題だけでなく、現代文明は地下資源を利用しています。ですから、どれかの重要な資源がなくなったり、高騰して自由に使えなくなると、現在文明には危機が訪れます。すべての地下資源は有限ですから、エネルギー問題を広義にとらえると、資源の枯渇という問題となるのではないでしょうか。
 注意が必要なのは、資源とはなにかということと、その資源が代替が可能かどうかです。
 ある種の元素、たとえば鉄(Fe)や金(Au)、銀(Ag)・・・などは、地球外に出さない限り、どんなに使っても、地球上のどこかに存在するはずで、元素としてなくなるわけではありません。ですから、ある元素をすべて使ったとしても、そんなに元素の形や形態が変わったとしても、質量保存則により地球のどこかに存在するはずです。ですから、元素はなくならないのです。
 ところが、資源とは、回収可能でなければなりません。ある元素が、回収可能な濃度としてあるかどうか、そして回収しようとしたとき採算がとれるかどうかということです。資源とは、存在の有無だけでなく、回収可能な濃度という技術的問題と、採算がとれるかという経済的問題がクリアーされたとき、はじめて資源となりえます。
 携帯電話などの電子機器の廃棄物から、金などの貴重金属を回収しようということが技術的にも経済的にも可能になってきるようです。携帯電話が大量に回収され、効率的に分解して、目的の元素を回収し、採算がとれるシステムができるようになってきたためです。
 元素は使っていけば、薄まった状態や回収不可能な状態で大地にもどっていきます。そうなれば、もはや資源とはいえません。ある元素の性能を利用してているとき、その元素が枯渇したら、同等の性能の代替となる物質を見つければいいのです。しかし、それで問題は解決するのでしょうか。
 代替物質も何らかの元素を用いてつくられています。その元素は資源から由来するはずです。資源であれば、やがてはなくなるという原理が適用されます。問題の先送りでしょう。
 膨大な量があって、充分長い時間使えるものであれば、心配しなくていいのでしょうが、すべての資源は必ずしも豊富にあるわけではありません。いずれにしても、原理的には、有限のものは使えばなくなるのです。
 そのような現代文明のシステムは、やがて崩壊しそうな気がします。他の生物が生きているのと同じようにと、動植物と地表で循環する水や空気などだけですべての生活がまかなえればいいのです。しかし現代人は、そのような原始の生活様式では生きていけません。どうするかを、危機が訪れる前に、皆で考える必要があります。

・読者から・
ある読者の方から、
「石油価格が上がるとマスコミが書きますが、
もう何十年も前から石油の埋蔵量は30年とか40年とか
言われていますが、いつまでたっても変わりません。
石油の採掘はだんだん難しくなっているのは確かですが、
石油価格との関係で、埋蔵量はどんどん増えると思います。」
という指摘を受けました。
ご指摘とおり、原油価格が上がれば、
今まで採算がとれないような油田も採掘可能となります。
技術が進めば今まで掘れなかったところが採掘できます。
今後も新しい原油は出現し埋蔵量は減ることはないかもしれません。
しかし、それがいつまで続くでしょう。
原理的は「必ず」資源は枯渇するはずです。
1000年、2000年先であれば、
そんなこと気にしなくていいのでしょう。
まだ産業革命以降、300年も経過していませんから
充分な時間があります。
数百年でも、まだまだ余裕で、
子孫に問題を先送りしてもいいでしょう。
では、100年、あるいは50年先だったらどうでしょうか。
身近な問題になってきます。
そのためには、科学的に正確なデータに基づいた推測
たとえば、地球全体の欠く資源の埋蔵量を
正確に推計すべきでしょう。
これは危機感をあおるためではなく、
やがてはなくなるはず資源に備えて対応や対策、
心積もりをするためです。
そして、いろいろな人が、いろいろな専門や立場で
充分議論していくべきでしょう。
どんな小さなコミュニティでもいいので、議論が必要です。
もし、そこからいいアイディアが生まれれば
人類にとって、それは福音となるはですから。
そんな内容の返事を、私は書きました

・準備・
2月は、時間があっという間に流れていきます。
やることがいろいろあるからでしょう。
多分、今まで溜め込んできたことをこなすことと、
単身赴任の準備を一緒にしているからでしょう。
でも、今まで遣り残してきたことをやり始めるというのは
心の奥に残された不安を整理をするようで
ひとつやればそれなりにすっきりとします。
精神的に大いに意義のありそうです。
事前にいろいろスケジュールを決めて
いろいろやっているのですが、
ついつい遅れてしまいます。
でも、出発の日が決まっているので、
その日はやがてきます。
それに備えて、いろいろ追われる日々を過ごしています。

2010年2月11日木曜日

6_76 代替:エネルギー問題3

 人類は、より便利なもの、より安全なものを求めて、そして生み出してきました。かつては危険であったものも、安全なものへと代替もされました。今問題になっているエネルギーは、代替が可能なのでしょうか。それは、安全だけでなく、持続可能なという希望も託されています。化石燃料に変わるものが見つかるのでしょうか。

