2009年1月1日木曜日

6_72 ガリレオへの謝罪:世界天文年

 明けましておめでとうございます。今年最初のエッセイとして、今年が世界天文年であることを紹介しながら、宗教とガリレオの科学の関係と、その重要性を考えていきましょう。

 2009年は「世界天文年」とされています。「世界天文年」は、2008年12月11日に国連の総会決議として定められました。国連教育科学文化機関のユネスコや国際天文学連合も共同して、さまざまな活動に取り組まれます。
 「世界天文年」の目的は、「天文学と基礎科学の持続可能な開発にとっての重要性について世論の認識を高め、天文学という学問が生む刺激を通じて、基礎科学の普遍的知識へのアクセスを促進する」というものです。少々わかりにくい表現です。国連の総会決議の表現はもっとわかりにくいものですが、少しはわかりやすくされています。これは、天文学を通じて、多くの人が科学の知識に触れ、地球規模の問題に取り組んでいこうという趣旨です。
 2009年が「世界天文年」に選ばれたのは、1609年にガリレオが天文望遠鏡で観察を始めて400年の節目に当たる年だったからのようです。
 国連の総会決議に呼応するように、12月22日にローマ法王のガリレオにかんする言葉を世界上のメディアが報道しました。ローマ法王ベネディクト16世は、記念行事という場で、信者を前に「彼の研究は(キリスト教の)信仰に反していなかった」と演説しました。これは、ローマ法王が公式の見解として、ガリレオに下された以前の教会側の判断を訂正したことになります。
 1633年、ガリレオは、宗教裁判で彼の地動説が、キリストの教義に反する異端だとして、有罪とされました。ガリレオは、公の席でその説を撤回させられました。ガリレオは、その後フィレンツェの郊外の丘にある村に軟禁されて異端者の汚名を着せられたまま、この世を去りました。
 しかし、誰もが知っているように、ガリレオは、後に科学や技術の進歩するにつれて、世界では英雄となっていきました。本人が死んでしまえば、それで話は終わりとなりなるはずのですが、ガリレオは異端の汚名をままでした。
 この有罪は、逆にキリスト教の過去の過失を示すことになります。遅ればせながら、ローマ法王がガリレイの宗教裁判の結果を撤回したのです。しかし、今回が最初の判決撤回ではありませんでした。前法王ヨハネ・パウロ2世は、1992年、当時のバチカンが下した有罪の決定が非があったことを認め、公式に謝罪しました。
 しかし、現法王ベネディクト16世は、枢機卿という地位にあった1990年当時、自身の演説で、ガリレオへの弾圧を支持する発言をしていました。それ以降、ベネディクト16世は、1992年の前法王の判断を下した時も、2005年4月19日に第265代ローマ法王になっても、公に謝罪をしたことがありませんでした。そのような流れの中で、今回の公式表明となりました。
 その表明の背景に何があったかはわかりません。しかし、世界的な宗教の一つであるキリスト教が、再度、公式にガリレオの判決を取り消しました。これによって科学の流れが変わることはないでしょうが、人々の注目が天文学や科学に集まることになるでしょう。ですから、「世界天文年」にとっては、大きな力を得たことになります。
 ガリレオの望遠鏡は、口径4cmほどでした。その望遠鏡の能力は、今ならば、子供の入門用に使うものにも劣るほどの性能しかありませんでした。それでも、ガリレオは、大発見をし、科学を進めました。科学とは、道具はもちろん必要ですが、それ以上に必要なものをあることを、ガリレオを教えてくれました。ガリレオの偉業を思い起こしながら、「世界天文年」の目的を、再度、かみしめましょう。

・家族だけで・
明けましておめでとうございます。
昨年は本メールマガジン「地球のささやき」の購読をいただき、
ありがとうございました。
本年も引き続きよろしくお願いいしたします。
皆さん、どのような元旦を迎えられたでしょうか。
北海道のわが町は、年末になって何度も雪が降り、
白い正月を迎えました。
例年になく遅い雪でしたが、いつもどおりの白い正月となりました。
今年は、いつもと違って親子4人だけで、
のんびりとした正月を迎えています。
昨年までは、母が我が家に滞在していました。
そして一番すいている正月に母を空港まで送りにいくという
あわただしい正月を迎えていました。
そのわけは、我が家と母の自宅の両方で
母が正月を迎えられるようにするためでした。
しかし、今年は、1週間早く母が滞在して帰りました。
ですから、今の家に住んで初めて
親子だけで年末年始を迎えることになりました。
元旦には初詣に出かける予定です。
今年は、家族の健康を願ってお参りしたいと思っています。
とはいっても、私は神仏には祈りませんが。

・不可知論・
私は、科学と宗教は決して
相容れないものではないと思っています。
日本では宗教的な束縛は少ないのですが、
それでも、科学を貫くことは、
宗教的振る舞いには注意が必要と
感じている人も多いと思います。
私もその一人です。
しかし、一人の人間の中に共存できると考えています。
これは、以前から私が考えていた
感性と理性の融合にもかかわることです。
そのようは問題は、宗教に薄い日本より
西洋の科学者が切実に感じるものだと思います。
ですから、科学者は、無神論か不可知論になることが多いのですが、
私の尊敬する科学者のステファン・ジェイ・グールドは、
「神と科学は共存できるか?」(ISBN978-4-8222-4572-6 C0095)
の中で、相容れないものではなく、
すみわけのできるものであるとしています。
科学と宗教を共存するためには、
NOMA(Non-Overlapping Magisteria)原理で
「密度の濃い対話を伴う非干渉」という立場で
臨もうという提案です。
まあこれも、一種の不可知論的立場ですが。
でも、その境地はなかなか達するのが難しいようです。