2009年12月31日木曜日

3_79 周期性:黒点2

 太陽の黒点の増減には、約11年の周期性があることがわかっています。このような周期性がみつかったのは、19世紀の中ごろでした。幸いにも、17世紀まで黒点の観測記録がさかのぼることができたので、その周期性が明らかにされました。その後も観測は継続され、周期性は確定しました。周期性の発見についてみていきましょう。


 太陽の黒点数は、11年周期で変化し、ここ2、3年、黒点の一番少ない極小期を迎えています。2007年から2009年にかけて、黒点のまったくない無黒点日が多数出現していることを紹介しました。今回は、その周期性について考えていきます。
 まず、11年周期を発見したのは、ドイツのアマチュア天文研究家のシュバーベ(Heinrich S. Schwabe)が、1843年に初めてこの周期に気づきました。およそ10年の周期性があるとしました。1852年(1848年と書かれている文献もあります)には、スイスの数学者で天文学者のウォルフ(Johann Rudolf Wolf)は、やはり同じような周期性を見出しました。
 太陽黒点については、ガリレオ・ガリレイがその存在を確認して以来、断続的ですが、観測記録が残されていました。ウォルフは、太陽の黒点観測の記録を、1610年までさかのぼって調べました。1610年以降の太陽黒点数の極大期と極小期を決定し、平均11.1年の周期で繰り返されることを計算しました。
 もともとウルフは数学、特に統計学をも専門としていましたので、このような計算には秀でていました。また、ウォルフは、1849年(1848年と書かれている文献もあります)には、太陽の活動の様子を表す計算法(ウォルフ黒点相対数と呼ばれています)を提案し、その方法は現在でも使われています。
 ウォルフが発表した当初、太陽黒点数の周期説は受容れられなかったようです。しかし、多くの観測データが集まるにつれて、この周期性は明らかになってきました。
 18世紀後半以降は黒点の観測が充実していますが、それ以前はあまり精度のよいものではありませんでした。そのため、観測データが充実している1755年から、太陽の活動周期を第1周期として、各周期には番号がふられています。2007年は第23周期の極小期にあたります。2008年からサイクル第24周期に入り、2012年頃には極大期になるはずです。ところが、前回述べたように2009年まで、異常な極小期が続いている状態になっています。
 さて、このような異常な状態は、何を意味するのでしょうか。未来のことですから、数年後にその結論が出ることでしょう。過去の歴史を探求すれば、因果関係が解明できるかもしれません。また因果関係の解明が無理でも、繰り返し大きな異変が起こっていることがわかれば、今回も何か異常なことが起こる可能性がでてきました。因果関係が解き明かされていませんから、一種の経験則です。しかし、もし未来に危機が待ち受けていると予想されるのであれば、対処すべきかもしれません。
 どのような未来が見えるでしょうか。それは、次回としましょう。

・一目瞭然・
太陽の黒点の周期性は、図にすると非常に明瞭になります。
その図はいろいろありますが、
次のサイトが参考になるでしょう。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/07/Ssn_yearly.jpg
数字は正確に読み取れないかもしれませんが、
図を見れば、周期性があるのは一目瞭然です。
このような周期性は、なぜ生じるのか、
その周期性と地球の気候との因果関係は、
まだ十分解明されていません。
関係がないという研究者もいます。
本当のところはどうでしょうか。
過去の歴史に学ぶことも必要でしょう。

・今年最後のエッセイ・
今年最後のエッセイとなりました。
今回の発行日は、12月31日です。
今年は、皆さんにとってどんな年だったでしょうか。
私は、例年通りの年でした。
ただし大学では、はじめての卒業生をだすため、
新たなことがいろいろありました。
それは来年3月まで続きます。
太陽の黒点シリーズは
今年だけで終わることができませんでした。
来年も継続することになりました。
今年一年メールマガジンの購読ありがとうございました。
来年も、本エッセイのよろしくお願いします。
皆様にとって、来年もよい年でありますよう
お祈りしています。

2009年12月24日木曜日

3_78 無黒点日:黒点1

 太陽は、地球にとって、決定的に重要な役割を果たしています。しかし、その実態は、必ずしも解明されているわけではありません。でも、観測は続けられていて、観測データからも、いろいろなことがわかります。中でも太陽の黒点による活動の11年周期が有名です。現在、その周期の極小期にあたっています。ただ、その極小期が従来のものと違っているようです。その意味を考えてきましょう。

 太陽の活動が極小期になっているのをご存知でしょうか。
 太陽は約11年周期で活動が変化しています。その活動の変動は、黒点数の多少で調べられます。黒点が少なくなると活動は穏やかになり、多くなると激しくなります。
 黒点が、ここ2、3年、極端に減っています。太陽表面に黒点が見られない日が、2007年には163日、2008年には266日、そして今年もその傾向は継続しているようで、12月20日現在で、無黒点の日数は260日に達しています。ただ、今年の8月、9月をピークに、無黒点の日は減ってきているようですが。
 これほどの極小期は珍しく、異常ともいえる状態になっているようです。前回の極小期は1996年だったのですが、そのときの無黒点の日数は165日でした。それを比べると、今回の無黒点の状態がいかに長く、異常かがわかるでしょう。このような状態は、無黒点が311日あった1913年以来のことのようです。
 太陽活動を議論する前に、そもそも黒点とは、どのようなものでしょうか。それをみておきましょう。
 黒点とは、太陽の表面にみられる黒い点のようなものです。正確には、単なる点ではなく、暗い部分とその周辺のやや明るい部分(半暗部とよばれています)があります。その形は不規則で、丸いとは限りません。黒点は、いくつか集まって現れること(黒点群とよばれます)が、しばしばあります。黒点は、温度が周りより低いところです。低いといっても約4000℃もあります。他の表面が約6000℃もありますので、そこと比べると温度が低いので、黒く見えているわけです。
 太陽でなぜ、黒点ができるのでしょうか。それは、太陽の磁場によるものだと考えられています。太陽の自転によって、内部ではプラズマ化した原子が流動しています。ちなみに太陽は高緯度は32日、低緯度では27日で一周します。そのとき大きな電流が発生し、同時に磁力線も形成されます。磁力線は、最初地球と同じように北極南極にできるのですが、自転のずれにともなって、半年後には赤道付近に巻きつくようにずれていきます。そして何年も赤道付近に引き伸ばされた磁力線が巻きつくことになります。この何周にもわたって巻きついた磁力線によって、太陽表面の対流が妨げられることになります。その結果、巻きついた部分の温度が下がり、黒点が発生すると考えられています。
 では、今回のように黒点が減ると何か問題があるのでしょうか。それが、地球と何か関係があるのでしょうか。それは次回としましょう。

・黒点シリーズ・
いよいよ今年のエッセイも残るところあと1回です。
今回から黒点の極小化のシリーズです。
次回だけで終わるかどうかわかりませんが、
終わらないのなら、来年も続けていくことになります。
太陽には、わからないことも多いようです。
特に地球の気候との関係が最近注目されています。
地球の気温や気候は、
太陽からのエネルギー供給が重要な働きをしています。
そのエネルギー量が周期的に変動しているわけです。
その周期性は地球の気温や気候において
何らかの形で対応しているはずです。
その対応関係が明瞭でないのではなぜでしょうか。
なにかの緩衝効果でもあるのでしょうか。
それとも私たちはまだ気候変動のメカニズムを
捕らえきっていないのでしょうか。
そのあたりを探っていきたいと考えています。

・インフルエンザ・
先週はインフルエンザにかかりました。
病院の簡易検査では新型かどうかはわからないので、
インフルエンザであるという診断でした。
しかし、現在、流行していのは大半が新型だそうで
私もたぶん新型でしょうということでした。
季節性インフルエンザの予防接種をしているので、
たぶん新型のはずです。
先週は、まだ授業があったのですが、
4つの講義が休講になってしまいました。
でも、卒業研究はなんとか全員、
個別の対応もでき、提出も無事に終わりました。
どうしても抜けられない校務があったので
今週から復帰したのですが、
まだ、あまり人に会わないほうがいいので、
研究室にこもっていました。

2009年12月17日木曜日

1_88 境界変化:第四紀問題3

 第四紀が再定義されたということは、そこに重要な地質境界が認定されたということです。その境界やその時代を境に地質が大きく変化したということです。第四紀の地質学的変化は、気候変動です。それも寒冷化の進行というのが、第四紀の再定義のキーになりました。

 第四紀が再定義され、ゲラシア期のはじまりの258.8万年前が、第四紀のはじまりとなりました。
 今までも、第四紀のはじまりについては、何度も議論されてきました。境界が設定あるいは変わるということは、地球規模での地質現象が起こったことを意味します。再定義の議論は、地球規模での地質現象が何で、いつか、ということに尽きます。また、第四紀をなくするという提案もありましが、それは、時代区分の階層性を重視し、統一を取るためでした。あるいは、第四紀の境界では重要な地質現象の変化がないという立場でもあります。
 このような議論の根源は、第四紀とはどんな時代であるのかということに至ります。そして、第四紀は現在も続いている時代であるということも考慮しなければなりません。つまり、現在をも定義することになります。
 新生代後半から、地球は寒冷化に向かっていることが知られています。第四紀前後から、繰り返されてきた氷河期は、その象徴でもあります。氷河期によって、大量の氷が大陸に蓄積されると、海水面は下がり、海洋や大気の循環に大きな異変が起こります。氷河期が繰り返し起こると、生物の進化にも大きな影響を与えます。また、氷河期や間氷期に固有の地質現象も起きるでしょう。
 前回も述べましたが、第四紀のはじまりに起こった地質現象として、以下のような現象が挙げていました。深海底の堆積物中の化石(底生有孔虫と呼ばれるもの)の酸素成分の変化(酸素の同位体比が現在の値より大きくなる)、北半球高緯度の地層で氷河漂流堆積物が出現、中国の砂丘堆積(レスと呼ばれる)のはじまりました。他にも、酸素の成分(酸素同位体ステージのMIS103の基底)の変動が大きくなったり、北半球での氷床ができはじめたり、パナマ地峡が閉ざされるなどの事件が起こります。
 これらはいずれも、寒冷化や氷河期がその原因と考えられています。
 南北アメリカ大陸の間にあるパナマあたりで、現在は運河があるように両大陸は陸続きです。しかし、かつては海で分断されて、両大陸が繋がっていないことが分かっています。パナマで、太平洋と大西洋の海水が行き来していたということは、海流、つまり海洋循環が今とは違っていことになります。それが第四紀の始まりに閉じたということになります。約270万年前のパナマ地峡の閉鎖が原因で氷河期を引き起こしたと考える人もいるようですが、氷河期の結果、パナマ地峡が閉じたとも考えられます。
 これら寒冷化という全地球的な現象が、第四紀のはじまりを特徴付けていることになります。これは大きな気候変動だと考え第四紀が再定義されたわけです。
 第四紀は寒冷化の時代と特徴付けられます。第四紀は、さきほどもいいましたが、現在も含む時代です。寒冷化傾向は今も継続しています。非常に長い地質学的な時間スケールでの寒冷化ですが、その気温の変動は激しいことが知られています。
 一番最近の最温暖期は、縄文時代約6000年前です。そのころは、縄文海進と呼ばれ、氷河期の一番海退が激しいころと比べると場所によっては100mも海水準が上がり、現在と比べても3~5m低く、気温では1から2℃ほど高かったことが分かっています。
 最後の氷河期が終わって、6000年前に温暖期のピークをむかえ、その後地球は緩やかに寒冷化に向かっています。これが繰り返されながら、第四紀は寒冷化が進んでいるのです。やがては氷河期が来るかもしれません。
 地球温暖化が危惧されている現在、背景ではこのような寒冷化が地質から読み取れるのです。この第四紀における気候変動の特徴を、忘れないようにしなければなりません。

・風邪・
風邪をひきました。
現在のところ、熱は出ていないので
インフルエンザではないと思いますが、
時々咳が出て鼻水も出ます。
卒業研究の最後の校正段階にはっています。
あと6名分が残されています。
これだけは、どうしても休めない仕事なので、大学に出ています。
これが終わったら医者にいって、2、3日休む予定です。

・科学の進歩・
第四紀の定義が決定されました。
これは、当面、この定義でいくというにすぎないことを
理解しておく必要があります。
今回決定された定義も、
全研究者が納得してるわけではありません。
今まで、第四紀の定義や存在意義については、
何度も議論されてきました。
新しいデータや視座が提示されたら
再度、定義や存在意義に関する議論が沸き起こるでしょう。
でも、これが科学の進歩といえのですが。

2009年12月10日木曜日

1_87 再定義:第四紀問題2

 第四紀のはじまりは、ここ数年、地質学界の重要問題でした。いや、地質学界だけでなく、多くの関連分野の研究者も、その成り行きに注目していました。その決着を今年やっとみました。第四紀の定義は、従来のものと変更になりました。今回のエッセイでは、その定義の内容を紹介しましょう。

 前回、第四紀問題で、決着がみたといいました。決着とは、学会が公式に、第四紀をこう定義するということを決めたことになります。定義をするということは、第四紀を廃止するという案はなくなり、公式に定義を行い、正式に第四紀という時代区分を使うことができるということも決まったことを意味します。その定義とは、第四紀のはじまりを258.8万年前とするというものです。
 この決定が下るまでは、第四紀のはじまりは、カラブリア期(Calabrian)の最初(180.6万年前)と考えられていました。しかし、今回の決定までは、ゲラシア期(Gelasian)の最初(258.8万年前)も併記されていました。それが、今回、ゲラシア期のはじまりを、第四紀のはじまりと決まったのです。結局、第四紀は、78.2万年、時代が延び、古くなり、遡ったことになります。
 この第四紀の定義は、いくつかの定義もかねることになります。第四紀は、新生代の最後にあたり、新生代はパレオジン、ネオジン、そして第四紀に区分されます。ですから、第四紀の下限とは、ネオジンの最後ともなります。ネオジンは中新世と鮮新世に区分されます。第四紀は、更新世(Pleistocene)と完新世(Holocene)に区分されます。ですから、第四紀の下限の年代は、鮮新世と更新世の境界にもなります。
 第四紀は、比較的大きな時代区分なので、上で述べたようないくつもの境界になってきます。
 そもそも第四紀とは、1829年、デノアイエ(J. Desnoyers)は、パリ盆地で第三紀の地層の上に重なる海でできた地層(海成層といいます)の年代名として第四紀を用いました。これが第四紀の定義のはじまりです。
 その後、1833年、C.ライエル(C. Lyell)は、地層に含まれている貝化石に現生種がどれくらい含まれているかによって決めることにしました。ライエルは、第三紀の一番最後を、現生種を70%以上含む地層の時代を「更新世」(Pleistocene、最新の意味)としました。それより後の時代を「現世」として、人類の遺物を含むのが特徴の地層であるとしました。
 ところが、1846年、フォーブズ(E. Forbes)は、第四紀として更新世を氷河時代にのみに用い、第四紀から更新世を除いたものを現世と提案し、定着しました。1885年の万国地質学会(IGC)では、そのように定義された現世を完新世という名称にすることが決定されました。1885年以降、第四紀は、氷河時代の更新世と氷期以降の完新世に区分されるようになりました。
 また、1911年にオー(E. Haug)は、新生代の時代区分が哺乳類化石で区分されることが多いので、第三紀と第四紀の境界もそれに従うことが望ましいと考えました。そして、現代型のウシ、ゾウ、ウマの化石が最初に出現するときを、第四紀のはじまりと定義しました。1948年には、ロンドンでおこなわれた万国地質学会で、第四紀のはじまりは、海の動物化石群の変化によって決定することになりました。
 その後、第四紀の基底がみられる典型的な地域(模式地と呼ばれます。GSSP;Global Strato-type Section and Point)として、地中海沿岸のイタリア、ヴリカという地域のカラブリア層(カラブリア期のもととなった名称)が決まりました。カラブリア層の中にあるe層と呼ばれる地層の上面が、その始まりとなりました。カラブリア期のはじまりは、180.6万年前でした。それが、1985年の国際地質科学連合(IUGS)で決定されました。その定義が、今年まで活きていたことになります。
 研究が進むにつれて、いくつも時代境界の候補が提唱されるようになってきました。深海底の堆積物中の化石(底生有孔虫と呼ばれるもの)の酸素同位体比が現在の値より大きくなる時期、北半球高緯度の地層で氷河漂流堆積物が出現し始める時期、中国の砂丘堆積物(レスと呼ばれる)のはじまり時期、などが候補に挙がってきました。それらが、いずれも従来のカラブリア期ではなく、ゲラシア期の始まり、258.8万年前、を支持しており、混乱を招き、議論を沸き起こす結果となったのです。
 今回、第四紀をなくすのではなく、その新たな提案が受け入れられ、ゲラシア期のはじまりの258.8万年前が、第四紀のはじまりとなりました。それに伴って、ゲラシア期のはじまりの地層(模式地)が第四紀のはじまりの模式地となります。第四紀のはじまりは、シシリー島のモン・サン・ニコラの南斜面にある地層で、古地磁気のデータ(松山/ガウス境界の約1m上)を基にして決められています。その時代は、酸素の成分(酸素同位体ステージのMIS103の基底)にも対応しています。
 では、これほど問題になってきた第四紀の境界では、いったい何が起こった時代だったのでしょうか。それを次回紹介しましょう。

・繰り返される再定義・
今回の第四紀のはじまりが決定するまで、
何年もの紆余曲折がありました。
上で述べたように、何度も再定義されてきました。
一度は廃止案も浮上してきました。
第四紀は、いちばん私たちに身近な地質時代です。
それでありながら、定義の改定を繰り返してきました。
データも他の時代と比べて多いはずです。
それなのに、なかなか決まらない。
これは、もしかすると、関心の大きさが
引き起こす現象なのかもしれません。
関心が大きいと、研究者も多くなり、
研究も増え、得られるデータも増える。
すると、いろいろ新しいことがわかるようになり、
今までの内容での不都合が見えてくる。
そして、その不都合を解消するために、
再定義がなされる。
そこには、研究者、研究分野の利害も発生する。
そして、混乱が生じる。
というようなことが
繰り返し起こっているのかもしれません。
研究者が少ない時代境界は、
あっさりと再定義され、変更が起こっています。
参加者が多い物事における変更は、
なかなか大変なのです。
ですから、研究が進めば、
また再定義の議論が浮上するかもしれませんね。

・学生の成長・
私が担当している4年生の卒業研究が
最後の詰めの段階にあたっています。
毎日、空いている時間のすべてを
個別面談をして、報告書の添削にあたっています。
先週から来週半ばの締め切りまで続きそうです。
学生も大変でしょうが、私も大変です。
自分の仕事を、最後の最後まで突き詰めていく、
研究するという姿勢を学んでいく、
そんなチャンスでもあります。
学生には、そういうチャンスは
4年生までもったことがありませんでした。
ですから、はじめての経験となります。
プレッシャーに押しつぶされそうになる学生もいます。
そんな学生をはげましながら、面談は進行していきます。
でも、形が見えてくると、
学生も最後のがんばりを見せます。
それで彼らが、成長してくれればいいのですが。

2009年12月3日木曜日

1_86 決着:第四紀問題1

 第四紀問題の決着をみましたので紹介します。第四紀とは、人類史にとって重要な時期にあたります。地質学だけでなく、生物学、考古学、歴史学など多くの分野で使われている用語です。それが一時は廃止するという決定が出たのですが、長い時間をかけて、その問題に対しての結論がでました。その内容を紹介しましょう。

 第四紀は、地質学者が中心になって研究しています。しかし、第四紀という用語はいろいろな分野に浸透しており、もはや地質学だけの問題ではありません。特に、廃止ということになったら、多くの分野で混乱が起こることは日を見るより明らかです。学校の教科書も、あちこち書き換えなければなりません。それをおしても廃止するか、それとも妥協策を探るか、ここ数年、そんな決断が迫られていました。本来なら2008年末までに決着がつくはずだったのですが、このたびやっと決着をみました。
 国際地質科学連合(IUGS)の理事会が、今年(2009年)の6月29日に、国際層序委員会(ICS)が提案した第四紀(Quaternary)の下限を258万8000年前とすることを承認しました。これによって、第四紀が再定義されたことになり、存続することが決定されたのです。
 第四紀問題については、本エッセイでも何度か扱ってきました。「1_52 新生代1:時代区分」(2005.10.27)、「5_48 第四紀の復活?1:時代区分の更新」(2005.12.29)と「5_49 第四紀の復活?2:第三亜代と第四亜代」(2005.12.22)、あるいは「1_64 Concise版:地質時代1」(2008.10.23)から「1_68 第四紀問題の決着は?:地質時代5」(2008.11.20)の5回、計8回エッセイとして取り上げてきたことになります。
 何度も取り上げてきたのは、決着をみるまで長い時間がかかったということです。それは上で述べてきたようにいろいろな問題を含んでいたためでした。しかし、20年近くにわたって議論されてきた第四紀問題がやっと終止符が打たれたのです。
 第四紀問題は、ICSの意向を受けて"A geological time scale 1989"という本で、ではなくすという方針が示されました。そのときは、あまり問題に顕在化してなかったのですが、2005年春に発行された"A Geological Time Scale 2004"では、新生代の第三紀(Tertiary)という時代名称を公式には使わなくなり、新生代はパレオジン(Paleogene)とネオジン(Neogene)に区分されることが紹介されました。それに伴って、第四紀もなくす(公式には使えないものとする)という方針が、強く打ち出されました。これが、大きな議論を呼ぶことになりました。
 第四紀の廃止という方針には、多くの関係者や学会が反対声明を出したこと、あるいは廃止に賛成するグループからの意見が出され、混乱を極めました。そして、議論を尽くした後、最終的にICSにおける3月の投票によって、第四紀は再定義が可決されて、今回の決定となりました。
 IUGSの決定を受けて、日本地質学会でも、その取り扱いについて、拡大地層名委員会において検討に入りました。委員会は、今後、関連する学術会議や学会と連携をとりながら、日本としての対応が検討されていくことになります。
 さて、第四紀とは、どう定義されたのでしょうか。それは次回としましょう。

・師走・
いよいよ師走となりました。
北海道では、日一日と寒さが募り
積雪も何度もありました。
もちろん暖かくて雨が降ることもありますが、
いよいよ冬到来です。
自宅でもストーブをたかない日はなくなりました。
忘年会、餅つきなどの年末特有の
行事のアナウンスも行われています。
気持ちばかり急いていきましたが
今こそ落ち着いてやるべきこともあります。

・卒業研究・
4年生の卒業研究の指導は、今が山場です。
学生も大変でしょうが、私も大変です。
ゼミ生の10名分のレポートを熟読して、
校正していかなければりません。
それが今週から来週にかけて続きます。
でも、彼らにとっては4年分の集大成となります。
よもや気を抜くことはできません。
今がんばっておけば、
なんとか穏やかな正月が迎えられるはずですから。

2009年11月26日木曜日

6_73 バージェス化石発見100周年

 今年は、ダーウィン生誕200周年で祝われています。地質学では、バージェス動物化石群の発見から100周年でもあります。地質学で発見が取りざたされることはあまりないのですが、ことバージェスに関しては、知っている人も多いようです。その逸話は、調査シーズンの最後に、夫人の乗る馬が足を滑らし石をひっくり返したところに、ウォルコットが化石を見つけたというものでした。実態は、どうも違っていたようです。

 ネイチャー(Nature、P952-953)というイギリスの科学雑誌の2009年8月号に、特集記事が載りました。それは、ウォルコット(Charles Doolittle Walcott)が、バージェス頁岩から、カンブリア紀(5億0500万年前)の化石を発見して100年目ということから書かれたものです。その記事とS.J.グールドの「ワンダフル・ライフ バージェス頁岩と生物進化の物語」を元に、ウォルコットとバージェス動物化石群を紹介しましょう。
 バージェス動物化石群は、カナダのロッキー山脈のヨーホー国立公園のバージェス山の山腹にある数メートルほどの小さな露頭から見つかったものです。露頭は小さいのですが、大量の化石が発見されています。私は、以前そこを訪問したことがあります。そのときの様子は、2001年8月23日のエッセイ(4_13 カンブリアの怪物達)で紹介しました。
 バージェス動物化石群の発見者がウォルコットです。ただし、本当の第一発見者はウォルコットではなく、大工でした。大工の発見した化石に、カナダ地質調査所のマッコーネル(Richard MaConnell)は注目しました。そして1886年に、マッコーネルは、スティーブン山で三葉虫を発見しています。しかし、世にバージェス動物化石群の奇妙さを広めたのは、やはりウォルコットとそれを本にして紹介したグールドでしょう。
 ウォルコットは、1879年にアメリカ地質調査所に勤め、1894年には所長になりました。地質調査所長のかたわら、1896年には全米科学アカデミーの会長に選任され、1902年には、カーネギーを説得して、カーネギー研究所を創設させ、その理事長になっています。1907年には、ワシントンDCにあるスミソニアン協会の事務局長にも任命されました。ウォルコットは、地質学以外でも、政治的手腕もあったようです。
 さまざまな管理職をしながらもウォルコットは、1907年から、カナダのロッキー山脈周辺に、毎年のように調査に入っています。その地質学への情熱が、バージェス動物化石群の発見につながります。
 ウォルコットの日記によれば、1909年8月30日に、バージェスで化石を発見したとあります。グールドによれば、日記には婦人たちと合流する前に化石を発見したとの記載があります。またシーズンの最後といわれていますが、ウォルコットは、5日間、調査をして多数の重要な化石を見つけて過しています。また、翌年、転がってきたおおもとの露頭を発見したいわれていますが、1909年にすでには、その露頭を発見していたようです。
 まあ、このような話は尾ひれがついたり、ゆがんで伝わっていくようです。
 露頭は小さいですが、大量の化石が見つかりました。1917年までウォルコットは発掘を続け、6万5000点という大量の化石を発見しました。その後も何度かいくつかの研究機関によって調査されて、やはり多くの化石が発見されています。その露頭は、「ウォルコットの石切り場(Walcott Quarry)」と呼ばれ、現在は世界自然遺産に指定されています。
 ウォルコットは、大量の化石をかかえていたのですが、詳細に検討する時間があまりとれなかったようです。化石の研究では、クリーニングなどの作業と、その後の同定のために詳細な記載が必要です。いくつもの管理職にあったウォルコットには、なかなかその時間が取れなかったようで、予備的な記載論文があいくつかあるだけで、大量の資料を活かしていませんでした。さぞかし残念であったことでしょう。
 大量の化石は、ウォルコットの死後(1927年)、スミソニアン協会の収蔵庫に眠ったままとなっていました。1960年代後半になって、他の研究者が、この化石を調べ始めました。その結果、ウォルコットの記載した分類の多くが誤りであったことがわかっていました。しかし、ウォルコットの功績は、今も伝えられています。ネイチャーの3ページに渡る記事は、彼への敬意の表れです。

