2008年12月25日木曜日

2_74 DNAの解読:マンモス5

 今年のエッセイも、今回が最後となります。マンモスシリーズも、今回が最後です。マンモスのDNAの解読からわかったことを見ていきましょう。

 アメリカとロシアの研究グループが、マンモスのDNAを大部分を解読したと、Natureという科学雑誌の11月20日号に発表しました。今回の報告では、2頭のマンモスの毛の細胞から、核の中のDNAが採取され分析されました。以前にマンモスの毛から採取したミトコンドリアのDNAを解読したという研究はありましたが、細胞の核の中のDNAの解読は、今回が初めてのことでした。
 マンモスのDNAの分析に用いる素材として、毛を用いたことが、DNAの破損や他のDNAの汚染を回避する決め手になったようです。その理由は、マンモスの毛は、プラスチックのようなもので、細胞の入れ物として非常に頑丈なようです。そのような頑丈の入れものに入っている毛の細胞は、分解することなく、他の生物の細胞によって汚染されることからも保護されていたようです。
 さて、解読されたマンモスのDNAを見てみていきましょう。
 マンモスのDNAは約40億対の塩基から構成されていました。このようなDNAのサイズは、現生のアフリカゾウでも見られる特徴と同じでした。今までもいわれてきたのですが、現生のゾウとケナガマンモスは、DNAレベルで非常に似ています。ヒトとチンパンジーが似ているといわれていますが、その違いは1.24%なのに対し、ゾウとマンモスの違いは0.6%となり、その類似性がわかります。
 2個体のマンモスのDNAを比べると、遺伝子の多様性が非常に乏しいことがわかってきました。たった2頭のデータから結論を下すのは少々危険な気がしますが、もしこれが全マンモスの特徴を現しているとすると、ある重要な推定ができます。
 遺伝子における多様性の大小と、その種全体のもっている環境変化への適応性の大小が、対応する可能性があるからです。もし、この推定が正しければ、マンモスの絶滅が、遺伝子の多様性の少なさに由来するかもしれません。
 遺伝子の多様性が大きければ、もしなんあらかの環境異変が起きたとすると、その異変に対処できた遺伝子を持つ個体が生き延びて、なんとか種を維持していくことができます。ところが、遺伝子の多様性が小さい種は、病気や環境変化などに対して弱く、一気に絶滅してしまう危険性を秘めていることを意味します。
 前に紹介したように、マンモスの絶滅の時期は、氷河期が終わって暖かくなっていくという気候変動が起こった時代であります。一般的に考えれば、マンモスのような草食動物には、草がいっぱい生えて棲みよい環境に変わっていったはずです。マンモスは繁栄してもいいはずなのに、なぜか絶滅しました。だから、環境変化ではなく、別の原因で絶滅したのではと、今まで考えられていました。
 しかし、今回の報告で、遺伝子の多様性の乏しいことがわかったので、環境変化によって、たとえば植生の変化や病原菌の発生などが起これば、マンモスはすぐに絶滅する危険性をはらんでいたことになったのです。
 遺伝子の多様性が大きいということは、異端も含むことになります。平時には、異端は種にとって波乱を起こし、ありがたくないことも存在かもしれません。しかし緊急時にこそ、そのような異端が種の継続に重要な役割を果たす可能性もあります。そのような異端や多様性のなさが、マンモスを絶滅に追いやったのかもしれないのです。つまり、マンモスの純血さゆえに、滅びさったのかもしれません。

・ほぼすべて・
前回、マンモスの全DNAを解読したと紹介しましたが、
私の勘違いで、ほぼすべてのDNAの解読の間違いでした。
全DNAの内、5分の1ほどは、まだ解読されていませんが、
あと数回の装置によるスキャンをおこなえば、
数年後には解読されるはずだとされています。
しかし、絶滅種の核のDNAが解読されたのは、
今回が初めてのことでした。
これは十分、意義のあることです。
他の絶滅種でも、適切な素材さえあれば、
DNAの解読ができることが証明されたのです。

・DNAとゲノム・
本エッセイではDNAという言葉を使いましたが、
ゲノムという言葉が使われることがあります。
DNAは核やミトコンドリアなどにある塩基の対から構成されるものです。
DNAは、4種の塩基ができていますが、
その3種の組み合わせで遺伝情報が書かれています。
その遺伝情報が発現すると何らかの形質を生みます。
もちろん遺伝情報は、複製可能です。
このようなDNAの中で意味を持つ遺伝情報が
遺伝子と呼ばれています。
ゲノムとは、DNAに記録されている遺伝子全体のことです。
DNAとゲノムが混在すると、呼んでいて混乱するので、
本文では、ゲノムではなくDNAに統一して書きました。

・来年は・
今年は、夏から秋にかけて、体調不良でした。
11月あたりから体調は戻ってきたのですが、
ぱっとしない一年だったような気がしました。
いまさら、それを悔やんでも仕方がないのですが、
来年こそは、体調に気をつけて過ごしていこうと思っています。
今回が今年最後のエッセイです。
よいお年をお迎えください。

2008年12月18日木曜日

2_73 昔の生物のDNA:マンモス4

 Natureという科学雑誌にマンモスのほぼ全遺伝子配列が解読されたという論文が発表されました。それがニュースとして、いくつかのマスコミに取り上げられました。そのニュースの意味を探っていきましょう。

 今年になってマンモスのDNAが解読されました。解読には、シベリアから発見された氷漬けのマンモス2体から得られた毛を用いられました。これが、マンモスでは最初のほぼ全遺伝子配列、つまり大部分の全DNAの解読でした。今まで、マンモスの氷漬けは、いっぱい見つかっているのに、いまごろ解読されたのかと思われる方もいるかも知れません。しかし、実は古い時代の生物のDNAの解読は、なかなか難しいのです。その理由は、DNAの保存と技術的問題、そして汚染問題があるためです。
 DNAの保存の問題とは、DNAは長期保存に適さないということです。DNAは細胞の中にありますから、死んだ細胞ではDNAは通常破損される(酸化してくずれる)か、他の生物に食べられてしまいます。DNAが保存される可能性は、時間がたてばたつほど、古くなればなるほど、少なくなります。まして、全DNAの保存されることは、非常に難しくなります。古い時代のものは、特殊な条件でない限り、保存はされません。特殊な条件とは、外気と遮断された状態で、長期保存可能なものです。樹脂詰め(コハクの中に封じ込められたもの)やタール漬け、氷漬けなどです。このような条件にあったとしても、長期になるとDNAは分断されて、情報は消えていきます。ですから、何1000万年前、何億年前の生物の全てのDNAの解読は不可能となります。
 技術的問題とは、DNAの情報は膨大で、その解読には時間も機材、そして費用がかかります。ヒトのDNAも大変でしたが、おおまかな配列は2001年前半になんとか解読されました。そのスピードは日進月歩で進み、予想以上に早く読み終わることができました。それは、超並列合成DNA配列解読という技術の進歩があったからです。このようにヒトに限らず、遺伝子(ゲノム)情報を体系的に取り扱う研究分野を、ゲノミックスと呼ばれます。
 ヒトの全DNAを解読するのに、一人のヒトのDNAを世界中の研究者が協力してやっと読み取ったのです。ところが、技術にさらに進み、個人のゲノムが読める時代になりました。アジア人とアフリカ人のある個人のDNAが解読されたという報告が、Natureの11月6日号の個人ゲノム特集で報告されました。つまり、いまや個人ゲノミックス(Personal Genomics)の時代に入りつつあります。短時間にヒトのような長い全DNAを解読できるようになったのです。その技術が、マンモスなどの過去の生物に導入されるようになってきたのです。
 もう一つの汚染の問題は、DNAが混入するという問題です。死んだ生物の体(DNAを含めて)は、土壌生物や微生物が餌として利用します。その結果、地上は死体であふれることなく、生物は分解され地表はきれいになっていくという効用があります。しかし、過去の生物では、たとえDNAが残っていたとしても、現生生物の汚染がどうしても起こることになります。
 今回、そのような問題をすべてクリアして、2体のマンモスのDNAが解読されました。その内容は、次回としましょう。

・コハク・
コハクは宝石ではないのですが、
飾り石として、宝石に準じる価値があります。
透明感のある暖かい色合いは、
それなりの美しさがあります。
虫入りのコハクは、あまり気持ちいいのいいものではありませんから、
価値がありませんでした。
コハクの中の虫やDNAが有名になったのは、
スチルバーク監督の映画「ジュラシックパーク」によってでした。
その後、なんと虫入りコハクの価値が出てきたのです。
むしろ何も入っていない透明のコハクより
高いものすらありました。
装飾品は、需要と供給によってその価値が決まります。
普通の製品のように、原価と利益から決まるのではなく、
付加価値が価格を決めていくのです。

・慌しい年末・
いよいよ大学の今年の授業も終わり冬休みとなります。
実際には、来週も講義がある週なのですが、
振り替え、補講の時間に割り当てられていて、
私の担当する講義は、今日で終わりとなります。
ですから、一息つける気分です。
ただし、来年7日から講義が始まるのですが、
その1講目に私の講義があります。
印刷物をたくさん使う講義なので、
今年中に印刷原稿を用意して頼んでおかなければなりません。
それに今週末から母がきます。
その相手で大学には25日まででられません。
ということで、年末まで忙しい日々が続きそうです。

2008年12月11日木曜日

2_72 絶滅の原因:マンモス3

 マンモスのシリーズでは、マンモスの最新情報を数回にわたって紹介しようと考えています。しかし、そもそもマンモスとは、どのような生物なのでしょうか。そしていつごろまで生きていて、どうして絶滅したのでしょうか。

 マンモスをだれもが知っているかのように、このシリーズを書き始めましたが、でも、本当にマンモスのことを、よく知っているのでしょうか。
 マンモスは、今、生きているゾウとは、違う種類のものです。分類学上、ゾウには、アジアゾウ属、アフリカゾウ属、マンモス属の3つの属があります。アジアゾウ属で現在生きているのはアジアゾウ1種だけで、アフリカゾウ属はアフリカゾウとマルミミゾウの2種がいます。一方、マンモス属は、すべて絶滅した種(10種ほどある)ばかりで、マンモスはその総称となりす。
 北アメリカには、コロンビアマンモス、インペリアルマンモスがいて、ヨーロッパ(イギリス・ドイツ)には、史上最大のステップマンモスがいました。そして、シベリア、ヨーロッパ、北アメリカ、日本など広い地域に中型のケナガマンモス(ウーリーマンモス)がありました。
 ケナガマンモスは、30~60万年前に生息したステップマンモスの直系の子孫だと考えられています。ケナガマンモスが、私たちが一般的に想像しているマンモスのイメージになります。シベリアで氷漬けなって見つかるリューバなどは、ケナガマンモスいなります。寒い地域の大型のマンモスというイメージは、インペリアルマンモスやステップマンモスなどの大型のものと、ケナガマンモスが混在したものです。
 マンモスは、1万年前ころには絶滅していますが、その時期や、原因もまだ定まっていません。
 コロンビアマンモスが、最後まで生存していたマンモスいう考えや、一説には3700年前(B.C.1700年)頃に、東シベリアの沖合にある北極海のウランゲリ島で狩猟された体高約1mほどの小型のコビトマンモスが、最後の記録とされています。しかし、まだそれも定説とはなっていません。
 マンモス絶滅の原因も、まだ不明です。
 一般的な説は、氷河期が終わって気候変動が起こり、草食のマンモスに大きな影響を与えたというものです。それまでマンモスは、イネ科の植物を主として、キンポウゲやヨモギなどを食べていました。しかし、温暖化によって降雨量が増え、大量の雪が降るようになり、食料の植物が育たない環境になり、食糧不足で絶滅したいう説です。
 よく聞く説として、ヒトが絶滅させたというものがあります。それは、マンモスが生きていた時代と、私たちの祖先が活動していた時期と重なります。実際に、ヒトとマンモスのかかわりの証拠があります。
 アメリカのアリゾナ州では、約1万2千年前のコロンビアマンモスの化石の骨の間から、石でできた槍の穂先が見つかっています。また、フランスの洞窟には旧石器時代に描かれたマンモスの壁画や、ドイツの遺跡ではマンモスを描いた石板、ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されています。このようなヒトがマンモスを狩っていたという証拠は、7件ほどあるようです。
 アメリカ大陸には、1万年前ころにヒトがユーラシア大陸から地続きとなっていたベーリング海を移動していきました。新大陸では、マンモスが狩猟対象になっていたようです。あるシミュレーションによると、1000年もたたずに、ヒトによってマンモスを絶滅させるというものがあります。もしこれが本当なら、マンモスだけでなく大型哺乳動物にとって、武器を手にしたヒトは、脅威の存在となっていたのかもしれません。これは今も同じですが。
 他の説として、伝染病説が提唱されています。コロンビアマンモスでは、発見される8割近くの化石に、病によると考えられる大腿骨の変形が認められるそうです。伝染病の原因として、ヒトが移動の時に連れてきた家畜に由来するものではないかと考えられています。
 また最近、超新星爆発によって絶滅したという説が出てきました。マンモスの骨から磁性を帯びた小さな金属球が発見されたこと(地球外から飛来したもの)、石器に含まれる放射性同位体のカリウム40の比率(超新星爆発で多く作られる)、海底堆積物中の放射性同位体の炭素14(超新星爆発で増える)などの証拠が挙げられています。
 マンモスは、絶滅動物とはいえ、比較的ヒトとは関係の深い生物です。そして、化石もたくさん見つかっています。そのようなマンモスでも、その絶滅の時期や原因がわかっていないです。他の生物の絶滅の原因などは、推して知るべしです。

・アイスエイジ・
マンモスを扱った映画にはいろいろなものあります。
我が家の子供たちが好きな映画に
「アイスエイジ」(氷河期という意味)があります。
この映画の主人公はマンモスで、
2万年前の氷河期の始まりの時代の話です。
動物たちが、温かいところに移動しようというものです。
その時、ヒトの赤ちゃんがでてきます。
このような映画でも、ヒトとマンモスのかかわり、
あるいは、氷河期と生き物の関係が描かれています。

・人類共通の財産・
先日講義で使うためにApollo計画の動画や画像を探していました。
まずは、NASAのサイトから動画や画像を探しました。
すると、ほぼすべての動画や画像が公開されていました。
私は、Apollo11と14号の動画のDVDを以前に購入していたのですが、
今回はApollo15号のものが必要となって探したら、
すべて見つけることができました。
膨大すぎて探すのが大変ですが、見つけることができました。
アームストロングの月面へ最初の一歩画像も、ありました。
ケネディの月へいくという演説はまだ見つけていないのですが、
たぶんあるはずのところは見つけました。
ただ、あまりにデータが膨大すぎて、まだ見つけることができません。
このような人類共通の財産が、だれもが使える形で、
だれもが使えるところにあるのは非常にいいことですね。

2008年12月4日木曜日

2_71 リューバの死因:マンモス2

 シベリアで見つかった氷漬けのマンモスの赤ちゃん「リューバ」の最新機器を使った分析が、日本で行われました。その分析からわかったことを、紹介しましょう。

 2007年12月末に日本に届いたマンモスは、その直後から東京慈恵会医科大学の高次元医用画像工学研究所で、CTスキャンによるの分析が進めらました。それと呼応して、読売新聞社、東京慈恵会医科大学および科学技術館の共催で「奇跡のマンモス「リューバ」~3万7000年の時を越えて~」緊急企画展が、2008年1月2日から2月3日まで行われました。私はその展示を見ていないので、ホームページで当時の様子を伺うしかありません。
 ところで、のCTスキャンによるの分析に当たられた東京慈恵医大の鈴木直樹教授でした。鈴木さんは、先端医療画像の技術を開発をおこなわれている研究者で、脊椎動物、特にマンモスの画像解析で多くの実績をあげておられます。「愛・地球博」でも、マンモスの展示指導や学術研究の委員長をなされていました。私は、「愛・地球博」にも残念ながら私はいったことがなく、同時期に開催された北海道大学博物館でのマンモスの冷凍「お尻」を見学しただけです。
 鈴木さんたちは、2008年の4月には研究の途中段階の成果を公開しました。それによると、マンモスの赤ちゃん「リューバ」が死んだときの様子がかなりはっきりわかってきたようです。その成果を紹介しましょう。
 リューバは、生後3から4カ月の雌の赤ちゃんマンモスでした。死ぬまでは、外傷や病気の跡がないことから健康に育っていたことがわかりました。ところが、彼女は、湖か川で溺れて死にました。それは、鼻や口、消化管から泥が出てきたこと、腸に食べたものがそのままのこっていること、などからわかります。
 リューバが溺れた死んだ泥の中は、酸素が少ない条件であったため、皮や毛、尻尾も腐ることなく、非常によい保存状態に置かれることになったのです。その後、リューバは、永久凍土として氷漬けになりました。
 鈴木さんたちのCTスキャンで、氷漬けのマンモスを切り刻むことなく、そのままの状態で、内部を調べることができます。心臓や肝臓などの内臓や、筋肉、骨などをCGによって立体画像として再現されていきました。
 その後、リューバは、サンクトペテルブルグの動物学博物館に移送され、筋繊維および骨の研究が行われる予定です。また、新しいことが、いろいろとわかってくることでしょう。
 さて、リューバは泥沼からはい上がれずに溺れ死にました。リューバは赤ちゃんであっため溺れたのでしょう。他のマンモスたちが、同じような死に方をしたわけではありません。しかし、何らかの共通の原因で多くのマンモスは死に、やがてすべてのマンモスは地上から消え去りました。つまり、絶滅です。では、なぜ、マンモスは絶滅したのでしょうか。マンモス絶滅について、次回は考えていきましょう。

・リューバの価値・
ロシア科学アカデミー動物学研究所の
アレクセイ・チホノフ副所長はリューバに強い関心を寄せています。
「古代のウイルスが保存されている可能性」を考えています。
しかし、マンモスの生きていた時代は、
それほど過去ではありません。
ですから、ウイルスが見つかったとしても、
生物の進化に関わるような情報はなかなか得られないでしょう。
また、シベリアが氷河期にどのような状態であったのかを
「腸内の花粉や胞子などから探ることができるかもしれない」
といっていますが、これも、わざわざマンモスを使わなくても
泥を調べればいいことです。
リューバは、その体自体に意味があると思います。
今はいない生物の肉体として、存在自体に価値があるのです。
その価値を引き出すのは、科学者たちです。
私は、それに期待しています。

・師走・
いよいよ師走です。
大学の推薦入試も終わりました。
現在採点集計中です。
大学では、来春四月以降のための準備が始まったわけです。
まだ、後期の講義がだいぶ残っています。
気を抜くことはできません。
しかし、忘年会が次々とあり、
持ちつき大会が小学校ではあります。
こんな年中行事があると、心もそわそわし始めます。
師走とはそんな季節なのでしょう。

2008年11月27日木曜日

2_70 幸運の賜物:マンモス1

 2008年11月19日にマンモスのゲノムが解読されたというニュースがありました。それに関連してマンモスの話題をいくつかまとめて紹介しましょう。

 マンモスの話題は、以前(2007年7月19日)の「2_57 氷漬けのマンモス」のエッセイでも紹介しました。その時紹介した内容は、2007年5月、シベリアで、生後半年から1年ほどのメスの赤ちゃんマンモスの化石が発見され、日本の東京慈恵会医科大学のCTスキャンで体の構造が詳しく解析されるということでした。その後日談を、今回から数回に分けて紹介していきます。
 冷凍マンモスは、シベリア最北のヤマル・ネネツ自治区、ユリベイ川の岸から見つかりました。発見者は、トナカイを放牧中の人でした。このマンモスは、発見者の奥さんの名前をとって「リューバ」という愛称で呼ばれています。
 2007年12月末にリューバは、慈恵医大高次元医用画像工学研究所に非常によい保存状態のままで届けられ、冷凍状態のままでけCTスキャンにかけられました。
 保存が良いというのは、リューバの体には損傷がほとんどなく、無傷の状態であったことを意味しています。このような状態で保存されるためには、リューバは傷を負うことなく死んだことになります。死んだ後も、他の動物に食べることもなく、また腐敗にさられることもなく保存され、そして冷凍される環境に置かれなければなりません。ここまでは、自然のなせる偶然の賜物です。
 永久凍土から発見された時も、損傷をうけないような状態でなければなりません。解凍が進まず、腐敗せず、冷凍状態のまま発見されたことがよかったのです。この過程は、人為的な幸運がなければなりません。
 トナカイを放牧中に解凍が進んでいないマンモスの遺体を川岸で見つけ、すぐに地元の博物館に連絡をしました。博物館の即座にその情報に対応して、現場まで300kmほども離れてたのですが、発見から2日後には博物館に保管されほど短時間で回収されました。このような迅速な対応が、リューバをよい状態のまま研究材料にできたのです。これは、人々の連携がスムーズに、そして幸運に進められたためでしょう。ここには、人の努力と、やはり幸運が介在します。
 以上ようにみてくると、リューバが、得がたい貴重な研究材料になるにいたったのには、多くの「たまたま」があったからです。絶滅してこの世には存在しない生物の体は、本来腐ったり他の生物の餌として、消えてなくなるのが大部分です。幸運に残ったとしても、せいぜい骨や歯などの硬い組織だけです。
 ところが、このリューバというマンモスは、氷河期という全地球的寒冷化が進む中、たまたまシベリアという地で生活し、たまたま腐ることなく地中に埋まり、土がたまたまリューバともども永久凍土として凍り、たままた解けて腐ってしまう前に心ある人に発見され、たまたまその重要性を知っていた博物館の人が回収と保管にのりだしたのです。このような多くの「たまたま」に支えられリューバは研究材料になったのです。
 さて、次回から、最新の研究成果を紹介しましょう。