 前回、化石燃料について、現時点での可採年数を紹介しました。可採年数とは、ある資源において、現在の年間の使用量で、確認されている採掘可能な埋蔵量で割って得られる数字です。あと何年その資源が使用可能かということを意味する値です。その結果は、石炭は192年、天然ガスは67年、石油は41年となりました。ちなみにウランは85年となっています。
 化石燃料では、石油の41年が問題です。この数字は厳密な値ではなく、社会状況や技術、経済、鉱業などさまざまな要因で変動します。数値の厳密性が問題なのではなく、これくらいの石油しかない残されていないということが、問題なのです。
 節約して使っていても、数十年後、あるいは長く見積もっても100年もすれば、石油はなくなってしまうことになります。エネルギー資源の枯渇が、問題の本質なのです。
 石油がなくなると、エネルギー源がなくなるだけでなく、現代文明では欠くことのできない重要な資源がなくなることも意味します。石油は、アスファルトやプラスチック、化学繊維などの原料となり、化学工業において不可欠の溶媒や潤滑油、表面活性剤なども石油からつくられています。ですから、石油は、文明社会において、非常に基礎的で重要な役割を担っている資源です。
 石油だけでなく、文明社会において、重要な資源が一つなくなると、社会において非常に大きな影響を与えることになります。現代文明は、いろいろな資源に依存しています。ですから、資源の面から考えると、文明を支えるのに不可欠な資源のどれか一つでもがなくなると、文明が崩壊する危険性をはらんでいます。
 そこで危機回避のためには、代替の資源や道具を考えなければなりません。かつて、人工の便利な化合物である各種のフロンが、大量に使われました。しかしフロンがオゾン層を破壊するということが分かって以来、フロンを使用しないことにしました。フロンの代替のものを、人類はつくり上げてきました。もちろん、それは地球に優しいものでした。
 このような事例をみて、多くの人が漠然と、「人類は賢いから代替エネルギーを見つけるできるのではないか」と、考えているのではないでしょうか。あついは、資源の枯渇、エネルギーの枯渇が、自分事とは思えないからでしょうか。化石燃料の枯渇は、代替が可能で他人事なのでしょうか。
 エネルギー問題は、化石燃料に頼らない代替燃料を見つければいいわけです。たとえば水力発電や太陽光発電、風力発電などで電気を供給し、現在の文明を支えているエネルギーを、電気エネルギーとしてまかなえればいいのです。そのゆな発電は、太陽エネルギーを基にしています。無尽蔵ではないですが、50億年間は地球に降る注ぎ続けるエネルギーです。それを代替のエネルギーにできれば、エネルギー問題は解決されます。
 各国の技術者が代替エネルギーを生み出す努力を続けています。しかし、まだ満足できるものはできていません。石油に代わるものが、まだできていなののが現状です。ですから、石油はしらばくは使い続けられていくわけです。
 この状況が続ければ、やがて化石燃料は、私たちの世代、遅くとも孫の世代にはなくなるでしょう。そのとき、多くの人に、エネルギーの節約はもとより、移動の制約、さまざまな活動の制約がでてくるはずです。これは、国家や政府による強制ではなく、経済的な物理的な困難さによるもののはずです。私たちは、自由に生活、行動できなくなるのです。
 自由はなくなってそのありがたさを感じるものかもしれません。そうなってからでは遅いのです。自由を奪った悪者がいないのです。本当の自由は、努力して手元に留めておくべきことのはずです。

・不景気・
世間は、不景気だといいます。
景気を回復するには、
更なる大規模な公的資金を導入や
消費の拡大がいわれています。
しかし、かたやこのエッセイで述べているように
エネルギー危機が厳然としてあります。
また化石燃料を使えば、二酸化炭素を排出します。
二酸化炭素の排出を減らすには、
化石燃料の使用を減らすしかありません。
景気回復とエネルギー問題の解決は、
矛盾した行為を意味します。
多くの人は、景気を気にしていますが、
私は、景気よりエネルギー危機が気になります。
本当にエネルギー危機が訪れたら
社会的弱者はどうなるのでしょう。
武力や政治力、資金力を持たない国や民族は
どうなるのでしょう。
恐ろしい将来が思い浮かびます。

・まだまだ忙しい・
大学では、後期の定期試験が終わり、
一般入試も終わり、一段落です。
ただし、教員、あるいは私は
のんびりしていられません。
3月末の引越しと、新しい地での生活の準備、
そして、出かけるまでにすべきことも
いろいろ残っています。
それをスケジュールをにらみながら
こなしていくしかありません。

