2008年10月30日木曜日

1_65 第四紀問題:地質時代2(2008.10.30)

 地質の時代区分に関する"The Concise Geologic Time Scale"という書籍を通じて、地質時代について考えています。今回は、以前から話題になっていた時代区分について、どのような結論になったのかみていきましょう。

 新しく出版された"The Concise Geologic Time Scale"にまとめられた地質の時代境界をみると、大きな「代」や「紀」の境界は、まったく変わっていませんでした。細分された時代境界で、年代値が変わっていることがいくつかありました。しかし、それは以前の本(1989年版)でも変わる可能性があることは、示唆されていました。
 さて、前回のエッセイでいっていた物議をかもしていた内容についてみていきましょう。
 まず、新生代の「第三紀(Tertiary)」がなくなり、地質学では公式には使わなくなりました。「第三紀」はなくなり、新生代は「パレオジン(Paleogene)」紀と「ネオジン(Neogene)」紀に区分され、「第三紀」は公式な時代名称ではなないことにされました。この件については、衝撃はあったのですが、とりあえずは受け入れられたようです。
 ただ、「パレオジン」紀と「ネオジン」紀に対応する日本語名は、まだ決定されていません。ですから、私は、カタカナ書きで書いていますが、早く決定してもらいたいものです。
 どこが決定するかは、正式にはわかりません。日本地質学会が、日本語名称を提案して、それを関係学会に示して、了承を得ることになるのが、一番妥当のような気がします。
 さて問題は、「第三紀」とともに消えた「第四紀(Quaternary)」です。両時代名とも昔つけられたものが、そのまま慣習として使われているにすぎず、現在では「三」や「四」に意味があるわけでありません。ですから、以前の"A geological time scale 1989"ではなくすという方針となりました。しかし、それが大きな混乱と議論を湧き起こしました。その後もいろいろ議論され、一時は復活させる提案もでてきました。現在まだ検討中で、決着はみていません。私は、この「第四紀」問題が解決したかどうかという興味があり、「Concise版」を見たのですが、まだ議論中でした。
 「Concise版」の最初のカラー図版の地質年代表を見ると、下に但し書きがあります。「第四紀の定義は議論中で、更新世(Pleistocene)の改定も議論中である。更新世の始まりは、181万年前(Calabrianの始まり)だが、259万年前(Gelasianの始まり)まで広がるかもしれない」と書かれています。これは、暫定的に使用可能としている第四紀のはじまりをどこに置くかによって変わってくるわけです。第四紀のはじまりの更新性と一致させるのか、それとも独自の時代区分を持つのかということです。
 ではそもそも、なぜ第四紀がこのような物議をかもしているでしょうか。それは、第四紀の定義に原因があったのです。その詳細は、次回としましょう。

・ソフトウエア・
地質時代は、使われる色も指定され、
カラーで見ると非常にきれいな色合いとなっています。
地質時代の色は、地質図でも使われることになり、
重要な意味を持っています。
色を実際に塗るのは大変ですが、
地質時代の作成すための便利なソフトウエアが公開されています。
http://www.tscreator.com/
に無料でダウンロードできるようになっています。
このソフトは、Javaで書かれていますので、
Javaが動くソフトであれば、OSを問いません。
マニュアルも同じサイトあります。
簡単に使えて、なかなか便利なソフトです。
興味がある方は、試されてはいかがでしょうか。

・短い秋・
木々の葉もだいぶ落ちてしまいました。
今年の紅葉はあまり艶やかではありませんでした。
でも、それなりの秋の色合いを見せてくれました。
北海道のわが町では、手稲の山並みが見えます。
その山並みが、先日とうとう雪化粧をしました。
ここ数日天気も悪く、冷え込みました。
朝夕は我が家では、ストーブを炊いています。
日中も曇りの寒い日はストーブをつけます。
北海道では短い秋も終わろうとしています。

2008年10月23日木曜日

1_64 Concise版:地質時代1(2008.10.23)

 地質の時代区分に関する"The Concise Geologic Time Scale"という書籍が出版されました。それについて紹介しながら、地質時代について考えていきます。