・グールド・
1989年、S.J.グールドは、
「ワンダフルライフ-バージェス頁岩と生物進化の物語」
という本を書きました。
この本によって、ウォルコットとバージェス動物化石群が
広く一般にも知られることになりました。
グールドは、この本で、現在の動物群に
ほとんど当てはまらないことを紹介しています。
しかし、最新の研究では、新しい門だと考えられていた生物が
既存の門に分類できることがわかってきました。
もう20年も前の本なので、科学進歩していることを示しています。
私も、その本を読んで、
いつかはバージェスにいきたいと思っていました。
その願いは2001年に叶えられました。
再び同じ所にいくには、もう体力がありません。
トレーニングをしてからでないと、いけそうもありません。
しかし、その記憶は、今でも明瞭に残っています。

・示唆・
2009年は、ダーウィン生誕200周年でもあります。
じつは、ウォルコットも1909年に
ダーウィン生誕100周年に関する祝賀として名誉博士号を
ケンブリッジ大学から贈られています。
そのとき、大英自然史博物館を訪れ
当時、そこに学芸員としていた
ウッドワード(H. Woodward)に会っていたそうです。
ウッドワードは、ウォルコットにどうも
カンブリア紀の化石がでるかもしれないと伝えていたようです。
そのため、ウォルコットは、化石に注目したのかもしれません。

2009年11月19日木曜日

1_85 年代の意味:最古の岩石4

 長くなりましたが、いよいよSm-Nd法による年代測定の話になります。年代は、一応得られています。しかし、重要なことは、その年代が何を意味するかを解明することです。その年代の意味と、他の化学成分から導かれる話が、一致しなければなりません。しかし、それがなかなか難しいのです。

 ヌヴアギツク(Nuvvuagittuq)の岩石は、複雑な地質で、なおかつ変形・変成作用を受けているでしたところでした、しかし、この地域では、貫入関係から「偽角閃岩」が一番古い岩石であったことがわかってきました。問題は、どうして年代を決めるかです。ジルコンもみつからず、岩石全体のU-Pb法による年代測定もうまくいきませんでした。
 そこで、いよいよSm-Nd法による年代測定が登場します。「偽角閃岩」のSm-Nd法で測定をしたところ、42.86(+0.96、-3.7)億年前という年代値になりました。変成作用を受けた変斑レイ岩は40.23億年前という年代、ひとつのマグマからできたと考えられる斑レイ岩から超苦鉄質岩は38.40億年前の年代を得ました。トーナル岩と珪長質のバンドは、36億から38億年前の年代を持ちます。
 この地域の岩石には、6億年以上にわたる歴史が記録されていたのです。その歴史を解読しなければなりません。さらに、年代の意味も吟味しなければなりません。
 「偽角閃岩」は、地質関係を裏付けるように、岩石としては、最古の年代となりました。そして、現在のところ地球最古の岩石となっています。ただし、いろいろと考えておくべきこともあるようです。
 まず、「偽角閃岩」の化学的性質は、マントルのカンラン岩から形成されたところまではいいのですが、通常の海洋地殻の岩石(玄武岩や斑レイ岩)と比べて、いくつかの違いがあることを示しています。「偽角閃岩」には、低いカルシウム(Ca)、高いカリウム(K)、高いルビジュウム(Rb)、高い軽い希土類元素(ランタンLa、セリウムCe、Nd、Smなど原子量の小さい希土類元素でLREEと略されています)などの化学的特徴があります。
 これらの特徴のうち、KやRbは、変質や変成作用で移動しやすい元素ですので、もともとマグマが持っていた値を、もはやは示してはいないと考えられます。ですから、変質や変成作用で動きにくい元素に着目して吟味していくことになります。
 高いLREEの濃度という特徴は、マントルからマグマができるときの溶ける(部分溶融)程度が低いことを示しています。しかし、部分溶融程度が低いということは、チタン(Ti)やニオブ(Nb)の少ない含有量とは矛盾しています。高いLREE濃度、少ないTiやNb濃度というのは、列島にみられる火山岩(カルクアルカリ岩)の特徴と似ています。このあたりは、まだ完全に解明されていません。ですから、「偽角閃岩」の年代値の解釈も、はっきりと決着をみていないわけです。
 論文に基づけば、以下のシナリオが描けるとされています。まず、「偽角閃岩」が、冥王代(40億年前以前)に、最古の地殻として形成されます。その地殻は、高いLREE濃度、少ないTiやNb濃度を持つ物質から由来しています。その後38億から40億年前に、斑レイ岩から超苦鉄質岩になるマグマが、現在の海洋地殻をつくったのと同じようなマントルから由来し、「偽角閃岩」に貫入します。36億から38億年前に、「偽角閃岩」の部分溶融に由来すると考えられるトーナル岩と珪長質のバンドが形成されます。
 さて、最古の年代を得ても、なかなか最古ですと名乗りを上げにく状態です。論文を読んでいても、歯切れの口調で書かれていることが気になりました。でも、それは報告している科学者たちが、良識的あることを示しているように思いました。最近の論文は、業績主義が蔓延する中、自己主張をするものが多くなっています。今回の論文も、最古の年代を得られたら、それのみを前面に出し、問題点を見ない振りをすることもありえたわけです。しかし、その問題点を、正面に出し、苦渋しながら、最善の道を探っている姿勢、最古の年代の意味を真摯に追求する姿勢に、私は科学者の良心を見ました。

・悩みぬく科学者・
このような論文では、
年代値だけが一人歩きすることがままあります
しかし、年代値が正しいという保障はありません。
たとえば、年代を決めるために使った核種が
変質・変成作用で移動していたら
その年代は、「見かけ」のものとなり、
本当の年代を意味しません。
その年代がとんでもない値なら
だれでもそう思うのですが
自分の欲しい年代が得られ、それも最古の年代となれば
その年代だけを前面に出したいところでしょう。
しかし、他の元素の分析をしていれば
それらとの整合性が問われるわけです。
年代測定だけを生業としている研究者は、
そのような整合性をチェックすることなく、
年代だけを報告して終わりとすることも多数あります。
しかし、今回の著者たちは、年代以外の他の元素も分析し、
それらの吟味もきっちりとしていました。
その結果、シナリオは提示したが、
まだ不明瞭な部分があるというのが、今回の報告です。
私は、この科学者の良心と
その良心を認めたうえで掲載したサイエンス誌を
立派だと思います。
ひさびさに悩みぬく科学者の論文を読んだ気がします。

・冬に向かって・
遅れていた息子たちの小学校の学芸会も終わりました。
今年は、12月も餅つき大会が大きな行事となります。
家庭でも、そろそろ冬支度が整ってきました。
ところが、天候は、分かりにくい天候が続いています。
暖かい日があったり、寒い日があったり、
雨が降ったり、雪が降ったしています。
それでも着実に冬に向かっています。

2009年11月12日木曜日

1_84 複雑な地質:最古の岩石3

 最古の岩石が発見されたのは、今まで最古とは無縁の地域でした。非常に複雑な地質の持った地域で、岩石も複雑に入り組んで、激しい変質や変成作用も受けていました。しかし、そんな複雑でやっかいな岩石でしたが、年代を決めることができました。今回は、その複雑は地質を紹介します。

 今回最古の岩石が発見された場所は、カナダのケベック州北部ウンガバ(Ungava)というところで、西南にはハドソン湾を臨みます。今まで、最後の岩石は、カナダの北西準州のアカスタというところから見つかっていたのでしたが、今回は、同じカナダでも、まったく違った地質帯から見つかりました。報告したのも、オニールらのカナダのケベック州にある大学の研究者が中心になっています。
 最古の岩石は、ヌヴアギツク(Nuvvuagittuq)グリーンストーン帯と呼ばれるものに属します。ヌヴアギツク帯は、火山岩や変成した堆積岩から主としてできています。この地では一方向に傾むいた(等傾斜と呼ばれます)向斜構造が、後に南に開きながら傾斜している向斜構造になるような造構運動を受けています。周囲は36.6億年前のトーナル岩に囲まれています。まあ、非常に複雑な地質となっています。
 ヌヴアギツク帯を構成する岩石は各種あり、それぞれが違う時代に形成されていると考えられています。年代が決まっているのは、いくつかあり、量は少ないですが珪質長の鉱物からできる岩石のバンドがいくつもあり、そこからジルコンの年代が求まられていて、38.17億年前と37.5億年前の年代が求められています。やはりジルコンは非常に有力な年代測定の手段となっています。
 ヌヴアギツク帯の構成岩石の主体は、「偽角閃岩」、斑レイ岩、超苦鉄質石、玄武岩類の順に多く、量は少ないですが縞状鉄鉱層や珪質岩もあります。主構成岩石となっている角閃岩、斑レイ岩、超苦鉄質、玄武岩からはジルコンが見つかっておらず、年代は決まっていません。そこで、Sm-N法によるd年代測定が有効となってくるわけです。
 この主体となる「偽角閃岩」(faux-amphibolite)は、周囲の一般的な角閃岩とは違った成分の角閃石(カミングトン閃石と呼ばれています)からできています。さらに、角閃石の多いところと黒雲母が多いところが層を成すような複雑な構造をもっている岩石です。
 斑レイ岩には、2種類あります。ひとつは、あまり変成作用を受けていない斑レイ岩(以下「斑レイ岩」と呼びます)と、変成作用を強く受けて片麻状の構造をもった斑レイ岩(以下変斑レイ岩と呼びます)です。超苦鉄質岩は変成を受けていない「斑レイ岩」のグループになります。
 「偽角閃岩」は苦鉄岩ですし、斑レイ岩も苦鉄質岩です。ですから「偽角閃岩」は、斑レイ岩と同じマグマから由来して、火山砕屑岩として噴出し、激しく変質を受けたため、組成の違うものができたのではないかと、従来は考えられてきました。しかし、変質で変化のしにくい化学成分で比べると、同じマグマとは考えられないことがわかってきました。ですから、違う起源の可能性ががあります。
 さらに、「角閃岩」は、「斑レイ岩」と超苦鉄質岩に貫入されているのが、この地域の西端で確認されています。これは非常の重要な産状です。「角閃岩」の方が「斑レイ岩」より以前に形成されたことを意味します。
 さて、いよいよSm-Nd法の登場ですが、それは次回としましょう。

・場所・
今回の最古の岩石が見つかったところを
Google Earthで見てみました。
すると、地質図とそっくりな地形が見えました。
極北の地では、地質がむき出しになっているため、
非常によくわかります。
その画像をホームページに掲載しておきますので、
興味のある方は見てください。

・成果の違い・
私も、似たような岩石を研究していて、
変質や変成作用には、悩まされました。
年代測定もしていたのですが、
Rb-Sr法では、正確な年代が出てきませんでした。
Rb-Sr法は、RbもSrも変質や変成作用によって、
移動しやすい元素だからです。
そこで取った方法は、変質・変成をしていない鉱物として
輝石を選び、それだけを岩石から分離して、測定しました。
一方、Sm-Nd法では、岩石全体を用いて
正確な年代を出すことができました。
今回の論文を読んで、
同じような苦労をしている研究者が
今もいることを感じました。
ただし、彼らの成果は、
最古の岩石の発見に繋がっているのが
私の成果と違う点です。
この違いは、大きいですね。

・いよいよ冬・
北海道のわが町でも、何度か雪が降りました。
木々の葉は、ほとんど落ちてしまいました。
いよいよ冬を迎えます。
あちこちの庭や公園では、
冬の備えて、雪囲いが行われています。
冬を迎える準備が着々と進んでいます。
私も、冬用のジャンバーに変えました。
忘年会の連絡も、はってきました。
いよいよ冬になってきました。

2009年11月5日木曜日

1_83 困難を克服して:最古の岩石2

 地球最古の岩石の発見を紹介しているのですが、今回は、測定に必要な条件について見ていきます。その条件をクリアしたものだけが、年代測定できるわけです。でも、その条件をクリアするのが、実はなかなか大変なのですが。

 岩石の年代は、昔と比べると、技術も道具も進歩してきたので、さまざまな岩石や鉱物で、微量の含有量や微小な部分でも測定できるようになってきました。でも、いまだにどんな岩石でも年代測定ができるわけではありませんし、年代測定には手間がかかります。理想としては、マグマからできた火成岩ならどんな岩質のものでも、簡単にできる年代測定の方法があればいいのですが、なかなかそうはうまくいきません。
 年代測定によく使われる放射性核種(元素といういいかたが馴染みあるのですが、核種の方が適切なのでここでは核種を使います)には、カリウム(K)、ルビジウム(Rb)やサマリウム(Sm)、ウラン(U)など、いろいろなものがあります。それらの放射性核種は、条件によって、年代測定に使える場合と使えない場合があります。
 その条件とは、放射性核種の含有量、崩壊定数、形成後の移動などが重要となります。
 放射性核種の含有量とは、測りたい岩石に放射性核種が充分含まれていなければ、測定できないということです。もともとあった放射性核種(親核種といいます)だけでなく、壊変でできた核種(娘核種と呼びます)も測らなければなりません。親核種の含有量が少なければ少ないほど、測定は困難になっていきます。どんなに技術が進んでも、検出限界を超える微小な部分や微量のものは測定できません。
 また、放射性核種の崩壊定数とは、放射性元素ごとに決まっている壊変のスピードが、目的の岩石の年代に対して適切かどうかです。崩壊定数は、半減期とも呼ばれるものです。最近できたものには、早く崩壊する放射性核種、古いものならゆっくりとした崩壊をする核種を利用しなければなりません。
 さらに、放射性核種の形成後の移動とは、測りたい岩石から放射性核種が移動しては、得られた年代はウソのものになります。目的の岩石が、どこかの時代に変成作用や変質作用などを受け、その時親の放射性核種や娘の核種が岩石から移動していると、年代は正確に記録していないことになります。変成や変質作用を受けていない岩石、あるいは動きにくい核種でなければなりません。
 このような条件を満たす放射性核種はそうそうないのですが、ウラン(U)という放射性核種を含むジルコンという丈夫な結晶で、古い時代の岩石の年代測定するのは理にかなっています。
 しかし、前回も紹介しましたが、珪酸の少ない苦鉄質(mafic)マグマからできた岩石では、ジルコンはほどんど含まれていませんので、ジルコンを用いた年代測定は有効ではありません。ジルコンの代わりに、ウランを含み、なおかつ丈夫な結晶構造をもつ鉱物(モナズ石など)を用いて、苦鉄質から超苦鉄質岩石で年代測定されたことがあります。しかし、大量の岩石を処理して、その中から目的の結晶をみつけるという作業がなされたものです。非常の困難な方法で、だれにでもできる手法ではありません。その証拠に、似たような研究はなかなかでてきません。
 そこで注目されるのがサマリウム(Sm)という放射性核種を用いた年代測定です。サマリウムが崩壊してネオディミウム(Nd)になります。Sm-Nd年代測定と呼ばれています。サマリウムの半減期はウランのものと似ています。ですから古い岩石に利用できます。サマリウムは、苦鉄質岩にも利用でき、変成や変質作用にも強い年代測定です。
 Sm-Nd年代測定は、いいこと尽くめかのように見えますが、そうでもないのです。サマリウムは、珪長質岩や中性岩では、それなりの濃度があるのですが、苦鉄質岩や超苦鉄質岩では、濃度が小さくなります。ですからなかなか難しい場合があります。また、最古の岩石は、変成作用を強く受けているものも含まれていました。そのような岩石の年代は、なかなか正確には決まりません。そのような困難さを克服しての年代測定ができたというのが、今回の論文の意義でした。

・初雪・
いよいよ11月です。
わが町では、初雪が降りました。
例年と比べて3日ほど早い初雪だそうですが
寒波のために、寒さの方がつらいです。
我が家では、先週末に車のタイヤを冬タイヤにしました。
タイヤを交換しておけば、心配することはありません。
間に合ってほっとしました。
実は、冬タイヤでなくても大丈夫なほど
ささやかな初雪だったのですが、
次男は、今シーズン初めての雪かきだといって
喜んで雪の中に出て行きました。
私は、道具だけだして雪かきは、次男に任せました。

・母の滞在・
母が、昨日まで滞在していました。
ちょうと初雪だったのですが、
真冬の寒さは何度も経験しています。
ですから、それほど驚くこともなかったようです。
孫の学芸会を見せるつもりで呼んだのですが、
新型インフルエンザの延期になったので、
せっかく来たのに、お楽しみがないので、
温泉につれてきました。
近所の温泉2箇所と、遠くの温泉1箇所でした。
ころんで痛めた右足が少しでもよくなればと思いましたが、
なかなかすぐにはよくならないようです。

2009年10月29日木曜日

1_82 ちょっと前の最古:最古の岩石1

 地球最古の岩石が見つかったという報告が、昨年9月に出されました。その最古の岩石には、どのような意味があるのかを考えていきます。なぜ、今頃になってといわれそうですが、じつは、私はこの論文を見逃していて、夏ごろになって気づいたからです。雑誌を探したら製本中で、昨日やっと製本から戻ってきた論文をみることができました。少々、賞味期限切れかもしれませんが、紹介しましょう。

 昨年(2008年9月26日付け)のサイエンス(Vol. 321, 1828-1831 p)という科学雑誌に、「冥王代の苦鉄質地殻へのネオディミウム142の証拠」(Neodymium-142 Evidence for Hadean Mafic Crust)という題名の論文が載りました。その報告によると、42.8(+0.53、-0.81)億年前の地殻の証拠がみつかり、それは地球最古のものであるということがわかったということです。
 今回の岩石について説明をする前に、このエッセイもでも最古の岩石や鉱物などを何度か取り上げましたが、今まで見つかっている最古の岩石と鉱物について紹介しましょう。
 地球最古の物質は、西オーストラリアの堆積岩の中から見つかっているジルコンという結晶です。そもそも堆積岩とは、別の岩石の砕かれたものが集まり固まったものです。堆積岩を構成する砂粒は、その堆積岩より古いものからできているはず。砂粒の中から、年代を測定ができて、その年代に意味をもっている対象としてジルコンという鉱物が選ばれました。
 ジルコンは、一度できるとなかなか壊れにくいという性質を持っています。さらに、結晶の中には、ウランという元素が少量ですが含まれています。ウランは放射性核種で、時間経過とともに鉛に変わっていきます。ウランから鉛に変化した量を測定することができれば、ジルコン一粒、あるいはその中の微小部分ででも、年代測定が可能になります。
 西オーストラリアの堆積岩の中のジルコンから、44億年前という年代が得られました。2001年のことでした。しかし、これは、もともとは石の一部であったジルコンが鉱物の粒として砂の中に紛れ込んだものです。ですから、残念ながら、もとの石の情報はほとんど持っていませんでした。
 地殻の情報を持っているのは岩石です。古い地殻のことを知りたければ、岩石を探す必要があります。最古の岩石は、北西カナダからみつかった片麻岩で40から40.3億年前のものです。1999年に報告されています。これは大陸地殻をつくっていた岩石の中から取り出したジルコンを、上と同じ方法で測定したものです。
 今まで述べてきた方法は、ジルコンという丈夫な結晶を見つけて、その中に残されているウラン-鉛の放射性壊変の記録を読むことで年代測定をするものです。この方法には、大きな弱点があります。それは、ジルコンを含む岩石、もしくはジルコンがないと、その手法が利用できないのです。
 ジルコンは、マグマからできる火成岩の中に形成される鉱物です。しかも、そのマグマは、珪酸が多い性質のものでなければなりません。珪酸が多いマグマからできた岩石は、灰色から白っぽい岩石になります。このような岩石は珪長質(felsic)や中性(intermediate)とよばれるタイプのもので、花崗岩や閃緑岩、トーナル岩とよばれる岩石となります。これらは、大陸地殻を構成する岩石です。
 大陸地殻には苦鉄質(mafic)の岩石も混じっています。さらに海洋地殻は苦鉄質の岩石からできています。珪酸の少ない苦鉄質マグマからできた岩石では、ジルコンはほとんどありませんので、その方法は使えません。一般に苦鉄質岩にも利用できる年代測定を利用すればいいのですが、それがなかなか難しいのです。その話は次回としましょう。

・晩秋・
いよいよ10月も終わりです。
北海道では、木々が紅葉がそろそろ終わろうとしています。
ひと風吹くたびに、梢から落ち葉が舞い散ります。
もちろん木々の下には落ち葉が一杯になっています。
北海道の秋も、いよいよ終わろうとしています。
今年の夏は天候不順でしたので、
夏を楽しみきれなかったという思いがあり、
雪よ降るなと思ってしまいます。

・自分で選んだ道・
以前私は、大学院から研究所に所属していたときは、
年代測定を行っていました。
特に特別研究員としてウラン-鉛の年代測定をするために、
鉛の同位体測定のルーチン化に3年間励んでいました。
そのシステムをほぼ完成して
博物館へと転職したのですが、
それもずいぶん昔のような気がします。
当時、先端の研究をしていたと自負していたのですが、
それも遠い過去の話です。
今は、そのような先端の研究をする環境ではなく、
じっくりと時間をかけて地質現象を考えることに専念しています。
これも自分で選んだ道です。

2009年10月22日木曜日

4_92 鵜戸神社:宮崎3

 9月に出かけた宮崎への調査の続きです。今回は、鵜戸神社の紹介です。鵜戸神社は、その立地の不思議さから、有名なものとなっています。しかし、このエッセイでは、神社そのものの紹介ではなく、地質学的な紹介となります。

 調査のはじめは、宮崎市から北上しました。その後一気に南下して、最南端の都井岬までいきました。都井岬から北上しながら宮崎県の海岸線を調査を進めました。途上、日南市の鵜戸(うど)神社に立ち寄りました。
 この神社は、階段を下りていくと、海岸沿いに本殿があります。本殿は、海岸沿いの大きな洞窟があり、その中にあります。洞窟は広く、普通の神社がすっぽりと納まるほどの高さ、奥行きがあります。
 この洞窟は、もともと海蝕洞でした。海蝕洞とは、波の浸食で崖に形成された穴のことです。このような海蝕洞の形成のメカニズムには、地質の影響が大きくなります。地層面や断層面、節理面にそって形成されるので、どこもにでもできるものではありません。鵜戸神社は、地層面にそって形成された海蝕洞です。ですから、砂岩を中心とする地層が周囲にはあります。
 海蝕台は、もともと海面近くにあるはずですが、現在は、隆起して海上に顔を出したものです。そこに神殿を作っても波をかぶることがないほどの隆起がありました。
 神社の境内を歩いていると、本殿のほかに稲荷神社もあり、そこから別の神社へいけるという看板がありました。それもついでに見学に行くことにしました。その道程は、ほとんど人の行かないような荒れたものでした。途中、雨によって道が流されていて、道がよく分からなくなりました。流れにそって歩いていくと海岸に出ました。そこには、神社はありません。どうも道を迷ったようです。引き返してやっと道を見つけて、その神社にたどり着きました。
 波切神社と呼ばれているものでした。この神社も、波音が響く、海蝕洞の中にありました。隆起量が鵜戸神社はより少ないのでしょうか、大波があれば、洞窟の奥まで海水が入ってきそうです。海蝕洞は、地層面にそって浸食された洞窟です。古びた鳥居が3つ並んだ先に、高さ1メールにも満たないような小さな祠がありました。苦労してきたわりには、みすぼらしさを感じるようなものです。
 アプローチがよくないせいでしょうか。それとも小さい神社だからでしょうか。人もほとんどこないような場所となっています。雨でくずれた道も補修されることなく、神社も寂れています。
 ところが、人が訪れない分、海蝕洞は神秘さと荘厳さに満ちているように感じました。その荘厳さは、神社の小ささを打ち消すような波音と、海に向かって延びる砂岩の地層の厚さが生み出しているのでしょうか。海蝕洞の力強さを感じながら、波切神社を後にしました。
 周辺の岩石は、砂岩と泥岩を主とする地層からなる宮崎層群の青島層と呼ばれるものです。砂岩は浸食に強く、泥岩は浸食に弱いので、差別浸食を受けます。でも、長期的に見ると平らに浸食されていきます。それが、海蝕台です。周辺には、海蝕台もあります。
 鵜戸神社周辺だけでなく、宮崎県の海岸線には、宮崎層群が広く分布します。宮崎層群は、砂岩と泥岩の繰り返しの地層(互層といいます)からできています。そのような地層が浸食されて、海蝕台になります。
 その後、海岸線の隆起が起こり、海蝕台が海上に顔を出します。そこも海水がくるようなところでは、差別浸食が起こります。宮崎県南部の海岸には、地層が洗濯板のように広がっている地層があちこちでみることできました。海岸の各地に洗濯板と名づけられたところがあります。鵜戸神社にいたる道沿いにも、「鵜戸千畳敷奇岩」、別名「鬼の洗濯板」と名づけられています。鵜戸千畳敷は、干潮時には、非常に広い海蝕台が現れます。その広さから、県指定の天然記念物にされています。
 今回、観光客に多数来る神社と、人の来ない寂れた神社が、尾根をはさんで並んでいるのをみることになりました。海蝕洞の響く波音に、同じ海蝕洞もこうも違って見えるのとかと思いました。

