2008年4月24日木曜日

3_70 常識:日本のダイヤモンド1

 日本列島ではダイヤモンドは発見されるはずがない、という常識がくずれました。その経緯を発見者の水上さん自身が書かれた紹介記事を参考に、少し詳しくみていきましょう。


 2007年9月上旬に日本でダイヤモンドが発見されたというニュースが流れました。騒ぎが一段落した11月15日の本エッセイでも、その概要を紹介しました。
 その後、発見者の名古屋大学の水上知行(みずかみ ともゆき)さん自身が、学会のニュース誌などに発見の経緯や意義などの紹介記事を書かれるようになりました。印刷中でまだみることはできませんが、学会誌への論文の掲載も決まっており、学界的にもこのダイヤモンドは認知されてきました。
 私は水上さんとは面識がないのですが、発見の経緯や研究の内容などを、より詳しく知ることができるようになりました。今回は、その紹介記事にもとづいて、日本でダイヤモンドの発見について、その後にわかったことや、どのような成因が考えられるのかを紹介していきます。
 御存知のように、ダイヤモンドは炭素という元素からできています。ただし、炭素を、高温高圧の条件にしないと、ダイヤモンドの結晶は形成されません。地球でいえば、少なくとも地下150kmより深い条件でないと、炭素がダイヤモンドに変わりません。
 もう一つ、ダイヤモンドの発見のために重要な条件は、たとえ地下深部にダイヤモンドが存在したとしても、それを手にできません。手にするためには、地表にダイヤモンドが上がってこなければなりません。
 もし、ダイヤモンドが、ゆっくりと地表に上がってくると、低温低圧で安定な結晶である石墨(グラファイトと呼ばれます)に変わってしまいます。ダイヤモンドが石墨にわかる前に、地表に上がってこなかればなりません。つまり、地下深部から高速で上昇して上がってこなければなりません。そのためには、深部でできたマグマが、高速に上昇してくる必要があります。それは特殊なマグマということになります。
 もうひとつのダイヤモンドが地表にでてくる可能性は、大陸同士の衝突帯にみられるのですが、地下深部で形成された超高温高圧変成岩と共に上がってくるようなメカニズムです。これは、低温を維持しながら深部の物質が上昇するという特殊な条件を満たさなければなりません。
 このような条件が日本列島のようなプレートの沈み込み帯で満たされることは、一般的にはないと考えられます。ですから、日本ではダイヤモンドは見つかるはずはないと考えられていました。これは、地質学者、日本だけでなく世界中の地質学者の常識でした。
 もしかりに日本列島の深部にダイヤモンドがあったとして、日本列島のマグマができる場所が、ダイヤモンドができるよりずっと浅い場所なのです。また、日本列島には大陸が衝突したような痕跡もありません。ですから、ダイヤモンドが日本で見つかるはずがないと考えられていました。
 今回ダイヤモンドが見つかった四国の地下には、沈み込んだプレート(フィリピン海プレート)が浅い位置あり、プレートはもちろんマグマが形成されるマントルさえも浅いところにあり、タイヤモンドができる条件ではありませんでした。どう考えても、そんなところでダイヤモンドは見つかるはずがありません。
 そもそも発見者の水上さんも、ダイヤモンドを発見しようとして調べていたのではなく、別の目的を持って研究されていました。しかし、それでも、ダイヤモンドは発見されました。その話は次回としましょう。

・教訓・
常識は、大発見の妨げになることがあります。
水上さんがもし、別の目的か、別の手段か
別の石かを研究されていれば、
多分ダイヤモンドは発見されなかったでしょう。
そして、今後しばらくは発見はできなかったでしょう。
今回の発見を契機にして、一気に
もっと多様な場所でのダイヤモンド発見の可能性が広がりました。
もし、形成条件が特定され、
同じようなメカニズムが起こる環境が
別のところでもあることが判明すれば、
ダイヤモンドが見つかる可能性がでてきました。
いずれにしても、今回の常識を打ち破る発見は、
今後地球の仕組みを考える上で重要な情報となりました。
なんといっても、常識にとらわれてはいけないという
大きな教訓を与えてくれました。

・退官祝い・
先日、恩師の退官祝いで鳥取に1泊2日で出かけました。
恩師といっても、直接の指導教官ではなく、
精神的に世話になったので、
私がかって恩師だと思っているだけです。
あわただしい2日でしたが、
懐かしい当時の大学院生が多数集まり、
懐かしく話をしました。
その大学院生の大半が指導を受けてないものばかりでした。
師の人徳というべきでしょう。
私は、それほどの人徳がないのですが、
彼を見習っていきたいと思っています。
今後定期的に、師を囲む会をしようということになりました。
さてさて、本当に実現するのでしょうか。