 "The Concise Geologic Time Scale"(以下「Concise」版と呼びます)という本が出版されました。10月31日発行になっていますが、予約していたら8月下旬に届きました。2005年春に発行された"A Geological Time Scale 2004"(以下「2004」版と呼びます)という589ページにもおよぶ分厚い本があります。「Concise」版は、タイトルどおり、「2004」版の要約されたものです。私は「2004」版も持っていたのですが、新たに購入しました。
 要約版をわざわざ購入したのには、理由がありました。「2004」版が出たとき、実は、いろいろ物議をかもした部分がありました。それがどのような決着になったかを、「Concise」版でまとめる見ることができるかもしれないかと思ったからです。「Concise」版を実際購入して、中を見てみると、いろいろ変化に気づきました。
 「2004」版で、物議をかもしたのは、新生代の時代区分でした。その詳細は、「1_52 新生代1:時代区分」(2005.10.27」や「5_48 第四紀の復活?1」(2005.12.22)、「5_48 第四紀の復活?2」(2005.12.27)で紹介しました。再度整理しながら紹介していこうと思います。
 地質時代は、その時代の代表的な地層が出ている地(模式地と呼びます)で、なんらかの特徴がある地層の境界を見つけて、そこで区分されます。ところが、研究が進み、地層を調べる技術が発展するにつれて、情報が増えてきます。すると、今まで、見えなかったものがみえたり、より時代を代表する地層が見つかったりします。そのような研究成果を踏まえて、地質時代の区分は、何度も見直されことになります。
 1990年に出版された"A geological time scale 1989"(以下「1989」版と呼びます)では、全地質時代の再検討がなされました。その後、2005年に「2004」版が出版されました。「2004」版では、プレカンブリア紀(隠生代(いんせいだい)と呼ばれています)は、あまり重要視されておらず、主として顕生代の時代区分に力が入れられていました。
 2008年の「Concise」版では、単に要約をしたものと思っていましたが、どうもそれだけでないようです。それぞれの時代を、専門の研究者が数名で執筆しています。ですから、新しい見解もかなり付け加わっています。特に、プレカンブリア紀には力が入っているように感じられました。実は、私はこちらに興味があるので、ついついそちらを見てしまうせいかもしれませんが。でも、"Planetary time scale"として、地球以外の月、火星、金星の時代区分を対比して全地質時代を検討しています。
 では、物議をかもしたところがどうなっているかを、次回紹介しましょう。

・変化・
「Concise」版は、9月下旬発行のはずなのですが、
予約しておいたら、なぜか8月下旬に手元に届きました。
そのとき、ぱらぱらとめくってみて、
かなりカラフルな本だなという程度の印象のまま、
詳しく見ずに、そのまま本立てにしまっていました。
その後、必要があって、取り出してみたら、
いくつか変わっている点に気づきました。
それが今回のエッセイとなりました。
まだ、十分読んでないので、どこかどれだけ変わったかは、
このエッセイを書きながら見ていこうと思っています。

・養生・
風邪が治まったつもりでいたのですが、
どうも、長引きそうな気配です。
先日医者に行って、新たな薬を処方してもらいました。
利くといいのですが、先に風邪を引いてこじらせていた
家内と同じ薬になりました。
先週ひどい状態だったのですが、
どうも今週になって、またぶり返したみたいで、
それほどひどくはないのですが、
先週と似た症状が繰り返しているようにみえます。
まあ、無理せず、養生していきます。

2008年10月16日木曜日

4_83 九頭竜川:能登と飛騨の旅5

 九つの頭を持つ竜と書く九頭竜川という名前は、竜のおどろおどろしさ髣髴とさせる名称です。九頭竜川、じつは竜と関連があります。能登と飛騨の旅の最後に、竜の里の話をしましょう。