・洗濯板・
洗濯板は、現在では、
ほとんど使われることがない道具になっています。
しかし、なぜか、うちの子供たちはでも
洗濯板を知っています。
でも、死語に近いものでしょう。
「鬼の洗濯板」という死語を用いた名称が
今後も残るかどうかは分かりません。
ですが、景観の不思議さは、
変わることがないでしょう。

・予防接種・
先日、インフルエンザの予防接種を
いつもいっている病院でおこないました。
子どもたちは、来週、小児科で受ける予定です。
息子たちの通っている小学校では、
新型インフルエンザがはやっています。
子どもたちもいつかかるか気になります。
かかるのはいいのですが、
かかって欲しくない時期があります。
たとえば近々、学芸会があります。
そのときに学級閉鎖があると、学芸会ができなくなります。
事実、2週間延期になりました。
でも病気ばかりは、こちらの都合でかかる時期を調節でません。
用心するしかないですね。

2009年10月15日木曜日

4_91 上村:宮崎2

 宮崎県高千穂の近くに、天の岩戸の伝説で有名な、天岩戸神社があります。天岩戸があり案内とともに見学できるようですが、訪れませんでした。なぜなら別に行きたいところがあったからです。それは、上村というところで、観光地でも名所ともなっていところでした。

 上村と書いて「かむら」と呼びます。地元の人もあまり知らないような小さな村落の地名です。私は、ここに訪れたくて時間をとったのですが、場所がわからず、残念ながらたどり着けませんでした。時間があれば、探し出すことができたのかもしれませんが、午後の1、2時間で、一つの露頭だけを見るつもりの予定でした。入り組んだ道がいろいろあって、地図と比べてもどこを走っているかわからなくなり、1時間以上うろうろしたのですが、探すのを断念しました。少々心残りでしたが、次の機会に行こうと考えています。
 なぜ上村に行きたかったのかというと、そこには地球史でも有数の事件である生物の大絶滅の記録が発見されているからです。絶滅の時代の地層が、上村には分布しているからです。
 大絶滅は、古生代と中生代の境界(P-T境界)となる時代(2億5100万年前)に起こったもので、地球史上、最大のものだったと考えられています。その絶滅は、中生代と新生代の時代境界であるK-T境界よりも大規模であったことがわかっています。
 絶滅の規模を定量的に記録するには、化石が必要です。古いほうの時代の化石と、新しい方の時代のものがあって、はじめてどの程度、絶滅したかが推定可能になります。そのような研究は、世界のいろいろな時代の化石を集大成しておこなわれています。他にも大規模な絶滅がいくつもあったのですが、その中でもP-T境界の絶滅が最大であることが、わかってきました。
 P-T境界をまたいだ地層は、絶滅の規模を知るためだけでなく、何が起こったのかを解明するために重要になります。そのような地層は、幸いなことに日本の岐阜県各務原市の犬山地域ででています。犬山の地層は、海洋の深海底にたまったチャートと呼ばれる岩石からでてきます。深海底の環境を知るために、チャートは重要になるのですが、表層環境を知るには役不足になります。
 海洋の表層にできる地層としては、熱帯付近で礁をつくっている石灰岩が有力です。日本の石灰岩の多くは、海洋島(大洋の中の火山活動でできた島)の周囲でできたものです。海洋島の環境は、海洋島の火山固有の岩石種から判別できます。そしてそのような火山岩の上に石灰岩があれば、それは、陸から離れた海洋島の環境でできたことがわかります。
 上村には、P-T境界部の地層は残念ながらありませんが、ペルム紀末の海洋島上の石灰岩を主とする地層が連続的に出ています。そのような地層は、海洋での表層環境の情報を読み取ることができます。
 研究の結果、P-T境界の大絶滅は、2度の事件によって起こったことがわかってきました。P-T境界時代の1000万年前にも第一陣の絶滅事件があり、その後P-T境界の直前に二番目の絶滅事件が起こったというシナリオです。そのような大絶滅事件の解明のきっかけに、上村の地層はなったのです。
 そんな大絶滅の事件が記録した上村の地層を見たかったのですが、今回はできませんでした。

・K-T境界・
P-T境界とは、
古生代の最後の時代であるペルム紀(Permian)と
中生代最初の時代の三畳紀(Triassic)の頭文字をとって
名づけられたものです。
一方、K-T境界は、
中生代の終わりの白亜紀(Cretaceous)と
新生代最初の第三紀(Tertialy)の
頭文字をとってC-Tとしたいところですが、
CではなくKとなっています。
Cはカンブリア紀や石炭紀なども使うので、
白亜紀はドイツ語の白亜紀の表記からKを使うことになっています。
実は、さらに問題があります。
それは、第三紀という時代名称が使われなくなってきたためです。
そのかわり、パレオジンとネオジンが使われるようになってきました。
K-T境界は、世間では有名ですが、
地質学では、重要度は世間ほどでなくなってきました。

・もっと大きな事件・
P-T境界を最大の絶滅としましたが、
本当は最大とはいえません。
なぜなら、もっと大規模な絶滅が起こったと
考えられる時代があるからです。
それは、約20億年前におこった酸素の大発生の時期の事件と
7億年前ころに起こった全地球凍結という大氷河期の事件です。
いずれの事件も大規模な大絶滅が起こったはずですが、
化石になる生物がほとんどいなかったことから、
絶滅の規模を定量的に推定できません。
ですから、残念ながら、
どれくらいの大絶滅であったかの比較にはでてきません。

2009年10月8日木曜日

4_90 大御神社:宮崎1

 9月に宮崎へ調査にいきました。今回から数回にわたって、宮崎の地でみて感じたことを、紹介していきたいと考えています。まず第1回目は、日向岬の大御神社で見た、柱状節理の上に建つ神社とさざれ石についてです。

 9月上旬に宮崎に1週間ほど出かけました。宮崎では、いくつかの目的地があったのですが、まずは、空港から宮崎市内を素通りして、海岸沿いを北上しました。最初の目的地は、日向岬でした。
 日向岬周辺の海岸沿いに出ている柱状節理を見るのが目的でした。単に節理が見れただけでなく、そこには人間の営みと自然そして科学が融合していることをみることができます。その一番典型が、大御(おおみ)神社でした。
 大御神社は、日向岬の南の付け根にあるところです。観光名所として有名なところですが、私は地質の見所を巡るので、観光ガイドブックをもって出かけません。ですから、そのような神社が、日向にあることを知りませんでした。しかし、現地で手にしたパンフレットに、大御神社の写真があり、そこには見事な柱状節理が映っていました。そんな柱状節理を見たら、実物を見たくなりました。実は、前日、その大御神社の前を通っていたのですが、後の祭りでした。日向岬を前日に見たので、別の地点に移動する予定でした。予定を少し変更して、再度日向岬に向かいました。
 大御神社は「日向のお伊勢さま」と呼ばれ、地域の信仰を集めています。この神社は、柱状節理のすぐ脇に立てられていますが、境内の西奥には、「さざれ石」があります。国歌の「君が代」に歌われている「さざれ石」です。「さざれ石」とは、地質学的には礫岩のことです。
 礫岩は、それほど珍しくないのですが、神社の境内にでてくると、それなりのありがたみがありそうです。この「さざれ石」は、柱状節理を形成した火山活動起こる前にできたもの(基盤といいます)です。「さざれ石」は、大陸の広い海岸平野に、2000万年前ころにできた地層で、河口付近にたまったものだとされています。
 「さざれ石」には、丸くなったもの(円磨されているといいます)が多数含まれています。礫のサイズは大小さまざま(淘汰(とうた)が悪いといいます)なものとなっています。礫の中には、割れているものもたくさんあります。あまり硬くない礫だったのでしょうか。
 火山が噴出したとき、そこから火山砕屑物が熱いままたまっていくと、砕屑物の中の軽石など溶けることがあります。そのような岩石を、溶結凝灰岩と呼びます。日向岬の柱状節理を形成している岩石は、1400万年前ころの火山活動できた溶結凝灰岩です。神社の中には、神社のつくるときに基礎部からでてきた岩石が、断面が研磨されて展示してありました。
 「さざれ石」のある海岸では、柱状節理を形成している溶結凝灰岩との境界が見ることができ、看板が立てられていました。「さざれ石」の看板には、地質についての説明もなされていました。なおこの「さざれ石」は、平成15年の境内の拡張の折に見つかったものだそうです。大御神社では、地質と宗教の融合、新旧の融合をみたような気がしました。

・訂正・
前回のエッセイで、
Tahさんから、間違い指摘を受けました。
急冷縁の英語を「child margin」と表記してしまいましたが、
「chilled margin」の間違いです。
言い訳になりますが、
Tahさんに、次のような返事を書きました。
「現在の所属が「子ども発達学科」というところで、
子ども(child)という単語をよくつかっていので、
無意識に間違ったようです」
というものでした。
ホームページでは修正をしていますが、
メールマガジンでは修正ができませんので、
ここでお詫び申し上げます。

・無意識・
無意識つながりなのですが、
無意識で、同じような経験をしました。
私は、エッセイ類を「ですます」調で書いています。
しかし、論文を書き始めると「である」調なのですが、
頭では「である」で考えているのですが、
なぜか語尾がなぜか「ですます」なってしまいます。
多分、無意識にキーボードでそんな入力しているようです。
無意識というか習慣でしょうか、
しかし、毎日書く、ホームページでは、
「である」調で書けます。
不思議なことです。

2009年10月1日木曜日

4_89 茂津多:狩場2009年 2

 今回も、8月にでかけた道南の狩場山の紀行の続きです。今では、涼しく秋めいてきたのですが、夏の道南の話です。蒸し暑い夏を思い起こしながら、火山に思いを馳せましょう。

 道南の渡島半島の付け根に位置する島牧村と瀬棚町にまたがって、狩場山はあります。狩場山の西の裾野は、日本海に向かって急激に落ち込んでいます。狩場山は、新生代の火山ですが、活火山ではなく、現在は活動していません。比較的新しい火山なので、狩場山周辺では火山岩をいたるところで見ることができます。
 今年の夏、狩場山に登るつもりで島牧村にでかけましたが、天気が悪く断念しました。しかし、狩場山の奥懐にあたる賀老渓谷では、活動した時代の違いや、性質の違うさまざまな火山岩を見ることができました。
 さらに見たかった火山岩が、茂多津(もったつ)の海岸線にでていました。この周辺で火山岩は、縞模様が発達しているのが特徴です。さらに、面白いことに、水中で活動した火山の特徴をもった岩石もみることができます。火山活動できた岩石は、火山砕屑岩と呼び、一般には陸上で活動したものです。しかし、水中や海岸近くで活動した火山もあります。そのような火山では、水の中でできる固有の特徴をもった水中火山砕屑岩(hyaloclastite、ハイアロクラスタイト)ができることがあります。
 ハイアロクラスタイトは、陸上のものとは、産状が違います。水の中でマグマは、急冷されるので、壊れます。溶岩が壊れたものが主体となることが多いのですが、溶岩の壊れ方はさまざまで、また海底を崩れ落ちて堆積岩の構造を持つこともあります。また、冷え方つまりマグマが固まるスピードもいろいろで、結晶のできない緻密で黒っぽい透明感があるガラスから、ある程度結晶化しているところもあなります。このようなガラスの縁を急冷縁(chilled margin)と呼みます。急冷縁は、水中に溶岩が固まったことを示しています。急冷縁の有無が、ハイアロクラスタイトを見分ける一番の特徴となります。
 マグマの量が多く、粘り気(粘性といいます)が小さいとき、水中に流れ込んでもマグマが壊れないことがあります。ある割れ目から出てきたマグマは、まるで練り歯磨きのチューブを押し出したように、円柱状にでてきます。周りは海水のなので、すぐに急冷縁を持った溶岩になります。勢いが止まると、先端は丸い球状の急冷縁ができます。丸太のようなものが何個も何個も連なり、まるで枕を並べたような形状になることがよくあります。このような溶岩を枕状溶岩と呼びます。枕状溶岩は、急冷縁とともにマグマが水中で形成されたことを示しています。
 このような多様性ができるのは、マグマが熱いのと岩石に断熱効果があるためです。表面が海水に触れて冷え固まっても、内側はまだ熱いマグマのまま固まらないで、溶岩の流れで新たな割れ目ができて、またそこが急激に冷却され、壊れたり、ガラスができたりします。枕状溶岩とハイアロクラスタイトとが連続的に変化していくこともよくあります。
 狩場トンネルの途中にある休息所で、不思議な縞模様を持つ溶岩と、ハイアロクラスタイトを近くで見ることができます。そんな過去の壮大な火と水のせめぎあいを、今では穏やかな海岸で見ることができます。

・秋の訪れ・
北海道は秋めいてきました。
気温はそれほど下がっていないのですが、
高山での初雪の知らせもとどきました。
わが町でも、紅葉がはじまり、
気の早い木々は葉を落とし始めています。
一気に秋に向かいそうです。
雪が来る前にしたいことがいくつかあるのですが、
さてさて間に合うのでしょうか。

・お出かけ・
8月のでかけたときのことを
前回と今回書きましたが、
9月は、あちこちでかけました。
ですから、狩場山への旅行が
遠い以前のような気がします。
愛媛県西予市、宮崎県各地、
神居古譚-日高、京都から奈良
を1月の間にめぐりました。
ほとんど出かけていました。
今年は特に多く出かけました。
調査のためだけではないのですが、
チャンスさえあれば、エッセイのネタは探していました。
機会をみて、順番に紹介していきたいと考えています。

2009年9月24日木曜日

4_88 黒松内:狩場2009年 1

 ブナは、木偏に無という字(残念ながらフォントがありません)を使いますが、近年作られた日本文字です。黒松内では、木偏の貴いと書いてブナと読むことにしているそうです。黒松内でブナ林を見てきました。

 2009年8月初旬、黒松内を訪れました。当初は、半日だけの滞在の予定でしたが、天候が悪るかったのと、黒松内には見るべきところがいくつもあったので、1日半も見学することになりました。予定変更は、天候が悪かったためです。狩場山へ登山をする予定が、雨が降ったりやんだりだったので、諦めて、黒松内を見てまわることにしました。
 川に入ったりすることができませんでした。ただし、ブナ林の散策コースだけは、朝一番の雨が降っていないとき、1時間ほど歩くことができました。有名な歌才(うたさい)のブナの自然林ではなく、添別(そいべつ)のブナ林を見ることにしました。
 添別のブナ林は、70年ほど前に伐採された森で、その後開発されることなく、自然に再生した二次林です。しかし、若いブナの元気さを感じました。キノコがいっぱいで、いろいろな種類のものを見ることができました。一番よく見かけたものは、後でしべたらテングダケという毒キノコでした。また、クマのつけたなまなましい傷後とフンをみることができました。近くで草刈の音がしていたので、歩いていても不安はなかったのですが、ここには自然がまだいっぱい残っています。
 黒松内は、「北限のブナ林」として有名です。歌才のブナ林は、大半がブナ(純林といいます)で、樹齢200年以上の自然林です。そのため、1928(昭和3)年に、国の天然記念物に指定されました。
 ブナは、落葉広葉樹で、温帯では主要な樹種となります。氷河期には、北海道からはブナがなくなりました。その後間氷期になって、ブナは、北進してきました。縄文時代には、暖かさのピークとなり、黒松内までたどり着きました。しかし、縄文時代と比べると現在は平均気温が2℃ほど低いですから、ブナの北進は終わり、後退しているのではないかと考えられます。
 実は、黒松内の添別川では、貝化石がたくさん取れます。特に、河床のある部分に、化石が集まっているところ(化石床といいます)があります。化石床には、びっしりと化石があり、自由に取っていいことになっています。「ブナセンター」というビジターハウスにいけば、代表的な標本が展示されていますし、採取や整理の指導も受けることができます。
 貝化石は、瀬棚層とよばれる地層から産出します。瀬棚層は、170万から70万年前の浅い海でたまった堆積物です。瀬棚層が露出するほかの場所にも、化石床があるそうです。
 海の貝がざくざく取れるのですが、雨で増水していたため、今回は採取しませんでした。子供と一緒だったので、雨の中で動き回るは大変なので、「ブナセンター」に長くいることになりました。
 黒松内は、再び、のんびりと訪れたい町となりました。

・帰省・
昨日まで、私は、京都に里帰りをしていました。
秋の大型連休を利用しての
家族全員での里帰りです。
子供たちは久しぶりの実家です。
母は年に1、2度は北海道に来ていますが
家族で京都に行くのは、交通費がかかるので
北海道に着てから、ほとんどいっていませんでした。
法事などでも、私一人が行くことにしていました。
北海道の夏休みが短いのと京都の夏が暑いので、
春秋しか帰省はできないと思っていました。
しかし、長男が来年から中学生になるので、
家族で行動できる機会が減るはずです。
今回が最後のチャンスになるかもしれないと、
思い切ってこの時期に里帰りすることにしました。

・黒松内層・
黒松内には、黒松内層とよばれるものがあり、
その露頭もみることができます。
大きな崖となっているので、
遠目にもはっきりと地層がみえます。
黒松内層は、瀬棚層より古く
500万から140万年前にたまったものです。
また、瀬棚層は浅い海でしたが、
黒松内層は深い海底です。
黒松内を構成する地層も、
時代とともに、環境変化してきています。

2009年9月17日木曜日

5_85 巨大火山:テクトニクス9

 コールド・プルームの反作用のように、マントルの底から暖かいホット・プルームが上昇します。その上昇流がマントル対流のスタートですが、その上昇流がさまざまの火山活動、そしてプレート・テクトニクスの基本となる海嶺の活動をも説明していきます。

 ホット・プルームはマントル物質(カンラン岩)が細い管のような状態で上昇していく流れです。このホット・プルームが、少々不思議な上昇プロセスを取ることが分かってきました。
 物性を調整して小さな水槽の中で、マントルを再現するモデル実験がなされました。すると、上昇流の最上部がキノコのような形状になることが分かってきました。キノコの傘の部分が、くるくると内側に巻き込まれていきます。その規模は、巨大で上昇流の何倍もの大きさになります。そのキノコ状の部分に、温かいマントル物質が溜まることになります。つまり巨大なマントルだまり(マグマだまりでないので注意)になります。そこから、枝分かれしたマントル物質が上昇します。
 もし、そのマントル物質の流れが、直線的な割れ目に入っていけば、中央海嶺になります。太平洋には、非常に古い海洋地殻があるので、その活動時期は少なくとも1億5000万年以上に達するはずです。中央海嶺といえば、海洋プレートの形成の場でもあります。つまり、プレート・テクトニクスのスタート地点でもあります。
 キノコからそのままマントル物質が上昇すれば、活動域が最大1000kmに達するような超巨大火山を形成することもあります。海嶺も巨大火山も、巨大なマントルだまりがあるため、活動期間は数1000万年から数億年におよぶ長いものとなります。非常に息の長い火山活動となります。
 このようなホット・プルームがどのような履歴をもっている物質かを調べたところ、ある見積もりでは、10億年前の海洋プレートに由来するという説もあります。沈み込んだ海洋プレートが、コールド・プルームとして下降し、D"層として長らくマントルの底にあったものが、10億年の時を経て、地表に戻ってきたことになります。
 地球全体で見たとき、ひとつのホット・プルームが上昇してくると、火山活動が活発な時期ができます。実際に地球の歴史で、火山活動の活発な時期をみていくと、数億年に1度の割で、激しい活動が起こってきたことがわかってきました。これが、メガリスの落下、ホット・プルームの上昇などのサイクルに対応していると考えらます。
 以上が、地球全体におよぶテクトニクスとなります。テクトニクスとは、地球の大地の構成をつくりあげるためのモデルのことです。このような、ホット・プルームやコールド・プルームによるテクトニクスを、プルーム・テクトニクスと呼びます。プレート・テクトニクスが地表部分の営みの解説であったの対し、プルーム・テクトニクスは、マントルにまでおよぶ地球全体のテクトニクスといえます。
 プルームは、定常的なマントルの流れを意味するのではなく、間欠的に起こるもので、総体としてみると対流となっています。このプルーム・テクトニクスは、マントル対流を意味し、プレート・テクトニクスもモデルの中に組み込んでいます。現状では、一番多くのことを説明可能なテクトニクスのモデルです。

・科学の流れ・
プルーム・テクトニクスは、丸山茂徳さんが
当時名古屋大学におられた深尾良夫さんが作成された
地震波トモグラフィを始めて見せてもらったとき、
思いつかれたと本人から伺っています。
丸山さんは、地球の各地の地質をたくさんみてきて、
まとめてこられたからこそ、思いついたのでしょう。
しかし、それをモデルとして、多くの人が納得する形に
データや論理を積み重ねていくことが、本当の科学というものです。
それには、多くの研究者の協力が必要になります。
最初は少数派でしょうが、そのモデルがいけるとなると、
だまっていても多くの研究者は研究していきます。
そのような流れを生めるかどうかが重要なのかもしれません。
プルーム・テクトニクスは現在では主流となっています。

・夏休み・
北海道も、いよいよ秋が深まってきました。
大学も来週から後期が始まります。
ですが、私の夏休みはまだ終わっていません。
今度の連休は京都にいきます。
家族で里帰りです。
家族での里帰りは久しぶりです。
墓参りと京都の奈良へもいってみよう思っています。
それが終われば、後期のスタートです。
秋めいてきての夏休みは少々奇異な感じがしますが。
私は、9月が一番、調査できる時期なので、
9月が私の夏休みとなります。

2009年9月10日木曜日

5_84 ホット・プルーム:テクトニクス8

 D"層がプレートの墓場ですが、そこはプレートの揺りかごでもあります。核で温められたD"層が、ホット・プルームとして、上昇してきます。これが、上昇するマントル対流となります。これが解明されれば、マントル対流の全貌がわかることがになります。このようなマントル対流全体が、プルーム・テクトニクスと呼ばれています。

 D"層が海洋プレートの墓場だというのを、前回、紹介しました。D"層は、マントルの底に、部分的にしか見つかりません。長年地球はプレート・テクトニクスが働いていたわけですから、海洋プレートは大量に沈んでいったはずです。それが、D"層が全域にないのは、不思議な気がします。D"層がコールド・プルームの到達後、形成されるわけですが、その後が、少々気になるところです。
 D"層は、時間がたてば、核から伝わる熱によって温められることになります。でも、D"層の岩石は、下部マントルのもともとあった岩石(カンラン岩)とは違った経歴で、性質も違った岩石となっています。D"層は、いったん地表を経由した岩石で、なおかつ不均質です。このような物質が温められると、地震波の速度は低下していくので、周囲の下部マントルのカンラン岩と、地震波では見分けがつかなくなります。
 だたし現在では、地震波の解析技術も進み、D"層には、一箇所だけですが、異常なところが見つかっています。カリブ海の下に見つかっているものですが、ここD"層では、海洋プレートの玄武岩の成分が、一部分が溶けているのではないかと考えられています。
 海洋プレートの中で一番解けやすい成分は玄武岩です。溶けた玄武岩は、鉄の成分が多いため、周囲のマントル物質より重くなる可能性があり、マントルと核の境界に溜まってしまうことが考えられます。そのようなマグマが集まれば、異常な低速度層となるはずです。中央太平洋のD"層の底には、マグマが集まっているかのような低速度層が見つかっています。
 このようなD"層の実態は、現在も研究中で、上で紹介した解釈も、今後二転三転する可能性があります。まだ未解決な部分が多々あり、こからの課題です。
 さて、コールド・プルームが発生すると、必然的にホット・プルームが発生します。なぜなら、コールド・プルームとして大量の物質が、マントルの底に向かって降下していけば、その量に見合った物質が上にいかなければ、物質の収支があいません。
 上昇するところは、長年D"層として温められた部分が主力となるはずです。上昇していくマントル物質は、暖かく、メガリスの大きさに見合ったものになるはずで、巨大なマントル上昇流となります。塊としていくより、細い管のような流れとして上昇していくと考えられます。これを、ホット・プルームと呼んでいます。
 この上昇の仕方と規模が特異なのですが、それは次回としましょう。

・プルーム・
ホット・プルームは、最初は、スーパー・ホット・プルームと
呼ばれていました。
少々まどろっこしい用語なのですが、
プルーム・テクトニクスを考えだされた丸山茂徳さんが
そう呼ばれたため、しばらくその名称が使われていました。
ただし、コールド・プルームはそのままです。
当時、プルームといえば、
ハワイなどのプレートの真ん中で活動する、
マグマの由来がはっきりとしないマントル上昇流に対して
ホット・プルームと名称が事前に使われていました。
それとは規模が違うので、スーパーをつけて区別されました。
しかし、ハワイの火山も、実は、D"層から来た
ホット・プルームに由来するものであると考えられています。