2008年4月17日木曜日

4_78 オフィオライト:若狭の旅3

 このたびの春休みにいった若狭への旅のエッセイは今回が最後になります。しかし、今回は行った場所ではなく、行きたかったが行けなかったのところの話題です。雨の岬は、春休みだというのに人気がなく、寒々していました。

 今回の若狭の旅で、天候の悪い日が何回かあり、いくつかの場所を断念しました。その一つに、福井県の大島半島の東端にある赤礁崎(あかぐりさき)がありました。
 実は、ここには、大学院生の頃に中国地方から近畿地方を広域に調べる調査の一環で、一度訪れています。その時は、夏の海水浴シーズンで、海水浴客でにぎわう海岸をわき目に、暑い中を調査のために、歩いたことが強く印象に残っています。
 今回、赤礁崎に再訪して見たいと思っていたものは、夜久野オフィオライトという岩石でした。オフィオライトとは、かつては海洋地殻とその下のマントルを形成していた岩石が、大地の営みによって陸地に持ち上げられたものです。大島半島全体がオフィオライトからできています。ですから、オフィオライトのメンバーの岩石は、道路わきの崖でも点々と見ることができました。
 大島半島の西に「待ちの山」という2つのこんもりした山があります。この山はマントルの岩石(ハルツバージャイトとよばれるかんらん岩の仲間)からできています。「待ちの山」はもともと島として独立していたのですが、半島とは、宮留の砂洲でつながり半島の一部になりました。その「待ちの山」の東はずれに赤礁崎があります。赤礁崎へは遊歩道があり、歩いて行きたいと考えていたのです。
 さて、夜久野オフィオライトの夜久野とは、地名です。大島半島より西、京都府夜久野町に分布しているのが典型的なオフィオライトで、最初に詳しく研究されたため付けられたものです。
 私は、夜久野オフィオライトの類似の岩石が見つかる西端にあたる岡山県井原で研究をして、修士論文を書きました。それを井原オフィオライト(正式にはディスメンバード・オフィオライトと呼びます)と名づけました。博士論文では、井原から研究する地域を東方に延長して、夜久野オフィオライトまでの連続性と性質の変化を調べていくことにしました。それらのオフィオライトの全体を「舞鶴構造帯」と総称しました。最終的に、舞鶴構造帯が、かつてはどのような場所であったのかを調べるのが目的でした。
 私より前から夜久野オフィオライトを研究されている金沢大学の石渡明さん(現在は東北大学)とは、共同研究をしました。彼が記載した岩石を、私が分析や年代測定をして、共著の論文を書いたこともあります。
 そのような舞鶴構造帯の研究も、博士課程修了と共に終わりました。当時の一連の野外調査は、2年間におよび、車で移動しながら点々とキャンプをしながら調べていました。そのため、多くの場所を訪れたのですが、中でも赤礁崎のきれいな景色と多様な岩石が印象深かったのです。今回、自身の古戦場を訪れるつもりで、赤礁崎の岩石を見ようと考えていました。しかし、残念ながら、車で行けるとこまではいったのですが、雨がひどく、赤礁崎への遊歩道を歩けそうになかったので断念しました。

・大飯原発・
大島半島は、かつて、陸続きでありながら道路がなく
連絡船で通わなければならないような不便なところでした。
まさに陸の孤島ととも呼ぶべきところでした。
しかし、今では海水浴客が多数訪れるところなりました。
それは、大島半島の先端に大飯原子力発電所が建設されたおかげで
立派な橋と道ができ、車で簡単にいけるようになりました。
今回赤礁崎までいったのですが、雨でどこにもいけなかったので、
大飯原子力発電所のPRための「エル・パークおおい」の
展示館「おおいり館」を訪ねました。
本来なら発電所内をシースルー見学できるはずなのですが、
今では「国際テロ情勢を踏まえた警備上の理由」で、
入ることができなくなっています。
福井県は原子力発電所が多数あるところです。
それらの原子力発電所から近畿地方に
多くの電力供給を行っています。
中でも大飯原子力発電所は
その発電量も最大で、電力供給には
非常に重要な役割を果たしているようです。

・模索のスタート・
北海道も平地の残雪もほとんど消え、
いよいよ花の季節になります。
フキノトウが一番に芽を出しました。
木々の新芽も開きはじめました。
大学の講義は、1週間が経過して、
いよいよ本格的に始動しました。
それに伴って、学生ともども教員も忙しくなります。
教員は、講義とその準備の合間に、
いろいろなことをこなさなければなりません。
今年からは、我が学科も3年目で専門のゼミナールがスタートします。
専門ゼミナールの延長が卒業研究になります。
その指導も教員は始めてのことになります。
どうしようかとの模索しながらのスタートとなります。