・冷え込み・
北海道は先週末に雪が降って以来
まるで冬のように道路がアイスバーンになっています。
ここ数日の冷え込みました。
25日の朝には下川で-20.9℃を記録しました。
もちろん、この冬一番の冷え込みです。
11月中に北海道内で-20℃以下になるのは
1988年以来、二十年ぶりになるさうです。
旭川では-12.9℃になりダイヤモンドダストが観測されたそうです。
例年、根雪は12月もだいぶ入ってからですので、
暖か日があれば今の雪は溶けると思いますが、
まるで、根雪のような景色となっています。

・マンモスハンター・
マンモスの体の一部は、シベリア地域では
それほど稀なものではないようです。
マンモスの牙や骨、皮などとるためのハンターがいるようです。
特には牙には、国際オークションや
闇市場では、かなりの高値がつくそうです。
ですから、短い夏の間だけですが、
マンモスハンターが出現します。
しかし、マンモスハンターというと、
マンモスが生きていた時代、
それを食料として狩の対象としていた昔の人たちをいいます。
その話はマンモスの絶滅の原因の回で少し触れる予定です。

2008年11月20日木曜日

1_68 第四紀問題の決着は?:地質時代5(2008.11.20)

 長くなりましたが、今回で地質時代のシリーズも終わりとなります。最後に、第四紀の扱いに関する現段階の状況をまとめておきます。残念ながら、まだ問題は解決されていません。

 今まで述べてきましたように、第四紀のはじまりの定義は、いろいろ変遷してきました。現段階の定義として一番多くの人が支持しているのは、激しい気候変動の繰り返しが始まるときです。激しい気候変動の繰り返しとは、氷河期と間氷期の繰り返しのことで、年代いうと260万年前ころになります。
 「2004」版では、第四紀は新生代の時代区分として、公式には用いないとなっていたのですが、いくつも学会からの要請によって、一時公式に使用が可能として復活しました。しかし、「Concise版」では、境界をどうするかはまだ未定であるとなっています。
 「2004」版では、時代境界を決定していくことに重点が置かれました。ですから、第四紀を考慮しない時代区分は詳細になされています。
 まず、鮮新世(Pliocene)と更新世(Pleistocene)の境界は、細分した時代区分でいうと、ゲラシア期(Gelasian)のはじまりになり、イタリアのシシリー島のモンテ・サン・ニコラ(Monte San Nicola)が模式地とされていて、258.8万年前となります。ここは、時代境界として確定されたポイント(Globale Standard Sction and Point; GSSPと略されています)と認定されているところです。
 更新世は、古いほうからカラブリア期(Calabrian)、イオニア期(Ionian)、タランチア期(Tarantian)となっています。カラブリア期は、イタリアのブリカ(Vrica)が模式地とされていて、はじまりは180.6万年前で、GSSPとなっています。イオニア期は、まだ検討の中で変更の余地があるようです。イタリアのモンタルバノ・ジョリカ(Montalbano Jorica)かヴァレディ・マンチェ(Valle di Manche)、そして日本の千葉県が模式地の候補で、はじまりは78.1万年前とされています。タランチア期は、オランダのアムステルダム駅のボーリングコア(地表から63.5mのところ)が模式で、やはり暫定的で12.6万年前とされています。
 完新世(Holocheのはじまりは、中央グリーランドの氷床のボーリングコア(地表から1492.45mのところ)が模式とされ、1万1700年前で、GSSPされています。
 さて、第四紀問題を突き詰めると、このような時代区分の中で、どこに境界を置くのかという問題にいきつきます。鮮新世と更新世の境界はGSSPで、確定されています。従来の定義に基づけば、第四紀は更新世以降ですから、この境界が第四紀の始まりとしなければなりません。
 一方、多くの人が第四紀の定義として認めている気候変動を基準とすると、ゲラシア期の始まりに置くのがいいことなります。しかし、ここを時代境界にすると、もともと鮮新世であったものを第四紀は含むことになります。もしこの時代境界をそのまま使うと、第三紀と第四紀の両方がゲラシア期を含むことになります。
 このような事情が、第四紀問題として混乱を招いているのです。「2004」版では、混乱を解消するために、GSSPを重視した整理をし、第四紀の廃止となったのです。「Concise版」では、第四紀を復活させたので、再度混乱が生まれているのです。
 第四紀研究国際連合(INQUA)が公式に利用できるように、2008年中に決着をつけてほしいと、IUGS(International Union of Geological Sciences)に申し入れをしています。時代区分の作業は、実際にはICS(The International Commission on Stratigraphy)がおこなっていますので、ICSが検討して、最終的にIUGSが判断するのでしょうが、さてさて、どうなることでしょうか。まだまだ波乱がありそうですね。結果がわかれば、また報告します。

・私の意見・
私は第四紀に関する部分を研究していませんし、したこともありません。
ですから、部外者という立場になります。
無責任な発言になるかもしれませんが、
利害が関係ないので、客観的な見方ができるかもしれません。
私は、今までのICSが行ってきた膨大な作業や整理を
尊重すべきだと思います。
もちろん、もろもろのしがらみや思惑、
思い入れがあるのも理解できます。
でも、ICSの整理は、合理的で筋が通っています。
私はICSの立場を支持します。
しかしもし、第四紀を廃止するとなると、
やはり混乱は生じることは、必至でしょう。
第四紀がなくなるということが周知されるには、
長い時間が必要だと思います。

・メディアの力・
以前、冥王星が惑星からはずされたとき、
メディアが大騒ぎし、それに対応して、
関連学会や国立天文台などが
理科教育などへの対処を提示しました。
たぶん、新しい学習指導要領に基づいた教科書には
そのような記述かなされるでしょう。
ということは、次世代として子どもたちには
冥王星は、惑星ではないということで
周知がいきわたっていきます。
それを思うと、メディアの力を思い知らされます。
同じように、第四紀が廃止されるということが決定されたら
それが周知されるまで、どれくらいの時間がかかるのでしょうか。
メディアの協力は望めそうにありません。
なぜなら、2004年には一度廃止が決定されましたが、
メディアはまったく話題にしませんでした。
メディアが協力したら、このような新しい科学的決定が、
早く皆に伝わるのにと思ってしまいます。

2008年11月13日木曜日

1_67 第四紀境界の決定法:地質時代4(2008.11.13)

 人類化石を第四紀の時代境界の基準にするには、あまりにも汎用性が少なすぎます。そのために代替案が、いろいろ考えられてきました。今回は、人類化石に変わる方法には、どのようなものがあるかをみていきます。

 そもそも第四紀は、人類の出現をもってはじまりとされていたのですが、人類の化石は、産出する数が少ない上に、産出する場所も限られています。世界のどこでも利用できる時代境界ではありませんでした。ですから、人類化石の代替として、世界のどこもで利用できる時代境界が必要になります。
 その候補は、いくつかあります。人類の出現と同じ時期に認められる事件、現象、化石の出現などに定義を変更して、そこを時代境界の新たな基準とすることです。その典型的な場所を模式地といいます。模式地は、研究者や国、地域によって統一されないこともあります。それでも、時代境界として一致していればいいのですが、ずれていることが往々にして起こります。特に第四紀は、地質学者だけでなく、多くの学問分野の人が入り乱れている学際的領域となります。データも、新しい時代なので、他の時代比べれば量も多く、精度も高くなっています。そんな状態が第四紀の境界問題を複雑にしているのだと思います。
 まずは、第四紀を決めていく方法について、いくつか見てきましょう。
 第四紀を人類の化石ではなく、汎世界的に見つかる生物で、大量にでる化石に置き換える方法です。その化石の種類が大きく変わるとことにすれば、化石の産出量や地域の局所性という問題は解消されます。気候などのによって比較的影響を受けにく汎世界的に見つかる生物として浮遊性プランクトンが上げられます。しかし、そのような生物は、海成の地層でないと適応できません。陸上の地層には、なかなか適切な汎世界的生物の化石がなさそうです。
 化石ではなく汎世界的な事件を利用する方法があります。そのような事件として、古地磁気の反転を利用する方法が提案されています。人類の化石がではじめる時期の起こった世界的な古地磁気変化であるオルドバイ事件(松山事件の中のひとつ)を利用する方法があります。これであれば、海や陸を問わず適用可能です。
 この方法の問題点は、目的の地域で、古地磁気に適した岩石が手に入れられるかどうかは不明なことです。古地磁気が岩石に記録されるには、磁鉄鉱などの磁性を持つ鉱物を含んでいなければなりません。磁鉄鉱は火成岩に見つかる鉱物です。火成岩が対象ならいいのですが、時代境界は堆積岩が用いられます。火成岩由来の粒子も堆積岩にも含まれていますが、磁性の方向がばらばらになったり、量が少なかったりすると、岩石全体の磁性は弱くなっていきます。このような欠点がありますが、分析精度をあげることで、実用化可能となっています。
 他にも地球規模の気候変動を利用する方法があります。人類の化石が出現するのは、氷河期の始まり(更新世のはじまり)です、また、氷河期の終わり、つまり今の間氷期のはじまりが、完新世のはじまりに一致します。このような気候変動を指標にしょうようという方法です。しかし、高緯度や山岳地帯では、氷河の証拠がありますが、氷河は、地形や局所的な気候変動によって、どの地域でも時期が一致するとは限りません。ですから、地域によって氷河期の区分や時代のずれがあることがわかっています。しかし、人類化石の代替として古くから利用されているので、この方法は氷河期などの区分には利用されています。
 以上、代替案をいろいろ見てきました。では、どのような方法がいいのでしょうか。あるいは、国際的はどうしようとしているのでしょうか。それを次回考えていきましょう。

・晩秋の快晴・
北海道はここ数日、快晴の日が続いています。
久しぶりの快晴の日です。
今まで、一日の中でも、
晴れたり、曇ったり、雨だったり、雪だったり
めまぐるしく変わりやすい天気が続いていました。
気温も一日で大きく変化しました。
快晴の日も、朝夕は急激に冷え込みますが、
昼間の太陽はなにものにもかえがたい
ありがたさがあります。
ほんの2日間ですが、晩秋の快晴を楽しました。

・忘年会・
大学の後期も半分ほど授業が進みました。
しかし、まだ半分残っているので、
気を抜くことができません。
しかし、11月半ばなので、忘年会の連絡が入ってきました。
公式な忘年会が2つあります。
大学の教職員全体のものと、学科も忘年会です。
時には学部の忘年会も入りことがありますが、
今年は、この2つだけのようです。
もしろん参加するのですが、忘年会という言葉を聞くと、
なんとなく落ち着かなくなります。
先ほど、まだ授業半ばで、気を引き締めなければならない
といったばかりなのですが、不思議なものです。
12月は先生(師)が走り回る時期なのでしょうかね。

2008年11月6日木曜日

1_66 第四紀の定義の変遷:地質時代3(2008.11.06)

 地質時代区分として、第四紀が問題となっています。今回は、その第四紀の定義がどのように変遷してきたかをみていきます。するとその問題の所在がわかってきます。

 地質時代の区分として、第四紀が問題になっているということを、前回のエッセイで紹介しました。そして、第四紀問題は、第四紀の時代区分における定義に由来しているといいました。では、そもそも第四紀の定義はどうなっているのでしょうか。その歴史的背景をみてきましょう。
 第四紀という時代名称は、19世紀前半に、その由来があります。
 1829年、デノアイエ(J. Desnoyers)は、パリ盆地で第三紀の地層の上に重なる海でできた(海成といいます)地層の年代名として第四紀を用いました。「三」の上にある地層なので、「四」という名称が使われました。名称の由来としては、単純ですが、納得がいくものでます。しかし、この定義を他の地域でも使うとなると、どこでも共通するような地層境界にしなければなりません。
 1833年、C.ライエル(C. Lyell)は、地層に含まれている貝化石を調べました。比較的新しい時代の地層には、現在も生きている種(現生種といいます)が含まれていることがあります。ライエルはそこに目をつけて、現生種がどれくらいの割合含まれているかによって決めることにしました。これの方法であれば、境界を定量的に決めることができます。ライエルは、第三紀の一番最後を、現生種を70%以上含む地層の時代を「更新世」(Pleistocene、最新の意味)としました。それより後の時代を「現世」として、人類の遺物を含むのが特徴の地層であるとしました。
 ところが、1846年、フォーブズ(E. Forbes)は、第四紀として更新世を氷河時代にのみに用い、第四紀から更新世を除いたものを現世と提案し、定着しました。1885年の第3回国際地質学会議では、そのように定義された現世を完新世(Holocene)という名称にすることが決定されました。
 1885年以降、第四紀は、氷河時代の更新世と氷期以降の完新世に区分されるようになりました。
 また、1911年にオー(E. Haug)は、新生代の時代区分が哺乳類化石で区分されることが多いので、第三紀と第四紀の境界もそれに従うことが望ましいと考えました。そして、現代型のウシ、ゾウ、ウマの化石が最初に出現するときを、第四紀のはじまりと定義しました。
 しかし、そもそも第四紀とは、新しく出現したヒトが特徴となる時代だったので、ヒトの化石を時代区分の基準とすることが正式なものと考えられてきました。そのため、1920年ころには、第四紀は人類紀(Anthropogene)とも呼ばれていました。ただし、人類化石の資料は不十分なので、「とりあえず」他の動植物化石、火山灰、氷河の痕跡、古地磁気、放射年代などを用いて境界を決めることにされていました。
 「とりあえず」が続くのはあまりよありません。そこで1948年のロンドンでの国際地質学会議で、第四紀の始まりを定義するにあたって、模式地の選定、境界は海生動物群の変化にもとづくこと、さらに第四紀の最下部には、海成のカラブリア層と同時代に陸で堆積した(陸成といいます)ビラフランカ層があり、氷河期のような気候変動がはじまる時期であるはずという推定などが提案され、検討することになりました。そのような最終決定には、イタリアの海成層の分布地域が最適の地域(模式地とよばれます)と考えられていました。
 第四紀は、人類の出現の時期にあたるはずですが、20世紀後半から今世紀にかけて人類の化石の発見や新しい報告が相次ぎ、予想以上に古い時代にまで遡りました。最古の人類(ホモ属のレベル)としては、ホモ・ハビリスが最初のものとなります。ホモ・ハビリスは約240万から140万年前に繁栄していたヒト属の最初の種となります。ホモ・ハビリスは、250万前ころにアウストラロピテクスの一つから種分化したと考えられています。
 この時期が、第四紀の始まりとなります。しかし、ヒトの化石の産出は少なく、限られた地域からしか産出しないため、正確で、どこでも利用できるような時代境界というには、少々難があります。そのため、第四紀のはじまりは、なかなか定まらず、新しい発見があるたびに、年代値が変化してきました。それが、今回の第四紀廃止の原因となっています。
 第四紀の始まりと定義として、どのようなものがふさわしいかは、次回としましょう。

・洪積と沖積・
第四紀は更新世と完新世に区分されます。
日本では、それぞれに洪積世と沖積世という名称が
同じ意味で、現在も使われることがあります。
この洪積世と沖積世は、
1822年マンテル(G. A. Mantell)が最初に使ったものです。
そして、1823年には、イギリスの有名な地質学者である
バックランド(W. Buckland)も使い始めたので、定着しました。
日本語の洪積世はDiluviumを、沖積世はAlluviumを訳したものです。
Diluviumとは、氷河時代の堆積物を
ノアの洪水によってできたものと考えられて使われたものです。
それに対して、Alluviumは、現在の川ぞいの堆積物をいいます。
激変説の名残ともいうべき言葉は、
現在、欧米では地質時代として使われることはなくなりました。

・波紋・
第四紀は、定着した時代名です。
この名称は地質学だけです、
歴史に関する学問では、
重要な時代名称として利用されてきました。
ですから、第四紀の廃止に対しては、
多くの学界に波紋を投げかけ、
反論も多数でてきました。
その一番大きな学界として、
第四紀研究国際連合(INQUA)が公式に利用できるように、
そして、その決着を2008年中につけてほしいと、
IUGS(International Union of Geological Sciences)に
申し入れをしています。
時代区分の作業は、
ICS(The International Commission on Stratigraphy)が
行いっていますので、そこが検討して、
最終的にIUGSが判断するのでしょうが、
Concise版では、第四紀は表記されていますが、
どうなることでしょうか。

2008年10月30日木曜日

1_65 第四紀問題:地質時代2(2008.10.30)

 地質の時代区分に関する"The Concise Geologic Time Scale"という書籍を通じて、地質時代について考えています。今回は、以前から話題になっていた時代区分について、どのような結論になったのかみていきましょう。

 新しく出版された"The Concise Geologic Time Scale"にまとめられた地質の時代境界をみると、大きな「代」や「紀」の境界は、まったく変わっていませんでした。細分された時代境界で、年代値が変わっていることがいくつかありました。しかし、それは以前の本(1989年版)でも変わる可能性があることは、示唆されていました。
 さて、前回のエッセイでいっていた物議をかもしていた内容についてみていきましょう。
 まず、新生代の「第三紀(Tertiary)」がなくなり、地質学では公式には使わなくなりました。「第三紀」はなくなり、新生代は「パレオジン(Paleogene)」紀と「ネオジン(Neogene)」紀に区分され、「第三紀」は公式な時代名称ではなないことにされました。この件については、衝撃はあったのですが、とりあえずは受け入れられたようです。
 ただ、「パレオジン」紀と「ネオジン」紀に対応する日本語名は、まだ決定されていません。ですから、私は、カタカナ書きで書いていますが、早く決定してもらいたいものです。
 どこが決定するかは、正式にはわかりません。日本地質学会が、日本語名称を提案して、それを関係学会に示して、了承を得ることになるのが、一番妥当のような気がします。
 さて問題は、「第三紀」とともに消えた「第四紀(Quaternary)」です。両時代名とも昔つけられたものが、そのまま慣習として使われているにすぎず、現在では「三」や「四」に意味があるわけでありません。ですから、以前の"A geological time scale 1989"ではなくすという方針となりました。しかし、それが大きな混乱と議論を湧き起こしました。その後もいろいろ議論され、一時は復活させる提案もでてきました。現在まだ検討中で、決着はみていません。私は、この「第四紀」問題が解決したかどうかという興味があり、「Concise版」を見たのですが、まだ議論中でした。
 「Concise版」の最初のカラー図版の地質年代表を見ると、下に但し書きがあります。「第四紀の定義は議論中で、更新世(Pleistocene)の改定も議論中である。更新世の始まりは、181万年前(Calabrianの始まり)だが、259万年前(Gelasianの始まり)まで広がるかもしれない」と書かれています。これは、暫定的に使用可能としている第四紀のはじまりをどこに置くかによって変わってくるわけです。第四紀のはじまりの更新性と一致させるのか、それとも独自の時代区分を持つのかということです。
 ではそもそも、なぜ第四紀がこのような物議をかもしているでしょうか。それは、第四紀の定義に原因があったのです。その詳細は、次回としましょう。