・宮崎調査・
このメールマガジンが届く頃には、
私は、宮崎で地質調査をしてます。
4日に宮崎入りをして、11日までいます。
1週間の調査ですが、いくつかの目的があるのですが、
今回は、宮崎層群を調べることが目的です。
調査の様子は、別の機会に紹介しましょう。

2009年9月3日木曜日

5_83 D"層:テクトニクス7

 今回は、マントルの一番底の話になります。マントルの底には、D"層と呼ばれるものがあります。このD"層は不思議な層で、その実態がよくわなっていなかったのですが、最近ここが、プレートの墓場であることがわかってきました。そして、そこはマントル対流の行き着く先でもありました。

 メガリスの話を前回しましたが、メガリスとは、海洋プレートが遷移層の底で滞留したものでした。しかし、メガリスの形成には、予想外の物理現象がありました。それは、玄武岩が低温の場合、より高い圧力まで、低密度の鉱物が安定であるこということです。低温の玄武岩では相転移が起こりにくく、沈み込みにブレーキかける働きをします。
 メガリスの中に「浮き」の成分ができます。海洋プレートのカンラン岩は、通常の結晶で相転移が進み、「錘」となります。両者の兼ね合いが、メガリスの浮き沈みを決定します。古くて十分冷めた海洋プレートは、「浮き」が大きく、メガリスが遷移層にとどまります。
 この不思議な相転移は、高温高圧発生装置による鉱物合成実験の結果から、わかってきたことです。この実験結果は、当時の相転移の常識に反するものでした。しかし現在では追試もされ、多くの研究者から認められるものとなりました。この不思議な相転移が、メガリスを生むことになります。
 沈み込んだ海洋プレートは冷たいうちは、「浮き」として働き、メガリスとして、遷移層の下部にとどまります。しかし、周辺のマントルは温かいので、メガリスも温まります。すると、玄武岩の結晶の相転移も進みます。温まった玄武岩は「錘」になります。
 このような浮きと錘と釣り合いが、ある一定上の大きさ、一定以上の期間を経過したメガリスでは、バランスがくずれて、重くなり、下部マントルを落下していきます。地震波では、下部マントルでは大きな相転移はみつかっていません。ですからメガリスは、低温で密度が大きいため、下部マントルの底、つまりマントルの核の境界まで落ちていきます。
 さて、マントルと核の境界には、D"(ディー・ダブルプライム)層と呼ばれる不思議なものが、以前から見つかっていました。D"層は、地震波が高速度になるところとして、特徴づけられていました。地震波が高速度とは、低温の物質があることを意味していました。
 D"層は、不思議な存在でした。50kmから400kmほどの厚さもまちまちで、マントル底部に普遍的に存在するものではなく、ないところ(地震波で確認できない)もありました。また、D"層内部を詳細に見ると、非常に不均質であることがわかりました。D"層は、不思議な存在で、なにものなのかがわかりませんでした。
 ところが現在では、メガリスが落ちてきたもの、つまり海洋プレートから由来してきたものだとわかってきました。落ちてきたメガリスだとすれば、低温だし、部分的にしか存在しないし、厚さもさまざまで、中身も不均質になります。今では、D"層は、海洋プレートの「墓場」として理解されています。
 海嶺で形成された海洋プレートがコールド・プールとして、D"層になります。D"層は、数億年ほどかけて暖められ、やがて別の役割を担います。それは次回としましょう。

・サバティカル・
一昨日まで、愛媛県西予市にいってきました。
1泊2日のとんぼ返りの旅行でした。
目的は、来年春からサバティカルで
西予市に1年間滞在することになっています。
サバティカルとは研究のための長期休暇のことで、
わが大学でもこの制度があります。
ただし、再来年から予算の関係でどうなるかは
現在問題となっています。
幸い、私は、1年前に決定してましたので、
予定通りでかけられるようになっています。
そのサバティカルのために、
市長や教育長などの主だった人に挨拶をして、
研究環境を調整するために関係機関との打ち合わせをします。
この町とは、20年ほどの交流があり、
後輩もいるので、なじみのある町です。
そこで1年過ごせるのは幸せなことだと思っています。

・心の師・
玄武岩の相転移の逆転を最初に発見したのは、
岡山大学の伊藤英司さんでした。
現在は退官されていますが、
私もお世話になっていました。
分野が違うので、直接の師弟関係はなかったのですが、
生活や精神の上では大いに世話になり、
現在でも心の師と思っています。

2009年8月27日木曜日

5_82 コールド・プルーム:テクトニクス6

 地表部はプレートの運動が支配しています。プレート・テクトニクスが、地表の大地の営みを解明しました。しかし、プレートの運動は、もっと深い部分にその原動力があります。それは、マントル対流と呼ばれていますが、単純なものではなく、地球の仕組みを反映した複雑なメカニズムが支配しているのが見えてきました。

 マントルは、カンラン岩と呼ばれる岩石からできています。ただし、一様な岩石ではなく、大きく2つの種類に分かれることになります。その境界は、遷移層と呼ばれる深度400kmから670kmあたりにあります。その層を境界(遷移層下部の670kmを境界にしています)にして、上を上部マントル、下を下部マントルと呼びます。
 地震波による地球内部の探査によると、上下マントルで密度の違う岩石があることが分かっています。つまり、上下マントルで、別の岩石になっていることになります。地球内部にいくにつれて、高温高圧の条件になっているために、同じ鉱物でも、深部ではより高密度の結晶になっていきます。その境界は、物理条件によって、必然的に生じるものになります。ですから、同じ化学組成のカンラン岩だとしても、鉱物の組み合わせの違っている全く別の岩石というべきものになっています。
 もともとマントルはカンラン岩からできていると考えられているのですが、マントルの上下で、物質の性質としては、かなり違ったものとなっています。マントルが対流しているとすれば、その境界部で、対流がどう振舞うかが問題となります。
 それがどんな問題かというと、境界部に関係なく対流が行き来するか、それともその境界を物質が越えることなく、上下で別々の対流になっているのかです。行き来する方はマントル対流が一つなので1層対流、行き来しないのは上下で対流ができるので2層対流となります。
 さらに、1層対流なら、物質は上下マントルを行き来しているので、マントルのカンラン岩は、常に混ぜられていることになります。結晶は条件で変化しますが、化学組成は上下でそれほど変わらないはずです。一方、2層対流なら、熱だけが上下を移動して、物質は移動しないことになります。上部マントルは、地上の大陸、海洋、大気と物質をやり取りしているので、長い時間がたてば、上部マントルはもともとのマントル物質とは変わってくることになります。つまり、2層対流なら、遷移層は物質境界となり、1層対流なら単なる相転移の境界となります。
 1層対流か2層対流かは、地震波トモグラフィと呼ばれる、地震波による地球断層撮影という手法によって解決されました。地震波トモグラフィとは、地震波によって地球内部を覗くのですが、コンピュータによって、大量の地震波データを用いて、地球内部を3次元的に示す方法です。地震波は、密度によって進むスピードが変化します。密度は、温度によって変化しますから、物質がわかれば、温度が推定できます。つまり、地震波トモグラフィを、地球内部の温度分布を見ることにも使えます。
 地震波トモグラフィによる地球内部の温度分布によって、マントル対流が見えるようになりました。特に、冷たい海洋プレートが沈み込んでいる状態がよく見えました。太平洋の海洋プレートが日本海溝に沈みこみます。その海洋プレートは、遷移層の底にあたる670kmにまで沈み込みます。そこでいったん停止します。
 なぜ、停止するのでしょうか。沈み込む海洋プレートのうち、海洋地殻を主要部を構成する玄武岩は、上部マントル条件では密度は大きく、海洋プレート全体を引っ張るほどの原動力になるのですが、670kmの結晶の相転移で、不思議なことに、下部マントルの輝石(実際にはペロフスカイトと呼ばれる鉱物)より、密度の小さな結晶に相転移(ポストスピネル転移と呼ばれています)します。そのため、海洋プレートのうち玄武岩の成分だけが、「浮き」の役割を果たします。玄武岩の「浮き」のために、海洋プレート全体が、遷移層の底に滞留することになります。
 このような滞留する冷たいプレートが地震波トモグラフィで見えてきました。このような冷たい海洋プレートのたまったものは、メガリスと呼ばれます。一定以上の厚さを持ったメガリス、つまり長時間沈み込みが続き大量に滞留した海洋プレートは、なだれのように下部マントルに落ち込んでいるところも見えてきました。このような冷たいマントルの下向きの流れをコールド・プルームと呼びます。
 このコールド・プルームは、マントル全体におよぶ下向きの対流とみなせます。そうであれば、マントルは、上下の隔てなく物質ごと、1層の対流として振舞っていることになります。この地震波トモグラフィは、対流を可視化させることになり、説得力のあるものとなっています。ただし、まだ異論もあり完全な決着はみていませんが。

・始原マントル・
始原マントルという言葉があります。
始原マントルとは、隕石と似たような
化学組成をもっているマントルで、
地球の初期に存在したと考えられているものです。
しかし、実際に始原マントルに由来すると考えられる
化学組成の岩石が、各地で見つかっています。
2層対流で物質が入れ替わることがなければ、
始原マントルが下部マントルに
存在すると考えられていました。
それが、マントル対流が、地震波トモグラフィによって
マントル全体におよぶ1層対流として考えられてきたため
そのようなものを想定しづらくなってきました。
しかし、始原マントル由来の成分が見つかるということは、
マントルは、長年対流しているにもかかわらず、
まだ完全に混ざっていないことを示しています。
いったんできた不均質という履歴は
なかなか消えないのかもしれません。

・夏休みの終わり・
8月もいよいよ終わりに近づいてきました。
8月の下旬ともなる秋めいてきました。
今年の北海道は、爽快な夏がなく、
雲の多い、蒸し暑い夏でした。
快適なはずの北海道の夏を味わうことなく
秋がもうすぐそこに来ています。
小・中・高校の学生は、夏休みの終わりを惜しみながら、
あわただしい日々を過ごしていることでしょう。
ただ、北海道は、もうとっくに2学期が始まっていますが。
私の夏休みは、今週から本格的になりました。
前期の校務は終わりました。
ただ、学生は、今週から後期の単位となる、
集中講義を受けています。
私は、9月から出歩くことになるので、
そのための準備に、今週は忙しくしてます。
まあ、いつものように忙しいのです。
私だけでなく、多くの社会人が、
同じように忙しい思いをしているのでしょうが。

2009年8月20日木曜日

5_81 対流:テクトニクス5

 前回までに、プレートが、なぜ動くのかを紹介しました。今回は、もう少し地球の深い部分にまで目を向けて、マントル対流を見ていきましょう。マントル内に、地震波で見ると境界があります。その境界が、マントル対流に対して、どのような意味を持つものなのかが問題となります。

 マントル上部に、温度が高く、流動性をもったアセノスフェアという部分があり、その上に乗っかったプレート(リソスフェア)が動く仕組みがあることが分かりました。海嶺にマントルから上昇してきた熱いマントルの上昇流の押し広げる力と、冷えて重くなった海洋プレートがマントルに沈み込むときの引っ張る力が、プレートを動かす原動力となっています。その結果、プレートが水平方向に移動していました。これが、地球の表層の大地の営みの原理ともいうべき、プレートテクトニクスの考え方です。
 このプレートテクトニクスによって、火山や地震の原因、山脈や海底地形の形成プロセス、火成作用や変成作用のメカニズムなどが、体系的に説明できるようになってきました。プレートテクトニクスは、大きな成果を挙げてきました。今後も、地表の大地の営みは、プレートテクニクスによって解明されていくことでしょう。
 前回、海嶺で熱いマントルが上昇し、海溝で冷たいプレートがマントルに沈み込むということは、大局的に見ると、マントル対流になっているということをいいました。では、沈み込んだプレートはどこにたどり着き、熱いマントルは地球のどこから湧き上がってきたのでしょうか。このマントル対流を解明するには、地球深部を探ることになります。
 マントルは、上部マントルと下部マントルに分けられています。上下の境界は、遷移層と呼ばれる部分になります。地震波の研究から、遷移層は、深度400kmから670kmあたりにあることが分かっています。
 地球は、深部にいくに従って、温度と圧力が上がります。深度400kmは13万気圧、1450℃の条件、670kmは24万気圧、1600℃の条件になります。遷移層は、岩石の構成鉱物が、より高温高圧の結晶に変わる(相転移といいます)ためにできた、物質の違いによる境界が、地震波に現れていると考えられています。遷移層より上が上部マントル、下が下部マントルになります。
 遷移層は、物質境界であり、下部マントルから熱だけを上部マントルに伝え、上下に物質は移動しないと考えられていました。つまり、上部と下部マントルは、それぞれ別の履歴をもったマントル物質からできていると考えていました。
 上部マントルには、何度も海洋プレートとして地表付近を巡ったものが混じっていることになります。時には、地表の成分や物質がマントルを汚すこともあった(汚染といいます)と考えられています。上部マントルからは、大陸地殻となったり、海洋に溶け込んだり、大気になった成分などが、抜けていったと考えられていまる。
 一方、下部マントルは、地球ができたときのままの物質(始原物質や始原マントルとよばれています)が、そのまま残っていると考えられていました。ですから、上下のマントルは45億年も経過すると、かなり違った性質の物質になっていると考えられます。
 マントル内の熱を伝える方法は対流ですから、マントル対流も、上部マントルと下部マントルが、それぞれ別の対流をしていたと考えられています。このような上部マントルと下部マントルが性質の違う物質で、対流も上下別々に起こっているというモデルは、2層対流と呼ばれています。
 2層対流に対して、マントル対流は1層で起こるという考えもあります。1層対流は、遷移層が相転移の場にすぎず、物質が簡単に入れ替われる境界で、上下のマントルは常に物質ごと入れ替わっているという考え方です。
 この1層対流と2層対流の2つの考え方には、現在では、地震波トモグラフィという手法によって決着をみました。その内容は、次回にしましょう。

・地震波トモグラフィ・
地球深部を探るために、
地震波が重要な働きをしています。
現在も、その重要性は変わりませんが、
精度が向上して、地球内部の非常に微小な変化をも
観測することできるようになっています。
おかげで、マントル内の情報も
多く得られるようになってきました。
その情報を一つに総合化したものに、
地震波トモグラフィがあります。
トモグラフィとは断層撮影のことで、
医療でよく使われる方法です。
人体を切ることなく、人体内部の状態を探る方法です。
そのために、人体の内部を通り抜け
内部の物質や状態の変化を反映する
電磁波や粒子などが利用されます。
地球は岩石からできていて巨大なため、
人工的な電磁波は通用しません。
地震波を使って、内部を覗くことになります。
でも地震波は、自然現象ですから、
いつ起こるかわかりません。
でも幸いなことに、地球全体で見ると
多数の地震が、日々起こっています。
それを利用したものが地震波トモグラフィです。

・涼しい朝夕・
北海道は、お盆過ぎから急に
涼しい日が続くようになりました。
まだ、湿度は高く、晴れると蒸し暑くなりますが、
朝夕は、上着が欲しくなるような
日がくるようになってきました。
まだ、暑い日は来るのでしょうが、
このまま秋が来るのではという気配さえあります。
小学校が19日から始まりました。
2学期がスタートしたのですが、
大学では、まだ、前期の最後の詰めが行われています。
つまり、採点と成績評価です。
これが終わると、教員もやっと夏休みになります。
そんな夏休みが暑くないともう秋になりそうで、
なんとなく不安になります。
ですから、涼しい夏は、落ち着かなくなります。

2009年8月13日木曜日

5_80 原動力:テクトニクス4

 プレートが動くのは、地球内部の熱が外に向かって放出される、という天体の熱の営みによるものです。固体内を、物質が移動しながら熱が伝わるという現象は、マントル対流と呼ばれています。理屈は単純ですが、実際に起こる現象は複雑です。その単純さと複雑さを結ぶ因果関係は、まだ解明できてないことも多々あります。

 プレートが動くのは、プレートの下に滑りやすいアセノスフェアがあることがひとつの要因でした。しかし、動かす駆動力が問題となります。現在でも、この全貌はまだ完全には解明されていませんが、2つの駆動力があるとされています。
 一つは、海嶺での広がる力です。大陸が割れはじめのとき、大陸プレートが広がります。そのきっかけは、大陸プレートの下部に、熱いマントル物質が上昇してくるためです。マントル対流の上昇部が、大陸プレートの下にくることになります。それには、必然性があります。
 マントルは、対流によって地球内部の熱を地表に運びます。熱の放出場は、火山です。大規模な火山は、海洋プレートの境界になっている中央海嶺となります。大陸プレート内には火山はありますが、大規模なものは稀で、大陸下部は、長らくて熱を放出することがなく、熱が蓄えられることになります。そのため、大陸下には、熱いマントルが存在することになります。なにかのきっかけがあると、大陸下部から熱いマントルが上昇してきます。
 割れた大陸の間には、地下ではマントルが上昇し、地表では海が侵入します。その結果、海嶺が形成され、海洋プレートが形成されることになります。海嶺は、マントル対流の熱の出口として、両大陸プレートを両側に広げます。やがては、海洋プレートが広がっていくことになります。これが、プレートを動かす力となっています。
 海洋地殻は玄武岩からできていますが、その下には玄武岩が抜け出した、でがらしのマントルの岩石(ハルツバージャイトと呼ばれます)があります。玄武岩とハルツバージャイトを合わせれば、もとのマントルの成分になりますが、水分やガスなどの気体、液体成分は抜けていきます。玄武岩とハルツバージャイトが分離した状態で、海洋プレートとになります。
 大陸プレートの広がる力は、ある一定以上に海洋地殻が広くがるとそれほど強くなくなり、プレート移動の駆動力ではなくなります。そこで、もう一つの駆動力として、海溝に沈みこむ海洋プレートによる引っぱる力が、重要になってきます。
 そもそも海溝ができるのということは、冷えた海洋プレートが、マントルのアセノスフェアにもぐる込むことです。これは、海洋プレートが、アセノスフェアより、密度が大きくなるためと考えられています。
 海嶺でできたばかりの海洋プレートは、温度が高いため、密度は小さくなっています。時間がたっていくにつれて、海洋プレートが冷えてきます。ある時間がたつと、つまり一定以上に広がった海洋プレートは、アセノスフェアにもぐりこむ密度になります。すると、海溝が形成されます。相手がたとえ海洋プレートであっても、古い方が沈み込んでいきます。
 熱いマントルが、海洋プレートになり地表(実際には海底)で冷やされます。冷えた海洋プレートは、密度が大きくなりマントルに沈み込みます。この力もなかり強いようで、力関係でいうと、大きな海では、海溝の沈み込みよる引っ張りの力によって、海嶺が広がり、そこにマグマが上昇してくるということになってしまうようです。その転換期は、いつ、どこかになるのかなどは、まだよく分かっていないようです。
 海溝で下へ向かうプレートの動きも、一連のマントル対流の一部とみなせます。プレートテクトニクスとは、マントル対流の地表付近の営みを見ていることになります。ただし、熱いマントルが上昇してきて、表面で冷えたマントルとして、また地球内部にもどっていくという単純なものではありません。詳細に見ると、いろいろな場所や時期ごとに、複雑な現象の因果関係の事象を起こしています。それらの複雑な事象が、大局的に見ると、マントル対流になっていることが、わかってきたのです。

・お盆・
いよいよ、お盆シーズンとなりました。
我が家は、北海道でじっとしています。
今週は卒論学生と個別に
論文指導の面談をしています。
そのため、週末でないと休みがとれません。
さらに、研究室は暑いので、
午前中しか仕事になりません。
午後には、自宅に帰ります。
これは、毎年のことなので、なれていますが、
ただ今年は、湿度が高く、
北海道らしくない夏となっています。
連日、朝のうちは曇っていて、
午後に晴れてくるというパターンの繰り返しです。
ただ、時々雨がぱらつくこともあるので、
出かけるのに躊躇します。
まあ、今週はお盆なので、
どこにいっても混んでいそうなので、
人のあまり来ないところを探して
出かける予定です。

・旅の報告・
先週、道南に旅をしたのですが、
今回のテクトニクスのシリーズが始まって、
区切りがつかず、ついつい紹介できずにいます。
8月末には、1泊2日で西予市に出かけます。
9月上旬には、宮崎に1週間、
中旬には、日高に4日ほどでかける予定です。
下旬連休には、ふるさとの京都に家族で帰省する予定です。
あわただしい日々の後に、
連休明けには、後期の授業が始まります。
ですから、シリーズの終了後も、
ばたばたしているので、旅を紹介できるのは、
だいぶ先になりそうです。
まあ、気長にお付き合いください。

2009年8月6日木曜日

5_79 構造:テクトニクス3

 いよいよ、今回から、プレートがなぜ動くかの説明となります。プレートが動く理由のひとつは、その構造にあります。硬いプレートの下に、軟らかい岩石からできている動きやすい層があるためです。その説明をしていきましょう。

 地表で見ると、プレートは10数枚に区分されています。地殻もマントルも、種類は違いますが、岩石からできています。岩石とは、そもそも硬いものです。なのにプレートとして、それぞれがすべるように移動するのは、なぜでしょうか。それは、硬いプレートの下部には、同じ岩石でも、少々性格の違うものがあるからです。
 プレートの厚さは、平均としては100km程度ですが、場所によってさまざまな厚さになっています。海洋地殻では、70kmほどで薄いのですが、大陸地殻の下では、厚く、200kmほどになるところもあります。
 プレートの厚さは、岩石とマントルの密度の関係で決まってきます。大陸地殻は、海洋地殻に比べ密度が小さくなっています。マントルは、海洋地殻と比べても、密度が大きくなります。密度の大きなマントルに上に、薄い海洋地殻と厚い大陸地殻が浮かんでいるような状態になっています。まるで、水(マントル)に浮んだ木(地殻)のようになっています。
 軽くて厚い大陸地殻は、上にも出っ張っていますが、地下にも深く入りこんでいます。一方、密度の大きい海洋地殻は薄いにもかかわらず、低くなっているのは、密度が大きくマントルへの沈み込みのためでもあります。そのような地殻の性質を反映して、海洋のプレートは薄く、大陸プレートは厚くなっています。このような密度によるバランスを、アイソスタシーと呼んでいます。
 アイソスタシーが成り立つということは、マントルを構成している岩石が、地殻の密度と体積に対応して、自由に上下できる流動性があることを示しています。ところが、マントルは、そもそも固体のはずです。プレートの下の岩石もマントルで固体のはずですが、流動性を持っているのです。少々奇異な感じがします。
 それは、岩石が軟らかくなっているためです。なぜ軟らかいのかというと、岩石は高温高圧条件に置かれると、たとえ溶けていなくても、可塑性、流動性がでてくるためです。キャラメルが固体なのに、温かいと割れることなく形を変えられるのと同じ理由です。もちろん、さらさらと流れるわけではなく、長い時間をかけて、ゆっくりと流動することになります。
 このような軟らかい部分は地震波で調べられていて、地球内部での分布がわかっています。軟らかい部分は、地震波の伝わる速度が遅くなることから、低速度層と呼ばれています。低速度層は、70kmから250kmほどの深さのところに広がっています。
 低速度層の始まりは、場所によって違います。その違いは、大陸プレートと海洋プレートの違いを反映してます。この低速度層のはじまりが、プレートの底となります。
 低速度層は、アセノスフェアと呼ばれています。アセノスフェアとは、軟らかい岩石の部分です。アセノスフェアに対して、プレートの硬い部分は、リソスフェアと呼ぶこともあります。
 このような流動性があるアセノスフェアの上に、硬いプレート(リソスフェア)が乗って動いていることになります。アセノスフェアが流動できるので、リソスフェアが硬いプレートとして動くことになります。つまり、プレートとその下のアセノスフェアというセットになった構造が、プレートが動ける要因となります。
 では、プレートを動かす原動力はなんでしょうか。それは次回としましょう。

・道南の旅・
8月上旬の4日間、道南にでかけていました。
道南といっても、かなり中央よりで、
長万部、黒松内、島牧、瀬棚のあたりをうろうろしていました。
ただ、4日間、ほどんど毎日、
一日で雨、曇り、晴れが繰り返すような
天候不順でした。
外で行動するにはあまりよくない天気でした。
あいにく天候でしたが、
行くべきところをキャンセルしましたが、
思わぬ発見もありました。
旅行には、思わぬ出来事がつきものです。
そんな旅行を楽しました。
その様子は近々紹介します。

・定期試験・
大学は、今週が定期試験の期間です。
8月になっての試験は、暑いので大変です。
何のための夏休みなのでしょうか。
暑いから夏休みのはずが、一番暑いときに試験とは
どうなっているのでしょうか。
まあ、北海道では、暑いのはほんの1、2週間ほどです。
ですから、1ヶ月も2ヶ月も夏休みはいらなくなります。
じっさい小中高校の夏休みは、30日程度で
本州より10日ほど短くなっています。
その分冬休みが長くなっています。
本当に寒いのは、冬休みが終わってからの、
1月下旬から2月にかけてなのですが。
地域ごとにもっと、自由に休みや運営をすればいいのですが、
一度できた慣習はなかなか変えられないものです。
来週から、大学は2ヶ月近く夏休みとなります。
しかし、私は、来週から採点と卒論生との面談があります。
私の夏休みは、8月下旬になってからです。

2009年7月30日木曜日

5_78 分布:テクトニクス2

 前回は、プレートの紹介をしました。プレートとは、地殻とマントル上部の硬い岩石が板として振舞うものです。プレートは、現在の地球上で何枚あり、どのような動きをしているでしょうか。また、どのような分布をしているのでしょうか。