 私は、富山県から岐阜県にはいり、長良川源流を下り、上流の途中から西に向かい、油坂峠を登りました。その峠は今では、自動車専用道路ができていて、すぐに越えられる峠になっているのですが、私は、旧道を車で登りました。くねくねした道を登り、短いトンネルといくつか通り、やや長めのトンネルを抜けると下りになりました。そのトンネルが、九頭竜川の源流でした。
 九頭竜川と書いて「くずりゅうがわ」と読みます。福井県を代表する一級河川です。九頭竜という名称には、いくつかの由来あるようです。「大乗院寺社雑事記」では洪水の度に川岸を崩しながら激しく流れ下ることから「崩川」と呼ばれ後に九頭竜川と呼ぶようになったという説、「越前名蹟考」では白山権現の像を川に浮かばせたら頭が九つ分かれた竜が現れたという説、などなど。私は、九頭の竜の説が気に入っています。
 この九頭竜川は、地質学者の間では有名です。それは、九頭竜川周辺では、竜の化石が見つかるからです。名前の由来の竜伝説とは関係がないのですが、竜、つまり恐竜の化石が見つかるのです。恐竜の化石は、古くから竜骨と呼ばれ、漢方薬として使われています。竜骨は、実は大部分が大型哺乳類の化石で、一部に恐竜の化石が含まれていたようです。恐竜は中生代に繁栄し、哺乳類は新生代に繁栄したものです。一般に古い化石より新しい化石がより多く見つかるため、恐竜の化石は少ないのです。福井県は、日本でも有数の竜骨、恐竜の化石の産地として知られているのです。
 九頭竜川は、南の三国ヶ岳から流れてくる大きな支流の日野川と、南東の両白山地の油坂峠(標高717m)に源を発する本流があります。本流上流の南部には二畳紀から石炭紀に堆積した古生層(丹波層群と呼ばれています)があり、北部には飛騨変麻岩とその上を覆うジュラ紀から白亜紀に堆積した手取(てとり)層群や足羽層群があります。
 この手取層群から恐竜の化石が見つかっています。手取層群は福井県だけでなく、石川県、岐阜県、富山県にも分布していて、各地から化石が見つかっています。しかし、中でも福井県の九頭竜川流域が恐竜の化石の産地としては有名です。
 地層ができたところは、内湾の浅瀬と川や湖が交わる、海水と淡水が交わる(汽水といいます)ような湿地帯でした。そこには、多数の恐竜だけでなく、カメやワニ、鳥類など各種の生き物いたことが、足跡(足跡も化石の一種とされています)や化石からわかっています。
 今年の春に福井県立恐竜博物館にいって(4-77 恐竜博物館:若狭の旅2で紹介)、恐竜の化石を見たのですが、産地を見ることできませんでした。今回は、化石の産地を見たいと思っていました。どのような地域から化石が見つかったのが、直接でなくてもいいから感じることできればいいと思いました。化石がたくさん見つかっている勝山へはいけませんでしたが、大野市伊月や後野は九頭竜川本流からも近いので見ることができました。これらの地域は、残暑の快晴の九頭竜川は、緑が深く恐竜の棲んでいた環境とはまったく違う山地ですが、竜骨が潜むにふさわしい場所に思えました。

・お詫び・
このメールマガジンは毎週木曜日の発行していたのですが、
風邪でダウンして遅れました。
申し訳ありませんでした。
1日遅れでの発行となりました。
月曜日から体調は変だったのですが、
火曜日には激しい咳が出始め、
医者に言って薬をもらってのですが、
手遅れだったらしく、その夜にダウンしました。
木曜日まで寝込んでいました。
だいぶましになりましたが、
今朝も寝汗をいっぱいかきました。
これ以上休めないので、
今回は早く直ることを願っています。

・風邪・
大学は大きな組織として運営されています。
ところが、教員が行うここの授業は
その人しかできないものになっています。
授業は、教員個人に依存しているものです。
教員が突然の体調不良になれば、代替が利きません。
それは、学生に迷惑をかけることになります。
補講として補いをすればいいのですが、
数字の上ではあわせることができますが、
どうしても補いきれないものもあります。
学生の都合や他の補講との調整がきかないときもあります。
私自身は、体調には気を配っているつもりなのですが、
今年は、なぜか冬になる前に、2度も風邪にたたれました。
前期もそれで休講をしました。
今年は、どうも風邪にたたられているようです。
前回の夏風邪が長引いたのですが、
今回は、涼しくなってすぐの風邪です。
我が家では、家内がまずかかり、
長男がかかり、そして私でした。
症状が長男に似ているので、
小学校ではやっている風邪のようです。
でも、同じ小学校の次男は
薄着で風邪も引かずに走り回っています。
体力の違いでしょうかね。