2008年4月10日木曜日

4_77 恐竜博物館:若狭の旅2

 北陸の旅の目的として、福井県立恐竜博物館の見学がありました。なぜ福井に恐竜の博物館があるのか、と思われる方もいるかもしれませんが、実は福井県は日本でも有数の恐竜の産地なのです。今回は、恐竜博物館の話をしましょう。

 福井県立恐竜博物館は、若狭から北陸の旅の最後の目的地でした。今回の旅行は、主に海岸線を見てまわっていました。しかし、恐竜博物館は、内陸に車で1時間ほどいった勝山市にあります。山がせまっているため、3月30日でしたが、北海道さながらに、春まだ浅く雪があちこちに残っていました。行った日は残念ながら、冷たい小雨の降る天気で、博物館の外にある公園を見ることはできませんでした。しかし、もともと恐竜の化石をみることが、目的でしたのでよしとしましょう。
 以前、博物館の特別展のために、資料を提供したことがあったのですが、行くことはできませんでした。私も、今回が初めての訪問なので期待していました。子供たちも、たくさんの恐竜の化石がみることができるので、楽しみにしていました。
 博物館の展示は、噂にたがわず、30体以上もある恐竜骨格のコレクションは見ごたえのある見事なものでした。中でも、福井で産出した恐竜化石として、新種のフクイラプトルとフクイサウルスの復元された全身骨格は、圧倒されました。
 フクイラプトル(学名:Fukuiraptor kitadaniensis)は、中生代白亜紀前期の肉食恐竜(カルノサウルスの仲間)です。勝山市北谷で体の各部の化石がいくつも見つかっており、全長4.2mと推定されています。勝山市の北谷で見つかったことにちなんで名づけられました。
 フクイサウルス(学名:Fukuisaurus tetoriensis)は、北谷から頭骨や体の部分の化石が多数見つかり、それを手がかりに全身骨格が復元されています。全長4.7mもあったと推定されています。白亜紀前期のイグアノドンの仲間の草食恐竜です。手取(てとり)層群から見つかったことにちなんで、命名されています。
 いずれの恐竜も、手取層群から見つかっています。実は、この手取層群は、日本でも恐竜の宝庫として有名な地層なのです。手取層群は、福井県だけでなく、石川県、岐阜県、富山県と広く分布している地層です。そして、各地から恐竜などの化石が見つかっています。その中でも、福井県では、化石を産出する手取層群が広く分布しており、日本で有数の恐竜産地となっています。1989年以来、何度も発掘調査が行われ、現在も新しい化石が見つかっています。
 手取層群は、中生代の地層ですが、化石がたくさん見つかる中・上部は、白亜紀に当たります。白亜紀は、全地球的に暖かい時期でした。その頃、日本列島はまだ独立しておらず、大陸の端にくっついていた時代でした。手取層群がたまった環境は、海に面し、内湾から淡水のまじるような河口(汽水域といいます)、そしてより内陸の川や湖(淡水域)などにかわっていく湿潤な環境のところにたまったものです。つまり、暖かい地域の大きな川が流れ込む広大な氾濫原から海岸にかけてたまったと推定されます。そのような場所は、現在でもそうですが、多様な生物が生きていくのにいい環境でした。そのため、恐竜の体の化石だけでなく、鳥類や恐竜の足跡の化石、ワニやカメなどの化石も見つかります。
 恐竜博物館のある勝山は、私が訪れた時は、氷雨降る残雪の山里でしたが、昔は恐竜の闊歩する暖かな海辺の低地だったのです。そんなことに思い馳せながら、博物館を後にしました。

・ギャラリートーク・
福井県立恐竜博物館は2000年7月14日に開館しました。
当時、私はまだ神奈川県立生命の星・地球博物館にいました。
ですから、同業の開館ですから、気にしてました。
でも、ついつい行く機会がなくして、そのままにしていました。
そして、今回はじめて、見学することができました。
毎週日曜日に開催さているギャラリートークにも参加しました。
ギャラリートークとは、学芸員が展示物を用いて解説するというものです。
そのときは、海から陸への進化(魚類から両生類へ)
の話を聞くことができました。
子供には少々難しかったようですが、私にはなかなか面白かったです。

・レストラン・
恐竜博物館で子供たちが期待していたものに、
館内のレストランにあるプテラノ丼、恐竜の卵などの
変わった名称のメニューを食べることがありました。
残念ながら恐竜の卵は10食限定のようで、食べられませんでしたが、
次男が楽しみにしていたプテラノ丼を頼むことができました。
また、福井の名物であるソースカツ丼も食べることができました。
なおプテラノ丼は、鳥肉の丼でした。