 プレートとは、100km程度の厚さの地殻とマントル上部が、岩石の板として動くというものでした。プレートは、硬い岩石が、板のように塊として振舞います。では、その板は、地球の表面を何枚で覆い、どのような運動をしているのでしょか。
 現在の地表は、代表的なものとして14枚のプレートがあります。ユーラシア、北アメリカ、南アメリカ、太平洋、ココス、ナスカ、カリブ、アフリカ、南極、アラビア、インド・オーストラリア、フィリピン海、スコシア、ファンデフカの14枚です。大きさは、さまざまです。一枚に見えるプレートにも境界があったり、複雑な地域では、多数のプレートに細分が可能であったりします。解釈によって、プレートの数は、変わってきます。
 そもそもプレートの区分や運動は、海洋底の調査から分かってきたものです。
 海洋地殻の最上部は、玄武岩からできています。玄武岩は、海嶺で噴出したマグマが固まったものです。マグマが固まるとき、磁性のある鉱物(磁鉄鉱など)も結晶化します。そのとき磁性のある鉱物は、地球の磁場の向きに並んで岩石の中に取り込まれます。岩石全体としては、マグマが固まったときの地球磁場をそのまま記録していることになります。
 地球の磁場は、過去に何度もN極とS極が入れ替わっていることがわかっています。その記録が、海洋底の岩石には残されていました。これは、海洋底拡大の証拠となりまた。また、プレートの運動の歴史が記録されていることにもなるわけです。磁気の反転が繰り返される縞模様は、海嶺で新しく形成された海洋地殻(プレート)の拡大していく様子が、磁気テープのように残されているのです。その縞模様から、プレートの移動速度と方向の記録が、読み取ることができます。
 この方法は、海嶺があることろの記録が主になります。また、これでは、現在行われている運動ではなく、過去の運動を読む取ることになります。岩石の磁気の記録から、プレートの速度や方向を読み取ったのですが、現在ではプレートごとの運動を、実測できるようになってきました。
 プレートの運動は、GPSやVLBI(で超長基線電波干渉法)はなどと呼ばれる手法で、移動速度と方向が実測されています。これらの手法は、過去の運動は分かりませんが、現在起こっているプレートの運動が、正確に決定されてきます。
 調査が進むと少々困ったことになってきました。大きなプレートでは、同じプレート内で、何箇所かの測定がなされています。すると、一つのプレート内で移動速度や運動の向きが、違っていることがわかってきました。これでは、硬い板としてのプレートの振る舞いに矛盾をきたします。
 そのような矛盾を解消するために、大きなプレートは細分されています。現在のところ、40枚ほどのプレートに細分することで、説明されています。しかし、必ずしもそれぞれのプレートが独自の運動をしているわけでもなく、はっきりと分離できないものも含まれています。つまり、ある隣り合ったプレートとは違った運動をしているのですが、別の隣接するプレートとは似た動きをしていることがあります。
 このような理由のため、研究者によって、プレートの数は、いろいろな値になってしまいます。まあ、背景を知っていれば、数の違いも気にならないのですが。
 では、プレートは、なぜ動くのでしょうか。それは次回以降としましょう。

・エゾ梅雨・
梅雨明けになったようですが、
本州の方は、カラッとした夏の天気になったでしょうか。
北海道は晴天率が低く、低温が続いています。
晴れても、湿度が高いため、蒸し暑い日となります。
まるで梅雨のような天候が続いています。
これをエゾ梅雨というのでしょうか。
少々時期が違うので、エゾ梅雨ではないような気がします。

・予告違い・
あまり気づかれた方はおられないと思いますが、
前回、「では、なぜプレートは動くのでしょうか。
それは次回としましょう。」
という文章で終わりました。
実は今回も同じような内容の文面で終わりました。
今回、プレートが動く理由を説明するつもりでしたが、
書いているうちに、違うものになってきたのです。
申し訳ありませんでした。
そして、今回も同じ予告をすることになりました。
次回こそ、理由を説明するつもりで、一部書きはじめました。
すると、またまた、プレートの構造と
動く理由の両方が入った内容となりました。
でも理由を説明するためには、
プレートの構造も必要となります。
ですから、2回にわたって、理由説明をすることになります。
しかし、書き続けると、また違った内容になるかもしれません。
そんなことなら、次回予告などしなければいいのですが、
ついつり筆の勢いで、書いてしまいます。
ですから今回は「次回以降」という表現にしました。
寛容な目で見過ごしてください。

2009年7月23日木曜日

5_77 プレートとは:テクトニクス1

 だれもが、よく耳にするプレートやテクトニクスについて考えていきます。案外、その詳細を知らない人が多いのではないでしょうか。内容は高校の地学レベルです。今回から、数回にわたってプレートとプルーム、そしてテクトニクスとは、何かを見ていきます。

 プレートテクトニクスという言葉は、多くの人が聞いたことがあると思います。若い人は、皆、学校でも習ったはずです。でも、学校で習ったことがすべて身についているかというと、それはなかなか難しいようです。残念ながら、1980年以前に高校を卒業した私のような年配の人は、習っていませんが。
 現在の大学生、特に文系と名乗る学生は、プレートテクトニクスに関する理解は、そう深くなさそうです。私は、文系で小学校教員を目指す学生たちにも教えているのですが、彼らも状況はあまり変わらないようです。
 大人の人でも、文系と思っている人、あるいは理系の人でも、地球科学に興味のない人は、プレートやテクトニクスの意味や、プレートテクトニクスと地震や火山の関係を理解している人は、どれくらいいるでしょうか。また、日本のプレートテクトニクスにおける特殊性を知っている人はどうでしょうか。
 もちろん、プレートテクトニクスも科学ですから、まだ分からないこと、新しく分かったことなどもあり、その知識や体系は変化しています。新しいところでは、プルームとプルームテクトニクスとは何か、を見ていくことにしましょう。これも、最近、高校の教科書に登場してきたものです。
 プレートテクトニクスの基礎知識からいきましょう。まずは、プレートとは、何か、からです。
 プレートとは、plateのことで、「板」という意味です。地球の表面を、岩石が板状の塊として動いているので、プレートと表現したわけです。「板」とはいっても、地球の表層ですから、非常に大きなサイズになりますが。
 地球は、外側から気体、液体、固体からできています。気体は大気、液体は海洋で、固体は少々複雑です。固体は、外側はマントルと地殻で岩石から、内側は核と呼ばれ、鉄からできています。マントルの外側と地殻がプレートとして振舞います。
 プレートは、マントルと地殻の硬い岩石からできています。「硬い」とは、力が加わっても固体として振舞うという意味です。ある一定以上の力が加わると、「硬い」固体は割れてしまいます。そのような硬い岩石をプレートと読んでいます。
 では、なぜプレートが動くのでしょうか。それは、次回としましょう。

・日食・
さて、皆さんの地域では日食は見られたでしょうか。
私は、曇り空であきらめていたのですが、
雲の切れ間か、雲越しでしたが、
部分日食を観察することができました。
ピンホール効果を期待して、準備をしていたのですが、
雲越しだったので、
影はほとんどできずに撮影できませんでした。
しかし、幸いにも、雲越しに直接、
部分日食をとることができました。
家内にビデオで撮影をしてもらいました。
あきらめずに、空を見ていたからでしょうか、
今回、北海道でも日食を観察できました。

・教科書・
小学校の学習指導要領や指導要領解説理科篇などでは、
プレートという語はでてきません。
しかし、教科書の解説では、
プレートと火山、地震の関係が述べられています。
中学校の第二分野の「地球と宇宙」の単元では、
プレートによる説明が行われています。
高校の地学では、「活動する地球」という単元で、
より詳細なプレートの運動を扱うことになっています。
ですから、高校で地学をとらなかった人も、
小学校や中学校の理科で、
プレートやプレートテクトニクスを習っているはずです。
ですから、もしその授業を覚えていれば、
プレートテクトニクスの意味はわかるはずです。
でも、現実は、なかなかそうもいかないようです。
最近の教科書と自分の習ったころのものを比べてみると
その違い驚くことがあります。
それこそが、学問の進歩の結果なのです。

2009年7月16日木曜日

3_77 高温のマントル:コマチアイト3

コマチアイトの起源をさぐっていくと、太古代のマントルに異常な高温域があったことが分かってきました。そもそもコマチアイトが火山として噴出するには、はやりマントル全体が高温でなければなりません。その熱のもとは、地球の形成時に蓄えられたものでした。

コマチアイトは、マントルが大きな部分溶融をしためできたことがわかってきました。マントルの部分溶融の程度を増やすには、通常より温度が高ければいいのです。温度が高ければ、よりたくさんのマントルが溶けます。
地球のマントルですから、いくらでも上げるというわけにはいきません。地球史上、あるいは地球熱史上、許される範囲があるはずです。岩石を溶かしてみる実験などで、その溶ける温度を推定することができます。コマチアイトのようなMgOの多いマグマは、非常に高温(1650℃以上)の条件で形成されます。もちろん、この温度は、現在のマグマのできる温度よりかなり高いものです。
ところが、これほど温度が高くなくても、部分溶融の程度を上げることができます。それは、溶けるマントルに少量の水(重量比で3~5%)があれば、部分溶融の程度を増やすことができます。コマチアイトができたマントルに水があったのか、なかったのかによって、想定されるマントルの温度も変わってくることになります。
イギリスのベリー(Berry, Danyushevsky, O'Neil, Newville & Sutton)らは、その問題を解決したという論文を、昨年(2008年)の10月にネイチャーという雑誌に発表しました。
ベリーらは、ジンバブエの27億年前のコマチアイトを使いました。カンラン石の結晶の中に閉じ込められているメルト(液体という意味)を見つけて、分析しました。このメルトは、結晶の中に取り込まれているので、包有物(インクルージョン)と呼ばれています。メルト包有物とは、カンラン石が結晶化するとき、つまりカンラン石ができるときのマグマが取り込まれて、そのまま保存されたものです。つまり、コマチアイトのマグマそのものです。メルトとはいっても、現在はガラスになっています。
もしカンラン石が変質していなければ、メルト包有物も、もとのままの状態で保存されているはずです。そのような包有物を見つけて、ベリーらは、鉄の酸化状態(すべての鉄の中で3価の鉄イオンの占める比率)を調べました。すると、マグマの鉄の酸化の程度は非常に低く、現在の中央海嶺の玄武岩と同じだということがわかりました。このような低い酸化度は、海嶺玄武岩のように非常に水の少ない環境(重量比で0.2~0.3%)でできたと推定されました。
以上のことから、コマチアイトは、1700℃ほどの高温の条件で、マントルがたくさん溶けてできたことになります。1700℃は、マントルでも異常な高温ですが、このような異常に温度の高いマントルが、太古代にはあったことになります。
通常は、地表近くまでマグマが上がってくると、冷却にともなってカンラン石ができてマグマから取り除かれ、MgOの濃度は下がっていきます。しかし、コマチアイトは溶岩として地表に流れ出ています。これは、昔の地球内部が、今よりももっと温度が高かった可能性を示しています。なぜ高温であったのでしょうか。
案外簡単に答えは見つかります。その答えは、地球が熱い状態からスタートしたからです。材料となる小惑星が衝突合体しながら、地球は形成されました。衝突時にはその場はものすごい高温状態になります。地球の内部に蓄えられた熱は逃げにくく、熱くなった地球はなかなか冷めません。そんな地球の誕生のシナリオが描かれています。その名残の熱は、今も地球内部に蓄えられています。ですから、太古代には、地球形成時の名残の熱がまだ十分に残っていたのです。
コマチアイトのスピニフェクスには、そのような意味があったのです。

・感傷に浸る・
先日、写真を整理していました。
すると、ついつい写っているときのことを
思い出してしまいます。
つまり感傷に浸っているのでしょう。
それはそれで楽しいのだですがが、
ついつい見入ってしまいます。
たまたまその作業は仕事として行っていたのですが、
気づくと結構時間がたってしまっていました。
結局他の仕事へのしわ寄せがいきます。
感傷に浸ることも、自分の首を占めているのですね。

・長男の成長・
長男が自分自身の進路について考え始めました。
先日、進路について今までとは違う考えができたようです。
なぜ変更したかを聞いたら、
その理由を忘れたといいます。
そんな大事なことを忘れるとは信じられないのですが、
まあそれは、今度思い出しておくといってます。
それより、自分自身のことを、刹那的な思いではなく、
親の許容条件、自分の能力、嗜好、夢など
いろいろな条件を考え、客観的に考えることが
少しはできるようになったのでしょうか。
それとも単に、刹那的な心変わりなのでしょうか。
自分自身のことを、深く考えられるようになったのであれば、
これは成長とえいます。
次は親を乗り越えるためのステップへと進むのでしょう。
そうなると私がそれにどこまで対抗出るのでしょう。
できるだけ大きな壁になっていこうと考えていますが、
どれだけ立ちはだかられるでしょうか。
あっさりと、かわされるかもしれませんが。
まだ、少ししか話していないので、
長男の本心はわかりません。
もっと話をしていく必要がありそうです。

2009年7月9日木曜日

3_76 部分溶融:コマチアイト2

 コマチアイトの特異性を前回、紹介しました。今回は、化学成分の特徴をもう少し詳しく見ていきましょう。そこから、コマチアイトが、どのようなでき方をしたかを読み取ることができます。火山は、マントルに開けられた覗き穴です。それもコマチアイトは、太古代のマントルの覗き穴なのです。

コマチアイトは、太古代に特徴的に噴火した火山であること、そしてカンラン石を非常にたくさん含むことが特徴ということを前回紹介しました。
カンラン石が多いため、カンラン石の化学成分であるマグネシウムも多くなります。コマチアイトは、他の岩石(玄武岩など)と比べて、マグネシウムが特別多いのですが、それはカンラン石を主成分としていること、さらにマグネシウムを含む輝石も構成鉱物になっているためです。
その他にも、化学成分にいくつかの特徴があります。少し詳しく見ていきましょう。
コマチアイトには、ニッケル(Ni)やクロム(Cr)が多くなっています。ニッケルやクロムは、マントルに多い成分で、マグマが結晶化するときに最初に固体に取り込まれます。ニッケルはカンラン石に取り込まれます。また、クロムは輝石に取り込まれたり、クロムの多い結晶(クロマイト)ができたります。
マグネシウムが多い分、他の成分が少なくなります。岩石の主成分である珪酸(SiO2)が、40から45%ほどしか含まれていません。珪酸成分が少ない玄武岩でも45%以上含んでいますので、45%以下とは非常に少ないものになります。もちろん、通常の火山岩は、50%より珪酸が多くなっています。
さらに、酸化カリウム(K2O、0.5%以下)、酸化カルシウム(CaO)と酸化ナトリウム(Na2O)(CaOとNa2Oをあわせて2%以下)も、少なくなっています。
ここで、成分(元素)名をいろいろ挙げたのは、成分の化学的な特徴によって、マグマができるときの状況を反映しているからです。成分の性質を知り、その量比を比べていくことで、マグマのでき方を探ることができるのです。
マントルが溶けてマグマができます。しかし、マントルが全部溶けることはなく、マグマと溶け残りのマントルができます。元素には、マグマができると、マグマの中にすぐに入るもの(液相農集元素と呼ばれます)があります。上に挙げた成分で、液相農集元素にあたるのが、酸化カリウムと酸化ナトリウムです。
液相農集元素が少ないマグマができるのには、2つの可能性があります。もともとマントルに液相農集元素が少なかったか、マグマの中で薄まったかのどちらかになります。
もともとマントルに液相農集元素が量が少ないというのは、そのマントルがマグマを出した経験が持っている場合です。一度マントルが溶けると、液相農集元素がマグマに入り込みます。すると、次に同じものが溶けても、マグマには、液相農集元素があまり入らなくなります。
薄まるというのは、液相農集元素は、マグマができるとき最初に取り込まれるのです。その後、マントルの溶けつづけると、液相農集元素は最初に出ていますから、液相農集元素を含まないマグマの量が多くなり、マグマでは相対的に比率が減っていきます。
どちらかを決めるには、別の元素に着目します。ニッケルやクロム、そしてマグネシウムという多い元素に着目します。これらの元素は、マントルの構成物となっている鉱物(カンラン石や輝石)にたくさん含まれています。これらは、固相農集元素とも呼ばれます。マグネシウムはそれらの鉱物の主成分ともなっています。これらの元素は、マントルの溶ける比率が増えていくと、マグマの中の比率も増えていきます。
コマチアイトは、固相農集元素の元素が多いので、マントルがたくさん溶けてできたことがわかります。液相農集元素が少ないのは、マントルが溶ける量が多く、マグマの中で薄まったたであることが、これから判明します。
マントルの溶ける比率を部分溶融の程度という表現をします。コマチアイトは、マントルの部分溶融の程度がかなり大きかったことになります。部分溶融の程度が大きくなることは、現在でも起こりうることです。しかし、重要なことは、コマチアイトが太古代に集中していることです。そして、火山として噴出しているということです。このなぞの解明は、次回としましょう。

・夏の計画・
皆さんは、もう夏休みの計画をお考えでしょうか。
我が家は、家族で道内を巡ることにしています。
なぜなら、本州は暑いからです。
せっかく涼しい北海道に住んでいるのですから、
北海道の夏を満喫したいと考えています。
ただし、今年はあまり日程が取れないので、
本当なら道東へ行きたいと考えていたのですが、
遠いので、道南にしようかと考えています。
8月初旬なので宿が取れるかどうか心配です。
それによって、行く場所が変わってきます。

・将来の糧・
先日学科の2年生が実習をおこないました。
近所の子どもたちを40名近く集めての行事です。
行事の企画や準備、運営、
子どもを集めるための宣伝などを
実際に行うって体験することが、
この実習のテーマでした。
行事当日までなかなか大変でしたが、
大変な思いをした者ほど、
達成感は大きかったのではないでしょうか。
そして、かけがえのない体験だったのではないでしょうか。
将来の糧になればと思います。

2009年7月2日木曜日

3_75 特異な火山岩:コマチアイト1

 コマチアイトと呼ばれる岩石があります。以前、このエッセイもでも紹介したことがありますが、少々変わった石です。その変わった性質から、地球の仕組みを垣間見ることができます。コマチアイトは古い時代に活動した火山岩で、まるで過去を覗くための窓のようなものです。

コマチアイトという岩石があります。コマチアイトは、南アフリカ共和国バーバトン山地の南側を流れる、コマティ川の露頭から最初に見つかりました。川の名前にちなんで、コマチアイトと名づけられました。英語ではkomatiiteと書きます。
コマチアイトは、少々変わった岩石です。まれにしか見つからない岩石でもあるのですが、特異な成分と組織を持っている火山岩です。また、その火山は、限られた時代に特徴的に噴出しています。
コマチアイトは、残念ながら日本では、採取することができません。なぜなら、ほとんどのコマチアイトは、太古代(38億から40億年前)に活動した火山でだけみつかります。原生代にも見つかることがありますが、非常にまれになります。日本列島では、そのような古い岩石は分布しません。ですから、大陸地域で古い岩石が分布する地域でのみ、見つかります。コマチアイトは、太古代という非常に古い時代にだけ活動したマグマからできたのです。
コマチアイトは、放射状に長く伸びた針状の結晶がいっぱ集まってできています。この数cmにもなる結晶は、カンラン石が延びたもので、このような組織をスピニフェクスと呼んでいます。ただし、溶岩の内部にいくにしたがって、スピニフェクスは減ってきて、普通の火山岩の組織になります。
溶岩は外ほど急激に冷えます。通常、カンラン石が急に冷えると羽毛状の結晶になるのですが、ある種のマグマが急激に冷やされるとカンラン石の結晶が、このような針状になることがあります。スピニフェクス組織があることから、この岩石は、地上に噴出した火山岩であることがわかります。
カンラン石が、スピニフェクスのような組織ができるためには、マグマから最初の結晶としてカンラン石になる必要があります。大量のカンラン石ができるためには、カンラン石の主成分であるマグネシウム(Mg)がマグマにたくさん含まれていなければなりません。コマチアイトには、大量のマグネシウムを含んでいます。酸化マグネシウムに換算すると、重さで18%以上になります。通常の玄武岩では、せいぜい10%ほどにしかなりませんから、非常の多くのマグネシウムを含んだマグマからできたことになります。
コマチアイトは、他にも特異な化学成分を持ちます。マグネシウムが多いため、岩石の主成分である珪酸(SiO2)が少なく(40から45%程度)なり、また酸化カリウム(K2O)などのある共通の特徴をもった成分も少なくなっています。
その共通の特徴とはなんでしょうか。そもそも、このような特異な化学成分をもったマグマが、どうしてできたのでしょうか。なぜ、古い時代にだけできたのでしょうか。それに対する、新しい成果が昨年(2008年)10月にネイチャーという雑誌に報告されました。その詳細は、次回以降としましょう。

・ムンロタウン・
私がコマチアイトを見たのは、
カナダのケベック州のムンロタウン(Munro Town)
というところでした。
1982年8月に恩師の田崎先生と共に
コマチアイトを調査するためその地を訪れました。
廃坑になった鉱山の跡地を通り抜けたところに
小高い岩石の丘がありました。
その丘が、コマチアイトからできていました。
スピニフェクスの見事な組織が
岩石の表面に見えていました。
夢中になって調査していたのですが、
昼食の時間が過ぎました。
まわりには、野生のブルーベリーがいっぱいあったので、
先生と二人で昼食代わりに腹いっぱい食べました。
25年以上たった今でも、
そのときの記憶は鮮明に残っています。
調査のときにとった標本を
田崎先生は大切に保管されていました。
断面が磨かれた標本は、
お葬式のときに形見としていただきました。
そのコマチアイトの標本には
A2-3, Munro Town, Komatiite, Col. Taz. 1982.8
と書かれています。
この日付とメモと標本は、
私とって非常に大切な思い出となっています。

・日焼け・
いよいよ7月です。
北海道も夏になりました。
快晴の爽快な日が続いています。
北海道は、乾燥しているので、
日陰であれば、それほど暑くはありません。
先日の日曜日に、地区での一斉清掃がありました。
午前中に道路の草むしりをします。
お昼には、その慰労会でジンギスカンをします。
近くの公園でやるのですが、日陰がなく、
快晴の夏の太陽を浴びながらのジンギスカンでした。
ビールはうまいのですが、
汗がいっぱい出ます。
半ズボンで参加したら、
太ももが赤く日焼けしてしまいました。
心も、お腹も、体も、夏を満喫しました。

2009年6月25日木曜日

2_81 GOEの時期:酸素の物語7

 酸素の物語も、いよいよ最終回となりました。今回は、新しい研究成果を2つ紹介しながら、酸素の形成時期がいつだったのるかを探っていきます。最新の成果によれば、28億年前ころに酸素の急激な増加が起こったと考えれています。

酸素は、20数億年前ころから急に生成されてきました。酸素をつくった生物が残したストロマトライトという岩石、海水中の酸素によって形成された縞状鉄鉱層という岩石、空気中の酸素が酸化させた赤色砂岩という岩石などが、いずれもが20数億年前を指し示します。多くの研究者も酸素の形成が20数億年前だと考えています。このような事件を大酸化事件(Great Oxidation Event、略してGOE)と呼んでいます。
最近、GOEについて、2つの重要な報告がなされました。
ひとつは、カナダのアルバータ大学のコンハウザー(K. O. Konhauser)らの研究で、2009年4月のネイチャーに掲載されたものです。
GOEは、今まで、メタンの濃度が低下したことが引き金となったと考えられていましたが、その原因は不明でした。コンハウザーらは、縞状鉄鉱層のニッケル(正確にはNi/Feのモル比)を調べたところ、26億年前ころからニッケルが急激に減少していることを発見しました。
ニッケル減少の原因は、上部マントルの温度が下がったことによって、超苦鉄質岩(コマチアイトなどの太古代固有の火山岩)の噴火が衰えたため、海水中のニッケルが減ったと考えられす。メタンをつくって生活しているメタン細菌にとって、ニッケルは生体(酵素合成のため)とって不可欠な成分でした。海水中のニッケルが減少した結果、メタン細菌の活動が衰えて、メタンの濃度が低下したというものです。
コンハウザーの示した図によれば、ニッケルの急激の減少は、26億年前ころに起こったことが読み取れます。
もうひとつの研究は、東京大学の加藤泰浩さんらによる大気中の酸素の供給時期についてのものです。加藤さんたちは、GOEの時期が従来よりも3億年以上も古くなるという報告をしました。
酸素の供給時期は、従来は、イオウの成分(同位体という核種)から、24.5億から23.2億年前と考えられてきました。しかし、その決定法には問題点もあり、別アプローチによる判定が必要だとされていました。
加藤さんたちは、西オーストラリアのマーブルバーでボーリングをして、地下200mのところから、酸化的な地下水で赤鉄鉱が形成された玄武岩を発見しました。その玄武岩には黄鉄鉱の脈(玄武岩よりあとにできたもの)が形成されていました。黄鉄鉱を調べたところ、27.6億年前という年代を得ました。
この年代は脈が形成された時代なので、玄武岩の赤鉄鉱化は27.6億年前より以前にさかのぼることになります。また、玄武岩自体の形成はさらに古くなります。加藤さんたちは、29億から27.7億年前に、赤鉄鉱化が起きたと推定しています。つまりそれが、酸化的な地下水が形成された時期となるわけです。酸化的な地下水は、酸化的な大気があったことを意味します。
この結果は、今まで考えられていたものより、3億年以上古い時代にまで酸素の形成時期を遡るもので、コンハウザーのデータと似ています。また、加藤さんたちは、玄武岩の化学組成から、当時の大気の酸素濃度が現在の1.5%だったと推定しています。
酸素形成は、どこまで遡るのでしょうか。もっと古くなるのでしょうか。それは多分ないと考えられます。なぜなら、大量の岩石による証拠は、さらに古くまで遡ると説明が困難にないきます。酸素の物語は、別のステージへと入っていきそうです。今後は、GOEの時期をどれくらい正確に決定できるか、そしてGOEをどれくらい詳しく再現できるが重要になってきます。