・ソフトウエア・
地質時代は、使われる色も指定され、
カラーで見ると非常にきれいな色合いとなっています。
地質時代の色は、地質図でも使われることになり、
重要な意味を持っています。
色を実際に塗るのは大変ですが、
地質時代の作成すための便利なソフトウエアが公開されています。
http://www.tscreator.com/
に無料でダウンロードできるようになっています。
このソフトは、Javaで書かれていますので、
Javaが動くソフトであれば、OSを問いません。
マニュアルも同じサイトあります。
簡単に使えて、なかなか便利なソフトです。
興味がある方は、試されてはいかがでしょうか。

・短い秋・
木々の葉もだいぶ落ちてしまいました。
今年の紅葉はあまり艶やかではありませんでした。
でも、それなりの秋の色合いを見せてくれました。
北海道のわが町では、手稲の山並みが見えます。
その山並みが、先日とうとう雪化粧をしました。
ここ数日天気も悪く、冷え込みました。
朝夕は我が家では、ストーブを炊いています。
日中も曇りの寒い日はストーブをつけます。
北海道では短い秋も終わろうとしています。

2008年10月23日木曜日

1_64 Concise版:地質時代1(2008.10.23)

 地質の時代区分に関する"The Concise Geologic Time Scale"という書籍が出版されました。それについて紹介しながら、地質時代について考えていきます。

 "The Concise Geologic Time Scale"(以下「Concise」版と呼びます)という本が出版されました。10月31日発行になっていますが、予約していたら8月下旬に届きました。2005年春に発行された"A Geological Time Scale 2004"(以下「2004」版と呼びます)という589ページにもおよぶ分厚い本があります。「Concise」版は、タイトルどおり、「2004」版の要約されたものです。私は「2004」版も持っていたのですが、新たに購入しました。
 要約版をわざわざ購入したのには、理由がありました。「2004」版が出たとき、実は、いろいろ物議をかもした部分がありました。それがどのような決着になったかを、「Concise」版でまとめる見ることができるかもしれないかと思ったからです。「Concise」版を実際購入して、中を見てみると、いろいろ変化に気づきました。
 「2004」版で、物議をかもしたのは、新生代の時代区分でした。その詳細は、「1_52 新生代1:時代区分」(2005.10.27」や「5_48 第四紀の復活?1」(2005.12.22)、「5_48 第四紀の復活?2」(2005.12.27)で紹介しました。再度整理しながら紹介していこうと思います。
 地質時代は、その時代の代表的な地層が出ている地(模式地と呼びます)で、なんらかの特徴がある地層の境界を見つけて、そこで区分されます。ところが、研究が進み、地層を調べる技術が発展するにつれて、情報が増えてきます。すると、今まで、見えなかったものがみえたり、より時代を代表する地層が見つかったりします。そのような研究成果を踏まえて、地質時代の区分は、何度も見直されことになります。
 1990年に出版された"A geological time scale 1989"(以下「1989」版と呼びます)では、全地質時代の再検討がなされました。その後、2005年に「2004」版が出版されました。「2004」版では、プレカンブリア紀(隠生代(いんせいだい)と呼ばれています)は、あまり重要視されておらず、主として顕生代の時代区分に力が入れられていました。
 2008年の「Concise」版では、単に要約をしたものと思っていましたが、どうもそれだけでないようです。それぞれの時代を、専門の研究者が数名で執筆しています。ですから、新しい見解もかなり付け加わっています。特に、プレカンブリア紀には力が入っているように感じられました。実は、私はこちらに興味があるので、ついついそちらを見てしまうせいかもしれませんが。でも、"Planetary time scale"として、地球以外の月、火星、金星の時代区分を対比して全地質時代を検討しています。
 では、物議をかもしたところがどうなっているかを、次回紹介しましょう。

・変化・
「Concise」版は、9月下旬発行のはずなのですが、
予約しておいたら、なぜか8月下旬に手元に届きました。
そのとき、ぱらぱらとめくってみて、
かなりカラフルな本だなという程度の印象のまま、
詳しく見ずに、そのまま本立てにしまっていました。
その後、必要があって、取り出してみたら、
いくつか変わっている点に気づきました。
それが今回のエッセイとなりました。
まだ、十分読んでないので、どこかどれだけ変わったかは、
このエッセイを書きながら見ていこうと思っています。

・養生・
風邪が治まったつもりでいたのですが、
どうも、長引きそうな気配です。
先日医者に行って、新たな薬を処方してもらいました。
利くといいのですが、先に風邪を引いてこじらせていた
家内と同じ薬になりました。
先週ひどい状態だったのですが、
どうも今週になって、またぶり返したみたいで、
それほどひどくはないのですが、
先週と似た症状が繰り返しているようにみえます。
まあ、無理せず、養生していきます。

2008年10月16日木曜日

4_83 九頭竜川:能登と飛騨の旅5

 九つの頭を持つ竜と書く九頭竜川という名前は、竜のおどろおどろしさ髣髴とさせる名称です。九頭竜川、じつは竜と関連があります。能登と飛騨の旅の最後に、竜の里の話をしましょう。

 私は、富山県から岐阜県にはいり、長良川源流を下り、上流の途中から西に向かい、油坂峠を登りました。その峠は今では、自動車専用道路ができていて、すぐに越えられる峠になっているのですが、私は、旧道を車で登りました。くねくねした道を登り、短いトンネルといくつか通り、やや長めのトンネルを抜けると下りになりました。そのトンネルが、九頭竜川の源流でした。
 九頭竜川と書いて「くずりゅうがわ」と読みます。福井県を代表する一級河川です。九頭竜という名称には、いくつかの由来あるようです。「大乗院寺社雑事記」では洪水の度に川岸を崩しながら激しく流れ下ることから「崩川」と呼ばれ後に九頭竜川と呼ぶようになったという説、「越前名蹟考」では白山権現の像を川に浮かばせたら頭が九つ分かれた竜が現れたという説、などなど。私は、九頭の竜の説が気に入っています。
 この九頭竜川は、地質学者の間では有名です。それは、九頭竜川周辺では、竜の化石が見つかるからです。名前の由来の竜伝説とは関係がないのですが、竜、つまり恐竜の化石が見つかるのです。恐竜の化石は、古くから竜骨と呼ばれ、漢方薬として使われています。竜骨は、実は大部分が大型哺乳類の化石で、一部に恐竜の化石が含まれていたようです。恐竜は中生代に繁栄し、哺乳類は新生代に繁栄したものです。一般に古い化石より新しい化石がより多く見つかるため、恐竜の化石は少ないのです。福井県は、日本でも有数の竜骨、恐竜の化石の産地として知られているのです。
 九頭竜川は、南の三国ヶ岳から流れてくる大きな支流の日野川と、南東の両白山地の油坂峠(標高717m)に源を発する本流があります。本流上流の南部には二畳紀から石炭紀に堆積した古生層(丹波層群と呼ばれています)があり、北部には飛騨変麻岩とその上を覆うジュラ紀から白亜紀に堆積した手取(てとり)層群や足羽層群があります。
 この手取層群から恐竜の化石が見つかっています。手取層群は福井県だけでなく、石川県、岐阜県、富山県にも分布していて、各地から化石が見つかっています。しかし、中でも福井県の九頭竜川流域が恐竜の化石の産地としては有名です。
 地層ができたところは、内湾の浅瀬と川や湖が交わる、海水と淡水が交わる(汽水といいます)ような湿地帯でした。そこには、多数の恐竜だけでなく、カメやワニ、鳥類など各種の生き物いたことが、足跡(足跡も化石の一種とされています)や化石からわかっています。
 今年の春に福井県立恐竜博物館にいって(4-77 恐竜博物館:若狭の旅2で紹介)、恐竜の化石を見たのですが、産地を見ることできませんでした。今回は、化石の産地を見たいと思っていました。どのような地域から化石が見つかったのが、直接でなくてもいいから感じることできればいいと思いました。化石がたくさん見つかっている勝山へはいけませんでしたが、大野市伊月や後野は九頭竜川本流からも近いので見ることができました。これらの地域は、残暑の快晴の九頭竜川は、緑が深く恐竜の棲んでいた環境とはまったく違う山地ですが、竜骨が潜むにふさわしい場所に思えました。

・お詫び・
このメールマガジンは毎週木曜日の発行していたのですが、
風邪でダウンして遅れました。
申し訳ありませんでした。
1日遅れでの発行となりました。
月曜日から体調は変だったのですが、
火曜日には激しい咳が出始め、
医者に言って薬をもらってのですが、
手遅れだったらしく、その夜にダウンしました。
木曜日まで寝込んでいました。
だいぶましになりましたが、
今朝も寝汗をいっぱいかきました。
これ以上休めないので、
今回は早く直ることを願っています。

・風邪・
大学は大きな組織として運営されています。
ところが、教員が行うここの授業は
その人しかできないものになっています。
授業は、教員個人に依存しているものです。
教員が突然の体調不良になれば、代替が利きません。
それは、学生に迷惑をかけることになります。
補講として補いをすればいいのですが、
数字の上ではあわせることができますが、
どうしても補いきれないものもあります。
学生の都合や他の補講との調整がきかないときもあります。
私自身は、体調には気を配っているつもりなのですが、
今年は、なぜか冬になる前に、2度も風邪にたたれました。
前期もそれで休講をしました。
今年は、どうも風邪にたたられているようです。
前回の夏風邪が長引いたのですが、
今回は、涼しくなってすぐの風邪です。
我が家では、家内がまずかかり、
長男がかかり、そして私でした。
症状が長男に似ているので、
小学校ではやっている風邪のようです。
でも、同じ小学校の次男は
薄着で風邪も引かずに走り回っています。
体力の違いでしょうかね。

2008年10月9日木曜日

4_82 庄川:能登と飛騨の旅4

 庄川は、日本海に注ぐ一級河川です。富山県を流れ、岐阜県の飛騨高地にその源流があります。飛騨への旅で庄川を遡りました。

 今回の能登と飛騨の旅では、庄川(しょうがわ)を遡ることが目的のひとつでした。幸い快晴に恵まれて、川沿いを落ち着いて走破することができました。
 実は、私が訪れる数日前までは、国道が通行止めが、自動車専用道路しか通れませんでした。8月の大雨によって土砂崩れが起きて、通行止めとなっていました。幸いにも、道路は復旧して通行できるようになった直後でした。
 庄川と名づけられている河川は、岐阜県高山市南西部(旧荘川村)の山中峠(標高1375m)の湿原が水源となります。しかし、水量の多い流れ(幹川と呼ばれます)は、高山市荘川町で合流してくる一色川で、その源流は飛騨高地の烏帽子岳(標高1625m)となります。
 庄川の源流部は日本でも有数の山岳地帯です。水源の標高が1625mもあるのに、河川の長さは115kmしかありません。標高に比べ流路が短いため、急流となっています。また、流域は日本海に面し、背後に高い山があるため、雨や雪が多く、上流域は日本でも有数の豪雪地帯となっています。そのため水量が多く、流路の多くは山間部であり、電源開発用のダムに適した地形もあるため、いくつものダムがつくられています。
 流域は、飛騨高地の急峻な地形なのですが、庄川の本流や支川沿いには小規模な河岸段丘が発達しています。この段丘を利用して農耕を営む集落があります。白川郷(しらかわごう)や五箇山(ごかやま)などの集落のそうです。豪雪に備え、茅葺の合掌造り家屋がつくられ、今も維持されています。それが世界遺産に登録されています。
 飛騨高地には、パレオジン(かつては古第三紀と呼ばれていた)の流紋岩やネオジン(新第三紀)の安山岩が主として分布しています。下流域は、扇状地として、庄川が運んだ第四紀の堆積物が広がっています。このような地質をみると、日本列島ではよくあるタイプのものです。しかし、それらの石の下には、日本でも最も古い地層や岩石があります。このような地下に広く広がっている古い岩石を基盤岩と呼びます。
 日本の最古の基盤岩ともいうべきものは、飛騨帯とその南側を取り巻くように飛騨外縁帯となります。両者は、形成時代、変成時代、構成岩石、分布などによって区分されています。飛騨帯は剣岳(つるぎだけ)などでみられるような花コウ岩類から、飛騨外縁帯は朝日岳、白馬岳、槍ヶ岳南方などでみられる飛騨変成岩類からできてます。
 そのような古い岩石が実際に地表に顔を出しているのは、限られて地域で、ほんの少しです。しかし、飛騨高地周辺だけでなく、能登半島や山陰、隠岐などで見つかることから、西日本の日本海側の地下に広がっていると考えられています。
 五箇山の合掌造りの民宿に一泊して、そのような古い岩石や、日本列島の生い立ちに思いをはせる旅となりました。

・五箇山・
今回の旅で庄川を遡ると決めたとき、
合掌つくりの家を見たいと思っていました。
幸いなことに、五箇山で民宿が見つかり、宿泊しました。
五箇山は観光と住民の生活が混在しているところでした。
農家の人が、実際に耕作をし、農業に従事して暮らしています。
宿泊施設は、民宿だけです。
数件のみやげ物やと食べ物屋があるだけです。
それに比べて、白川郷は観光化されていました。
実際に農業して暮らしている人もいるのですが、
多くの観光客が訪れ、それに対応するようにメインストリーは
みやげ物や飲食店がずらりと並んでいました。
五箇山のように、現実の生活がまずあり、
それにプラスして副次的に観光業があるタイプ。
白川郷ように、もともとは農業のような生活基盤があったのですが、
今では観光が基盤産業となっているタイプ。
どちらも、日本の観光地でよく見られるタイプです。
私は、不便ですが、前者が好きです。
なぜなら、五箇山では、自分が観光客でありながら、
夕方や早朝に歩くと、生の農村がみられ、
自分の子供のころを思い出しました。
農家の一員のような視点で村を見渡す自分に気づきました。

・大学祭・
わが大学の大学祭が、今週末の連休を利用して行われます。
一日家族で訪れる予定です。
例年、大学祭の日が重なるのですが、
今年は、秋に学園祭の時期がずれています。
先週は別の大学祭に行きました。
近所に4つの大学があるのですが、
そのうち3つによく出かけます。
ひとつは、8月の夏休みにオープンキャンパスをかねて行われます。
今度の連休の天気よければいいのですが。

2008年10月2日木曜日

4_81 千枚田:能登と飛騨の旅3

 区画整理されていない棚田は、耕作する人には大変なものです。しかし、それを遠目で眺めるものには、郷愁をさそうものです。千枚以上も棚田が連なる千枚田で、考えました。

 能登半島の西海岸を北上中に、輪島から少し北に、白米(しろよね)というところがあります。今回の能登の旅のために地図をみていたら、白米に千枚田と書いてありました。道すがら、そこも見ていこうと思っていました。
 国道249号線をまたいで、小さな多数の段々の田んぼがあります。解説版によると、実際には1004枚の田があるそうです。傾斜に作られた田んぼですから、その形は不揃いで、大きさもさまざまです。一番小さい田は、0.2平方mといいますから、学校の机程度の大きさしかありません。この白米の千枚田は、国指定名勝となっていて有名なところでした。
 不規則な形をした田んぼが斜面に連なっていますから、維持管理はすべて手作業になっていきます。13戸の農家が、この千枚田を、今も守っています。農家の高齢化によって、維持管理がやはり大変になってきるようです。田植えや稲刈りには、ボランティアが全国から200名以上も集まって行われているそうです。昨年から、一枚一枚の田に対してオーナー制度が行われています。100名ほどのオーナがおり、各田んぼに名札がつけられています。
 輪島の市街地からこのあたりまで、地形や地質に詳しい人には、地すべり多数あるところとして知られています。白米の千枚田も地すべりがあったところです。千枚田の後ろにある高州山(こうしゅうさん)の緑の濃い山並みから、耕作地になると急になだらかな斜面が海岸まで続いています。ゆるい斜面は馬蹄形になって海岸に向かっています。典型的な地すべりの地形となっています。
 千枚田だけでなく、私は能登でももうひとつ、飛騨でもひとつ棚田を見ました。能登では、輪島の手前の大笹波にある水田です。そこの棚田は、海岸段丘の上のゆるい斜面を利用した田んぼです。日本の棚田百選に認定されているところです。飛騨は、白鳥市の山間の正ヶ洞にある棚田でした。
 いずれの棚田も、はじめて訪れたのですが、どこか懐かしさを感じさせてくれます。なぜでしょうか。私の実家は農家で、田畑をもっていました。盆地に広がる氾濫原でしたので、広い平野があり、そこに田畑がありました。ですから、私が知っている田んぼは、四角く区画整理されていて、まさに田の字形になっていました。山間の斜面にある棚田は、なぜか郷愁を誘います。名勝や棚田百選などの選定がおこなわれているということは、はやり多くの人が私と同じような郷愁も持つのでしょうかね。

・今年の秋・
北海道は、晴れたり曇ったりのはっきりしない天気が続いています。
朝夕は、めっきり冷え込んできました。
いよいよ秋が深まりつつあります。
山での初冠雪の便りが届いています。
平野でも、木々が色づいてきました
しかし、不順な天候のせいでしょうか。
紅葉がいまひとつきれいではありません。
きれいに紅葉する前で、
散っている葉も多いようです。
こんな秋もあるのでしょう。

・年齢・
知り合いの先生が相次いで亡くなられました。
親しくしていた友人にも、もう死んだ人がいます。
私の母は元気ですが、
父は長男が生まれて5ヶ月ほどして亡くなりました。
最近特に私の恩師の世代の訃報をよく耳にするような気がします。
私の恩師のひとりは、残念ながら数年前に亡くなられたのですが、
そのほかの恩師は存命です。
先生の世代の訃報を耳にするたびに、
自分の人生の残された時間が気になります。
彼らは、それなりのものを研究者として世に残されてきました。
彼らの業績は、人類の知的資産として蓄積されています。
科学者として自分のこれまでの生き方が正しかったのかどうかを
もし世に残る業績が示しているとすると、
私がなしたことが、人類にとってどの程度価値あるものだったのか。
あるいは人間としてまっとうな生き方をしてきただろうか。
さらに、家族たちに接してきた方法はこれでよかったのか。
そんなことを、考えてしまいます。
自分もそんな年齢になってきたためでしょうか。

2008年9月25日木曜日

4_80 雄島と越前松島:能登と飛騨の旅2

 能登から飛騨への調査の2回目です。今回は、海岸でも溶岩が織り成す岩場の紹介をします。

 9月に出かけた調査は、春に行った調査と連続しています。春は、若狭湾から越前にかけて調査してきました。前回の調査では、福井県の三国町にある東尋坊が最後になりました。東尋坊より少し北にある越前松島を、見なかったのを悔やんでいました。そこで今回は、最後に越前松島の周辺を見ることにしました。
 越前松島は、宮城県にある本家ともいうべき松島に似た景観をもっていることから名づけられています。その景観は、新生代中新世(1200~1300万年前)に活動した火山によって織り成されています。
 溶岩だけでなく、ハイアロクラスタイトと呼ばれる水中の火山砕屑岩の一種も含まれています。ハイアロクラスタイトとは、水中にマグマが噴出して、急激に冷やされたために、砕けたたものです。ですから、自分自身で壊れているので、水中自破砕溶岩とも呼ばれることがあります。
 越前松島の海岸沿いでは、ハイアロクラスタイトが一番下部(より初期に活動した)にあります。ハイアロクラスタイトは、越前松島の西側の水族館前の海岸や、東側の貴船神社の付近に出ています。その上に、安山岩溶岩(正確には玄武岩質安山岩と呼ばれています)があります。溶岩流の違いによって、下部、中部、上部の3つに分けられています。
 この安山岩溶岩に、柱状節理が形成されています。東尋坊の柱状節理は、柱がほぼまっすぐにできていて、そこに水平の割れ目がいくつも入っています。一方、越前松島では、立った柱状節理もありましたが、柱が放射状に並んだもの(放射状節理といいます)なっているもの、斜めになっているものもあります。いろいろな方向の柱状節理を持った溶岩が、越前松島では、小さな島としていくつも点在しているのを見ることができます。
 越前松島と東尋坊の間に、雄島(おしま)とよばれる島があります。今では、雄島橋によって歩いていくことができます。雄島は、外海に面している方(西側と北側)に露岩地帯が3分の1ほどあり、残りの部分は緑に覆われています。緑は、照葉樹林で大湊神社の鎮守の森となっています。
 雄島も溶岩からできています。ただ、東尋坊や越前松島が安山岩溶岩であったのに対し、ここの溶岩は流紋岩と呼ばれているもので、珪酸の多いマグマからできています。珪酸の多いマグマは、温度が低く、粘性が大きくなります。マグマが、地表を流れるときに流れたときにできた縞模様が、そのまま岩石の中に残されることがあります。このような縞模様を、流理構造と呼んでいます。流紋岩というい岩石の名前も、そこから由来しています。
 雄島の流紋岩にも、節理ができています。南の海岸では直立した柱状節理が目立っているのですが、北側に向かうにつれて板状節理と呼ばれるものが目立ってきます。板状節理とは、柱状節理を切るような方向に板を積み重ねたような節理ができているものもをいいます。
 流紋岩の同じ節理を見ているのだけなのですが、溶岩の流れが、北西に向かって下っていくような方向になっています。そのために、南側では、柱状節理の部分がよく見え、北側では板状節理がよくみえるように露出しているのです。同じものを、違った角度で見ていることになります。
 三国周辺では、東尋坊もあわせてみると、柱状節理のいろいろなタイプのものもを見ることができます。その節理が、不思議な景観を作っているのです。それが、今では観光地となっています。