2008年4月3日木曜日

4_76 琴弾浜:若狭の旅1

 若狭湾から越前、東尋坊の海岸を旅行しました。雨と晴れの繰り返しの天候の中、観光地を訪れました、残念ながら雨で断念した場所もありましたが、いくつかの目的地を訪れることができました。

 3月25日から31日にかけて、若狭と北陸の海岸の旅をしました。その時、京都府、丹後半島の西の付け根にある京丹後市の琴引浜を訪れました。琴弾浜は、名前が示すとおり、琴を弾くような音を出すことから名づけられた海岸です。つまり、鳴き砂のある海岸です。英語で海岸の鳴き砂は、ミュージカル・サンドやシンギング・サンドなどと呼ばれています。
 砂ならどこの砂でも鳴るわけではなく、砂の性質がある条件を満たさなければなりません。それは、粒径が0.2から0.6mm程度の砂で、その主成分が石英で、砂粒の表面がきれいである必要があります。このような条件を満たしていれば、その砂は鳴ります。海岸の砂でなくても、砂漠の砂でも鳴きますし、人工的に作ることもできます。
 鳴き砂がなぜ鳴るのかというと、それは砂の主成分である石英の性質が反映されているためです。きれいな石英の表面は、摩擦係数が大きくなるという性質があります。力を加えても、摩擦のために動きづらいのですが、一定以上に力が加わると、耐え切れなくなり動きます。その動いた砂の塊が振動して音を出します。
 しかし、実際にはこの条件を満たすところは、日本ではそれほどありません。それは、石英を主成分とする砂浜が少なく、きれいな海岸が少ないためです。鳴き砂のある海岸は、30ヵ所とも40ヵ所ともいわれていますが、私もいくつか行きましたが、1ヵ所でしか聞くことができませんでした。また、以前は鳴いていたのに、今では鳴かなくなったような海岸もあります。それは、海岸の砂浜が汚れてきたこと、護岸や防波堤などで砂浜が安定しなくなったことなどが原因と考えられます。少しでも汚れると、砂は鳴らなくなります。タバコの灰などで少し汚しても鳴らなくなるといいます。琴弾浜は、今でも鳴る砂浜です。
 そんな琴弾浜ですが、危機が訪れたことがあります。
 1990年2月4日、丹後半島先端の伊根町の海岸にマリタイムガーディニア号が座礁し、流出した重油が琴引浜にも漂着しました。海岸保護のボランティアや町の職員の除去作業で、美しい砂浜を取り戻しました。また、記憶にも新しい1997年1月2日、ロシアのナホトカ号の事故もありました。ナホトカ号が、島根県の隠岐沖で破断し、大量の重油が流出し、日本海沿岸に漂着しました。その重油が、琴引浜にも漂着しました。3月末まで重油回収作業が行われ、のべ12万7000人もの人の努力で、約250トンもの重油が回収されました。このような努力によって、鳴き砂の浜は、今も守られているのです。
 調べたところ、波打ち際から4~5mの砂浜で、足をするようにして歩くと、「キュッキュッ」とか、場所によっては「ドンドン」という音が聞けるとありました。琴弾浜の海岸で、ぜひ、砂が鳴く音が聞こうと思っていました。でも、いろいろ試してみたのですが、残念ながら、聞くことはできませんでした。多分、訪れた時、海岸の砂が湿っていたためのようです。前夜雨が降り、湿気も多かったので、砂が完全に乾燥していなかったようです。鳴くためには砂は、乾燥していなければならないようです。
 ぜひとも、鳴き砂の音は聞いてみたかったのですが、別の機会となりました。

・天然記念物・
2007年7月、琴引浜が国の天然記念物と名勝に指定されました。
これからは、広くこの海岸の重要性が
認識されていくことになると思います。
鳴き砂とは、環境変化に対して非常に敏感であります。
これは、言い換えると、環境変化を知らせる指標ともなります。
ですから、琴引浜を天然記念物として守ることは、
周辺の環境を守ることともいえます。
いつまでも琴引浜が鳴き続けることを祈っています。
すると、今回聴けなかった音でも、
いつか聴けるかもしれないからです。

・予定変更・
今回の旅行は、計画の段階からいろいろ予定変更が続きました。
当初は、鳥取砂丘からスタートして、玄武洞などを見て回りながら、
小松空港まで行く予定をしていたのですが、
東京-鳥取間の飛行機が取れなくて、
小松-千歳空港間の往復を余儀なくさせられました。
そのため、最初の移動距離が長くなるので、
鳥取と兵庫はあきらめることにしました。
この周辺は、大学院の頃調査で、散々走り回った地域です。
兵庫と京都は、その時見て回っています。
しかし、再度見ていこうというのが、
今回の旅行の目的だったのです。
しかし、若狭から北陸にかけてが、目的となりました。