・酸素の物語・
地球の酸素の形成の物語は、
多くの証拠があることから、
簡単に分かるのだろうと考えられそうですが、
実はそう簡単ではないのです。
岩石が、過去の大気をそのまま保存していることはありません。
なぜなら岩石は固体、大気は気体だからです。
酸素の証拠を持った岩石があっても、
形成後に変化を受けることなく
現在まで残されなければなりません。
それは、なかなか難しいことです。
なぜなら酸化という現象は
酸素があれば起こってしまうからです。
地表にあれば酸化だけでなく、風化も受けるし、
地下だと試料を見つけることが困難になります。
そんな困難さをボーリングによって克服したのが
今回の加藤さんらの成果です。
このアイディアが、今回の成果につながったのでしょう。
しかし、海外の灼熱の大地でのボーリングは
大変なことだったと思います。
さらなる成果を期待したいと思います。

・曇りの6月・
北海道は、やっと晴れたと思ったら
蒸し暑い天気となりました。
この時期はオホーツク海高気圧があり
北海道は晴れるはずのですが、
前線が北海道上空ばかりを通過し、
6月は、曇りや雨ばかりの天気でした。
大陸に居座っていた低気圧がやっと移動していきました。
これで、晴れの日が訪れることになりそうです。
ただ、梅雨のような蒸し暑さは困ります。
北海道は梅雨がなくカラッとしているのが
この時期のはずです。
そんな日を待ち望んでいます。

2009年6月18日木曜日

2_80 酸素の誕生:酸素の物語6

 酸素を形成しはじめたのは、シアノバクテリアという小さな生物だと考えられています。絶滅したかに見えたストロマトライトをつくった生物は、現在も、入り江の奥に、ひっそりと人知れず、シアノバクテリアの子孫は生き延びていました。そのシアノバクテリアの発見から、20数億年前の酸素誕生の秘密が解明されてきました。

 縞状鉄鉱層の堆積とほぼ同時代に、ストロマトライトと呼ばれる不思議な岩石が見つかります。ストロマトライトは、数10cmから1mほどの直径をしたマッシュルームのような形をした岩石が連なっています。ひとつの地層の中にマッシュルームが並んでたっています。地層ですから隙間はなく、隙間があったであろうところは、ストロマトライトの破片などで満たされています。断面は、マッシュルールの外形に沿って、同心円状の縞模様になっています。
 かつては、ストロマトライトはどのようにして形成されたかはわからなからない、なぞの岩石だったのですが、現在も生きているストロマトライトが発見されました。西オーストラリアなどの、いくつかの海岸付近に細々とながら生きているのが発見されています。ですから、「生きているストロマトライト」と呼ばれることがあります。
 ストロマトライトは、シアノバクテリアが群生して作り上げた岩石です。その「生きているストロマトライト」(本当はシアノバクテリアが生きている)の研究から、光合成をしていることがわかってきました。
 ストロマトライトが、酸素を形成した生物の証拠、つまり「化石」となっています。狭い意味では、化石は生物の遺骸や体の一部をさしますが、広い意味では生物の生活した跡や棲家、足跡なども化石(生痕化石と呼ばれる)とされています。地質学では、化石という用語は、広義で使われています。ですから、ストロマトライトも立派な化石となります。
 ストロマトライトをつくったシアノバクテリアは、昼間、海の中で漂っているときは、水、太陽、海水中に溶け込んだ二酸化炭素がそろっているので、光合成をし、成長します。それ以外の条件、たとえば、干潮で水から上がったり、夜だったりすると、光合成はできません。干満と太陽の周期によって、酸素のできる、できないの周期性が生じます。
 シアノバクテリアが出す酸素は、酸素への対処ができていない生物(ミトコンドリアのような器官を持たない生物)にとって、猛毒となるものでした。なおかつ、酸素を利用できる生物は、エネルギー効率がよいために、他の生物を圧倒できる性能ももっていました。シアノバクテリアは、住みよい環境(太陽があたる穏やかな海岸沿い)を、酸素を武器に制覇していきました。その繁栄の名残が、ストロマトライトなのです。
 シアノバクテリアが水の中に漂い、活動的な環境(季節や水温など)が整うと、成長、増殖します。そのとき、回りに漂っている砂を自分の周りに粘液で付着させ、上に伸びよう、横に広がろうとします。この成長が、ストロマトライトに見られる縞模様として記録されていきます。ストロマトライトの縞模様は、一種の年輪のような成長の履歴と考えられます。
 ストロマトライトは、20数億年前ころには、大量に地層の中から見つかります。古いものでは、30億年前より以前からあると考えられます。ですから、30数億年前あたりから、シアノバクテリアは酸素を供給しはじめ、20数億前ころから大量に酸素を形成しはじめたことになります。
 シアノバクテリアは、生物ですので、季節変化、あるいは干満の変化の受けます。つまり、酸素の供給量に、季節や干満などの周期性が生じる可能性があります。これが、縞状鉄鉱層の縞模様を生む要因ではないかと考えられます。しかし、その周期のなぞは、まだ解明されていません。
 ここまで、赤色砂岩、縞状鉄鉱層、ストロマトライトは、すべて酸素形成の歴史を示していました。そして、それらから読み取れる酸素の形成のスタートは、20数億年前に収斂しています。最近、2つの酸素の形成時期に関する報告がありました。それを、次回紹介しましょう。

・ハメリンプール・
ストロマトライトを形成するシアノバクテリアは、
西オーストラリアのインド洋側にある
シャーク湾の最奥部のハメリンプールという海岸に
ひっそっりと生きていました。
その理由は、シャーク湾が水深2mほどの遠浅であることと
亜熱帯で砂漠地帯なので海水の蒸発が激しいことで、
海水の塩分濃度が高く、
他の生物があまり住めない環境です。
そして、何より開発があまりされておらず
自然がそのまま残されています。
そのため、シアノバクテリアの天敵が
あまり住めない環境が、
保存されたのであろうと考えられます。
現在は、世界遺産に登録されて保護されています。

・天候不順・
北海道の6月は天候不順で、
曇りや雨の日が続いています。
北海道はイベントが目白押しですが、
YOSAKOIソーラン祭りも雨にたたられました。
小学校の運動会も小雨が降る天気でした。
天候が不順で、日照時間不足で、
農作物への影響も心配されます。
数日、寒い日がありましたが、
気温はそれほど低くないようです。
オホーツクに高気圧が
ドッシリと居座っているため、
その前面に当たる北海道が、
気圧の谷になって次々と低気圧が通り過ぎていきます。
そのせいで、悪い天気が続いているようです。

2009年6月11日木曜日

2_79 海洋の酸素:酸素の物語5

2_79 海洋の酸素:酸素の物語5
(2009.06.11)
 前回は、大気中の酸素の歴史を、鉄のマーカーから赤い砂岩の存在から探っていきました。今回は、海水中の酸素の歴史を探っていきます。やはり、マーカーは鉄です。鉄が沈殿してできた縞状鉄鉱層は、海中の酸素形成を物語っています。

 酸素がない環境で、海のような水があれば、鉄はイオンとして溶けこんでいます。地球表層は、当初、酸素がない環境でスタートしました。ですから、海中に長年かかって、鉄イオンが、大量に溶け込んでいたと考えられます。
 鉄が水に溶けて2価のイオンになると、鉄の水和イオン(Fe(H2O)6^2+という化学式)となり、うすい緑色になります。ですから、鉄の溶け込んだ海は、緑色だったかもしれません。
 海に酸素が現れると、鉄イオンは酸化して、沈殿していきます。つまり、大気と同様に、海でも鉄が酸素のマーカーとなります。酸素が海水中に出てくると、それまでイオンとして存在した大量の鉄は、一気に沈殿していきます。このような鉄の沈殿物は、大規模な鉄鉱床として、世界の各地で見つかっています。
 鉄鉱石は、縞状になっていることから、縞状鉄鉱層(Banded Iron Formation、略してBIF)と呼ばれます。縞は、鉄に富む部分と、ケイ酸塩鉱物から成るチャートなどの部分とによって形成されています。層の厚さは、数mmから数cmほどで、比較的細かい縞模様になっています。現在産出されている鉄鉱石の大部分は、縞状の鉄鉱層の産状となっています。いかに、酸素の果たした役割が大きかったかが伺われます。
 私たちの文明は、この縞状鉄鉱層を還元(鉄から酸素をはぎ取る)して、金属の鉄として利用しています。酸化した鉄から酸素を取り去ることが、文明への大きなステップになりました。つまり、鉄器時代の幕開けです。鉄なくしては、今の文明もなかったはずです。
 縞状鉄鉱層は、30億年前から20億年前、特に25億年前ころものが大量に見つかっています。世界の5大鉄鉱石産地はこれは、30億年前ころから、酸素が海水中に供給されはじめ、25億年前まで酸素の供給がピークを迎えました。酸素の供給はその後も続いていたと思われますが、海水中の鉄が使われてしまうと、鉄の沈殿は徐々に減ってきます。海で使われず余った酸素は、大気中に出てくるようになります。それに対応して、大気の酸素が増え、20億年前ころから赤色の砂岩が見つかるようになります。
 鉄鉱石が縞を成しているのは、堆積岩であることを意味していますが、その他にも、酸素の供給の変動、周期やリズムを示しているのかもしれません。つまり、酸素を供給する生物の季節変化によって酸素の量は変動し、鉄の沈殿もそれに呼応しているかもしれません。あるいは、もっと長い時間間隔での、気候変動のような周期性を示しているのかもしれません。
 しかし、残念ながら、縞模様の由来、成因については、まだ解明されていません。ところで、そもそも酸素は、いつどのようにして形成されたのでしょうか。酸素の形成には、今と同様に生物が関与していました。その証拠とも見つかっています。それを次回紹介しましょう。

・縞状鉄鉱層・
縞状鉄鉱層を、以前、分析に使ったことがあります。
広い面積での鉄や珪素などの元素分布を見るために、
当時は特殊な分析装置を借りて分析しました。
分析に使った試料は、今の私の研究室にあります。
縞模様の元素分布から、縞の成因を探りたかったのですが、
力が及びませんでした。
分析の結果を示すことと、
縞状鉄鉱層の総説的報告で論文を作成しました。
縞状鉄鉱層の産地には、何箇所かにいったことがあり
思い出深い岩石となっています。
分析にも使った試料の産地である
西オーストラリアのハマースレイは、
その規模の大きさ、そして縞模様の美しさに驚かされました。

・化石資源・
鉄は、宇宙でも、地球でも比較的多い元素です。
地球の鉄の大部分は、中心部の核にあります。
それでも、鉄はマントルや地殻にも
主成分元素のひとつとして分布しています。
いってみれば、どこにでもある当たり前の元素です。
資源として利用するには、
農集していなければ、価値がありません。
そこで縞状鉄鉱層が重要になってきます。
海の誕生以来、10億年以上に渡って
蓄えられてきた鉄のイオンが
酸素によって酸化され鉄鉱層となりました。
それを私たちは、今、資源として盛んに使っています。
資源は有限で、やがては枯渇します。
現在の状態で使っていると
100年ほどで掘りつくしてしまいます。
もちろんリサイクルや新たな鉱山が発見されるでしょう。
地球上で量が多いとはいっても、
資源が有限であることには変わりありません。
鉄は、地球の酸素が農集してくれたものです。
一種の化石資源といえるものです。

2009年6月4日木曜日

2_78 大気の酸素:酸素の物語4

2_78 大気の酸素:酸素の物語4
(2009.06.04)
 生物が陸に進出したのは、大気中に酸素が蓄えられた後でした。それ以前、生物は、海の中の生活していました。海の中にはすでに光合成をする生物がいましたので、生みも酸素に満ちていたはずです。では、いつ、大気や海洋に酸素が蓄積されてきたのでしょうか。酸素の蓄積の証拠は、どうすればわかるのでしょうか。

 酸素は、いつ大気に蓄えられたのでしょうか。酸素は光合成によって植物がつくったものですから、陸上植物や海の植物性プランクトンの生息域である大気や海洋が、酸素の生産場所となります。そしてそこは、酸素の蓄積場所ともなります。
 残念ながら、大気(気体)や海洋(液体)のように固体でない物質は、化石になったり、地層中に保存されたりしません。ですから、大気や海洋が酸素を蓄えた時期を知るためには、固体になっている酸素を見つけなければなりません。
 昔の酸素の様子を知るための有力なマーカーとして、鉄があります。鉄は、地球にはたくさんある元素で、酸化されやすいため酸素の存在に敏感だからです。鉄は、酸化されると赤っぽくなったり、青っぽくなります。私たちが一番よく目にするのは、鉄のサビの赤褐色でしょう。このような鉄の酸化物の色は、古来から弁柄(べんがら)や青色のプルシアンブルーなどの顔料として利用されてきました。
 砂に少しでも鉄の成分があると、酸化されれば赤っぽくなります。乾燥したオーストラリアの大地、アフリカのサハラ砂漠などは、赤っぽい砂に覆われています。このようなものが、たまっていくと赤っぽい砂岩の地層となります。大気中に酸素ができると鉄の酸化物として固体になります。酸化物がその場でたまったり、あるいは海に運ばれたりして堆積物になると、やがては赤っぽい地層ができます。
 鉄の酸化物には、二価と三価の陽イオン(Fe2+、Fe3+)があります。二価の鉄イオンは水に溶けやすく、三価の鉄イオンは強い酸性の水には溶けますが、中性の水には溶けにくいという性質があります。海水中に溶けていた二価の鉄イオンが、酸素が増加すると、さらに酸化され三価のイオンになり、沈殿していくことになります。つまり、鉄イオンが海水中にあり、そこに酸素が加わると、酸化物の沈殿ができることになります。
 海でも陸でも酸素があれば、鉄の酸化物は固体になります。つまり、酸素があれば、鉄の酸化物の混じった堆積物ができるはずです。過去の地層から鉄の酸化物を見つければ、海洋や大気に酸素があったかどうかを判定することができるわけです。目印は、赤褐色の堆積岩です。
 そのような目でみていくと、赤っぽい堆積岩はあちこちでみつかります。赤っぽい堆積物は特徴的だったので、地質学の発祥地でもあるイギリスでは、「赤色砂岩」と命名され、記載されていきました。イギリスでは赤色砂岩には、新旧2つの時代のものがあり、新しいものを「新赤色砂岩」、古いものを「旧赤色砂岩」と呼んでいました。
 新赤色砂岩はペルム紀から三畳紀初期に堆積したもので、旧赤色砂岩はデボン紀を中心として後期シルル紀から初期石炭紀までにできたものです。いずれも、大陸内の砂丘や湖、河川、あるいは大陸近く海底にたまった堆積岩です。これらは、大気中に酸素があったことを示しています。時期的にも、前回紹介した陸上に進出した生物化石の証拠とも一致します。
 固有の名称はついていませんが、赤色の砂岩は、もっと古い時代からも見つかります。カンブリア紀以前にも、赤色の砂岩があります。そして、20億年前ころまでの堆積岩に、赤色の砂岩が見つかります。これは、20億年前にはすでに大気に酸素があり、それ以降大気中にはずっと酸素があった証拠となります。
 ところが、20億年前より古くなると、赤色砂岩は見られなくなります。大気中の酸素は、どうも20億年前あたりを境にして、一気に増えてきたことを意味します。
 では、海の中の酸素は、いつ増えたのでしょうか。そして、その痕跡は、どこに残されているでしょうか。それは、次回の話としましょう。

・旧赤色砂岩・
スコットランドの地質学者ジェームズ・ハットンは
スコットランドの海岸で不整合を発見しました。
それは、地質学の黎明というべき出来事でした。
その不整合は、下にシルル紀砂岩
上にデボン紀の旧赤色砂岩が覆っているものでした。
旧赤色砂岩はスコットランドではよく目にします。
この赤色の石材で作られた建物が多数あるため
首都エディンバラは、ピンク色の町並みに見えます。

・赤の大陸・
オーストラリアを赤の大陸と呼ぶことがあります。
それは、エアーズロックのような
赤っぽい堆積岩がありますが、
赤っぽい堆積岩は過去の大気中の酸素の痕跡です。
西部から中部にかけて広がっている乾燥地帯は
赤い砂や土が覆っています。
アウトバックと呼ばれる乾燥地帯には
アリ塚もありますが、もちろん赤くなっています。
地表を覆っている赤っぽい砂は、
現在の大気の酸素の痕跡です。
オーストラリア大陸にはいたるところに
酸素の痕跡が見つかります。

2009年5月28日木曜日

2_77 陸上への進出:酸素の物語3

 生物は、光合成によって酸素を生み出し、酸素を元にした体のシステムをつくりあげました。酸素が大気中に加わると、陸上進出のための環境も整いました。生物が陸上に進出までに、地球誕生から40億年という時間がかかったのです。これに要した時間は、長いのでしょうか、短いのでしょうか。

 酸素は、現在の大部分の生物にとって、エネルギー・システムを維持すために、欠くことのできないものです。酸素を使ったエネルギー・システムとは、呼吸(厳密には好気呼吸と呼びます)という仕組みのことです。呼吸に使う酸素は、光合成をする生物が生み出しています。つまり、酸素は、現在の生物にとって非常に重要なものといえます。
 生物の進化を、酸素とのかかわりでみていくと、いくつか重要な出来事が見えてきます。酸素を生み出す仕組み(光合成)の誕生、酸素をエネルギー源とする仕組みの誕生、酸素が恵んでくれた快適な陸地の誕生が、重要な出来事といえるでしょう。
 時期の新しいものから見ていきましょう。まずは、生物の陸上への進出です。
 生物が陸上へ進出を可能になったのは、酸素のおかげです。酸素が大気中にあれば、太陽光の作用によってオゾンができ、大気中にオゾン層が形成されます。オゾン層が安定に大気中に存在し紫外線をほとんどさえぎるためには、酸素濃度が15~20%程度必要です。最低でも2%ほどなければ、紫外線は防げません。
 オゾン層ができれば、有害な紫外線がなくなり、地表は生物にとって生存可能な領域となります。このような条件ができた時期は、推定されてはいますが、正確にわかっていません。
 生物が、水中から陸に上がるには、生物側の条件も整わなければなりません。それは、水中の浮力に頼ることなく陸上の重力に耐え、乾燥に耐える体と、大気の酸素を利用する呼吸の仕組み、栄養を大気や大地からやとる手段、子孫を水に依存することなく残せる仕組みなどです。生物側の仕組みが整い、環境も整ったときが、陸上への進出の時期となったはずです。
 化石の証拠に基づけば、陸上に進出したのは、シルル紀(4億4370万~4億1600万年前)ころだと考えられています。
 水辺で大気中に体を出していた植物(シダ植物の仲間のリニア、クックソニア、ゾステロフィルムなど)が、シルル紀後期に見つかっています。マツバランは、原始的な葉のない維管束植物で、シルル紀末の地層からみつかっています。マツバランは、完全に水から独立した生活ができるようになっていました。
 動物では、ウミサソリの仲間で肺(書肺と呼ばれている)をもつものがあらわれ、シルル紀の中ごろにはサソリとして陸上に進出したと考えられます。
 シルル紀中ごろで、サソリが陸上生活をしていたことになります。これは、サソリの化石が、その時代に見つかっているということですが、実際にはもっと多くの種類、あるいはもっと以前に進出している可能性もあります。なぜなら、サソリという種が、単独で陸上への進出はできないからです。サソリが陸上で生きていくためには、住みかとして植物や、餌として昆虫やミミズのような小動物なども必要でだったはずです。
 このようにひとつの化石が見つかるということは、その化石が属していた生態系を考えると、他の種も、同時期には進出していたと推定されます。
 生物の陸上進出は、古生代のシルル紀ころでした。それは、地球誕生から40億年も経過していました。この長い時間は、生物が陸上に進出するには、そのほどの時間を要するものなのでしょうか。それとも、地球生物では、たまたまそれくらいの時間がかかっただけなのでしょうか。この答えは、地球では見つかりません。地球外の生物の例と比較対照しなければならないからです。

・環境の象徴・
化石とはたった1個でも見つかれば、
重要な情報を得られます。
ある化石が見つかれば、
形態や現在の生物との比較から、
生活様式が分かります。
たとえば、動物の歯の化石が見つかったとします。
歯の形態から、肉食動物と判定できました。
その食料となる草食生物が必要になります。
草食動物がいるということは、
植物があったということです。
植物が育つには、栄養となる土壌が必要です。
土壌をつくりには、有機物を分解する生物が必要となります。
このように、ある生物が住むためには
それなりの環境が必要となります。
その環境とは、生物がかかわって生み出されていくものです。
化石は、その環境を象徴していると捉えることもできます。

・教育実習の指導・
このメールが届くころには、
私は、教育実習の指導で網走にいます。
北海道は広いので、学生の指導に行くにも、
泊りがけとなります。
教育実習の学生が多くなると
手間も交通費もかかるので、
掛け持ちで何人かの学生のところを回ることになります。
しかし、日中の多くの時間が、
列車での移動時間となります。
札幌から網走まで、5時間以上かかります。
それでも教員の義務として、
実習指導へ行く必要があります。
幸い私のゼミの学生にはいませんでしたが
道外も担当者が回っています。

2009年5月21日木曜日

2_76 酸素の利用:酸素の物語2

2_76 酸素の利用:酸素の物語2
(2009.05.21)
 酸素は、植物が生産しています。酸素は、生物にとって有害でもありますが、うまく利用すると、エネルギーを生み出すこともできます。酸素を利用するために、非常に複雑な仕組みを持たなければなりませんでした。しかし、酸素を用いたエネルギーは、非常に効率のいいもので、複雑な仕組みを整える価値がありました。

 地球上で酸素は、いくら使ってもなくなりません。ですから、どこかで、酸素が、常につくられているはずです。酸素は、どのようにして合成されているのでしょうか。
 酸素の合成というと、多くの人が、学校ので習った光合成を思い出したはずです。光合成とは、植物が葉緑体で太陽の光をエネルギー源として、水と二酸化炭素を使って、糖類(炭水化物)を合成する作用です化学反応式は、
6CO2+12H2O→C6H12O6+6H2O+6O2
となります。そのときに、副産物として酸素がでてきます。
 光合成をおこなうのは、植物の葉緑体です。葉緑体こそが、酸素を生みだすみなもとです。酸素のほとんどは、植物が光合成によって供給しています。植物は、陸上だけでなく、海にも植物性プランクトンとしてたくさん生息しています。そのような生物たちが日々酸素を生産しているために、酸素が尽きることがないのです。
 酸素は、植物でも動物でも、呼吸をする生物にとって、不可欠なものです。呼吸とは、酸素を取り込み、二酸化炭素を放出することをいいます。その仕組みは、複雑なものですが、解明されています。
 細胞内のミトコンドリアという器官で、食料として取り入れた、あるいは光合成で得た糖類を、分解して、アデノシン三リン酸(ATP)というエネルギー物質が合成されます。そのときに、酸素が用いられます。すべての真核生物において、ATPが、生きていくためのエネルギーとなっています。ATP合成のために酸素は不可欠です。それを呼吸として、外から取り入れているのです。
 酸素は、細胞内では、活性酸素(フリーラジカル)と呼ばれる、非常に不安定な状態になります。活性酸素の強い酸化力を利用して、ATPがつくられます。しかし、このような強力な活性酸素は、諸刃の刃で、生物にとって有害でもあります。細胞をつくっている組織やDNAなども酸化させてしまいます。ですから、各組織は、抗酸化酵素と呼ばれるものを用いて、活性酸素による酸化を防いでいます。
 多数の化学反応や複雑なプロセスは、酸素とATPを使うための代償ともいえます。なぜ、このような複雑な仕組みを持つに至ったのでしょうか。そこが進化の不思議なところなのですが、酸素とATPを用いるのが、非常に効率よくエネルギーを得られるためという結果論的な自然選択が、おこなわれたのではないでしょうか。
 数値で比べると、単位ブドウ糖(1モル)あたり、以前の酸素を用いない生物(嫌気性生物)のエネルギー効率(約150kJ)に比べて、酸素を用いる生物(好気性生物)では、20倍(約2,880kJ)近く効率がいいのです。これだけの効率のいいエネルギー源なら、少々複雑な仕組みでも、利用できれば、他の生物を圧倒できます。それが、真核生物が、大発展をしてきた理由かもしれません。
 酸素を生み出す生物、そして酸素を利用する生物が、現在の地球上では多数派となっています。酸素を嫌う、嫌気性細菌や古細菌などもいます。彼らは、昔の地球では主役だったのですが、今では日陰者となっています。それは、別の機会としましょう。

・教育実習・
4年生たちの教育実習が始まっています。
第一期生たちが、緊張しながら実習校へと出ています。
教員は、小学校への挨拶と研究授業に参加するために、
北海道各地を巡ることになります。
近くの学校ならば掛け持ちで回りことになります。
私は、今のところ4校にいく予定です。
ただし遠いところは、
泊まりで出かけることになります。
授業を休講にしていくため、
曜日が重ならないようにすることも
配慮しながら日程が組まれていきます。
学生だけでなく、教員もなかなか大変です。