・散策路・
東尋坊から雄島、越前松島にかけては、
自然散策路が整備されています。
要所要所に説明用の看板があるために、
見所がよく説明されています。
通常のこのような自然散策路というのは、
動植物の説明が主となっていますが、
ここでは地質の説明を主とした説明板を
多数見かけました。
非常に珍しい散策ルートのといえます。
でも、私にとっては、非常に面白いルートになっています。
私も、その説明板を見ながら見学しました。

・磁石岩・
雄島の説明板に、面白いものがありました。
それは、磁石岩と呼ばれるものです。
説明板の下に標本もおいてありました。
説明版によると、磁気を帯びた石が
周辺に点在しているとのことでます。
その磁気によって、方位磁針を近づけると、
それに引っ張られて方位磁針があらぬ方向を指します。
たぶん地質学者が調査のときに発見したのではないでしょうか。
地質調査をするとき、岩石や地層の方位と傾きを調べるために、
クリノメーターとよばれる方位磁針を用います。
それが狂ってしまったため、
発見されたのではないでしょうか。
残念ながら、このとき私は、
カメラだけしか持っていませんでした。

2008年9月18日木曜日

4_79 千里浜:能登と飛騨の旅1

 9月5日から11日まで、能登から飛騨をめぐる調査をしました。海岸と河川沿いを主に見てきたのですが、そのときの様子を紹介しましょう。まず最初に紹介するのは、石川県の千里浜です。

 石川県宝達志水町の今浜から羽咋市(はくい)の千里浜町に至る長い海岸があります。長さ約8km、幅50mほどの砂浜です。ここは、千里浜と書いて「ちりはま」と呼ばれています。長い砂浜海岸は、それほど珍しくなりませんが、実は、この海岸では、車が走れる海岸道路として有名なのです。千里浜は、4輪駆動の特別な車でなくても、普通の乗用車でも、観光バスでも走行することが可能です。
 私もレンタカーでこの海岸を走りました。海岸に車を止めて、海や砂浜を眺めているときにも、何台もの乗用車や観光バスが、砂の上を走っていきました。なぜ、重い観光バスまでも、砂に埋もれることなく、走ることができるのでしょうか。
 それは、砂が、車が上に乗ってもくずれることなく、締まっているためです。
 実際には、車が走れるところと、走れないところがあります。波打ち際から近い砂浜はいいのですが、岸から離れていくと、さらさらした砂になります。そちらは、車ではいると、車輪が埋もれてしまいそうです。さらさらした砂は、丘につながっていて、それは砂丘になっています。ちなみにこの砂丘は、全国第4位の規模があります。
 走れるところと走れないところを比べると、走れるところは、砂の色が違います。色が違うのは、砂がしっとりに湿っているためです。たぶん、ここの海岸は、波打ち際からある程度離れても、乾くことなく、常に濡れているのでしょう。あるデータによると、この砂には、90%ほどの含水量があるといわれています。そのため、締まった砂となっているようです。
 その他にも、砂が締まるいくつかの理由があります。地質学定義では、直径2mmから0.0625mmまでが、「砂」に分類されます。「砂」より大きいものを「礫」、小さいものを「シルト」(0.0625~0.004mm)や「泥」(0.004mm以下)といいます。千里浜の砂の構成粒子は、石英・長石・雲母・輝石・貝殻などいろいろなものを含んでいますが、粒の大きさが0.2mm程度(中央粒径0.17mm)と細かくそろっていることが、特徴です。このように粒径がそろっている砂を、「淘汰がいい」あるいは「分級がいい」といいます。
 これらの砂の特徴が、重要な役割を果たしています。湿って粒径がそろっている砂は、剪断力にたいして抵抗力が強くなります。つまり、重いものが上に乗っても崩れにくいという性質を持ちます。
 ではなぜ、粒径のそろったすなが、千里浜にあるのでしょうか。それは、砂の供給源と運搬の仕組みによるものです。砂の粒径を、海岸を南に向かって調べていくと、手取川に向かって粒径が大きくなっていることがわかりました。つまり、千里浜などの能登半島の付け根にある滝崎まで、手取川の砂が、対馬海流によって運ばれているのです。粒径の大きな砂は、手取川の近くに、小さいものは遠くまで運ばれます。もっと小さい粒径のものは、海岸に打ち上げられることなく、遠くの海底まで運ばれていくのです。
 同じような条件の砂浜が、いたるところにあってもいいはずなのですが、そうそうはないようです。日本では、千里浜だけのようです。世界でも米フロリダ州とニュージーランドの海岸に知られているくらいで、珍しいようです。千里浜は、能登半島国定公園に選定され、1996(平成8)年には日本の渚百選にも選ばれています。千里浜は、自然の妙が生み出した海岸なのです。

・人工の浜・
千里浜では、実は、砂の流出が起こっています。
一説によれば、10年で約12mも侵食されているといいます。
そのため、関係機関では、海岸保護のために、
1984年から毎年3000~6000m3の砂を持ち込んで、養浜がなされています。
海岸の浸食は、いまだにとまっていないようです。
その原因は、砂利採取や金沢港の影響も考えらえていますが、
砂の供給源である手取川の
ダムや護岸ではないかと考えられています。
千里浜は、自然の妙が生み出した海岸です。
そこに、人工的に砂を入れるというのは、
自然の妙を消してしまう行為に見えるのは、私だけでしょか。

・塵浜・
千里浜が「ちりはま」というのは、
珍しい読み方です。
もともとは「塵浜」と書いたそうです。
この地域は、「作物ができず、税のかからない土地」
ということから地名が由来したそうです。
塵浜をゴミハマと蔑称する人ともいたため、
1927年に千里浜村と変えられました。

2008年9月11日木曜日

2_69 アーキアワールド

 私たちが知らない世界が、海底にありました。それは、アーキアワールドと呼ばれています。そこには、古細菌というあまり馴染みのない生物が大量にすんでいます。

 深海底は、深く暗いところなので、なかなか目にすることができません。もちろん一部の研究者は、潜水艇でもぐることがありますので、深海をみることがあります。その時の映像を私たちも見ることがあります。しかし、その場所は限られていますし、特別な目的があり、それを満たしてくれる場所になります。映像としてみるのも、特別な目を引くものがあるところになります。
 では、特別ではなく、普通の深海底はどのような場所なのでしょうか。今までは生物のほとんどいない、不毛の世界のように考えられてきました。ところが、その考えを覆す発見が、JAMSTECの研究者によってなされました。
 JAMSTEC(独立行政法人海洋研究開発機構)の稲垣史生さんと諸野祐樹さんは、7月20日の科学雑誌ネイチャー(オンライン版)に、その報告を発表しました。その報告によると、古細菌(アーキア)と呼ばれるタイプの生物が、海底堆積物に大量にいることを発見したのです。古細菌とは、生物のドメインと呼ばれる3つの分類のひとつを占めています。他のドメインは、真核生物(ユーカリア)とバクテリア(真性細菌)です。
 彼らは、世界の16か所の海底から得られた試料を用いて調べました。深さ365mまでボーリングの堆積物から、生物を構成している物質(極性脂質)と遺伝子(DNA)を抽出しました。
 極性脂質とは、バクテリアや古細菌(両者とも原核生物になる)の細胞膜を構成してい物質です。極性脂質の種類ごと量から、原核生物の量や、バクテリアや古細菌の比率を見積もることができます。DNAは、古細菌が持つ特有の遺伝子に注目して分析することで、古細菌の量を調べることが可能です。ところが、DNAの分析は難しく、なかなか精度よく分析することができませんでした。今回はその精度を格段に高めることができたようです。両者から、堆積物中の原核生物と古細菌の量を見積もることが可能になります。
 原核生物の量は、深くなるとともに減ります。しかし、古細菌の比率は深くなると、一気に増加します。1mより深い堆積物では、古細菌の量の比は、平均で87%になります。一方、抽出したDNAに含まれるアーキアの遺伝子の存在比は、まだ完全な精度が得られず、抽出法や分析手法によってばらつきがあり、平均で40%~50%になりました。原理的には一致すべきですが、技術がまだ追いついていないようです。
 極性脂質の量から、極性脂質の量を微生物細胞を構成する炭素の量に換算することが可能です。海底堆積物の全有機炭素量に占める微生物の量は、約0.024%に達することがわかってきました。比率にすると少ないように感じますが、その総量は、膨大なものになります。海水中の微生物が占める炭素量は220億トンを1とすると、陸上の土壌微生物由来の炭素量は12倍(260億トン)、外洋の堆積物には24倍(500億トン)、大陸沿岸には18倍(400億トン)あることにあります。ところが、海底堆積物の微生物炭素量は、41倍(900億トン)もあることがわかってきました。その量は、地球の微生物の中では、もっとも多くの比率となります。
 深海底の堆積物中には、実は生物が大量にすんでいることがわかってきました。地球の生物は量で見れば、深海の堆積物の中の古細菌が主要なものとえいます。まさに、私たちがしらなりアーキアワールドがそこにはあったのです。

・バイオマス・
生物起源の物質の総称をバイオマスと呼んでいます。
バイオマスは、生物の量を、物質の量として表わします。
多くは、質量あるいはエネルギー量で示されています。
このエッセイでの表記は、炭素量になっています。
ですから、紛らわしいのですが、一種のバイオマスともいえます。
ここでは、微生物だけを対象にしましたが、
大型の生物でみるとどうなるでしょうか。
地上生物に含まれる炭素量は約5500億トン、
海洋生物1兆0200億トンになるといわれています。
桁違いの量ですが、エッセイでも示されたように、
今まで生物は住んでいないと思われていたところに、
他の地域の微生物と同じほどいたことがわかったのです。
まさに新世界の発見ではないでしょうか。

・秋・
北海道は、8月下旬には秋の気配が漂っていたのですが、
9月になると蒸し暑い日が訪れています。
少々、ぐったりしていますが、
でも、やはり秋の気配はあります。
この一週間、私は調査に出かけていますので、
北海道にはいません。
ですから、その間の天候は不明です。
旅行中の天候が気になりますが、
心配してもしかたがありません。
ただ、台風だけは来ないことを祈りましょう。

2008年9月4日木曜日

5_76 温室効果はどこへ?:炭素8

 今回で、地表の炭素のシリーズは終わりです。炭素として一番話題になっているのは、地球温暖化問題です。それに対する見方も、長い地球の歴史を見ていくと、本当なのかという疑問も出てきます。最後にその話題を紹介しましょう。

 地球の歴史をみていくと、大気中の二酸化炭素は、海を通じてイオンから沈殿し、プレートテクトニクスによって沈殿物を石灰岩として陸地に蓄積されていきました。長い時間、この物理化学的変化を続けてきましたが、生物が、その二酸化炭素の固化システムに加わると、固化のスピードは速くなりました。つまり、古生代以降、大気中の二酸化炭素は、急速に減少していきました。
 ところが、二酸化炭素による温室効果の減少は、それほどではなかったようです。古生代以降をみても、中生代は南極に植物繁茂し、恐竜もいたことがわかっています。この当時も、二酸化炭素の減少は続いていたはずなのに、古生代より、暖かかったのです。
 大気中の二酸化炭素の量は、創世ころは現在の50倍から100倍ほどあったものが、現在では大気の量の0.04%しかないのです。カンブリア紀から現在まで、二酸化炭素の固化は、急速に進んでいるはずです。なのに地球は、極寒の星にならず、15℃ほどを保っています。不思議な気がします。
 大気中の二酸化炭素の量が、5桁から6桁(倍ではなく桁です)少なくなりました。今取りざたされている二酸化炭素の温室効果を考えるなら、過去に遡るほど、地球は灼熱の状態になったはずです。ところが、地球は38億年前から現在まで、海が存在できる条件を持っていました。
 多様な条件が複雑に絡み合っているために、このような恒常性(ホメオスタシスと呼ばれます)を持った環境が維持されてきたのだと思います。
 地球の平均気温は、太陽から放射エネルギーと、地球の大気の温室効果によって決まります。温室効果は時間とともに減少しています。つまり、寒くなろうとしています。しかし、地球の平均気温はどうもある一定の範囲に収まっているらしいのです。これは、なぜでしょう。
 そのためには、温室効果を打ち消す作用が必要です。その一番の候補は、太陽の放射の変化です。太陽では、水素がヘリウムになるという核融合をおこなっています。その核融合エネルギーが放射され、地球を暖めています。太陽の核融合は、時間とともに、水素が減りヘリウムが増えることになります。ヘリウム1個に対して、水素は4個必要になります。つまり、太陽内の原子の数は、見かけ上減ってきます。すると核融合の効率が上がり、時間とともに太陽はより強く輝くことになります。その結果、地球への放射も時間とともに増えていきます。
 時間の経過とともに、太陽が明るくなる(暖かくなる)につれて、地球の大気中の二酸化炭素の減少(冷たくなる)していきます。その両方の効果が、地球の温度を一定にする作用として働いたようです。
 ただし、この太陽の核融合の変化は、数十億年単位のゆっくりとした変化です。ですから、数千万や億年単位の古生代以降の温度変化は、地球環境の独自の変動と見るべきかもしれません。
 最近(地質学的に見たときの)地球の気温変化を大雑把に見ていくと、新生代中期以降、気温は減少を続けています。これこそが、大気の二酸化炭素を固体に変えてきた結果かなのかもしれません。もしそうだとすると、地球は、数千万から数百万年の単位でみると、寒冷化していると見るべきなのかも知れません。このように長い時間スケールでみると、地球の環境も違った見え方になります。そんな視点も重要なのではないでしょうか。

・地球温暖化問題・
炭素の地表での循環を考えるとき、
どうしても地球温暖化問題にたどり着きます。
このシリーズの書き始めも実はその話題にするつもりでした。
私は、地質学を学んだためでしょうか、
ついつい地球の歴史と現在の温暖化問題を比べてしまいます。
すると、地球はたいていの環境変化は
すべて経験済みのことに見えてしまいます。
そして、その理論は本当なのだろうかと考えてしまいます。
もし本当だとしても、それは、人類の内の、
文明人の内の、先進国人たちだけが
困って問題しているのではないかと考えてしまいます。
こんなこというと、異端的な意見になりますが、
以前からそういう気がしてしかたがありません。
最近になって地質学者でも同様の発言をする人もでてきました。
しかし、そんな問題も時間が
やがて結論を出してくれるでしょう。
たぶん私が生きている内に結論が出ると思います。
その日まで、私がこの意見を、持ち続けているかどうかの方が
問題かもしれませんね。

・調査行・
9月5日から1週間、能登から飛騨へ出かけます。
その話を、前回のコラムで書いたら、Kawさんから
逆だけど同じコースを行ったという連絡をいただきました。
確かに、松本から、飛騨、能登へというコースをいかれたようです。
ただ、私は、小松空港から能登、飛騨、岐阜、
そして福井へとめぐるコースです。
たぶん観光バスなら、2泊3日くらいでめぐりそうの旅程です。
行きたいところはいろいろあるのですが、
私のんびりと、そして見たい場所はじっくりと時間をかけるので、
あまり多くのところは回れません。
せいぜい、午前午後に一箇所ずつまわる程度です。
そのため、コースが長いと時間もかかります。
私は、このコースを6泊7日かけてめぐります。

2008年8月28日木曜日

5_75 生物と石灰岩:炭素7

 今回は、生物と二酸化炭素の関わりをみていきます。生物一つ一つは地球と比べれば、明らかにちっぽけなものです。しかし、多くの仲間と長い時間があれば、やがては大きな変化へとなるのです。

 石灰岩(方解石)は、大気中にあった大量の二酸化炭素が固体として陸地に蓄えられたものです。その仕組みは、前回紹介したように、海洋とプレートテクトニクスが重要な働きをしました。
 二酸化炭素の気体を固体に変えるという作用は、地球の物理化学的な営みです。その効率は、環境の変化によってばらつきはあるでしょうが、ほぼ一定のものだったはずです。
 ところが、地球に生物が誕生して、生物が進化とともに炭素の循環に参加しました。生物は炭素を主成分としています。ですから、生物が増えてくると炭素の循環に大きな影響を与えます。
 気体の二酸化炭素が、固体の炭酸カルシウムへ変化するのも、炭素循環の大きな流れです。生物が関与することで、その流れが一気に加速されました。それは、生物が、炭素を生きるためだけに使うのではなく、体を支えるために利用したためです。
 貝は、殻で体を守っています。貝殻は方解石からできています。貝がたくさん住んでいたとしても、大地に化石として蓄えられる量は少しです。もっと大量に二酸化炭素を固体に変える生物がいました。それは貝より小さい生き物でした。
 その代表は現在でいえばサンゴです。サンゴは小さなサンゴ虫という動物の集合です。サンゴ虫は外骨格と呼ばれるものをもっています。外骨格とは、体を支える構造物(骨)が外にあるものです。昆虫も外骨格をもちます。サンゴの外骨格の成分は、方解石です。
 サンゴ虫は小さくても、集まれば、巨大なサンゴ礁をつくります。オーストラリアの東岸にあるグレートバリアリーフは、サンゴが集まって礁をつくった高まりで、その長さは2600kmにもなる世界最大のサンゴ礁です。このようなものが、陸地にプレートテクトニクスによって持ち上げられれば、今までの物理化学的な作用だけより、はるかに効率よく大気中の二酸化炭素を取り除くことができます。
 実際に大陸をみると、さまざまな時代の石灰岩類があります。日本でも、ほとんどの都道府県に石灰岩があります。時には、鍾乳洞をつくるほどの巨大な石灰岩体があります。これらの多くは、暖かい海にできたサンゴ礁が陸に持ち上げられたものです。
 サンゴは、生物の歴史から見れば新しい時代の生物です。礁をつくる生き物として、古生代には層孔虫が繁栄していました。層孔虫も今のサンゴ虫とともに礁をつくり、大量の石灰岩をつくってきました。ですから、古生代以降、生物による二酸化炭素の固化のメカニズムは、その効率を高めたはずです。
 サンゴの他にも、海には炭酸カルシウムの殻をもつ円石藻のようなプランクトンもいます。これらのプランクトンが死んだら、その遺骸は海底に沈んでいきます。
 海は深度とともに、炭酸カルシウムの溶けやすい環境に変化していきます。炭酸カルシウムが溶けてしまう深度を、炭酸カルシウム補償深度(CCD:Carbonate Compensation Depth)と呼んでいます。これより深い海中では、長期間、炭酸カルシウムは保存されません。炭酸カルシウム補償深度は、地域や環境によって変わってきますが、3000から4000mほどになっています。つまり、海洋の真ん中で死んだプランクトンの遺骸は、いずれは溶けてしまいます。このような海洋の真ん中のプランクトンによる炭酸の固化は、大気中の二酸化炭素の除去には効果がありません。
 しかし、大陸棚付近で死んだプランクトンや生物は、そのまま地層として、陸地に保存されることになります。あるいは、有機物や炭素として地層にたまることがあります。生物が誕生して、増えてくると、地層に閉じこめられる炭素が増えてきます。その炭素は、大気からもたらされたものです。
 生物による炭素循環の効果は、地球が物理化学的作用だけでおこなってきた時代と比べると、複雑なものになりました。そして、影響力を持つようになってきました。小さな生物でも、数と時間の効果によって、地球の環境に大きな影響を与えることがあるのです。