2008年10月9日木曜日

4_82 庄川:能登と飛騨の旅4

 庄川は、日本海に注ぐ一級河川です。富山県を流れ、岐阜県の飛騨高地にその源流があります。飛騨への旅で庄川を遡りました。

 今回の能登と飛騨の旅では、庄川(しょうがわ)を遡ることが目的のひとつでした。幸い快晴に恵まれて、川沿いを落ち着いて走破することができました。
 実は、私が訪れる数日前までは、国道が通行止めが、自動車専用道路しか通れませんでした。8月の大雨によって土砂崩れが起きて、通行止めとなっていました。幸いにも、道路は復旧して通行できるようになった直後でした。
 庄川と名づけられている河川は、岐阜県高山市南西部(旧荘川村)の山中峠(標高1375m)の湿原が水源となります。しかし、水量の多い流れ(幹川と呼ばれます)は、高山市荘川町で合流してくる一色川で、その源流は飛騨高地の烏帽子岳(標高1625m)となります。
 庄川の源流部は日本でも有数の山岳地帯です。水源の標高が1625mもあるのに、河川の長さは115kmしかありません。標高に比べ流路が短いため、急流となっています。また、流域は日本海に面し、背後に高い山があるため、雨や雪が多く、上流域は日本でも有数の豪雪地帯となっています。そのため水量が多く、流路の多くは山間部であり、電源開発用のダムに適した地形もあるため、いくつものダムがつくられています。
 流域は、飛騨高地の急峻な地形なのですが、庄川の本流や支川沿いには小規模な河岸段丘が発達しています。この段丘を利用して農耕を営む集落があります。白川郷(しらかわごう)や五箇山(ごかやま)などの集落のそうです。豪雪に備え、茅葺の合掌造り家屋がつくられ、今も維持されています。それが世界遺産に登録されています。
 飛騨高地には、パレオジン(かつては古第三紀と呼ばれていた)の流紋岩やネオジン(新第三紀)の安山岩が主として分布しています。下流域は、扇状地として、庄川が運んだ第四紀の堆積物が広がっています。このような地質をみると、日本列島ではよくあるタイプのものです。しかし、それらの石の下には、日本でも最も古い地層や岩石があります。このような地下に広く広がっている古い岩石を基盤岩と呼びます。
 日本の最古の基盤岩ともいうべきものは、飛騨帯とその南側を取り巻くように飛騨外縁帯となります。両者は、形成時代、変成時代、構成岩石、分布などによって区分されています。飛騨帯は剣岳(つるぎだけ)などでみられるような花コウ岩類から、飛騨外縁帯は朝日岳、白馬岳、槍ヶ岳南方などでみられる飛騨変成岩類からできてます。
 そのような古い岩石が実際に地表に顔を出しているのは、限られて地域で、ほんの少しです。しかし、飛騨高地周辺だけでなく、能登半島や山陰、隠岐などで見つかることから、西日本の日本海側の地下に広がっていると考えられています。
 五箇山の合掌造りの民宿に一泊して、そのような古い岩石や、日本列島の生い立ちに思いをはせる旅となりました。

・五箇山・
今回の旅で庄川を遡ると決めたとき、
合掌つくりの家を見たいと思っていました。
幸いなことに、五箇山で民宿が見つかり、宿泊しました。
五箇山は観光と住民の生活が混在しているところでした。
農家の人が、実際に耕作をし、農業に従事して暮らしています。
宿泊施設は、民宿だけです。
数件のみやげ物やと食べ物屋があるだけです。
それに比べて、白川郷は観光化されていました。
実際に農業して暮らしている人もいるのですが、
多くの観光客が訪れ、それに対応するようにメインストリーは
みやげ物や飲食店がずらりと並んでいました。
五箇山のように、現実の生活がまずあり、
それにプラスして副次的に観光業があるタイプ。
白川郷ように、もともとは農業のような生活基盤があったのですが、
今では観光が基盤産業となっているタイプ。
どちらも、日本の観光地でよく見られるタイプです。
私は、不便ですが、前者が好きです。
なぜなら、五箇山では、自分が観光客でありながら、
夕方や早朝に歩くと、生の農村がみられ、
自分の子供のころを思い出しました。
農家の一員のような視点で村を見渡す自分に気づきました。

・大学祭・
わが大学の大学祭が、今週末の連休を利用して行われます。
一日家族で訪れる予定です。
例年、大学祭の日が重なるのですが、
今年は、秋に学園祭の時期がずれています。
先週は別の大学祭に行きました。
近所に4つの大学があるのですが、
そのうち3つによく出かけます。
ひとつは、8月の夏休みにオープンキャンパスをかねて行われます。
今度の連休の天気よければいいのですが。