・春から夏へ・
北海道も、快晴の日には、
暑いくらいの気温にまで上がるようになりました。
春から夏の兆しがみえます。
学生やうちの子供たちも、
半袖になって外を遊びまわっています。
先日までストーブを炊いていたことがあるのを思うと、
例年より、寒暖の変化が激しいようです。

2009年5月14日木曜日

2_75 酸素の役割:酸素の物語1(2009.05.14)

 酸素は、大気中の主要成分のひとつです。酸素は、地表のどこにでも、無尽蔵にあるように考えて、気にも留められないものです。ところが、その酸素の恩恵なしには、人類はもちろん、多くの生物たちも、一日たりと生きていけません。そのような酸素にまつわる物語を紹介しましょう。

 地球には、酸素があります。それも大気中に分子としてたくさん存在します。酸素が大気中にあったおかげで、人類は火を使うことができました。そもそも火とは、高温になった元素(たとえば炭素)が酸素と激しく結合する現象で、酸化という化学反応の一種です。大気中に酸素がなければ、火はおきないし、文明も起こらなかったでしょう。文明は、酸素のおかげといっても過言ではないでしょう。
 大気中において酸素は、分子の形で存在します。酸素分子は、酸素原子が2つ結合したものです。大気中に酸素は、体積の比率で20.949%、重量比で23.143%となっています。それ以外の成分は窒素(N2)です。その他にも微量成分として、アルゴン(Ar)が0.93%(体積比)、そして二酸化炭素が0.035%(350ppmとも表せます)含まれています。
 大気は、自転とともに地球と一緒に回転しています。昼間には、太陽の光を受けます。太陽光の中には、紫外線も大量に含まれています。酸素分子に紫外線を当てると、酸素分子が分解して酸素原子になり、新たに酸素原子が3つ結合した、オゾンの分子に変わります。ただしオゾンは不安定な分子なので、やがては酸素分子が変わってしまいます。でも、常に太陽の光が降り注ぎ、十分な酸素があれば、一定量のオゾンがいつも大気中で形成されることになります。オゾンが、ある程度でき、層をなすと、波長の短い紫外線ほど通さなくなります。これがオゾン層と呼ばれるものです。
 紫外線(Ultra Violet、約してUV)は、光(可視光)でも波長が一番短いものです。紫外線も波長が短いほどエネルギーが強くなります。もし、オゾン層や大気がなく、紫外線が直接地表に降り注げば、DNAを分断したり、ケロイドになってしまうほど皮膚を焼いてしまいます。大気やオゾン層のおかげで、生物にとって有害な波長の短い紫外線は、ほとんどさえぎられ、長いものもある程度さえぎられています。ですから、生物は、地上で太陽の光を浴びても、焼け死ぬことなく、日焼けをする程度ですんでいるのです。
 このオゾン層が安定に大気中に存在し、紫外線をかなりさえぎるには、酸素濃度が15~20%程度ないとなりません。地球の大気は、幸いなことに、その条件を満たしていたのです。
 酸素を主成分とする大気は、実は太陽系では地球だけの特徴となっています。
 両隣の惑星である金星と火星は、大気の量はまったく違っています。金星は、地球の約900倍(表面の大気圧)、火星は地球の0.007倍しかありません。ところが、金星と火星の大気の成分を比率で見ると、主成分は二酸化炭素(いずれも95%以上)であり、ついで窒素(3%前後)となっています。いずれの惑星にも、酸素はほとんどありません。これは、何を意味するのでしょうか。
 火星は、惑星全体としてみると、初期にその活動を停めています。また、金星は地球のようにマグマ活動が続いている可能性がありますが、大気はもともとあったものとマグマに由来するものだけで成りたっていると考えられます。その上で、両者の大気は、その分量が何桁も違っているのに、比率が似ているということは、原始の大気がこのような成分であったことを意味していそうです。
 ですから、両惑星にはさまれた、地球の原始大気も、このような成分でスタートをきったと考えられます。しかし、地球だけが、何らかの原因であるときから、酸素も持つ特異な大気へと変貌したのです。このシリーズでは、その変遷と由来を、最新情報を交えながら、探っていこうと思います。

・酸素のありがたさ・
私たち人類は、大気中においては、
微量成分である二酸化炭素には、
温暖化問題として非常に注目しています。
しかし、酸素に関しては無頓着です。
酸素は、生物が日々大量に消費しています。
どこにいっても、酸素は無料で、
いくらでも使える無尽蔵の、
気にも留める必要もないような成分です。
もちろん人類も他の生物に比べ物にならないほどの勢いで
消費しています。
その酸素は、本当に無尽蔵なのでしょうか。
なぜ、なくならないのでしょうか。
その仕組みは、どのようなものなのでしょうか。
その歴史は、どこまでさかのぼれるのでしょうか。
それが今回の「酸素の物語」シリーズのテーマです。

・北国の春・
ゴールデンウィークも終わり、
大学も通常の授業が戻ってきました。
北海道も桜が終わり、
春が到来しました。
ストーブともやっと離れることができます。
これから、北海道は最高の季節を迎えます。
特に快晴の日に、緑の中に出かけると
北海道に住んでいてよかったと思えます。
そんな北国の春を、今やっと満喫しています。

2009年5月7日木曜日

3_74 ダイヤモンドより硬いもの(2008.05.07)

 ダイヤモンドは、もっとも硬い鉱物として有名です。しかし、近年ダイヤモンドより硬い結晶があることが分かってきました。今年の2月に、ダイヤモンドより硬い結晶を発見したというニュースが流れました。ただし、実際の結晶をつくって調べたのではなく、シミュレーションしたものでした。

 2009年の2月のアメリカ物理学会が発行する学術雑誌(Physical Review Letters)に、ある論文が発表され、各種のメディアがニュースとして取り上げました。それは、「ダイヤモンドより硬い(Harder than Diamond)」というタイトルの論文でした。
 今回報告された結晶は2種類あって、それらの物理的性質を検討したら、いずれもダイヤモンドより硬いことになりそうだという報告でした。
 実は、ダイヤモンドより硬い硬度をもつものには、以前からいくつかのものが挙げられています。たとえば、立方晶窒化炭素やフラーレン(C60)と呼ばれる結晶です。フラーレンは、炭素鉱物のシュンガ石(shungite)の中から見つかっているため、天然の鉱物といえます。しかし、いずれの候補も、結晶が小さいため硬度の実測できていませんでした。
 今回の報告でも実測はされていませんが、2つの鉱物でシミュレーションによって、硬いことが判明したという報告でした。2つの結晶は、六方晶ダイヤとウルツ鉱(wurtzite)と呼ばれている鉱物です。シミュレーションの結果、六方晶ダイヤは、ダイヤモンドの硬度より1.58倍以上、ウルツ鉱はダイヤモンドの硬度より1.18倍以上ありそうだということです。
 六方晶ダイヤは、鉱物としてはロンズデーライト(lonsdaleite)と呼ばれ、ダイヤモンドと同じように、炭素からできています。結晶系が、六方晶系で、等軸晶系のダイヤモンドとは違っています。ロンズデーライトは、隕石が衝突したときのような高温高圧の条件でできます。隕石中にあった炭素が高温高圧によって、結晶構造が六方晶系になってできたものだと考えられています。
 最初に見つかったのは、アメリカのアリゾナで隕石が衝突してできたバリンジャー・クレータからでした。バリンジャー・クレーターをつくった隕石は、キャニオン・ディアブロという鉄隕石ですが、その中に少量含まれていた炭素からできたようです。ちなみにタイヤモンドも一緒に発見されているようです。ゴアルパラ隕石、南極隕石のAH77283、またツングースカの隕石衝突地からも見つかっています。ただし、結晶は顕微鏡サイズの非常に小さいものです。
 一方、ウルツ鉱(wurtzite)は、窒化炭素(BN)という化合物で、ウルツ鉱型の窒化炭素ということでw-BNと表記されています。天然のウルツ鉱には、いろいろなタイプの化合物があります。主にはABという2つの元素がくっついた化合物をつくっています。Aにはカドニウム(Cd)と亜鉛(Zn)(他にもHg、Feなど)が入り、Bにはイオウ(S)やセレン(Se)が入ります。ウルツ鉱はタイヤモンドと似た結晶構造を持っているので硬いものとなります。
 私が調べたところ、天然のものでウルツ鉱型のBNという化学式を持つものは見つけることができませんでした。この結晶は、自然に産するものかどうかは、分かりませんでした。
 このような鉱物は、天然では非常に稀で、あっても小さいものなので、硬度を調べられるほどのサイズの結晶は見つかっていません。天然で大きな結晶は見つからないならば、合成によって大きな結晶をつくって確かめるしかありません。それができれば、今回の報告が正しいかどうか判定できます。そのとき初めてダイヤモンドより硬い鉱物の発見となります。
 重要なのは、単に発見したというだけでなく、そこに技術革新が起こる可能性があるため、多くの科学者や技術者がしのぎを削っています。w-BNは、ダイヤモンドより高温の条件で、強く安定していると考えられています。ダイヤモンドは炭素なので燃えてしまいますが、w-BNなら酸化にも強い結晶だと考えられます。もしこのような結晶合成の技術が完成すれば、今までダイヤモンドでは不可能であった温度領域でも高硬度素材が加工も可能になります。
 目標がはっきりしていれば、やがて技術は達成されるでしょう。今までの技術進歩が、それを証明しています。ですから、今では、だれがその栄誉を手に入れるかの時間との勝負となっています。

・鉱物と結晶・
鉱物とは自然にできたものではないとなりません。
自然は、地球に限定されたものではありません。
隕石や月の岩石にも見つかっても鉱物になります。
もし天然で発見されなければ、
それは人工物にすぎず、鉱物名は与えられません。
そのため発見者は、新鉱物として、国際鉱物学連合(IMA)の
新鉱物命名分類委員会(CNMNC)に申請して
承認手続きをとります。
そこの承認されたもののみが、
鉱物と名乗ることができます。
一般に鉱物の和名では、
非金属光沢を持つ鉱物には「石」をつけ、
金属光沢を持つ鉱物には「鉱」をつけることになっています。
ただし例外は多々ありますが。

・権威づけ・
今回の報告は、Physical Review Lettersという
アメリカ物理学会が発行する学術雑誌に掲載されました。
この雑誌は、物理学の専門誌としては
最も権威があるものとされています。
物理学者は、この雑誌に掲載されることが重要な目標になります。
科学全般では、科学専門であるNatureやScienceに
掲載されることが今でもステータスとなっています。
地球科学ではどうでしょうか。
私が大学院生のころは、
Journal of PetrologyやJournal of Geophysical Research、
Earth and Planetary Science Lettersなどが
権威があるされていましたが、
今では、雑誌の数も増え、分野も多岐になり、
甲乙つけがたい状態になってきました。
こんな問題を解消するために、
雑誌の評価をImpact Factorなどで測られるようになりました。
もともとImpact Factorは、雑誌の影響度を測る指標でしだが、
研究者や研究施設の評価に転用されることが多くなってきました。
研究に対する正当な評価は必要でしょうが、
評価を目標に研究をするのは、
研究の本来の姿ではないように思われます。
評価に押しつぶされそうな
研究者がいるとしたら問題です。
おおらかに研究できるといいのですが。

2009年4月30日木曜日

4_87 円月島:南紀4

 南紀シリーズも4回めとなります。振り返ると白浜が中心になってしまいまた。白浜周辺は第三紀の堆積岩からできているのですが、堆積岩の構造や性質がいろいろ見られる所が多く、地質学的にも興味深いところです。今回の旅で白浜の地質の見所すべてを巡ったわけではありません。見残して心残りのところもいくつかあるのですが、南紀シリーズも今回が最後となります。今回は南紀の旅の最後として、侵食作用による造形を紹介しましょう。

 白浜の温泉街を北に向かって通り抜けて、番所の崎の方に向かって海岸沿いを走ると、円月島と呼ばれている島が見えてきます。この島は、もともと「高嶋」と呼ばれているのですが、1887年ごろにこの地を訪れた漢詩人の津田香巌が、円月島と命名し、現在に至っているそうです。島は、1974(昭和49)年に、町指定の名勝となっています。
 円月島は、南北に長く(130m)、東西に薄く(35m)、高さ(26m)もかなりあります。ふたこぶラクダの背のような形をしています。
 現在島として残っているのは、海になっている部分よりは、風雨や波の浸食には強かったのでしょう。しかし、島として残ったところも、中央が侵食に弱かったためのでしょう、ラクダの背のように浸食されてしまいました。
 この島は、白浜周辺をつくる地層と同じものからできてます。新第三紀中新世(1500~1600万年前)の田辺層群白浜累層の堆積岩です。しかし、礫岩を主としているために、もろく、波による浸食を受けやすくなっています。
 ラクダの背の真ん中の一番くぼんだところが、さらに波の浸食を受け、丸い穴(高さ9m、幅8m)があいています。海蝕洞(かいしょくどう)と呼ばれる浸食地形になっています。
 この島の穴の開いたラクダの背のような形状は、自然の妙なのでしょうが、海に浮かぶと不思議で奇異な形に見えます。丸みを持った、たおやかさに見入ってしまう魅力があります。前に紹介した白良浜や千畳敷とともに、白浜の観光名所となっています。
 岩石が弱いため、現在も浸食が進行しています。2008年10月1日に南側の岩が、高さ13m、最大幅9m、厚さ1.4mにわたって崩落しました。2005年にも、北側でも幅8m、高さ9mにわたって崩落しています。いずれも、浸食に弱い岩石であるために、起こった崩落です。浸食が、この円月島をつくり、そして浸食が円月島をこれからも変えていきます。やがては、丸い穴はなくなり、島が2つに分かれてしまうかもしれません。これが自然の摂理です。
 しかし、人は、現状のまま変わらぬ景観があることを願います。1939年に穴の上部に亀裂が発見され、それが拡大していることが判明したのですが、自然のままにしておこうと、現状維持のままにされました。しかし、2005年と2008年の2回にわたって崩壊がおこっため、「やがて海蝕洞はなくなり、夫婦岩のようになってしまう」という心配の声が起こりました。町では、今後、観光資源としての重要性を考え、崩落防止の対策を考えていくことになったそうです。
 技術をもってすれば、人間の時間スケールで考えれば、現状の景観を維持できるかもしれません。しかし、地質学的な時間、地球時間で考えると、自然の摂理として、浸食は進むでしょう。ここには、自然の営為と人為、観光資源と自然保護、いろいろ複雑な問題が絡み合っています。あまり不自然な景観にだけはならないことを願っています。

・行きたいところ・
このようなエッセイを書くとき、いろいろ調べます。
もちろん調査に行く前にもそれなりに調べます。
すると、行ってきたところ以外にも
堆積作用の珍しい形態がいろいろあったことに気づきます。
もちろん、知っていたのですが、時間の都合や交通事情で
いけなかったところもいくつもあります。
それをエッセイを書きながら悔やむことになります。
本来なら、もっとじっくりと時間をかけて巡れればと思います。
だから、別の機会にまだ行こうと思うことになります。
これは、出かけるたびに、感じることです。
そうなると、行ったところへまた行きたくなります。
日本中行きたいところだけになります。
でも、出かけたいところがないよりはいいと思います。
今度時間があったら、あの近くにいったら、見たいところを
いくつも持っていることは、幸せなのことなのか知れません。

・南紀シリーズ・
今回で南紀のシリーズが、終わりとします。
他にも見たところがいくつかありますが、
それは、月刊メールマガジン「大地を眺める
のほうで、いくつか紹介します。
興味のある人は、そちらを参照してください。

・ゴールデンウィーク・
皆さんは、今週末か始まるゴールデンウィークはどうされますか。
普通の人は、5連休となります。
私は、土曜日に振り替え授業があるので、
4連休になりますが、あまり遠出はしないつもりです。
天気を見ながら、日帰りで近隣の人出の少なそうなところへ
行こうかと考えています。

2009年4月23日木曜日

4_86 千畳敷の堆積構造:南紀3

 南紀白浜に千畳敷と呼ばれる岩場があります。起伏に富んだ広い岩場で、うろうろしてみるには最適の場所です。千畳敷は、堆積岩の地層が広がっているところです。地層のその構造を詳しく見ると、どのようなところでできたかをうかがい知ることができます。

 南紀白浜の白砂の白良浜がある鉛山湾を南に回りこんで、西に突き出た瀬戸崎という岩場があります。そこは、千畳敷とよばれている観光名所となっています。本当に畳、千枚分の広さがあるかどうかは知りませんが、地層がきれいにでているところをあちこち散策できます。
 千畳敷という名称はよく耳にしますが、青森県の西の海岸にある千畳敷ということには、私も行ったことがあります。調べると、千畳敷と呼ばれている地名は日本各地にけっこうあるようです。
 木曾駒ケ岳の千畳敷カールや、福井県小浜市の第三紀中新世の砂岩の千畳敷、兵庫県香住町の広い波食台の千畳敷、函館山南部の平坦な台地をつくる溶岩の千畳敷、島根県仁多郡仁多町の花崗岩(粗粒黒雲母花崗岩)の大きな岩塊の千畳敷など、他にもいっぱいあります。実際には、それほど広くはない千畳敷もあるようですが、回りのものと比べると広々としていると千畳敷と表現されているようです。千畳敷は、実際の広さではなく、広さの比喩として用いられているだけです。
 南紀白浜がある湯崎半島では、地層が馬の背状に曲がる(背斜(はいしゃ)と呼ばれています)軸が東西に伸びています。背斜の軸の海側で、隆起が起こったため、海岸は何段にも絶壁ができました。この背斜軸に沿って、鉛山湾を中心して高温の温泉が湧き出しています。
 白浜の千畳敷をつくっている地層は、田辺層群白浜累層にあたります。砂岩や礫岩、泥岩からできています。地層の中には、いくつかの海岸近くで形成された構造を見ることができます。
 分かりやすいものでは、砂岩層の上面にリップルマークがみられます。リップルマークとは、漣痕とも呼ばれ、水流による波の模様が海底の土砂にできたものが、そのまま化石のように保存されたものです。リップルマークは深海でも水流があればできますが、千畳敷で見られるリップルマークは、波の頂部がとがり、谷の部分が丸くなっていて、その波が頂部を軸にして左右対称の形をしていることが特徴です。これは、ウェーブリップルと呼ばれるもので、沿岸で繰り返し打ち寄せる波の作用によってできたものです。
 また、ハンモッキー斜交葉理や大規模な斜交層理がみられます。これらの構造は、激しい波によって浅い海底できたと考えられています。波浪によってこのような模様ができる限界の水深は、波が穏やかなときは15~30mで、激しい波浪のときは50~80mといわれています。いずれにしても、千畳敷の地層は、比較的浅い海に堆積したことを示しています。地質学的には、浅海の外浜から陸棚のようなところだと推定できます。もちろん、地層ができた新第三紀中新世(1500~1600万年前)のころの海ですが。
 南紀白浜は、一方では白い砂浜の海岸が広がっていると思うと、すぐ近くには岩場の絶壁があります。そして、そこに温泉もあります。硬軟おりまぜた観光要素が白浜の魅力となっています。

・落書き・
千畳敷におりようしたら、
落書き禁止の看板が目に付きました。
理由は岩場に出るとすぐにわかりました。
岩場をつくっている地層がやわらかい岩石であるため、
石ころなどでこすると、簡単に傷がつけられ、
文字も書けてしまうのです。
そこに落書きをする輩がでてくるわけです。
旧跡名跡であっても、ところかまわず落書きをする人がいます。
実際には、私が訪れたときにも、人目を気にしながらも
落書きをしようとしている人を見かけました。
私は、このような落書きに及ぶ行為をみて、
2008年2月の岐阜市立女子短期大学修学旅行で学生が
イタリアの世界遺産のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の壁に
落書きをして大きくマスコミが騒いだ事件を思い出しました。
私は子供を連れていたので、
こんな現場を見せたくありませんでした。
しかし、現実に起こっていることはどうしようもありません。
子供たちには、あんなことをしないようにと、
大切な遺跡に落書きをして大事件となったことがあることを紹介して、
戒めとしましたが、本当に伝わったでしょうか。
少々心配ですが。

・体が発する声・
いつものことですが、春は眠くなります。
特に授業が始まって1、2週目あたりが
疲れのピークになり眠さも増します。
私の場合は、朝方なので、夕食後が猛烈に眠くなります。
そんなときは、睡魔に負けてあっさりと寝てしまいます。
すると朝が早く起きてしまい、
夜がますます眠くなります。
悪循環ですが、あまり抵抗しないようにしています。
体が要求するのに可能な限り、従うようにしています。
これは、時期的にそのようなときだと思うからです。
時差ボケならぬ季節ボケでしょうか。
若いときのように無理が利かないので、
体が発する声をよく聞くようにしています。

2009年4月16日木曜日

4_85 白砂の白良浜:南紀2(2009.04.16)

 南紀の旅の2回目は、白浜の白良浜を紹介します。白浜は、関西では有名な観光地です。しかし、白浜は、結構遠くて、関西在住の人でも、いったことのない人も多いのかもしれません。私も、今回が始めての訪問でした。白浜を象徴するような白い砂浜を見てきました。

 南紀白浜は、関西では有名な観光地です。しかし、私は今までいったことがありませんが、今回の南紀の旅で、はじめて訪れることができました。白浜の中でも白良浜(しららはま)と呼ばれるところは、感動をするような海岸です。白良浜は、丸い弧を描いたような海岸線(鉛山湾)に、長さ700mほどにわたり白い砂浜が続いています。まるで、海外のリゾート地の海岸を思わせるような砂浜が広がっています。
 白い砂は、石英を主成分としています。波にあわられ、円磨された砂となっています。かつては、ガラスの材料にも使われていたほど淘汰のいい砂です。ところが、白良浜以外の周辺の海岸は、特別に石英が多い、白い砂浜ではありません。白良浜は、白い砂浜になるための限られた条件を満たしていたためにできたのです。
 その条件の一つは、砂の供給源(後背地と呼びます)に石英がたくさんあったことです。後背地は、湯崎半島全体となります。半島は、新第三紀中新世(1500~1600万年前)に形成された田辺層群の中の白浜累層と呼ばれる地層から成り立っています。白浜累層は、砂岩と泥岩の繰り返し(互層と呼びます)や、礫岩、泥岩などからできています。それらの地層から石英が供給されることによって白い砂浜ができます。
 その供給経路は、その石英の多い地層の中を流れ、白良浜に流れ込む川となります。白良浜に流れ込んでいるのは、寺谷川です。ところが、この寺谷川は、コンクリートに護岸されているため、供給源としての役割を果たさなくなりました。結果、砂浜は、波の浸食作用で砂がなくなっていきました。白良浜の白砂は、重要な観光資源です。それを守るために、対応策がいろいろととられました。
 ひとつの対応策として、砂を補給するという方法がとられています。しかし、石英だけからできた白い砂はそうそうありません。遠いのですが、オーストラリアの西海岸から持ち込まれています。1989年から2005年まで、7万立方メートル以上の砂が持ち込まれたそうです。
 他の対応策として、海底に石やブロックを入れて堤防(潜堤といいます)を波による流出を防ごうとされました。しかた対策むなしく、砂の流出は止まっていません。現在、海面上に堤防が建築中です。これは海岸の砂の流出対策かどうかわかりませんが、この人工的な堤防が白砂の海岸では異質な存在に見えました。
 白良浜は、もともとは自然にできた白い砂浜だったのです。ところが、現在では、人が手を入れなければ砂浜が維持できない状態となっています。堤防だけでなく、砂自体が、人工的に補われたものです。しかし、これが、白浜という有名な観光地の現状でもありました。できれば、自然状態でこのような浜が残ればいいのですが、都市化した観光地では、なかなか難しい問題です。
 国民の祝日「海の日」を記念して、1996年に運輸省(当時)認定を受けた「日本の渚・中央委員会」が、関係公官庁の後援を受けて「日本の渚・百選」を選定しました。「日本の渚・百選」は、自然の海岸だけを選ぶのではなく、環境保全などの対策や、生活者との深い関わり合いをもっていることも考慮されて選ばれています。ですから、人工的に維持されている白良浜も、「日本の渚・百選」に選ばれています。
 白良浜は白浜でも有数の観光名所なので、平日にもかかわらず、駐車場がいっぱいで、車を停めることができずに困りました。仕方なく、白浜周辺の他の名所を見ることにしました。その日は白浜に泊まることになっていたので、夕方になって白良浜にいくと、公営の駐車場が空いていて停めることができました。夕刻の浜辺を、散策することができました。そして、白砂の行方に思いを馳せました。

・人工と自然・
人工の砂浜だとわかっていても、
やはり白砂の海岸は見事でした。
さすがに「日本の渚・百選」に選ばれているだけのことはあります。
現在では人手によって維持されていますが、
かつては、自然のままの白砂が広がっていたのです。
それを思うを自然の偉大さを感じます。
ここ20年は、人工的に多くの労力を使って
白砂の浜が維持されています。
そもそもは陸側に住む人間の都合で後背地から
新しい砂が供給されないことが、
砂浜消失の大きな原因だったはずです。
しかし、そこは人間が住んで暮らし、
観光産業を営まなくてはなりません。
どこか論理矛盾しているような行為をしているように見えます。
でも、人工の砂浜を守る努力は、
今後も続けなければなりません。