・秋の気配・
いよいよ8月も終わろうとしています。
北海道以外の学校は、2学期がそろそろ始まります。
子供たちは落ち着かない、
忙しい日々を送っているのでしょうか。
北海道の8月下旬は、すっかり涼しくなり、
もう秋が来たのかと思えるほどの気温でした。
北海道でも、これからも暑い日が来るでしょうが、
やはり秋の気配は濃厚です。

・能登から飛騨へ・
9月上旬に調査に出ます。
散々迷った挙句、能登から飛騨にかけて
調査することにしました。
何を迷ったのかというと、
夏前までは、岩手に行こうと予定を立てていました。
ところが、岩手で2度の地震があったは、記憶に新しいことでしょう。
そのせいで、出鼻をくじかれて今年は、止めることにしました。
岩手には、来年ゆっくりと行くつもりです。

2008年8月21日木曜日

5_74 石灰岩のベルトコンベア:炭素6

 大量にあった大気が、どのようにして石灰岩になったかを見ていきます。そこには、水と地球の営みが重要な役割を果たしていました。

 現在の大気の50倍から100倍近い大気の量が、かつての大気にはありました。その大半が、固体の石灰岩になって、大気からなくなりました。そのプロセスには、水と地球の営みが重要な役割を果たしました。
 原始の地球は、二酸化炭素の厚い大気に覆われていました。もちろん、温室効果は、強烈に働いていたものと考えられます。しかし、地球は、38億年前以降現在まで、地表付近の温度は、0~100℃の間に保たれていました。それは、海があったことからわかります。
 海が存在した直接の証拠は、ありません。しかし、液体の水のある海でしか形成されない堆積岩が、証拠となります。最古の堆積岩は、グリーンランドの38億年前のものです。それ以降、各地からいろいろな時代の堆積岩が見つかってきます。ですから、地表付近は、常に水が存在できる条件にあったことになります。
 水が地表にあると、大気中の二酸化炭素が溶けこみます。その量は、温度によって決まっています。ある一定量、海に二酸化炭素が溶け込むと、飽和(平衡状態)します。溶けた二酸化炭素は、炭酸イオンとなります。海に二酸化炭素が溶けこんだとしても、大気中の二酸化炭素は、ほとんど目立って減ることはなかったでしょう。
 水は、もう一つ大きな役割を演じます。それは、海があると、必然的に起こる地球の営みです。太陽があたると、温まった海からは、蒸発した水蒸気が発生します。水蒸気には上空に上がります。上空は、冷たいので冷やされ、水蒸気は、氷となり雲になります。冷やされた水蒸気には、やがて雨となって降ってきます。
 雨は海だけでなく、大地にも降ります。大地に降った雨は、川となって、大地を削り、海にもどります。海にもどった水は、土砂を運ぶだけでなく、大地の溶けやすい成分を含んでいます。その中に、カルシウム(Ca)があります。水に溶けたカルシウムイオンは、炭酸イオンと出会うと、炭酸カルシウムという沈殿になります。それが石灰岩のもとになります。
 沈殿した炭酸カルシウムは、海水中の炭酸イオンやカルシウムイオンと、やはり平衡関係ができます。一定量の沈殿ができますが、一定量以上には沈殿ができません。
 二酸化炭素に対して、大気(気体)、海(イオン)、海底(固体)で、上のような平衡関係が成り立ちます。この平衡関係を破らないと、大気中の二酸化炭素を、固体にして蓄積できません。平衡関係を破るには、固体の炭酸カルシウムを海から陸に上げて、取り除かなければなりません。その役割を、プレートテクトニクスという地球の営みが、果たします。
 プレートテクトニクスによって海嶺で形成された海洋プレートは、海溝に移動します。海溝で沈み込む時、海洋プレートの上にある軽い堆積物(石灰岩)を、陸地に残していきます。これによって、石灰岩を陸地に運ぶという作用ができます。
 このシステムは、一方通行のベルトコンベアのようなものです。大気中の二酸化炭素が、海に溶け、陸からのイオンと結びついて、海底に沈殿し、それが海洋プレートに乗って、陸地に石灰岩として持ち上げられます。このシステムが働けば、大気中の二酸化炭素は減り続け、石灰岩として陸地に保存されます。このシステムは、海がある限り、プレートテクトニクスが存在する限り続きます。このシステムが38億年にわたって働き続けたので、今や大気中の二酸化炭素は、ほとんど取り去られた状態になっていることになります。

・温室効果・
二酸化炭素の温室効果を今騒がれていますが、
過去では、どれほどの効果があったのでしょうか。
50気圧や100気圧も二酸化炭素があったら、
強烈な温室効果が起こりそうです。
しかし、地表は100℃を越えることはありませんでした。
実際に計算をしたことがないので、
正確なことはいえませんが、
二酸化炭素の温室効果は、どれほどあったのでしょうか。
海は、100℃に達してないことは確かのですから、
30億年前や20億年前、地表の温度は、
80℃や90℃もあったのでしょうか。
もしそんな温度であったら、地表付近は、
生物にとって、過酷な環境であったはずです。
ところが、生物は順調に進化していますから、
過去の二酸化炭素の温室効果が、気になります。

・平年並みの夏・
北海道は、天気がいいと昼間は暑いですが、
朝夕は上着が欲しくなるような気候となってきました。
昨年と一昨年が暑い夏だったので、
今年の夏は平年並みの気候だと思いますが、
過ごしやすい気がします。
こんな時北海道に住んでいて良かったと思えます。
お盆も終わり、大学は、夏休みの真っ最中となっています。
私は、成績の締切りを今週末に控えて、
その追い込みとなっています。
午後の研究室は西日が当たり、
耐えられないのですが、午前中は快適です。
午前中のうちに、集中して仕事をすることにしています。

2008年8月14日木曜日

5_73 固体の二酸化炭素:炭素5

 かつて地球には大量の二酸化炭素がありました。そして、今の大気は、二酸化炭素がほんの少ししかありません。二酸化炭素は一体どこに行ったのでしょうか。

 前回のエッセイで紹介したように、地球には、かつて二酸化炭素を主成分とする大気がありました。それも、今の大気の50倍から100倍ほどの量の主成分でした。今の大気とは、比べものにならない、異なった成分構成になっていました。では、その大量の二酸化炭素はどこに行ったのでしょうか。
 可能性としては、地球から、二酸化炭素が宇宙空間に飛び出していったというものがあります。この可能性は否定できます。地球の隣の惑星である金星の大気を見るとわかります。
 金星は地球と似た大きさの惑星です。大気を引きつける引力の強さは、両惑星で似ています。金星の大気は、地球の900倍近い大気があります。ですから、地球も金星でやや大きいですから、大気を逃がさずにすんだはずです。
 また、二酸化炭素が、選択的に宇宙空間に抜けていく可能性もあります。この可能性も、否定できます。窒素(分子量28)や水蒸気(18)などの昔の大気の成分と比べて、二酸化炭素(44)は大きくなっています。ですから、一番抜けにくい成分だといえます。
 火星の大気からも、それがわかります。火星は、地球の100分の1くらいしか大気の量がありません。火星の大気は非常に薄いのですが、その主成分は二酸化炭素となっています。ですから、二酸化炭素だけが選択的に抜けたということは、なさそうです。
 では、昔の地球の大気の主成分の二酸化炭素は、いったいどこへいったのでしょうか。宇宙空間に抜けたわけではないので、地球のどこかにあるはずです。地球の環境では二酸化炭素は気体ですから、気体のままでは大気に留まります。水(海)にも少し溶けますが、その量はほんの少しに過ぎません。ですから、二酸化炭素がなんらかの化学変化をして、固体の化合物として、どこかにあると考えるしかなさそうです。
 地球の表面で二酸化炭素を含む固体の化合物は、石灰岩が代表です。石灰岩とは、方解石という鉱物からできています。方解石は、炭酸カルシウム(CaCO3)という化合物で、炭酸が主成分となっています。炭酸は、二酸化炭素が水に溶けたときにできる化合物です。
 石灰岩は、日本列島では、ごく普通にみかける岩石です。日本列島でだけではありません。大陸の各地で見つかります。石灰岩のできた時代は、最近の新生代のものから、太古代のものまで、いろいろな時代のものがあり、そしてそれらは大量に見つかります。
 大気中の二酸化炭素が、石灰岩になれば、コンパクトに、そして長期間安定に固体として保存できます。また、いろいろな時代に石灰岩が形成されているということは、大気中の二酸化炭素が、固体化される作用が地球表層で定常的に働いていたことを物語っています。
 実は、かつての地球には、50倍から100倍の大気があったという見積もりは、地殻の石灰岩から推定した値だったのです。では、気体の二酸化炭素が固体の石灰岩に変化するプロセスは、どのようなものなのでしょうか。それは、次回としましょう。

・論文のネタ・
7月の体調不良でした。
本当にまいりました。
まだ、咳が抜けていませんが、
普段どおりの生活ができるようになりました。
来週までは、校務がありますので、
その間はなかなか別の仕事ができないのですが、
8月下旬から、しばらく手作業をともなう仕事を
していこうと考えています。
まずは、標本の整理と、
昨年の調査のデータ整理です。
延び延びになっていたものを、
なんとかこなして、次の論文のネタに
しようと考えています。

・家族旅行・
北海道は8月上旬は、快晴の日が2週間も続きました。
暑い日でした。
8月上旬に家族旅行をしましたが、
快晴の日が続き、予定通りの旅行ができました。
快晴でしたが、乾燥していたので、日陰は涼しかったです。
また、標高の高いところにいたので、
暑さに耐えられないという思いはしなくてすみました。
家族旅行でしたが、標本をなにもとりませんでした。
しかし、山を一つ登ることができました。
それが、収穫でした。

2008年8月7日木曜日

5_72 二酸化炭素の変化:炭素4

 二酸化炭素が何かと話題になります。二酸化炭素の増減を、地球の時間スケールでみると、現在話題にしていることが、それほど大事にはみえません。地球にとっては、ささやかな変化です。

 地球温暖化の主犯として、二酸化炭素が話題によく登ります。現在、二酸化炭素の濃度は、400ppm弱です。もともと、200ppmほどしなかったものが、2倍の400ppmにも増えたのだから、大変だということです。
 ところで、ppmという単位は、parts per millionの頭文字をとったもので、100万分の1のことを意味します。たとえば、大気(空気)の体積を1としたとき、ある成分が100万分の1の量があった場合、1ppmとなります。ppmとは、非常に少ない濃度のものを表すための単位なのです。もっと多いものは、御存知のように、百分率(%)を使って表します。ppmと%を換算すると、1ppmは0.0001%となり、1%とは10000ppmとなります。400ppmとは、0.04%のことです。
 0.04%という量は、普通であれば無視するほどの量です。その増減が、地球温暖化では問題にされています。200ppmを基準にして多い少ないを考えていますが、地球の大気中の二酸化炭素は、もともとどれくらいの濃度だったのでしょうか。言い換えると、地球誕生以来、どう変化してきたのでしょうか。もともと200ppmだったのでしょうか。実は、昔の大気の組成を測るのはなかなか難しいのです。
 現在、一番信頼性ある過去の大気のデータは、南極などの氷床から得られたものです。南極のような寒い地域では、雪が降っても、解けることなく何年も積み重なっていきます。積み重なった雪では、下の方が圧縮されて氷になっていきます。雪が氷になるとき、雪の中に含まれていた空気も一緒に圧縮されて閉じ込められます。つまり雪が降った時代の大気が保存されることになります。厚い氷床を掘りぬくと、古い時代の氷が手に入ります。その氷の中の空気は、その時代のものです。
 この方法で得た過去の空気から、成分を測定することができます。現在から40万年前までの二酸化炭素の濃度が公表されていますが、200ppmから300ppmの間を周期的に変動しています。氷床のコアとしては、今では約80万年前まで到達していて、今後100万年前まで達することを目標としています。でも、そのあたりが限界ではないでしょうか。
 なぜなら、古い氷床は流れてなくなること、同じ場所で積雪があり氷床が常にできるわけではないこと、暖かい時期があると融けることなどがあります。さらに、4000万年前より昔の地球には、まったく氷床がなかった暖かい時代があった長く続いていたと考えられています。
 いずれにしても、45億年におよぶ地球の歴史からすると、数百万年前や数千万年前の記録でも、あまりに短時間で不完全な記録です。もっと、古い時代の二酸化炭素の記録はないでしょうか。残念ながら、古い時代の大気の情報はありません。ですから、間接的に推定するしかありません。
 まだ、時代ごとの完全な濃度変化のパターンは描かれていませんが、地球誕生当初は、二酸化炭素が大量にあったと考えられています。その理由は、地球の両隣の同時にできた金星と火星の大気が二酸化炭素を主成分としていること、惑星の材料物質である隕石に含まれている気体(揮発成分)の主成分が二酸化炭素であることなどです。
 大気の主成分といっても、今とは比べ物にならないほどの量の大気があった考えられています。当時の大気は、現在の50倍から100倍あったと推定されています。その量は、二酸化炭素がほとんどを占めていたと考えられます。もちろん、当時の地表はすごい温室効果が起こっていたはずです。ところが、海が完全に蒸発するほど高温(100℃以上)にたっしたことはありませんでした。なぜなら、すべての時代を通じて、海でたまった地層が見つかるからです。つまり、海があったということは、地表の温度は100℃以下に保たれていたのです。
 では、地球の初期にあったの考えられる大量の二酸化炭素は、いったいどこにいったのでしょうか。それは、地層の中に今もあります。その答えは、次回としましょう。

・夏休み・
皆さんは、夏休みをとられたでしょうか。
私は、8月早々から夏休みをとっています。
実は、このメールマガジンが届く時は、
私は、旅行中で不在です。
北海道の中央部、然別湖周辺をうろうろしています。
家族旅行で、避暑をかねてのんびりしています。
然別までは遠い道のりですが、
周辺の宿を点々としながら、あまり移動せずに、
いろいろなところを見てこようと考えています。
最近は、石探しや、川原遊びは家内や子供たちから
つまらないといわれて、
調査がなかなかしにくくなりました。
でも、できるだけ両立させていきたいとたくらんでいます。

・地球の歴史・
人類が直面している温暖化問題は、
地球にとっては、ささやかな変化に過ぎません。
もっとすごい時期を地球は経てきています。
それも、地球の歴史の一ページです。
人類の右往左往がはたして
地球の歴史の一ページに残るのでしょうか。
人類が大騒ぎしている問題は、
果たして地層の中に残るのでしょうか。
人類の痕跡のコンクリートや人工物が
地層の一部に残るに過ぎないのではないでしょうか。
未来の知的生物は、その地層から何を読み取るのでしょうか。

2008年7月31日木曜日

5_71 有機物:炭素3

 有機物は、炭素の循環において重要な役割を果たします。それは、私たち生物を構成しているものだからです。でも、有機物も恒久のものではなく、さまざまな変化をしながら、地表を循環しています。

 生物は、有機物からできています。有機物は、生物にとって、なくてはならないものです。有機物の主成分が、炭素です。炭素は、有機物の骨格ともいうべき役割を果たしています。
 炭素が、どのように、何個連なるかは、自由に選ばれます。炭素は、非常に多様な結びつき方をして化合物をつくっていきます。炭素原子は、4価のイオンになります。炭素は、結合するためにの「腕」が最大4つあるということになります。4つも結合できる「腕」があるため、さまざまな原子と結合できます。結合には、何通りかのタイプがあります。
 有機物では、炭素は、主として水素(H)、酸素(O)、窒素(N)、塩素(C)、イオウ(S)、リン(P)などと、共有結合をします。共有結合とは、2つの原子が、足りない電子を共有しあって結びつくことです。原子は、外側の電子の数が希ガスの数の状態になっている時が安定してます。もし、電子が足りないときは、足りない原子同士が、電子を共有して電子の対を形成して、補っていきます。このような結合の方法が、共有結合と呼ばれています。共有結合は、他の結合(イオン結合や金属結合)と比べても強いため、安定した化合物をつくることができます。
 また、炭素は、炭素原子同士が結びつくことがあります。2つの炭素が、一つの共有結合(単結合)の場合、2つの共有結合(二重結合)、3つの共有結合(三重結合)する場合まであります。
 さらに、多数の炭素原子が、鎖状や環状に結合していくことがあります。
 以上のように、炭素は、複雑な結合の仕方をし、炭素が少数から多数までいろいろな数になれるので、多様な化合物ができます。大きな化合物では、分子量が数十万や数百万に達するようなものもあります。種類も数え切れないほどあります。
 有機物は、生物の構成要素でありながら、地表を循環する炭素の一部でもあります。生物が死ぬと、有機物が分解されます。その分解を促すのは、他の生物です。分解を促す生物は分解者とよばれていますが、複雑な有機物を食べ、単純な有機物(排泄物)や二酸化炭素(呼気)として体外に出します。単純な有機物も、他の生物の栄養になり、最終的には、二酸化炭素になっていきます。
 二酸化炭素は、分解者によって、大気や海水中に放出されます。大気や海水中の二酸化炭素は、植物が光合成をするときの材料となります。光合成とは、水(H2O)を光で分化するときのエネルギーで二酸化炭素から、有機物(炭水化物など)をつくる作用です。そのときに、副産物として酸素が形成されます。
 光合成によって得られた有機物は、植物の栄養として成長させます。植物は草食動物の餌になり、草食動物は肉食動物の餌になります。植物や動物も、排泄物や死体は、分解者の栄養となります。そして有機物として生物間を循環していきます。これが、食物連鎖と呼ばれるものです。
 生態系が健全である限り、生物に利用されている炭素は、姿かたちを変えますが、その総量はそれほど大きく変わりません。木の切って燃やしても、再び木が生えてくれば、長い目で見れば、炭素の収支は合います。しかし、過剰な森林伐採や都市化などで、生物(特に植物)の総量が極端に減少すると、炭素の収支のバランスが崩れます。
 かつて生物が、大気や海洋中の二酸化炭素を、有機物として取り込み、体を形作っていました。その生物の遺骸が、地層の一部として貯められ、炭素が濃集します。石炭や石油、天然ガスなどが、それです。今では、エネルギー源として燃焼させられています。
 燃焼した炭素は、大気中に二酸化炭素として放出されることになります。もともと大気中にあった二酸化炭素が、時間を経て戻ることになります。これは、炭素の大きな循環です。
 人類のエネルギー消費が少なかった時は、このような循環は、問題を起こさなかったのですが、消費が激しくなると、人為による二酸化炭素が、温暖化として問題になっています。
 次回は、炭素が二酸化炭素になっているときの様子や変遷を見てきましょう。

・二酸化炭素・
地球温暖化が言われてだいぶ時間がたっています。
今や、二酸化炭素が犯人扱いをされ、
悪者のようになっています。
しかし、二酸化炭素を出している張本人は人類なのです。
それを忘れてはけません。
二酸化炭素は、人類が犯した犯罪の証拠であって、
犯人ではないのです。
しかし、二酸化炭素の排出を伴うエネルギーの恩恵によって
現在の文明は成り立っています。
これを忘れて議論をしてないでしょうか。
気をつけなければなりませんね。

・夏休み・
私の大学は、今日で前期の定期試験が終わります。
明日から、学生は夏休みになります。
教員は、採点と成績評価をすることになります。
忙しい夏が始まります。
定期試験のときは、平常の授業があるときと
同じような体制で校務があります。
子供たちが夏休みでも、親は仕事となります。
ですから、家族サービスは、8月になってからです。
今年は、北海道の中央に位置する然別周辺に出かける予定です。
旅行中、いろいろな行事に参加する予定をしていますが、
どなるでしょうか。
私は、体調がまだ本調子でないのが不安材料です。
まあ、心配しても始まりません。
なるようになるでしょう。

2008年7月24日木曜日

5_70 カーボンナノチューブ:炭素2

 炭素に関して20世紀後半に、新構造が相次いで発見されてきました。このように炭素の新しい構造が次々と発見されてくるのは、私たちの知らないことがまだまだいっぱいあることを物語っています。そしてそこでは日本の研究者が重要な役割を果たしていました。

