2009年2月5日木曜日

1_73 川砂から成長をみる:大陸の形成5(2009.02.05)

 大陸の成長の時間変化を成果に見積もる方法が、わかってきました。その方法を実施されている東京工業大学の平田岳史さんの研究成果から、みていきましょう。

 大陸は多様な岩石からできています。大陸を構成するすべて岩石の形成年代を正確に決定するには、膨大な時間が必要で、現実的には不可能です。そのため、苦肉の策として、大陸を構成する花崗岩で、今まで得られている年代データを集めて、その頻度分布を調べるという試みがなされました。もちろん人為的偏りが起こる不安があります。後に、データを多くして、より厳密にやっていっても、やはり同じような結果になっていました。ですから、その結果が、正しく思えます。しかし、統計的に正しいのか、本当に人為的偏りがないのか、やはりなんとなく不安が残ります。
 そのような不安を解消するために、大陸の大河の砂を利用する方法があることを前回紹介しました。砂の中によく見つかる結晶で、一粒でも年代測定できるジルコンと呼ばれる鉱物が用いられます。ジルコンは、主に花崗岩をつくるマグマからできる結晶です。岩石の中では、ジルコンの量は少ないのですが、もと岩石への激しい変形や、900℃ほどの熱の変成作用によっても、年代データを保持できる頑丈な鉱物です。そして、川砂の中でも、削られてなくなってしまうことなく、よく見つかる結晶です。
 ジルコン一粒で年代測定できる技術が、今ではほぼ完成しています。ただ、川砂から得られた年代データに、統計的に偏りをなくすには、多数のジルコンを測らなければなりません。川砂の中から、ジルコンだけを分離する方法もあります。ただ、川砂の中でジルコンの量は少なく、ジルコンだけを抽出するのには手間が必要です。多大な手間がかかりますが、統計的には信頼のできるデータは得られるはずです。あとは、そこまでの手間をかけて、実施するかどうかが問題です。
 そのような大変さが予想されるために、あまり手を出す人はいませんでしたが、東京工業大学の平田岳史さんたちのグループ(東京工業大学 21世紀COEプログラム「地球:人の住む惑星ができるまで」解読グループの研究の一つ)が行っています。以下では、平田さんたちの研究の内容から紹介していきます。
 平田さんたちは、川砂の統計的問題として、流域の岩石の性質を均等に川砂が反映しているかどうか、そして年代の頻度分布を知るために何個くらいジルコン粒子を分析すればという問題を、まず解決することからはじめました。
 その検討のために選ばれたのが、ミシシッピ川でした。ミシシッピ川は、アメリカ大陸の平原のみを流れる大河で、流域を構成している岩石が比較的単調で、地質学的に年代ごとの岩石の分布量を知ることができます。そのデータと、実際に川砂のジルコンの分析したデータを比べれば、ジルコン粒子が流域の岩石を均等に反映しているかどうかを評価できます。そして、どれくらいのデータを測定すればいいかも検討がつけられます。
 その結果、ジルコン粒子は流域の地質を均等に反映していることと、200から300粒の分析をすればよいことがわかりました。これによって、川砂のジルコンの有効性が判明したのです。あとは、試料を集めて、年代データを出す作業に入れます。もちろんその作業は大変です。
 平田さんたちのグループは、現在、世界の35の主要河川から川砂の回収をしています。その数は今後も増やす予定だそうです。現在、それらの採集した試料からジルコンを選別し、年代を測定するという作業が精力的に行われています。現在、すでにいくつかの河川のデータがでてきていますが、その内容は次回としましょう。

・若さの特権・
受験生は、今や、選り好みをしなければ、
全員どこかの大学に入学できます。
現実に競争率1を下回る大学、学部、学科も
いくつも出現してきました。
そんな有利さを、今の若者は謳歌しているでのでしょうか。
苦労せず大学に入ること、
入学してもあまり勉強しないで卒業すること、
なにより楽しく生きることに軸足を置いていないでしょうか。
大学を卒業しても、先行きの見えない社会状況が続いています。
就職を真剣に探す気力も湧かない学生もいます。
不景気が、それに拍車をかけることでしょう。
若者は、どこに将来の望みを持ち、
何を目指せばいいのでしょうか。
若者には、その若さゆえ残された時間の多さから、
何でもできる、何にでもなれるという特権があるはずです。
そんな若者であるはずですが、
なぜか表層の楽しさ、見栄えだけを追い求め、
本来の若さを活かす生き方を選ばないのはなぜでしょうか。
これは、年配の人間の穿(うが)った見方でしょうか。
若さへの羨望による嫉妬のため、
そうみなしたがっているのでしょうか。

・訃報・
人は、人生の終わりをどのように迎えるのかは、
本人にはもちろん、他の誰にもわかりません。
どんなに、幸福を望んだとしても、
嫌な終わりを迎えることもあります。
自分がいくら正義に悖(もと)ることなく
日々を生きてきたとしても、不可抗力のように
予期せぬ境遇に追い込まれ、
潰(つい)えてしまうこともあるでしょう。
もしそうなら、人の人生は結果論として論じることができても、
自分がどう生きればいいのかという指針にはできません。
嫌な見方ですが、ついついそう見てしまいます。
しかし、心の奥底で、もしかすると
そんな不可抗力的人生の中にも、
その人の生き方が、なんらか
反映されているかもしれないと思いもあります。
だからこそ、人は、襟を正し、
人生を送ろうとするのかもしれません。
ある人の一生を、後からみると、
いいことばかり見えてきます。
思い出は、いつも楽しいものになってしまいます。
だからこそ、その人の人生の終わり不本意なものであれば、
その悲しみはいやがうえに増します。
昨日、お世話になった親戚の方の訃報が届きました。
母と、その人について何時間も電話で話しました。
遠くから、冥福を祈っています。