・雨不足・
北海道は4月になって、
雨がほとんど降らない天気が続いていました。
晴ればかりではないのですが、
曇っても雨が降りませんでした。
もちろん晴天の日も多かったのです。
今週中ごろになって雨が降りだし、
雨不足の心配はなくなりました。
北海道は、春は雪解けの時期なので、
農業用水は飲料水の心配はないはずです。
でもはやり、雨が降らないと
心なしか、木々の元気がないように見えます。
私は、雨の日も好きなのですが、
春はやはりぬけるような快晴の日がいいです。
4月の前半は晴れが多く、春を満喫していたのですが、
ここらで一休みでしょうか。
雨の情緒を楽しみましょう。

2009年4月9日木曜日

4_84 日ノ御崎から付加体の旅へ:南紀1(2009.04.09)

 北海道は暖かかったとはいえ、まだ雪解けが終わったばかりです。花の季節はもう少し先です。春の南紀に出かけました。南紀では、咲きはじめた桜をいっぱい見かけました。南紀では、付加体を見る旅となりました。その様子をシリーズで紹介していきます。

 春休みを利用して、家族で紀伊半島を一周しました。私は、和歌山や三重の伊勢志摩は来たことがあるのですが、一周するのは初めてでした。レンタカーで、できるだけ海岸線を走りたいと思っていました。
 ところが初日から、そうもいきませんでした。海岸沿いは狭い道が多く、時間がかかりました。予定の宿に着けそうもないので、大きな国道にルートを変えて、やっと一泊目の日ノ御碕までたどり着きました。
 今回の旅の目的は、紀伊半島の南半分、南紀と呼ばれる地域の海岸沿いを見て回ることです。南紀は、地質学的見ると、日本でも有数の地層が見られるところです。さまざまな地層の姿を、南紀で見る予定でした。
 その日、予約していた宿舎は、町並みを抜け、道路の突き当り、岬の丘の上にありました。人里から少々離れた、緑に囲まれ、海の見える、眺めのいい宿でした。ここから、南紀の旅行をはじめました。
 南紀には、四万十帯(地層の区分では累層群(るいそうぐん)とよばれます)に属する地層が見られます。四万十帯は、古いものから、日高川帯(地層の区分では層群(そうぐん)とよばれます。以下同じ)、音無川帯、牟婁(むろ)帯に区分されています。日ノ御崎では、四万十帯のなかでも、もっとも古い日高川帯の地層が見られます。
 日高川帯の地層は、砂岩や泥岩、あるいはその繰り返し(互層(ごそう)といいます)からできています。これらは、風化や侵食によって陸地の岩石が砕かれ、河川によって土砂が海底に運ばれ、固まったものです。いわば陸を起源とする(陸源といいます)物質によってできた堆積岩です。
 ところが、日高川帯の地層の中には、土砂だけでなく、火山岩やチャートなどが混じっています。
 火山岩は、海底で活動したマグマによってできたものです。溶岩が水中でつくる枕状の形が残っています。枕状溶岩と呼ばれるものです。また、枕状にならずに、溶岩流や岩脈として大きく固まったもの、あるいは壊れてしまったものなどもあります。このような火山岩は、海底をつくっているマグマと同じ性質を持っています。つまり、海洋底の本体の切れ端といっていいものが見つかっています。
 チャートは、海洋のプランクトンが死んで、その遺骸が海底にたまって固まったものです。チャートがたまるには、長い時間が必要です。その間、陸が近くにあれば、堆積物がチャートの間に挟まってきます。ところが、多くのチャートには、陸源物質をはさむことは、ほとんどありません。つまり、陸から遠く離れた深海底で、多くのチャートが形成されていることを意味します。
 日高川帯は、多くの陸源堆積物と、陸から遠く離れた深海堆積物、および海底の破片という、いろいろなものからできていることになります。このような地層は、プレートの沈み込みによって、海底にあった堆積物が陸にくっついた付加体と呼ばれるものです。四万十帯は、付加体によってできています。四万十帯は、西日本の海側の大地の代表的な構成物で、似たものが房総半島、関東、東海、四国、九州へと連続して分布しています。
 日ノ御崎では、桜が咲き始めていました。日ノ御崎に至る道でも、咲き始めた桜をいっぱい見かけました。北海道は暖かかったとはいえ、まだ雪解けが終わったばかりです。花の季節はもう少し先です。春の南紀で付加体を見る旅を紹介していきます。

・常識破り・
地層は、つぎつぎと新しい土砂が海底にたまっていきます。
ですから、先にできたものが下になり、
時代も古いということになります。
これは地層累重の法則という地質学では基本的な常識です。
ところが、この地質学の常識を、付加体は破ったのです。
付加体は、沈み込むプレートの作用で形成されます。
堆積物は、沈みこまれるプレートの下に付加されていきます。
すると、新しい地層が、前の地層の下に付け加わることになります。
この作用が連続すると、地質学的上にあるものが古く、
下のもが新しいという構造の地質体ができてきます。
このようなことが起こっていることは、
地層の含まれている微化石を丹念に調べる技術ができ、
それを付加体に適用してはじめてわかってきたことです。

・風邪・
3月25日に関西空港からスタートして、南紀をめぐり、
最後は三重県伊賀上野から奈良を通り抜けて、
31日には、関西空港に戻ってきました。
三重県伊賀上野に行ったのは、
次男が忍者が大好きなのです、
忍者発祥の地である伊賀にいきたいというので、
そのリクエストに応えたためです。
長男は鳥羽の水族館でした。
この間、次男がずっと鼻水をかんでいました。
行動には支障がなく
大事に至らなかったのでよかったのですが、
たぶんその風邪が私にうつったようです。
私は、最後の夜になった、
急に悪寒がしだし、ダウンしましたが、
翌日も車を運転していたのですが、
何とか大事にならず、自宅まで戻ってきました。
しかし、自宅で一気に風邪が悪化しました。
その風邪がまだ抜けてないのです。

2009年4月2日木曜日

1_81 滝の回廊:メッシニアン塩分危機6

 メッシニアン塩分危機は、地中海がジブラルタル海峡で、新たに大西洋とつながることで終わりを告げます。つまり、メッシニアン塩分危機を完全に解明するには、ジブラルタル海峡の形成の歴史を明らかにすることが最後の課題となります。しかし、その形成史も、実は謎に満ちたものだったのです。メッシニアン塩分危機のシリーズの最後として、ジブラルタル海峡の形成についてみていきましょう。

 メッシニアン塩分危機は、氷河期による海水準低下と、それまであった大西洋と地中海をつなぐ2つの回廊が地殻変動によって閉ざされたことが原因でおこりました。中新世のメッシニア期が終わる(533万年前)ととともに、メッシニアン塩分危機も終結します。そして時代は、鮮新世のザンクリーン期(Zanclean)になります。
 メッシニアン塩分危機によって生じた地中海沿岸の景観は、今の状態からはまったく想像もできないものです。今は水際で水を湛えている沿岸域がすべて、侵食の場となります。もともと海底であったところも、深い渓谷が各所にできました。
 地中海から1200kmも離れた、アスワンダムのある場所では、海水準より数100mも低いところに、花崗岩をうがってできた河川による侵食地形(ゴージュと呼ばれる箱型の渓谷)が見つかっています。また、カイロのナイル川の下2500mの地下にも、同じような河川の侵食地形が見つかっています。つまり、今体積の場となっている地域が、すべて侵食の場だったのです。
 メッシニアン塩分危機が終わると、地中海は、短時間で激しい環境変化が起こります。それは、地中海の海底堆積物から、突然、深海生物の化石が見つかることからわかります。
 氷河期が終わり、暖かくなると降水量が増えます。氷河の融解によって、海水準も上昇しはじめます。外洋である大西洋の海水準が上昇し、低地帯である地中海域が存在することになります。そこにじわじわと大西洋の海水が進入してくるというような、のんびりとした変化では、一気に深海に転じるという現象は説明できません。
 地質学的証拠を説明するには、現在のようなジブラルタル海峡が、一気に出来なければならないのです。地質現象としては、割れ目を一気につくるものとして断層がありますが、残念ながらジブラルタル海峡には、そのような断層は見つかっていません。断層ではない、別の地質現象を考えなければなりません。
 現在のジブラルタル海峡のあたりは、低地帯で、もともと大西洋の海水が何度も浸入していたところだという説があります。また、かつての回廊も同じように大量の海水を、時々通していたというのです。そのような説がでてきたのは、現在の地中海の海底に蒸発岩が厚くたまっているのですが、その間に深海の堆積物を挟んでいます。その堆積物をつくるには、何度かの海水の供給が必要となります。その海水の供給源の一つが、ジブラルタル海峡の低地帯であっと考えられたのです。
 ジブラルタル海峡における過去の地形や地震波による探査がなされました。すると、東向きの流れをもった流路や渓谷が形成されていたことがわかってきました。その渓谷が、現在の海峡のもとになったと考えられています。海水が地中海に満たされるには、数100年の単位で起こらなければなりません。地質学的にあっという間に起こったといえます。
 そこの現在のジブラルタル海峡の幅の流路で、地中海に海水を満たすには、膨大な海水が流れこまなければなりません。さらに、大西洋と地中海は、当時、その落差1kmほどもあったのです。ジブラルタル海峡は、まるで大きな滝(ヴクトリアの滝の100倍の規模)というべき海峡が出現したのです。
 でも、この説では、現在の286mというジブラルタル海峡の深い水深を説明できません。やはりこの水路周辺の200から100m程度の沈降は不可欠となります。その現象まで完全に説明している説は、まだないようです。
 科学者の説明はできていないのですが、今と同じような深海の地中海が、一気に復活し、現在まで継続しているのです。
 温暖で穏やかな地中海の水面をみていると、そのような異変の面影は見てきません。しかし、地中海の海底から見つかる蒸発岩や大量の微化石が、これまで述べてきたような出来事を物語っています。地質学者たちは、残されたかすかな痕跡から、異変を嗅ぎ取り、その物語を解明しつつあります。

・風邪・
発行が遅れて申し訳ありません。
旅行から帰ったら風邪でダウンしました。
旅行の最後の夜に風邪を引いてすごく不調でした。
翌日車を運転して飛行機に乗り、
自宅までまた1時間ほど運転して帰りました。
風邪はいったんピークを過ぎたように思えたのですが、
やはり翌日も体調不良で、医者に駆け込みました。
インフルエンザではなかったのですが、
その後、熱と悪寒に4日間襲われ
今日やっと復帰しました。
風邪をぶり返したようです。
新学期の最初の会議を
いくつか欠席してしまいました。
申し訳ないことをしました。

・もう春です・
北海道も、暖かい日、寒い日を繰り返しながら
春に向かっています。
道路の雪はもちろん消え、
田畑の雪もほとんどなくなりました。
私が帰ってきた3月31日は、北海道は肌寒く、
小雪が舞ってました。
帰宅後、家も冷え切っていたのですが、
一晩ストーブをつけたら温まりました。
それから数日は暖かくなり、
昼間は日の光の当たるところを避けなければ
暑いほど部屋の気温は上がります。
朝夕はまだストーブが必要ですが、
北国も、日に日に春めいてきました。

2009年3月26日木曜日

1_80 回廊の閉鎖:メッシニアン塩分危機5(2009.03.26)

 メッシニアン塩分危機は、なぜ起こったのでしょうか。その原因を解明するには、今は亡き回廊が、なぜ消えたのかを、解き明かさなければなりません。その謎解きは、簡単ではありません。まだ、確定したモデルはできていませんが、代表的なものを紹介しましょう。

 前回、メッシニアン塩分危機が起こる前は、今のジブラルタル海峡ではなく、もっと広い海峡(回廊と呼ばれていました)があったと紹介しました。その回廊は、2つもあり、大西洋と地中海をつないでいたこという話もしました。そのような広い回廊が、メッシニアン塩分危機の直前に閉じたのです。海水の流入なくなったことが、メッシニアン塩分危機を引き起こしたのです。
 ではなぜ、その回廊が閉じたのでしょうか。
 実はまだ、完全には解明されているわけではありません。しかし、いくつかの重要な原因は、突き止められててきました。大きく2つが、原因の候補として挙げられています。第一の原因は海水面の低下、第二の原因が構造的な運動です。
 第一の海水面の低下とは、気候変動によって氷河期になることによって起こります。氷河期とは、全地球的に寒冷化が起こり、水が陸域に氷として蓄積されることを意味します。陸にたまった氷の分だけ、海水は減少(海退といいます)します。実際にその頃、全地球的な寒冷化が起こっていたことはわかっています。
 氷河期によって起こると推定される海水準の低下は、メッシニア期の初期では、60m程度と見積もられています。私たちの感覚からすると、とんでもない海水準の低下です。しかし、それでも回廊を閉じるには十分でなく、この程度では、まだ海水が出入りできたと考えられています。この状態では、現在の黒海のような環境にしかならないようです。つまり、この第一の原因だけでは、メッシニアン塩分危機を説明できないということになります。
 そこで第二の構造的な運動が重要になります。構造的な運動とは、地殻変動のことです。前々回説明したように、地中海はユーラシア大陸(ヨーロッパ)とアフリカ大陸が衝突している場所です。衝突が完了すれば、インドのユーラシアの衝突のように、海が完全に消えてしまいます。しかし、地中海は、まだ残っています。
 衝突前にあった、さまざまな地質体や、構造運動によって形成された地質体などが、地中海周辺に形成され、非常に複雑な地質環境となります。海が消えていくための沈み込み帯、それに伴う火山帯(アフリカ北岸やイベリア半島東岸)ができます。また、衝突によって生じた山脈(ピレネー山脈やアルプス山脈)、あるいは分離した陸地(バレアレス諸島、サルディニア島、コルシカ島)なども形成されていきます。地中海は、非常に複雑な地質環境となります。
 リフィーンとベティクと呼ばれる二つの回廊は、沈み込み帯自体が衝突してなくなり、その結果、1kmのオーダーで周辺地帯で上昇が起こったと考えられています。それが、回廊を閉じる原因になったというのです。
 現在でもまだ結論は出ていませんが、海水準上昇と地殻変動の2つの原因が複合しているのではないか、と考える研究者が多いようです。

・大学での送別会・
3月もいよいよ残り少なくなりました。
大学は卒業式も終わり、
あとは移動する教職員のための送別会が残されています。
定年退職する人、他のところに転出する人。
それぞれの思いがそこには生じます。
新入生を迎える前に、
受け入れ側である大学が変化をする時期です。
私は、変化なくそのままです。

・家族旅行・
このメールマガジンがお手元に届く頃には、
私は、調査兼家族旅行の最中です。
今回は、紀伊半島をめぐる旅です。
もちろん私は、各地の地質名所を巡る調査をする予定です。
幸いなことに地質名所と観光名所はかなり重複します。
ですから、家族で巡っても、飽きられはしないので
大丈夫だと思います。
もちろん、あまり観光客が行かないようなところへも
いくことになるでしょうが。
ルートは、関西空港から名古屋中部空港へと抜けるつもりでした。
しかし、次男のたっての希望で、
伊賀上野に最終日によることになりました。
それは、忍者村にいくためです。
次男は、今は忍者に凝っていて、
北海道の伊達にある時代村の忍者屋敷に感動して、
忍者の本場である伊賀上野を
ぜひ訪ねたいというリクエストに応じたものです。
そのため、帰りは関西空港に戻ることになります。
乗り捨てでないので、その分費用は助かりますが、
結構ロスの多いルート選択となりました。

2009年3月19日木曜日

1_79 広い回廊:メッシニアン塩分危機4(2009.03.19)

 地中海と大西洋がつながっているところは、ジブラルタル海峡と呼ばれています。この海峡は、狭く、海路交通の要所となっています。アフリカとヨーロッパの接点でもあります。そのため、政治、宗教、軍事などの要ともなっています。このジブラルタル海峡は、メッシニアン塩分危機以降にできたものでした。

 現在の地中海は、ジブラルタル海峡を通じて大西洋とつながっています。地図をみると、その海峡は細く狭いものであることが、よくわかります。対岸が近くにあり、肉眼でも見ることができます。海岸には、渓谷のように急な崖となっているところもあります。
 ジブラルタル海峡の海底地形は、水深が286mと深いのですが、幅が14km~44kmで、長さが60kmにわたって延びています。海水がなければ、まるで狭い回廊のような場所に見えるはずです。
 海水があってもジブラルタル海峡が狭く感じます。それは、地中海に面して、アフリカとヨーロッパの両側に、大きな山地があるためではないでしょうか。海峡の入り口にあたる岩崖を、「ヘラクレスの柱(2本柱とも呼ばれます)」といいます。2本の柱に見えるほど、切り立って見えるということです。
 海岸沿いで山を形成しているのは、ユーラシア大陸(ヨーロッパのスペイン)側では、ジブラルタロックと呼ばれる標高425mの岩山です。アフリカ大陸側には、モンテアチョ山(Monte Hacho)とヘベルムサ山(Jebel Musa)があります。モンテアチョ山はセウタという町にあり、ヘベルムサ山はモロッコにあります。ヘラクレスの2本柱に当たるのは、セウタにあるモンテアチョ山の方です。
 セウタは、モロッコの東にあるスペインの飛び地の領地になっています。地中海の出入り口に当たるこの地は、昔から海洋交通の要所となっています。したがって軍事の要所ともなります。まして、そこに眺めのよい山地があれば、要塞などの軍事施設としても最適となります。じっさい軍の施設が設置されています。
 ジブラルタルは、アフリカとヨーロッパの接点ともなっており、宗教や政治、軍事においても複雑な場となっています。
 さて、メッシニアン塩分危機が起こる以前、まだジブラルタル海峡が形成されていませんでした。地中海は別の地域で大西洋とつながっていました。つまり現在は陸地となっているところが、大西洋との海水交換の道、回廊としてありました。
 回廊は、現在の南スペイン(Betic回廊と呼ばれています)と北西アフリカ(Rifean回廊と呼ばれ2つの海路が開いていました)との2箇所で、大西洋とつながっていたと考えられています。回廊という名称がついていますが、今のジブラルタル海峡よりもっと広い海峡となっていたようです。
 地中海の海底や周辺の陸地の地質を調べていくと、そのような過去の回廊があったのがわかってきました。メッシニアン塩分危機のときに、ジブラルタル近辺では、海水が干上がっていれば出来たはずの蒸発岩類が見あたりませんでした。そして、海があった痕跡を探すと、ジブラルタル海峡以外のところに2箇所も見つかったのです。
 広い回廊が2つもあったのに、なぜか回廊が閉じて、海水が入らなくなりメッシニアン塩分危機が起こったのです。その理由は、次回としましょう。

・セウタ・
「ジブラルタル」という名前は、
「ターリクの山(ジェベル・ターリク)」から由来しているそうです。
「ターリク」とは、イベリア半島に進入した
アラブ人の首長ターリク・イブン・サイードのことだそうです。
古くから、文明の交差する場所であったことが、
ジブラルタル自体の名前からも伺えます。
現在スペインの飛び地領であるセウタを、
モロッコは地続きである自国への編入を求めています。
セウタの歴史を見ると、
カルタゴ人やローマ人、ヴァンダル人、西ゴート族、
キリスト教とイスラム教、
ポルトガルやスペイン、モロッコなど、
さまざま組織が支配を巡って争ってきました。
セウタを例にしましたが、
ジブラルタルは、非常に重要な拠点であるために
このような複雑な歴史があるのです。

・ドル・
アメリカ合衆国のお金の単位は「ドル」です。
「ドル」の単位を、$と表記します。
ただし、$は正式には、
2本の縦線が使われることになっています。
なぜ、2本線が引かれているのかというと、
「ヘラクレスの2本柱」を表すという説があります。
スペインの貨幣は、ジブラルタル海峡から大西洋を渡り、
アメリカ大陸でも使われていた時代がありました。
その時のなごりで、ジブラルタル海峡の象徴として、
Sに「ヘラクレスの2本柱」を意味する
縦の2本線を加えたといわれています。
本当の由来は知りませんが、
このような由来もなかなか面白い説ですね。

2009年3月12日木曜日

1_78 地中海誕生:メッシニアン塩分危機3(2009.03.12)

 メッシニアン塩分危機は、地中海の成因と深い関係があるという話を前回して、終わりました。今回は、その地中海の誕生にまつわる物語を紹介します。

 そもそも地中海は、どのようにして形成されたのでしょうか。実は、地中海は、もともと非常に大きな海洋だったものが、今のような大きさに縮小してしまったものです。そのような縮小の過程で、メッシニアン塩分危機が起こったのです。
 地中海は、もとはテチス海(Tethys Sea)と呼ばれ、古生代から新生代のパレオジン(以前は新第三紀と呼ばれていた時代)にかけて存在した大きな海でした。その大きさは、時代ごとに変化しましたが、大陸に囲まれていることがテチス海の特徴でした。ですから、テチス海の話をするには、その時代の大陸配置を理解する必要があります。ただし、過去の大陸を復元するのは、大変な作業で、科学者によってもいろいろな考え方があります。以下の話は、"The Concise Geologic Time Scale"に基づいて紹介していきます。
 まず、古生代から話をはじめましょう。古生代の最初の時代は、カンブリア紀です。その時代には、ゴンドワナという巨大な大陸が一つありました。その他に3つの小大陸(ローレンティア、バルティカ、シベリアと呼ばれています)が、ゴンドワナの近くに集まって存在していました。その他の部分を占める大きな海洋は、パンサラッサ海と呼れていました。ゴンドワナと小さな大陸の間には、イアペタス海と呼ばれ海がありました。
 オルドビス紀になると、小さいな大陸は配置を変えていきます。パンサラッサ海とゴンドワナ大陸という大きな構図はそのままに、小さな3つの大陸の配置が変わっていきます。そのため、イアペタス海は小さくなり、新たに古テチス海と呼ばれる海ができます。
 大陸の配置は変わり、シルル紀からイアペタス海は小さくなり続け、古テチス海は、大陸配置の変更によっていろいろな形をとっていきます。デボン紀には、いくつもあった小さな大陸がゴンドワナ大陸に向かって集まりはじめ、イアペタス海はなくなります。そして、石炭紀を経てペルム紀には、一つの大きな超大陸パンゲアになっていきます。その間、古テチス海は、パンゲア大陸の内海として存在し続けます。そしてペルム紀には、古テチス海の片隅に、パンゲア大陸に抱かれるようにして、テチス海が形成されていきます。
 中生代の三畳紀になると、古テチス海は狭まり、テチス海が広がりだします。ジュラ紀には古テチス海が消え、テチス海だけになります。また、テチス海は、拡大しながら、内湾から外海の環境になります。テチス海とパンサラッサ海がつながったとき、パンサラッサは太平洋と呼ばれるようになります。この頃、パンゲアは分裂を始めローラシアとゴンドワナに分かれ始めます。白亜紀になるとローラシアとゴンドワナはさらに分裂をはじめ、大西洋が形成されていきます。そして、テチス海は縮小していきます。
 新生代になると、ユーラシア大陸に、アフリカ大陸とインド大陸の衝突して、間にあったテチス海が閉ざされ、その大部分が消えてしまいました。テチス海は、地中海や黒海、カスピ海、アラル海などが、その名残として今も少しあるだけです。
 ユーラシア大陸(ヨーロッパ)とアフリカ大陸、ユーラシア大陸(アジア)とインド大陸という大陸同士の衝突は、現在も継続しています。衝突の場には、山脈が形成され、今も上昇を続け、地震も頻発します。ところによっては火山も形成されています。
 テチス海の名残である地中海は、アフリカ大陸とユーラシア大陸の衝突が続いているところにあたります。ですから、今後も、地中海は閉じていく海になっていくはずです。メッシニアン塩分危機は、その前触れともいうべき事件だったのかもしれません。

・スペック不足・
昨年新しいデスクトップのパソコンとして
Windows VISTAを購入しました。
予算の都合で、理想のスペックのものは購入できず、
しかたなく予算に見合ったスペックの低いものにしました。
ところが、ハードディスクの容量不足が、すぐに発生しました。
予期していたことですが、まめにファイルを整理していけば、
大丈夫かと思っていました。
ところがいくら整理しても、すぐに容量が足りなくなります。
購入したタイプのコンピュータでは、
ハードディズクは250GBが最大の容量でした。
これが一つ目の間違いです。
二つ目の間違いは、VISTAにしたことです。
VISTA対応のソフトをいくつか導入したのですが、
遅すぎて使い物にならず、
古いバージョンに戻してしまいました。
これでは、何のためにVISTAにしかわかりません。
また、ハングアップすることはないのですが、
いつもエラーを出していますので、
使用上、不安が付きまといます。
だから、安定しているXPにバージョンダウンした
デスクトップに買い換えようかと考えています。
価格の関係で望む機能を削ったのが、
失敗の原因だったような気がします。
少々無理をしても、必要なところには、
十分なスペックを持っていたほうが
結局は長持ちすることになりそうです。
一つ前のデスクトップは十分なスペックもっていたので、
4年ほど使うことができました。
パソコンとして十分長く使っていると思います。
まあ、新しく購入するにしても、来年度になるのですが。

・卒業と入学のはざま・
いよいよ卒業のシーズになります。
早い大学では、今週が卒業式になっています。
わが大学は来週が卒業式です。
卒業式は、本来なら大学内で挙行するのがいいはずなのです。
ところが、卒業生が1000名、そのほかに大学院生と父兄も参加します。
そんな大人数では、大学の施設では収容しきれません。
ですから、大きな会場を借りて卒業式を行います。
教員もそちらに出向いていきます。
卒業式の話をしましたが、現在、入試はまだ継続中です。
二次入試の試験は終わりましたが、
現在、集計中で、来週、その発表があります。
大学は、終わりと始まりのはざまにあります。