 炭素は、私たち人類にとって、非常になじみのある元素です。私たち生物の体は、炭素を中心に構成されています。ですから、炭素は私たちにとって必須の元素ともいえます。そのため、炭素の関する私たちの知識も、他の元素と比べれば非常に多くなっています。文章にすれば、知識の体系は、教科書何冊分にもなるはずです。
 そころが炭素に関する私たちの知識は、まだまだ不十分なのです。それは未だに、炭素に関係する新しい発見ががあることもからもわかります。そんな発見のいくつかを紹介しましょう。
 炭素だけがつくる結晶構造としては、石墨(グラファイト)の層状結晶やダイヤモンドの硬い結晶があることは、古くから知られていました。ところが、20世紀後半になってから、炭素には、いろいろな新しい構造があることがわかってきました。
 1961年、当時通商産業省工業技術院の進藤昭男さんが、炭素繊維(カーボンファイバー)を発明しました。また、進藤さんは、1967年に、金属よりも丈夫な炭素繊維の製法を開発しました。その後も技術は進み、今では炭素繊維はいたることろで使われる素材となってきました。
 1985年、炭素が60個集まってサッカーボール状のフラーレン(C60フラーレンと呼ばれる)という構造があることが、アメリカとイギリスの研究者によって発見されました。ところが、このC60フラーレンの発見に先立って、豊橋技術科学大学の大澤映二さんは、ベンゼンの構造の研究から、サッカーボール状のC60も存在しうると予言していました。しかし彼がその予言を書いたのは、日本語の雑誌でした。欧米の科学者には、その予測を知られていませんでした。実際の発見は、予言から15年どの後のことでした。
 1991年には、NEC筑波研究所の飯島澄男さんが、炭素のフラーレン構造体をつくっている途中に、カーボンナノチューブをたまたま発見しました。カーボンナノチューブとは、炭素(カーボン)の小さい(ナノ)チューブのことです。炭素が6個環状につらなったものが、筒状の構造を持ちます。
 カーボンナノチューブの発見の経緯は、あちこちで紹介されていますから、御存知の方も多いことでしょう。偶然の発見ですが、そこには常日頃研究対象に向き合っていたこと、そして発見をするための技術を持っていたことが重要なカギになりました。
 カーボンナノチューブは、ナノという名称がついているように、ナノサイズ(10億分の1m)の非常に小さいものなので、その発見は、電子顕微鏡の操作に長けた飯島さんだからできたといえます。また、飯島さんは電子線回折という仕組みを使って、炭素が小さいな筒状(ナノチューブ構造)をしていることを突き止めました。この構造の解明が、カーボンナノチューブの発見となります。
 現在では、カーボンナノチューブについて、いろいろ調べられています。構造にもいくつのもタイプがあることや、6個の環が、時々5個になったり、7個になるような乱れもあることが分かってきました。
 カーボンナノチューブ特有の性質がも分かってきました。鉄の数百倍もの強度をもつこと、電気を通すのですが、ある構造になると半導体になること、ガス(特に水素が注目されている)をよく吸着すること、熱をよく伝えることなどの性質がわかっています。ですから、新素材として注目されています。
 判ってきたことは、いいことばかりではありません。悪いこともわってきました。それは、カーボンナノチューブが、アスベストと似た健康被害を起こす可能性があることがわかってきました。ですから、取り扱いには注意が必要だとなってきました。
 私たちは、炭素という身近な元素をよく知りだしたのは、最近のことです。そして、今も新しいことが次々と発見されています。炭素は生命にとって重要で不可欠な元素であるのですが、まだまだ分からないことがいっぱいあるようです。

・実用化・
炭素のさまざまな構造の発見には、
日本の研究者が関わっていました。
このような発見は、日本が誇るべきことだといえます。
発見からある程度時間が経過して、研究が積み重ねられると、
その特性を活かした、新しい素材が生まれ、実用化されます。
先行した炭素繊維は、今ではいろいろなところで利用されています。
また、フラーレンは、潤滑剤として実用化がはじまっています。
カーボンナノチューブは、発見されてまだ新しいためでしょうか
実用化はまだです。
研究が進めば、いろいろな実用化が進められるでしょう。

・不調・
咳がなかなか抜けません。
私は、風邪をひくと咳が長引くので、
今回はその症状がひどいようです。
咳のため、腰痛もでています。
だいぶ納まってきたのですが、
まだまだ本調子でありません。
無理せずにいきたいのですが、
締切りのある原稿、こなさなければいけない講義や校務、
そして今週末からは、定期試験がはじまります。
すると採点と成績評価がまっています。
なかなか気の抜けない夏休みですが、
なんとか体調を戻したいと考えています。

2008年7月17日木曜日

5_69 化合物:炭素1

 炭素は、非常に身近な元素です。地球の表層においても、物質循環において重要な役割を果たしています。シリーズで炭素や炭素の化合物も挙動を探っていきましょう。

 炭素は、二酸化炭素の主成分です。炭素を燃やすと、炭素が空気中の酸素と結合して、二酸化炭素になります。その時にエネルギー(熱エネルギー)を出します。それを私たちは利用しています。燃焼によって出てきた二酸化炭素は、地球温暖化問題の主原因として、悪者扱いされています。しかし、二酸化炭素は悪者ではなく、二酸化炭素を必要以上に排出していることが問題なのです。炭素はただ自然に摂理に従って二酸化酸素という化合物を作っているに過ぎないのです。
 では、私たちは、炭素や二酸化炭素の振る舞い(挙動)や、地球の歴史の中で果たしている役割を、どれほど知っているのでしょうか。このシリーズでは、炭素やその化合物が、地球で果たしている役割を見てきます。
 炭素は、元素記号C、原子番号6の原子で、軽い方にホウ素(B、原子番号5)、重い方にに窒素(N、原子番号7)があります。炭素原子の最外殻には、4つの電子があるため、4価または2価のプラスイオンになりやすい性質をもちます。同じような性質を持つ元素として、原子番号14の珪素(Si)があります。珪素は、マントルや地殻の岩石の中では主役(主成分)になっていますが、地球表層では炭素の方が主役を演じます。
 物質には、液体、固体、そして気体として変化します。炭素自体も3つの状態(三態)がありますが、地球表層では三態すべてが生じるわけではありません。地球の表層では、通常炭素は固体です。しかし、炭素はさまざまな化合物をつくります。それらさまざまな化合物が、地球では重要な役割を果たしています。その概要を見ていきましょう。
 炭素の単体は固体で、石墨(グラファイト)という鉱物になります。炭素が高温高圧状態になるとタイヤモンドになります。ダイヤモンドも炭素の単体です。
 炭素の気体の化合物としては、二酸化炭素が重要です。別の回で詳しく説明しますが、二酸化炭素は、昔の地球や惑星の大気として主成分となっています。ですから惑星の表層環境を考えるとき、二酸化炭素は重要な役割を果たします。
 炭素は、通常の状態では液体にはなりません。しかし、炭素が酸化されて二酸化炭素になると、その一部は炭酸(CO3)という2価の陰イオンとなり、水に溶けこみます。溶ける量は、溶解度によって表されますが、温度が低いほどたくさん溶けこみます。
 溶けた炭酸は、地球表面に多く、水に溶けやすいカルシウム(Ca)の2価の陽イオンと結びついて、炭酸カルシウム(CaCO3)という化合物をつくります。炭酸カルシウムは、ある程度水に溶けますが、一定量以上になると、固体として沈殿していきます。二酸化炭素やカルシウムの供給が続くと、沈殿も続きます。地球規模で見ると、海底下の沈殿物では下の方が固まり、方解石という鉱物になります。方解石は石灰岩という石になります。
 炭素の化合物には、固体でもなく、液体、気体でもない不思議な物質があります。それは、分散系と呼ばれるものです。分散系とは、小さな粒子が、液体、気体、あるいは固体の中に溶けることなく均質に混じっている状態です。私たちの体をつくっているものは、有機物がその主成分ですが、その存在形態が分散系になっています。分散系は複雑な振る舞いをするものもあります。最近では、そのような特性を活かして、いろいろなものに応用されててきます。スライム、ゲル、ジェルなどとして商品化が行われています。
 シリーズでは、地球の表層で重要な役割を果たしている化合物をいくつか取り上げていきます。上で、炭素の単体は固体で石墨という鉱物になっているといいましたが、実はカーボンナノチューブという不思議が固体もあります。次回は、シリーズの本題からは少し外れますが、カーボンナノチューブを見ていきます。

・炭素シリーズ・
今回から数回に分けて、
炭素とその化合物に関するエッセイをシリーズとして
続けていこうと考えています。
炭素は実は、地球にとっては
重要な役割を果たしています。
しかし、その実態は必ずしも
よくわかっているわけではありません。
どこまでわかっているかを、
このシリーズで示せればと考えています。

・腰痛・
先週末から、腰の筋肉痛で動けなくなっています。
風邪でひどい咳をしばらくしていたら、
もともと弱かった腰に負担がかかり、
腰痛になってしまいました。
風邪で内科にまだかかっているのですが、
同時にマッサージで腰痛のほうも治療をしています。
明日は、出張が入っているので、
痛み止めをもらって、出かけようかと考えています。

2008年7月10日木曜日

5_68 かぐやが描く地図

 「かぐや」は日本の月探査衛星です。その「かぐや」が、また快挙を成し遂げました。七夕にちなんで「かぐや」の成果を紹介しましょう。

 「かぐや」は、月をめぐる日本の人工衛星です。宇宙航空研究開発機構(JAXA)が、2007年9月14日に打ち上げたもので、正式にはSELENE(SELenological and ENgineering Explorer)と呼ばれています。科学と技術における目的がそれぞれあります。科学的な目的は、月の起源と進化を明らかにすることです。また、技術的な目的は、月周回軌道へ人工衛星をもっていき、軌道や姿勢を制御技術を確かめることです。技術的な目的は一応の成功をみていますが、現在は、科学的な目的が重要になってきます。
 「かぐや」は一つの人工衛星のように思われていますが、実は2つの子衛星を従えています。主衛星の「かぐや」は、高度約100kmの両極を通るような円軌道で着くを回るのですが、より高い楕円軌道を周回する2機の子衛星「おきな」と「おうな」から構成されます。もちろん、「かぐや」同様、かぐや姫の話からこれらの衛星の名称はつけられています。
 「おきな」は、高度2400kmまで離れる楕円軌道で、月の裏側の重力場計測のため、地上局と主衛星との間の通信を中継をするリレー衛星としての役割があります。「おうな」は、高度800kmまで離れる楕円軌道にあり、電波を送信することで、月の周りの重力場を測ります。
 「かぐや」については、以前このエッセイでも紹介したのですが、2007年11月7日付けで、日本の月周回衛星の「かぐや」がとったハイビジョン撮影が成功したという話題です。
 4月には、ハイビジョンカメラによる「満地球の出」がテレビで放映され、多くの人の関心を集めました。その映像と前後して、月の全球の地形図が公開されていたのですが、あまり話題になりませんでした。
 「かぐや」に搭載されたレーダ高度計で測定されたものです。その精度は、5mの標高差を見分けられるものです。これまで月の地形図で一番高精度のものは、1994年に行われたアメリカのクレメンタイン月探査の写真測量などによって得られた約27万点の標高基準点のものでした。これは2005年にアメリカの地質調査所(USGS)が公表したもので、ULCN2005(Unified Lunar Control Network 2005)と呼ばれているものです。
 「かぐや」の観測で、3月末までに600万点以上の観測データが集められています。今回の発表されたものは、2週間分の観測データ、約100万点が処理されたものですが、その精度の変化は一目瞭然です。月の地形図は、観測が続けば、さらに精度は上がっていくはずです。
 「かぐや」による探査は、アポロ計画以来の大規模な月の研究が行われれていることになります。そして、日本は今や、惑星や衛星探査においても、予算規模や投入人材は、アポロ計画と比べれば明らかに劣りますが、技術力や科学的成果では、アポロ計画に匹敵しうるほどの実力を持つようになったのです。
 日本の宇宙観測からは、これからも、なかなか目が離せませんね。

・七夕・
今週は七夕なので、月にふさわしい話題を紹介しました。
北海道、いや日本中がサミットでわいていますが、
本来の七夕を味わうには、月を見なければなりません。
いまや月を見る目は、地球からだけでなく、
月にすぐ近くまでに達していています。
それも日本の技術によってです。
スペースシャトルの宇宙の話題が盛り上がりましたが、
科学者たちは、自分に与えられた任務をこつこつと果たしています。
そんな科学者が挙げた成果で、
あまり日の目を見ないものを紹介することにしました。
なお、月の地形図は、
http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2008/0410.shtml
にありますので、興味のある方は、
覗かれてみてはいかがでしょうか。。

・風邪・
先週末から風邪を引いたようで、
咳も出て、少々熱っぽい気もします。
まあ、でも、動き回る元気はあります。
講義は可能な限りおこないます。
講義を休むと補講をしなければなりません。
すると学生に迷惑をかけることになります。
動ける限り、講義を続けるつもりです。
まあ、あまりひどいと講義はできませんので、
ほどほどにしますが。

2008年7月3日木曜日

6_71 地質百選

 地質の名所を案内した「地質百選」というものを紹介します。その目的と意義を紹介します。

 「地質百選」というものを御存知でしょうか。これは、日本の地質に関係する典型的な場所を100箇所選んだものです。
 地質百選は、2005年にNPO法人地質情報整備・活用機構(GUPI)と社団法人全国地質調査業協会連合会が、「日本の地質事象百選」というプロジェクトを提案して、全国から募集をしてきもたのが発端になっています。2006年には、広くメンバーを拡充して、「日本の地質百選選定委員会」を結成しました。「日本の地質百選選定委員会」には多くの関連機関、学協会、行政機関が参加して、非常に大きなプロジェクトとなりました。
 日本列島は、世界的に見ても、「島弧」とよばれる特徴のある地質環境です。そこに島弧を代表する地質がみられる地点を選んでおけば、国際的にもアピールできるし、日本の国民への啓蒙や、地域住民も身近な大地の重要性を理解することにつながります。地質百選の選定事業や選定を行うことで、そのような意識を持ってもらうことが重要な目的でした。地方公共団体や市民からの意見も参考にしました。最終的に全国から400箇所近くの候補が推薦されてきました。
 2007年5月10日に第一次選定として、83箇所が公表されました。この日は、第1回「地質の日」にあたります。また、2007年10月には「日本列島ジオサイト地質百選」が出版されました。選定から公表の時期は、2008年が国際惑星地球年で、2007年から2009年の3年間、国際的な取り組みがなされ、その一環の活動とも位置づけられています。
 本の中で、私のホームページアドレスも紹介されています。友人が北海道の地質百選の一つである神居古潭で、私が書いたエッセイを引用してくれたためでした。
 地質百選は、今後、研究教育だけでなく、観光資源や地質情報資源として整備、保全への取り組み、地域の振興、関連する博物館などの施設の充実、連携に向けて、重要なステップとなることが目指されています。
 ところで、地質百選なのに、83箇所しか選ばれていないのは、少々不思議な気がしませんか。それには、理由があります。「日本の地質百選選定委員会」では、第2期選定を用意していて、あと17箇所を追加する余地を残しています。今回の候補地以外にも、見落とされている地域もあるかもしれません。そのような地域も取り込めるように配慮されているそうです。まだ、次期のスケジュールは公表されていませんが、より多くの候補地が挙がることによって、市民の地域地質への関心が高まるのではないかと期待されています。

・地質見学・
地質百選に関する情報は、NPO法人地質情報整備・活用機構のホームページの
http://www.gupi.jp/geo100/
に詳しく紹介されています。
また、出版物の「日本列島ジオサイト地質百選」は
(ISBN: 978-4-274-20460-9)
オーム社から発行されています。
私も地質案内をホームページとメールマガジンを発行しています。
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/index.html
興味があれば見てください。
また、旅行などででかけて、近くに地質百選がある際には、
ぜひ足をのばして、見学されてみてはどうでしょうか。

・研究授業・
ゼミの学生が、次々と教育実習をしています。
そして担任は研究授業に立ち会う機会が増えます。
研究授業とは、教育実習生が実習の成果を
指導教諭、他の先生、大学の指導教員などにみせる
実習の総括のようなもので、
実習期間の終わり近くに行われます。
そのため、実習生は緊張をしられるでしょうが、
今までの実習で学んだことを活かして
自分なりの授業をすることになります。
その成果を送り出した大学の教員が見ることになります。
学生の成長のほどを、見学させていただくことになるのですが、
もしミスをしたらとか、生徒たちが騒いだらとか、
まるで親のような心配が湧いてきます。

2008年6月26日木曜日

6_70 岩手・宮城内陸地震

 先月の中国の四川大地震に続いて、日本でも大きな地震が発生しました。人的被害もでてしまいました。岩手・宮城内陸地震の概要を紹介します。

 2008年6月14日は土曜日でした。私は実習があったので、大学にいつものように早朝からでていました。実習が終わり、夕方6時過ぎに帰宅したら、地震のニュースが夕刊やテレビのニュースで飛び込んできました。
 午前8時43分に地震は発生しました。その時、私は、研究室で座っていました。しかし、地震の揺れを感じることはありませんでした。実習が始まるまで時間があったので、前回配信したエッセイを書いていました。
 この地震は、岩手県内陸、深さ約10kmを震源として、マグニチュード7.2、奥州市と栗原市で最大震度6強が記録されました。気象庁は、「平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震」と命名しました。
 日本地質学会では、地震の概要や調査団の把握、関連サイトのリンクを、いち早く速報として公開しています。調査団は、秋田大学教育文化学部調査班、山口大学地形・地質班、茨城大学班などが現地にはいっていきます。地質学会が出した情報の一つに、地質学的解説も発信されています。佐藤比呂志・加藤直子(東京大学地震研究所)・阿部進(株式会社地球科学総合研究所)さんたちによる「2008年岩手・宮城内陸地震の地質学的背景」というものです。
http://www.geosociety.jp/hazard/content0031.html
 この内容に基づいて以下紹介していきます。
 今回の地震は、断層が活動したものだと考えられています。震源地は、「餅転(もちころばし)-細倉構造帯」の北部にあたり、活断層とはみなされていなかった断層が、深部で活動し発生したとされています。活断層が発見されなかったのは、この地域が複雑な地質学的背景のあるところだったからのようです。
 震源付近は、奥羽山脈と北上山地の間にあたり、正断層がいくつもある地域です。この正断層群は、日本海が開く地質現象にともなって、2000万~1500万年前に活動しはじめたものです。断層によって沈降が起き盆地を形成するような動きがありました。その後、奥羽山脈が隆起が起こり、さらに800万年~200万年前にはカルデラを形成するような火山活動が起こりました。そこに第四紀の火山活動(栗駒山火山)が起こっています。
 500万年前(鮮新世)以降、古い時代に形成された正断層がせり上がる(逆断層)運動が繰り返し発生しています。今回の地震も、このような断層の動きによるものだと考えられています。
 残念ながら今回活動した断層は、活断層とされていませんでした。これは、2007年の新潟中越沖地震のときと同様で未確認、あるいは未知の活断層でした。私たちは、自分たちの立っている大地について、まだまだ知らないことだらけです。それは科学が発達して、調査も行き届いているようにえる日本でも例外ではないのです。地道な調査研究の必要性を思い知らされる災害でした。
 今回の地震では、巨大な地滑りが起こっています。その様子はニュースで報道されています。まだ、災害は終わったわけではありません。余震や、梅雨の降雨による土砂災害などの二次災害にも注意が必要です。
 度重なる天災から、学ぶべきこともあります。地震は自然現象ですから止めることは不可能です。しかし、科学が進めば、予知が可能になるかもしれません。正確な予知はまだできないとしても、科学技術によって防災が進めば、地震の被害を最小限にすることも可能かもしれません。そして、多くの人の協力で二次災害なら防ぐことは可能のはずです。
 被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。そして、一刻も早い災害からの復旧を祈っています。