2010年2月4日木曜日

6_75 可採年数:エネルギー問題2

 エネルギー問題は、将来、化石燃料がなくなるという予測から発生しています。その予測値は、現状まま進めばという但し書きがつきますが、単純な計算で導かれるため、説得力があります。危機が身近に迫っているのに、見て見ぬ振りをしているかのように、多くの人は同じ生活を営んでいます。


 化石燃料は、前回述べたように、「化石」の定義の点で、少々問題がありそうですが、広く使われています。古い時代の生物を起源としてエネルギーとして現在利用されているものを化石燃料と呼ばれています。
 実際に使われているものは、石炭、石油、天然ガスです。海底で見つかるメタンハイドレイトが、最近、注目されています。しかし、メタンハイドレイトは、石油や天然ガスと同様に、無機的な起源だと考える研究者もいます。ここでは、化石燃料は、成因が生物起源と確定されていないものも含む、広義なものとしましょう。
 さて、化石燃料で一番の問題は、その持続時間がどれほどあるかです。エネルギーの使用可能期間、または持続時間を計算するのは、簡単です。予想されている総埋蔵量、あるいは正確を記すなら採掘可能な埋蔵量(確認可採埋蔵量)を、年間使用量で割ると、あと何年使用可能か(可採年数)が計算できます。単純な割り算をするだけです。
 ただし、この可採年数には、「現状では」という但し書きをつけなければなりません。それは、総埋蔵量も確認可採埋蔵量も変動するからです。
 変動の理由は、いくつかの要因があります。科学技術と経済の要因があります。探鉱技術の進歩によって、新しい鉱床の発見があれば、埋蔵量は増えます。また、採掘技術の向上によっても、今まで採掘できなかったところも採掘可能になることもあります。今までコスト高で採算がとれなかった品位や地域(輸送コストなど)の鉱床が、価格が上がれば、採掘可能となる経済原理に基づく要因があります。ですから、技術の進歩や経済状況が変化すれば、埋蔵量は変化するということが起こります。年間使用量も、経済状況や省エネの装置の導入が世界的に進めば変動します。
 以下に、「現状では」という但し書きつきでデータを示します。ウランも参考のために載せておきましょう。
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    年間使用量  確認可採埋蔵量 可採年数
石炭   51.3億トン   9845億トン   192
天然ガス 2.62兆m3   175.78兆m3    67.1
石油   280億バレル  11477億バレル  41
ウラン  5.40万トン    459万トン   85
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 いかがでしょうか。この数字をみると、危機感を覚えるのではないでしょうか。数字は、将来も変動するでしょう。でも、おおよその値として考えればいいわけです。一桁ずれることはないにしても、40年が、30年や80年になることはあるでしょう。早ければ私たちの代、遅くても子供や孫の世代には、エネルギー危機がくることは確実です。その危機を如何に回避するかがエネルギー問題の本質でしょう。
 危機感を煽るつもりはありませんし、ここで示した数字は、「現状どおり進めば」という但し書きつきです。本当に、石油がなくなってくれば、省エネの技術も進むでしょうし、石油が高くなれば個々の家庭で節約への心がけも強くなるでしょう。
 やがてくる、エネルギー危機を、私たちは子孫のために、どのように迎えればいいのでしょうか。その危機が多くの人に身近に迫っているのに、見て見ぬ振りをしているかのように、同じ生活が営まれています。皆で真剣に考えなければならない時期が差し迫っています。手遅れにならなければいいのですが。

・寒波・
昨日北海道は強い寒波に見舞われました。
昼間も氷点下の真冬日です。
今冬一番の冷え込みだそうです。
1月は暖かい日が多かったので、
一気に冷え込むと寒さもより強く感じます。
私は、朝6時前後に、自宅を出るのですが、
寒波が来ることを知らずに、昨日も出ました。
「今日はいつもになく、冷え込むな」
と思って歩いていました。
しかし、風はなかったので、
しばらく歩いていると体が温まってきて
いつものように大学にたどり着きました。
室内は暖房が効いているので
寒さを感じることはありませんが、
外に出ると凛とした寒さです。
そんな中、大学では定期試験が行われています。

・通信費・
皆さんの通信費は
月々どれくらいかかっているのでしょうか。
通信費といえば、
以前は電話代と少しの切手代くらいでした。
ところが現在では、
切手代はほとんどいらなくなりましたが、
一人に一台となるほどの携帯電話と、
インターネットの通信費などが
その主流を占めているのではないでしょうか。
以前にはなかった便利さを得たのですが、
その分、通信費がかかるようになりました。
我が家の通信費を見直してみると、
ほとんど通信費を
無駄に払っていることに気づきました。
なぜなら、我が家では
無料の家族間通信が大部分だからです。
それを見直して、一気に数千円も
安くなるような内容に変えることにしました。
先日、申し込んだのですが、
乗り換えの人も多く、
順番待ちの状態です。
でも、1月もすれば、我が家の通信費の負担が
だいぶ減ることになるでしょう。