2008年10月2日木曜日

4_81 千枚田:能登と飛騨の旅3

 区画整理されていない棚田は、耕作する人には大変なものです。しかし、それを遠目で眺めるものには、郷愁をさそうものです。千枚以上も棚田が連なる千枚田で、考えました。

 能登半島の西海岸を北上中に、輪島から少し北に、白米(しろよね)というところがあります。今回の能登の旅のために地図をみていたら、白米に千枚田と書いてありました。道すがら、そこも見ていこうと思っていました。
 国道249号線をまたいで、小さな多数の段々の田んぼがあります。解説版によると、実際には1004枚の田があるそうです。傾斜に作られた田んぼですから、その形は不揃いで、大きさもさまざまです。一番小さい田は、0.2平方mといいますから、学校の机程度の大きさしかありません。この白米の千枚田は、国指定名勝となっていて有名なところでした。
 不規則な形をした田んぼが斜面に連なっていますから、維持管理はすべて手作業になっていきます。13戸の農家が、この千枚田を、今も守っています。農家の高齢化によって、維持管理がやはり大変になってきるようです。田植えや稲刈りには、ボランティアが全国から200名以上も集まって行われているそうです。昨年から、一枚一枚の田に対してオーナー制度が行われています。100名ほどのオーナがおり、各田んぼに名札がつけられています。
 輪島の市街地からこのあたりまで、地形や地質に詳しい人には、地すべり多数あるところとして知られています。白米の千枚田も地すべりがあったところです。千枚田の後ろにある高州山(こうしゅうさん)の緑の濃い山並みから、耕作地になると急になだらかな斜面が海岸まで続いています。ゆるい斜面は馬蹄形になって海岸に向かっています。典型的な地すべりの地形となっています。
 千枚田だけでなく、私は能登でももうひとつ、飛騨でもひとつ棚田を見ました。能登では、輪島の手前の大笹波にある水田です。そこの棚田は、海岸段丘の上のゆるい斜面を利用した田んぼです。日本の棚田百選に認定されているところです。飛騨は、白鳥市の山間の正ヶ洞にある棚田でした。
 いずれの棚田も、はじめて訪れたのですが、どこか懐かしさを感じさせてくれます。なぜでしょうか。私の実家は農家で、田畑をもっていました。盆地に広がる氾濫原でしたので、広い平野があり、そこに田畑がありました。ですから、私が知っている田んぼは、四角く区画整理されていて、まさに田の字形になっていました。山間の斜面にある棚田は、なぜか郷愁を誘います。名勝や棚田百選などの選定がおこなわれているということは、はやり多くの人が私と同じような郷愁も持つのでしょうかね。

・今年の秋・
北海道は、晴れたり曇ったりのはっきりしない天気が続いています。
朝夕は、めっきり冷え込んできました。
いよいよ秋が深まりつつあります。
山での初冠雪の便りが届いています。
平野でも、木々が色づいてきました
しかし、不順な天候のせいでしょうか。
紅葉がいまひとつきれいではありません。
きれいに紅葉する前で、
散っている葉も多いようです。
こんな秋もあるのでしょう。

・年齢・
知り合いの先生が相次いで亡くなられました。
親しくしていた友人にも、もう死んだ人がいます。
私の母は元気ですが、
父は長男が生まれて5ヶ月ほどして亡くなりました。
最近特に私の恩師の世代の訃報をよく耳にするような気がします。
私の恩師のひとりは、残念ながら数年前に亡くなられたのですが、
そのほかの恩師は存命です。
先生の世代の訃報を耳にするたびに、
自分の人生の残された時間が気になります。
彼らは、それなりのものを研究者として世に残されてきました。
彼らの業績は、人類の知的資産として蓄積されています。
科学者として自分のこれまでの生き方が正しかったのかどうかを
もし世に残る業績が示しているとすると、
私がなしたことが、人類にとってどの程度価値あるものだったのか。
あるいは人間としてまっとうな生き方をしてきただろうか。
さらに、家族たちに接してきた方法はこれでよかったのか。
そんなことを、考えてしまいます。
自分もそんな年齢になってきたためでしょうか。