・取りやめ・
私はこのメールマガジンのエッセイでは、進行中の災害については、
特別な場合の除いて、ほとんど書いてきませんでした。
それは、災害に無関係な人が、
あまり不用意な情報を流すことは
よくないことだと思い、自粛していたからです。
前回のエッセイを書いているとき、
急遽この地震で書こうかと思い、情報を集めました。
思いとどまり、エッセイのメモ欄に書いただけでした。
岩手には少し思い入れがあった時期だったので、
今回は、例外として書きました。
それは、岩手県へ今年の9月に調査に行く予定で、
資料を集めていたところでした。
今回の調査は急遽取りやめ、別の機会にすることにしました。
代替地を現在探しているのですが、
それも急なことなのでなかなか大変です。

・蝦夷梅雨・
北の町では、祭りが盛んに行われています。
先週も子どもの祭りがあり、
今週は近くの大学で学園祭があり、家族で出かける予定です。
初夏の北海道は快晴であれば、爽快です。
先週の祭りの時も、朝は曇っていましたが、昼前から晴れてきて、
午後には快晴で、抜けるような青空となりました。
こんな時、芝生に寝転がると最高です。
私は、昼食後、子どもたちが、水鉄砲で遊んでいる時
芝生に敷いたシートで寝転んで、快適な時間を過ごしました。
しかし、梅雨のような湿度の高いうっとしい日もあります。
多分、本州の人からすれば、それほどでもないでしょうが、
北海道に住むものには、蒸し暑さは堪えます。
特に風がない時の研究室は、窓開けても、
機器からでる熱がこもって、じわりと汗が出てきて不快です。
蝦夷梅雨(えぞつゆ)というものもあるようですが
これは、梅雨前線が北上して消える時に
北海道が少し梅雨のようになることをいうようです。
ですから、一時的に蒸し暑いのは、
蝦夷梅雨ではなく、たまたま蒸し暑い日ということになります。

2008年6月19日木曜日

2_68 想像:コモノート4

 コモノートの新たな手がかりを得たというニュースから、このシリーズをはじめました。シリーズの最後は、コモノート以前に、生物の祖先へ思いをめぐらせます。科学者たちの想像力を見てみましょう。

 前回は、コモノートについての不確実性があるそうな部分について書きました。このシリーズの最後に、より過去への想像について書きましょう。もちろんそこには不確実なことは多々があります。しかし、科学の想像力をご覧下さい。
 コモノートは、未確認の仮説上の生物です。そのような仮説を立てることができるなら、もっと想像力を働かせて、生物の起源により迫っていきましょう。コモノートの提案者である山岸さんの考えを中心に、以下は説明していきます。
 現在のすべての生物の祖先は、コモノートと呼ばれ、古細菌と真正細菌に別れる前の生物です。コモノートの特徴は、海底の超好熱の環境を好む細菌類だったことが分かってきました。
 生命が誕生した海には、当時も多様な環境があります。いつの時代も、生物は、多様な環境に適応していこうとする習性があるはずです。となれば、コモノートが生きていた時代にも、多様なタイプの生物もいたはずです。それらは、常温、低温、極低温、高温などのさまざまな環境に、適応していたタイプがいたと考えられます。
 しかし、現在の生物相をみると、なぜかコモノートだけ生き残ることになったのです。その時期に、多様な生物がほとんど絶滅するほどの異変、例えば隕石の衝突、あるいは酸化などによって、大絶滅があったかもしれません。隕石の衝突は、月のクレータの研究から、今よりずっと頻繁に起こったと考えられます。酸素があった証拠は、38億年前に鉄の酸化沈殿によって縞状鉄鉱層が、一時的ですが形成されています。縞状鉄鉱層は、すでに酸素を出す生物がいたことを意味するのかもしれません。
 これでもかなり大胆は想像です。では、生物の祖先について、そこまでしか想像できないでしょうか。いえいえ、もっと想像できます。
 コモノートのような細菌類は、DNAをもった生き物です。DNAに遺伝情報を蓄え複製していくタイプの生物です。しかし、DNAだけが生物の繁殖手法ではありません。RNAでも遺伝情報を伝えることが可能です。ですから、RNAを遺伝子(ゲノム)として利用していたタイプの生物もいたはずです。しかし、RNAは、DNAと比べると、似ていますが、より単純な物質です。ですから、その共通の祖先は、何らかの核酸をゲノムとして使うタイプの生き物になるはずです。これは、より根源的な祖先となります。
 また、核酸ではない別のものを、遺伝情報を蓄えることができるタイプの生物(非核酸複製生物)がいたかもしれません。そんな生物は、現在のような核酸で複製する生物とは違っているため、より古い時代に枝分かれしたものとなります。
 最終的には、生物らしきものであるプロテイノイド・ミセルに至りると山岸さんは考えました。プロテイノイドとは、アミノ酸を熱によって重合するとタンパク質もどきの物質という意味です。それを水に溶かすとミセルと呼ばれる数μmの大きさの泡ができます。ミセルは、外は水になじみやすい(親水性)のですが、中心部が油となじみやすい疎水性を持ちます。つまり、油性の物質を内部に取り込むことができ、生物の細胞膜のような働きができるものです。
 そのミセルの中に、プロゲノートと呼ばれる「遺伝の仕組みが成立していない」、あるいは「連続したゲノムを有しない分断された遺伝子をもつ」生物ができます。これが、「最初の生物」、あるいは「生物になる直前の物質」ではないかと考えられています。
 このような生物や物質は、現生の生物からも、化石からも、もちろんたどることはできません。ただ、各種の合成実験で、その可能性が指摘されているものです。現実には見ることも実証することもできない、最初の生命、すべての生命の起源の歴史ですが、科学者たちは思いをめぐらせています。単なる空想ではなく、ある程度根拠のある想像をしています。それはもはや、想像ではなく、推定といったほうがいいのかもしれません。

・科学が好き・
コモノートのシリーズは、今回で終わります。
このような最新の科学の成果を
紹介しているといつも思うことがあります。
見えるはずのないようなものにも
科学は、その追及の手を伸ばします。
科学は、つくづく便利なものだと思います。
もちろん、科学は万能ではありませんし、
分からないことだって一杯あります。
しかし、いろいろ智恵を絞って
少しでも多くのことを知り、
考え抜くことで解決策を見出すことが、
科学の営みでもあります。
私は、そんな科学が好きです。

・地震・
2008年6月14日(土曜日)午前8時43分頃、
岩手県内陸南部でマグニチュード7.2の地震がありました。
私はそころ研究室にいましたが、
その日に行われる実習で頭がいっぱいでした。
気象庁は、
「平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震」と
命名しました。
実は、9月に岩手県に行こうと思っていたのですが、
今回の地震で中止にしました。
被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。
そして一日も早い復興を祈っています。

2008年6月12日木曜日

2_67 不確実性:コモノート3

 コモノートは、遺伝子などの分子レベルの解析から考え出されたものです。解析のもっともらしさは、どれくらいのものでしょうか。それについて考えてみました。

 コモノートは、化石からも、現生の生物からも見つけられていません。しかし、その存在を仮定して、研究が進められています。研究の方法は、次のような考えによるものです。
 ある祖先から進化した直系だと考えられるいくつかの子孫の共通点を調べて、それらの共通点が祖先に由来するものとして、今は亡き祖先の特徴を調べるという方法です。これは一般的ないい方をしましたが、注意すべきことがあります。
 まず、生活環境の類似性は、進化の仕組みの収斂によって、まったく違った種からも生まれますから、他の証拠がないとあまり説得力がありません。まあ、傍証にはなるでしょうが。
 また、直系の子孫かどうかをどうして知るかという問題です。祖先も子孫も現在生きている生物であれば、調べることは可能です。あるいは、祖先が絶滅していても、化石などである程度推定をすることができます。しかし、コモノートのように生物の起源に関わるようなものは、実物がないし、古すぎて直系かどうか分かりません。
 現在とられている方法は、分子レベルの解析による系統解析と呼ばれる数学的手法によって、直系の子孫かどうかを確認するものです。もちろん数学的手法ですから、本当の直系を証拠付けるものではありません。統計的に可能性を論じるものである点に注意が必要です。
 前回紹介したように、多くの生物が共通にもつタンパク質のアミノ酸配列や遺伝子の塩基配列(例えば16S rRNAと呼ばれるもの)などを比較することによって、その関連を調べることができます。これを分子系統学と呼んでいます。その結果、すべての生物は、ひとつの系統に収斂することがわかりました。このような一つの根っこから出発する系統樹を、有根系統樹と呼びます。逆のいい方とすると、有根系統樹になるということは、すべての生物に共通する祖先がいたということになります。そのような祖先に対して、コモノートという名称を持つ概念が出てきたのです。
 分子系統学とは、分子配列の共通性や差異から、系統の近縁関係を探るものです。もし、遺伝的に関連がなければ、どんなに形や生活様式が似ていても、系統が離れていることで判定できます。もし、コモノートのように一つの系統から生命が誕生がしたのではなく、いくつもの系統から同時並行的に進化してきたとしたら、根っこのない、あるいは複数の根っこのある系統樹になるはずです。
 以前、メモの欄で書いたことなのですが、生命誕生の条件が整った時を考えましょう。もし、いくつものタイプの生物が生まれ、それらが細胞内共生や、お互いのいい機能を持つタンパク質やより効率的な遺伝子などの取り込み合いなどで、生物同士でつぎつぎと試行錯誤のように組み合わせが起こったらどうなるでしょうか。あるいはいろいろな時期に遺伝子レベルの混合が何度も起こったとしたら、系統解析で正確にたどることができるでしょうか。このようなことが起こったと想定したら、分子系統学が成立するでしょうか。統計的には有根系統樹になってしまうけれども、実は、別々の祖先から進化してきたことがあるかもしれません。
 今のところ、コモノートへのアプローチは、分子系統学に基づき、近縁関係を調べ、両者の生活環境の共通性から、どのような生物であったかを調べようとしています。上で述べたうにそこには、いくつかの危ういものがありそうです。系統解析は、あくまでも可能性が高いのであって、本当かどうかはわからないという不安があることに注意しておく必要があるのではないでしょうか。もしかすると、このようなことは私の杞憂にすぎず、分子系統学では、解決済みのことなのかもしれませんが。

・イベント・
北海道は夏らしい、そして爽やかな日々が続いています。
YOSAKOIも盛況のうち終わりました。
私は、テレビでの観賞でしたが、楽しみました。
他の大学では、学園祭のシーズンとなっています。
我が大学は秋なのですが、
北海道では、春に行われる大学も多数あります。
近所の大学の学園祭へは、家族で参加することが恒例となっています。
北の町では、いろいろとイベントがありますが、
私の周りでは淡々とした日々が続いています。
大学の前期の講義も半分以上終わりました。
いい季節の祭りやイベントは心地よいものです。

・結果の扱い・
統計処理は、複雑になるとコンピュータ上で
解析されることが多くなります。
もちろんその解析用のプログラムは十分吟味されて、ミスはないでしょう。
しかし、入力するデータ、あるいはそのプログラム使う上での前提、
さらに結果への但し書きや、結果の吟味は慎重に行う必要があります。
もしそれらに問題が内在されていても、
研究者は同士では、そのような問題点は了承済みのことでしょう。
ですから、問題点は承知の上で
議論されていることも多々あるはずです。
もしそのような前置き抜きに、結論だけが示されていたとすると、
内実を知らない人は、結果だけを鵜呑みにするかもしれません。
それが、混乱を引き起こすことがあるかもしれません。
実害が出ないと問題が表面化することがないですが、
誤った考えや誤解がいつの間にかできていたら困ったことになります。
結果を出す側も、読み取る側も慎重に必要がありますね。

2008年6月5日木曜日

2_66 成果:コモノート2

 今回は、鈴木理さんらのコモノートに関する研究の成果をみていきます。さて、彼らの研究によって、コモノートの何がわかってきたのでしょうか。

 コモノートとは、現在はもういない、すべての生物の祖先にあたる架空の生物だと、前回説明しました。今回はもう少しコモノートを詳しく見ていきながら、鈴木理(まさし)さんらの成果を紹介しましょう。
 コモノートとは、環状のDNAを持つ仕組みを持っている生物だということも前回言いました。そもそもコモノートとは、古細菌が、真正細菌(バクテリア)と同じような環状のDNAを持っていることがわかったことから生まれた考え方です。両者が同じ仕組みをもつということは、共通の祖先が環状DNAを持っていたと考えられます。それをコモノートと呼ぼうとして、東京薬科大学の山岸明彦さんによって定義されました。
 コモノートは、概念であって実在するわけではありません。ですから、真正細菌と古細菌の共通性を調べることで、コモノートの実態に迫ろうというのが現在の方法です。古細菌は、近年研究が進められている生物で、情報はあまり豊富ではありません。ですから、古細菌を詳しく調べることが、生命起源の重要な研究となります。
 進化を分子レベルで調べる時、すべての生物が共通にもつRNA(16S rRNAと呼ばれるものなど)を用いられることが、よくあります。そのRNAを分析して、その違いの程度を調べることによって、生物ごとの違いを比べることができます。それを利用して系統樹が描かれています。
 そのような系統樹によると、真核生物(哺乳類はここに属します)と真正細菌の間の、真核生物の枝側に古細菌は位置します。さらに詳しく見ると、古細菌と真正細菌より根本に近い(より初期の生物)ところにあります。
 古細菌と真正細菌の大きな枝はコモノートから直接分かれた枝(系統)だといえます。つまり両者のもととなった共通の祖先コモノートは、両者の中で、根本に近い種類の生物を調べて、共通する性質を持っていたことになります。
 その調べ方は、どのような環境で、それらの生物はより多く繁殖していくかということで調べます。その結果、好熱性、それも超好熱性の環境で育つことが明らかになってきました。このことから、コモノートは、超好熱性であると推定されています。
 さて、鈴木理さんらの成果です。彼らは、真正細菌として大腸菌を、古細菌として沖縄海溝の熱水噴出孔に生息していた超好熱性の古細菌(Pyrococcus、パイロコッカス)を用いました。超好熱性古細菌の遺伝子(ゲノム)を調べ、その中に、特定の転写制御に関係のあるタンパク質(饗宴・飢餓制御タンパク質)を持っていることを見つけました。そのタンパク質の立体構造や、代謝制御の機構を解析した結果、大腸菌と共通点があることが判明しました。
 この機能は、古細菌と真正細菌の両者が持っているので、両者の共通の祖先、つまりコモノートも持っていたとなります。コモノ-トがもつ機能、つまり代謝系の転写を制御する機能は、地球上のすべての生物が持つ原型となると考えられます。これは、生命起源に大きな手がかりとなります。これが、鈴木理さんらが出された成果です。

・若葉薫る・
いよいよ6月となりました。
若葉薫る季節です。
北海道では、日の出が早く、日の入りが遅くなりました。
夏至まで、まだ2週間ほどありますが、
天気がいいと、夜の8時近くまで明るさが残っています。
朝夕に冷え込むことがありますが、
快晴の昼間は暖かくなりました。
次男は半袖のTシャツで
ほとんど一日過ごしています。
肌寒い日があるのでヤッケを着るようにいうのですが、
すぐに脱いでしまいます。
でも、風邪を引かないところをみると、大丈夫なようです。

・YOSAKOI・
初夏の北海道は祭りの季節です。
5月下旬に行われたライラック祭りは終わりましたが、
4日から8日までYOSAKOIソーラン祭りが開催されます。
全国、いや全世界からチームが集まり、踊りを披露します。
我が家では、子供たちの小学校の運動会が週末にあります。
ですから、我が家では、YOSAKOIより運動会が優先します。
子供たちがYOSAKOIを踊るようですから、そちらは生で楽しみ、
本場の方はテレビでの観賞です。
天気が良くなることは祈るしかないですね。

2008年5月29日木曜日

2_65 進展:コモノート1

 生物は、ある一つタイプの祖先から進化してきたと考えられます。それを認めると、それは、どんなものと問いたくなります。その答えは用意されています。コモノートが祖先であるとなります。では、その実態は?

 以前、このエッセイで、生命の起源について述べたことがあります。その生命の起源について、昨年の末、日本の研究者チームから新たな成果が出されました。
 成果は、科学技術振興機構(JSTと略されています)の戦略的創造研究推進事業チーム型研究という長い名称で得られたものです。実際の研究は、これまたもっと長い名称ですが、独立行政法人産業技術総合研究所脳神経情報研究部門DNA情報科学研究グループの研究グループ長の鈴木理(まさし)さんと、JST研究員の横山勝志さん、石島早苗(鈴木さんと同じ所属)さんらのメンバーがおこなったものです。
 その成果は、"Feast/Famine Regulation by Transcription Factor FL11 for the Survival of the Hyperthermophilic Archaeon Pyrococcus OT3"(超好熱性古細菌パイロコッカス属菌OT3株の生存のための、転写因子FL11による饗宴・飢餓制御)として、2007年12月12日発行のアメリカの科学雑誌「Structure」に掲載されました。
 ややこしい前置きが長くなってしまいました。簡単にいうと、鈴木理さんたちは、コモノートの実態解明に迫る重要な成果を挙げられたのです。これでもまだ、簡単にいえてるわけではありませんね。
 まず、コモノートの説明をしなければなりません。コモノートとは、すべての生物の祖先にあたる架空の生物です。この考えは、現在の地球上にいるすべての生物は、一つの種類の生物を祖先として、その祖先から進化して、現在のような多様な生物が誕生したというものです。すべての祖先ですから「共通祖先」と呼ばれることがあります。
 共通祖先の定義としては、現在生きている生物として一番初期に誕生したと考えられている古細菌とそれに一番近縁の真正細菌が、系統上別れる(分岐といいます)前の生物となります。そのような共通祖先として、コモノートの他にも、いろいろなものが提唱されています。プロゲノート、センアンセスター、LUCA(Last Universal Common Ancestor、全生物の共通祖先)などがあります。コモノートとそれらとを区別するため、厳密にはコモノートとは、「環状のDNAを持つ遺伝の仕組みが成立している生物」と定義されます。
 コモノートは、化石としては、まだ発見されていません。もし、コモノートの化石が発見されたとしても、生物の痕跡(印象化石や炭化物の一部)だけしか化石として残りません。ですから、コモノートの生物学的な実態を解明するには、化石からはなかなか困難です。また、現在生きている生物には、コモノートがいませんから、現在の生物からも探ることはできません。現段階では、コモノートは、定義や仮説は立てられますが、あくまでも概念的なもので、科学できるものではなかったのです。
 ところが、今回の鈴木理さんたちの成果は、コモノートの証拠をつかんだともいうべき、非常にインパクトのあるものでした。その紹介は、次回としましょう。

・有根系統樹・
コモノートについて、私は常にぼんやりとした疑問があります。
本当にそんなもの存在したのだろうか、というものです。
あるとき、つまり生命誕生の条件が整った時、
いくつもの祖先が一気に誕生し、
それが細胞内共生や、お互いのいい機能の取り込み合いなどで、
新しい生物がつぎつぎと試行錯誤のように組み合わされ、
そのいくつかが残ったのではないかという想定が成り立ちます。
この想定は、無謀なものではないと思います。
分子レベルでさまざまなやりとりをした生物が
多種類生まれてきたとしたら、
分子的に見ても、共通するものができるのではないか
というのが、私の疑問です。
多分、これは誰もが思う疑問でしょうから、
それに対する答えは、答えは示されているはずです。
系統解析の数学的手法によって、
ひとつの系統に収斂する(有根系統樹)
ということで示されているのがそうだと思います。
しかし、その数学的な詳細を私は、勉強不足で知りません。
そのためでしょうが、なかなか疑問が解消されません。

・運動会の季節・
いよいよ6月になります。
5月は、北海道は天候不順で
雨が降ったり、肌寒い日が続いたりしました。
4月は雨が少なかったのですが、
5月は平年並みに降ったようです。
北海道は運動会の季節になりました。
近所の小学校の運動会は、雨となりました。
私の息子たちの小学校は、6月最初の土曜日です。
6月は天候は安定するのでしょうか。
今から心配してもしょうがないのですが、
気にある季節になりました。

2008年5月22日木曜日

6_69 地質の日:地学教育について

 5月10日は地質の日です。あまり馴染みがない記念日かもしれません。昨年に決まったばかりものだから仕方がありません。今回は、地質の日にちなんで、地学教育について考えました。

 ゴールデンウィーク明けの週末となった5月10日の土曜日は、皆さんどう過ごされたでしょうか。私は、実習がある講義日で、1日中大学にいました。そのために、特別なことは何もしませんでした。
 なぜ、5月10日を取り上げたのかというと、実はこの日が、「地質の日」とされていたからです。5月10日は、日本の地質学の黎明期に大いなる貢献をしたライマンらが、200万分の1の北海道の地質図である「日本蝦夷地質要略之図」を作成したのが、明治9(1876)年5月10日だったのです。また、明治11(1878)年5月10日には、地質調査をする組織(内務省地理局地質課)ができた日でもあります。それらにちなんで、「地質の日」が定められました。
 日本地質学会など10の地質に関係する組織や学会が発起人となって、「地質の日」が定められました。「地質の日」は、発起人らによって2007年3月13日に決まったものでした。今年は2回目ですが、「地質の日」を記念して行事に取り組まれたのは、今回が最初となります。いくつかの推進委員会となっている組織で、記念行事が行われました。私の住む北海道でも、いくつか行事があったのですが、私の都合で参加することはできませんでした。今後は、参加していきたいと考えています。
 私は、科学教育に携わるものとして、科学の中でも地質学が重要な学問だと思っています。地質学は教科でいえば、地学に含まれます。しかし、地学の重要性を、市民が理解する機会が少なくなっていのが現状です。
 現在の公教育では、小学校と中学校では理科を習います。理科の中には、地質学の内容が含まれています。しかし、高校の理科(物理、生物、化学、地学、基礎理科、理科総合A、B)で、地質学の内容を含んでいる基礎理科、理科総合B、特に地学をとった人は、それほど多くありません。理系に進学する人で、地学をとる人は少ないはずです。高校時代に地学を学ばなかった人が、大学の教養科目として、地学や地球科学などの地質学に関連する科目を履修しなければ、そのまま卒業することになります。彼らは、高校以降地質学を学ばずに社会人となるわけです。このような社会人は、結構な比率を占めるのではないでしょうか。
 だとすると、社会人には、地質学の知識が中学校の理科どまりで、それもだいぶ以前のことですから、地質学の内容がほとんど記憶に残っていない人もかなりの比率でいることになります。
 地質学が社会でそれほど重要性がなく、教養の一つにするぎないのであれば、問題はありません。ところが、地質学は、建築をするときの地盤調査、環境アセス調査、自然保護と開発で発生する問題、エコマーク、ISOの環境基準、地球環境、自然開発など、深くかかわりがあります。もし、それらのうちのどれかを調べ、評価する立場になった時、地質学の知識が中学生レベルでは、少々不安ではないでしょうか。そして、本当に評価できるのでしょうか。そのような不安があります。
 もちろん、地質学に関わらないで社会生活を営める人も多数いることでしょう。しかし、やがて彼らが親になり、子供を持つことになります。その子供たちは、親自身が日常の地質学的体験が少なく、野外における地質学的素材に対して馴染みがないのですから、子供に親以上に興味を持たせることは、なかなか困難ではないでしょうか。すると、世代を経るに連れて、地質学離れが拡大していくことになるでしょう。同様のことは、地学全体や理科、科学でも起こっています。
 その対策の一つとして、「地質の日」があると考えられます。ですから、皆さんも、来年からは「地質の日」に行われるイベントを、利用してはいかがでしょうか。

・学習指導要領・
高校での理科のうち理科基礎、理科総合A、Bのうちから
1科目以上を履修すべきものと
文部科学省の学習指導要領にはあります。
ですから、これらが履修されていないと
社会科で問題になった未履修となります。
多分、今はそんな未履修はないでしょうから、
理科総合Aをとった人以外は、地質学の内容を学んだことになります。
私の案としては、基礎理科は重要な科目だと思います。
基礎理科を内容的にもさらに充実させて、
すべての高校1年生が学ぶべき
必修の教科にしたほうがいいのではないでしょうか。
文系は2、3年生で理科総合AやBを学ぶべきではないでしょうか。
また、理系は、2年生、3年生から
物理、化学、生物、地学のAやBを学んでいけばいいのではないでしょうか。
選択科目にするのはいいのですが、
学んだ者と学んでない者に差がありすぎるような気がします。
高校は選択の多い学びができるようになっていますが、
学ぶ意欲の強い学生には有効ですが、
意欲の少ない学生には、手抜きをする余地を
与えるのではないでしょうか。
そのような選択科目が個人の個性や特性に
反映されていればいいのですが、
高校卒業時に、大きな学力差となっているようでは困ります。
選択と必修、自由と統一、個性化と平均化など、
両立できればいいのですが、
うまくいかなければ、問題が顕在化します。
教育とは難しいものですね。

・バランスとホット・
このエッセイの「地球の人と」のセクションでは、
今年の最初、1月3日に書いて以来、久しぶりの更新となりました。
万遍なく書くつもりではいるのですが、
ついつい、興味があるのところは、
シリーズ化して何回も書いてしまうので、片寄ってしまいます。
現在、「地球の歴史」のセクションが一番遅れをとっています。
でもまあ、ホットな話題をお届けする方が重要なので、
全体のバランスを考えながらも、
面白そうなものを書いていきたいと思っています。

2008年5月15日木曜日

3_73 意義:日本のダイヤモンド4

 今回は、日本のダイヤモンドの最後の回として、発見によって得られた重要な意義とは、何かを考えていきます。


 水上さんの発見は、単にダイヤモンドが日本ではじめて見つかったというニュースとしてだけではなく、重要な意義があります。その意義を以下、思いつくことをいくつか挙げていきます。
 まず、日本列島の地下の様子を知る重要な情報となります。地球のマントルは、地球内部の熱を運んでいるため、対流しています。その対流が地大地の営みのもととなっています。日本列島下のマントルでも、対流は起こっていると考えられていました。対流に関する仮説はいろいろありましたが、対流の規模や深度、方向などは、まったく証拠といえる手がかりはありませんでした。今回の発見で、日本列島下のマントル対流の証拠となるかもしれません。
 今回の発見によって、日本列島の下部にあるマントルは、100km以上の深さから、沈み込み帯近くの四国愛媛県まで、対流しているというモデルが有力になります。この対流は、予想以上に大規模で、そして予想以上に沈み込み帯近くまで来ていることになります。今後、証拠を伴うより詳細なモデルが提唱できるはずです。
 また、日本列島の他地域、他種類の捕獲岩からも、タイヤモンドが見つかる可能性ができてきました。沈み込み帯から遠い中国山地や日本海側は、マントルの対流の上昇部に近いと考えられます。ですから、水上さんの仮説が正しければ、マントルが上がってきて、あまり時間がたっていなのですから、マントルの捕獲岩には、より多くのダイヤモンドが保存されているはずです。もし、各地でダイヤモンドが発見されれば、日本列島のマントル対流の情報を各地から得ることができるはずです。これは、対流の実態を解き明かす上で重要な証拠となります。
 最後に、新しい手法あるいは視座が確立されたということです。流体包有物の中に、このような微小のダイヤモンドが発見する方法が確立されたのですから、他の深部にあったマントルの岩石からも、同様にダイヤモンドを発見できる可能性があります。これは、手法だけでなく、今まで目をつけれれていなかったもの(微小な流体包有物の中身)に、地球深部を探る手がかりがあったことに気づいたことになります。もしかすると、ダイヤモンド以外にも他の重要な鉱物なども見つかるかも知れません。このような新たな視座を確立したという意義があります。
 上で述べた以上に関連の研究分野で、新しいことがわかる可能性がでてきました。今回の発見は、大変意義深い発見であったと思います。そして若き研究者がそれを成し遂げ、学会がその重要性を認め、公開の場で議論を深めていきました。今後、この分野でさらなる発展があればいいですね。

・意識改革・
日本でのダイヤモンドの発見は、
上で述べたようにいろいろと重要な意味がありました。
たったひとつの発見なのですが、
この発見が波及して、さまざまなところに
新しい視点や観点が持ち込まれるようになります。
もしかすると小規模ながら
地球科学者たちの意識改革ともいうべきことが
起こるかも知れません。
まあ、それは今後の進展と歴史が証明することなのですが。

・淡々とした日々・
北海道はここしばらく肌寒い日が続いています。
快晴の時の日が当たれば暖かいのですが、
日陰や曇ると上着を着ないと寒いほどです。
体調をくずす人も出ています。
特に薄着の若者は風邪をひいてしまいます。
先週のゴールデンウィーク明けは、
かなり休みが目立ちました。
今週からは、7月中旬までは休みもなく
淡々とした穏やかな日々が続いていくはずです。

2008年5月8日木曜日

3_72 仮説:日本のダイヤモンド3

 ダイヤモンドは如何にして形成され、捕獲されてきたのか。それに対する一つの仮説を紹介します。この仮説は水上さんが、現在唱えられている説です。


 日本列島の下で、どうしてダイヤモンドが形成されたのか。それがどのようにしてマグマに捕獲され、地表にもたらされたのか。常識破りの発見でもあっても、その仮説は合理的、科学的でなければなりません。どのような仮説が立てられているのでしょうか。それを見ていきましょう。
 水上さんは、まず、ダイヤモンドが入っていた流体包有物と、それが入っていた結晶から、形成条件を調べました。包有物をもっていた結晶は、単斜輝石と呼ばれるものでした。包有物の中身に二酸化炭素の流体、それにともなう炭酸鉱物(ドロマイト)があります。そのような物質が一緒に存在する(共存と呼びます)環境で、ダイヤモンドを形成するには、1400℃以上の温度で5.5万気圧(5.5GPa、地下約170km)以上の圧力が必要だと推定されています。
 これは物理的に推定された条件ですから、少なくともその条件を満たさなければなりません。この条件を満たすことが、ダイヤモンド形成のための必要条件となります。ところが、そのダイヤモンドを含んでいたカンラン岩の捕獲岩には、斜長石がありました。これが、必要条件に反する奇妙なことなのです。
 通常の1400℃以上、5.5万気圧以上の条件にあるカンラン岩には、斜長石は存在できないのです。
 斜長石はアルミニウム(Al)を含んでいる結晶です。アルミニウムを含む鉱物がどのような結晶になっているかによって、物理条件の違いの見当がつけられます。高温高圧の条件に同じような化学成分のカンラン岩を置くことで、どのような鉱物の組み合わせになるかが、実験で確かめられています。その実験によると、温度圧力が低い場合は斜長石ですが、圧力が高くなるとザクロ石になり、さらに高くなるとスピネルに変わっていきます。
 つまりアルミニウムが斜長石になるような条件では、ダイヤモンドは形成されないという矛盾が生じているのです。この矛盾をどう説明するかが、重要になってきます。
 水上さんは、その説明として、次のような仮説を考えました。単斜輝石の中の流体包有物がダイヤモンドができる条件にあるときに、単斜輝石を含むカンラン岩がマントルで形成されます。もちろん、それは地下170kmより深いところです。ところが、そのマントルは、マントル対流によって浅い場所に上がってきます。その結果、マントルは低温低圧の条件にさらされます。少なくともザクロ石が斜長石に変わるような条件である30kmくらいの深さ(マントルの最上部)まで上がってきます。
 そこまで上がってきても、結晶の中に閉じ込められた流体包有物には、結晶の強度があったため、強い圧力がかかったままとなっていたと考えられます。しばらくはそのままの圧力が保たれたため、ダイヤモンドの結晶は保存されていたのです。ただし、あまり長い時間、低圧条件になると、流体が結晶の隙間からゆっくりと抜けていくので、圧力が下がってしまいます。それほど長い時間、浅いところに置かれていたわけではなさそうです。
 浅いところまで上がってきたダイヤモンドを含んだマントルの岩石を、ランプロファイヤーのマグマが高速で捕獲してきた。これが、水上さんが現在考えておられる仮説です。
 矛盾は解消されています。今のところ、この仮説はもっともらしく見えます。今後、いろいろ新たなデータが出されて、検討されていくでしょう。
 さて、このような発見には、単に発見されたというだけでなく、いろいろな重要な意義があります。それは次回としましょう。

・仮説の実証・
水上さんの説は、なかなか面白い仮説です。
一応科学的にも筋が通っています。
でも仮説は、実証することが重要です。
そのためには、その仮説から導き出される何らかの予測があり、
予測どおりのデータを出せれば、説得力が出ます。
たとえば、深いところにあったマントルが
浅いところに上がってきたというマントル対流に、
他の証拠も欲しいところです。
また、単斜輝石の流体包有物の中に
その程度の時間保存されるのか、
温度や圧力の条件にどれほど左右されるのかなどの
チェックも必要になるでしょう。
このような他の証拠にこだわるのは、
そこに重要な意味があるからです。
日本列島形成の謎を解明する手がかりがあるからです。
それは次回、詳しく紹介します。

・観光地・
皆さんはゴールデンウィークをどう過ごされたでしょうか。
北海道は、いい季節になりました。
5月5日は、少々肌寒い、曇天でしたが、
それ以外は春らしい天気となりました。
私はニセコに出かけています。
ニセコの山をみることが目標でした。
山の中を抜ける道も開通しており、
予定通り、ニセコの山を裏側から見ることができました。
春まだ浅き山並みから、春真っ盛りの里まで
季節の移ろいを感じることができました。
今回は、家族サービスもかねていましたので、
観光地や土産物屋さんにもいきました。
観光客が非常に多く、驚きました。
以前にもいったことがあるのですが、
スキーシーズン以外はそんなに混んでいた記憶はありません。
ニセコは、今や外国の人もたくさん来る観光地と変わってきました。
もちろん日本人もたくさんきます。
久しぶりに人の多い観光地を廻りました。

2008年5月1日木曜日

3_71 発見:日本のダイヤモンド2

 沈み込み帯は、ダイヤモンド形成場として、それほどありえない場所ではありません。有利な点もいくつもあります。しかし、詳細な分析の努力と幸運なくしては、日本産の発見できなかったでしょう。


 ダイヤモンドが発見された後になってから考えてみると、実は日本列島でもダイヤモンド形成のために、いくつかの好条件がありました。
 まず、地表付近には炭素(生物の有機物や殻やサンゴ礁の石灰岩などから由来)がたくさんあり、海底にも同様にたくさんあることです。沈み込み帯には、炭素がたくさん集まるところになります。炭素を含んだ岩石が、なんとか沈み込み、深くばなればダイヤモンドを形成する条件に達する可能性があります。
 もうひとつの好条件は、低温であるほど、ダイヤモンドはより低圧、つまり浅い条件で形成されることです。ダイヤモンドがよく見つかる大陸の条件では、150kmより深くないとダイヤモンドが形成されませんが、沈み込み帯のような冷たい条件では、100kmほどで形成されます。
 さらに、日本の火山岩の中には、マントルを構成していた岩石を捕獲してくるものが各地で見つかります。捕獲岩を伴うマグマの中には、かなり高速で上がってくるタイプもあります。そのようなマグマが地表に噴出すれば、火山岩となり、中に深部の岩石が捕獲されていることになります。それは、研究者が容易に手にできます。つまり手軽な研究材料になり、いつでも標本採取ができます。
 このような好条件を持っていたからこそ、ダイヤモンドが形成され、上昇し、発見されたのです。もちろんそこには、水上さんの多大な努力と、そして幸運なる偶然がありました。
 場所は詳しく示されていませんが、四国の中部の火山岩からダイヤモンドが発見されました。その火山は、1800万年前に噴火したものですが、位置が地質学的に少々変わった場所でした。日本の火山岩の中には、よくマントルから捕獲された岩石が見つかりますが、西南日本では、マントルの捕獲岩を伴うものは、中国山地や日本海側にある火山がほとんどです。しかし、今回見つかったのは、もっとも沈み込み帯に近い四国でした。このような岩石は四国では他の地域にも見つかっており、もしかするとそちらでも、ダイヤモンドが見つかるかもしれません。
 ダイヤモンドが発見された火山岩は、玄武岩の仲間なのですが、少々変わっていて、ランプロファイヤーとよばれるタイプのものでした。ランプロファイヤーは、変わった性質の火山岩の仲間です。貫入岩として日本列島でも各地で小規模なものが見つかっています。大陸地域でダイヤモンドを伴う火山岩(キンバーライトやランプロアイトと呼ばれる)に似た性質のマグマで、ガスの成分が多く、深部から高速で上昇してきたと考えられています。つまり、ダイヤモンドを捕獲してもグラファイトになる前に、地表にたどり着ける可能性があるのです。
 水上さんは、火山岩のもとのマグマができた条件を探るために、捕獲岩を詳しく調べて割り出そうとされていました。その時目をつけたのが、捕獲岩を構成する結晶(輝石)の中に含まれている小さな包有物(インクルージョンと呼ばれています)でした。包有物のうち、液体や気体の状態になっている流体包有物に着目されました。
 流体包有物を特殊な方法で調べていました。その方法はラマン分光と呼ばれるものでした。物質に光が当ると、散乱した光の中に、当てた光とは違った成分(波長)が含まれます。発見者にちなんでラマン効果と呼ばれます。散乱された光を詳しく調べると、物質の分子や結晶の状態を知ることができます。レーザーを当てて、物質の同定に用いるのをラマン分光法とよんでいます。
 ラマン分光法で流体包有物の中身を調べようと、水上さんはしていました。基準となる物質を選んでいるときに、ダイヤモンドのピークが見つかりました。それは、2007年の初めの頃だそうです。この時用いた装置の分析能力(空間分解能と呼びます)は、「直径1ミクロンメートル×深度2ミクロンメートル」という微小なものでした。見つかったダイヤモンドは、顕微鏡でも見ることのできない1ミクロンメートルほどでした。
 では、なぜ日本列島の地下でダイヤモンドが形成され、地表で発見されたのでしょうか。水上さんの仮説の紹介は、次回としましょう。

・産出頻度・
水上さんの報告をみていると、非常に慎重です。
日本鉱物学科でも、真偽を確認するために、
「日本産ダイアモンドについての緊急討論会」
が2007年9月23日に開催されています。
岩石を磨く時に、ダイヤモンドの粉を使います。
それの混入がなかったかのチェックが、重要となるはずですが、
それは充分検討されているはずです。
ラマン分光装置の分解能力が深度方向に広がっていることが重要です。
また、共存している相からも包有物の中だと考えられています。
私は水上さんと直接話をしたわけではないので、
どの程度の頻度でダイヤモンドが見つかったのか知りません。
他の捕獲岩の試料の、同じ鉱物から発見できれば、
ダイヤモンドが普遍的に存在することを確定できるはずです。
そして、他の地域からも発見の可能性が高くなってきます。

・北国春・
いよいよゴールデンウィークになります。
今年は、4連休になります。
北海道は例年より早い桜の季節を迎えています。
北海道の人が一番待ち望んで、
そして楽しみにしている季節でもあります。
ついついどこかに出かけたくなります。
石狩平野から眺められる、高い山並みにはまだ残雪が残っています。
スキーの好きな人は、今年最後のスキーを、
山登りのを待ちわびている人は、残雪の春山を、
花が好きな人は野山の散策に、
酒好きの人はいよいよ花見の季節の到来です。
我が家は、ニセコに春を火山を見に出かけます。
さて、山の様子はどうでしょうか。
まだ、山越えの道は通行止めでしょうか。
それが気になるところです。

2008年4月24日木曜日

3_70 常識:日本のダイヤモンド1

 日本列島ではダイヤモンドは発見されるはずがない、という常識がくずれました。その経緯を発見者の水上さん自身が書かれた紹介記事を参考に、少し詳しくみていきましょう。


 2007年9月上旬に日本でダイヤモンドが発見されたというニュースが流れました。騒ぎが一段落した11月15日の本エッセイでも、その概要を紹介しました。
 その後、発見者の名古屋大学の水上知行(みずかみ ともゆき)さん自身が、学会のニュース誌などに発見の経緯や意義などの紹介記事を書かれるようになりました。印刷中でまだみることはできませんが、学会誌への論文の掲載も決まっており、学界的にもこのダイヤモンドは認知されてきました。
 私は水上さんとは面識がないのですが、発見の経緯や研究の内容などを、より詳しく知ることができるようになりました。今回は、その紹介記事にもとづいて、日本でダイヤモンドの発見について、その後にわかったことや、どのような成因が考えられるのかを紹介していきます。
 御存知のように、ダイヤモンドは炭素という元素からできています。ただし、炭素を、高温高圧の条件にしないと、ダイヤモンドの結晶は形成されません。地球でいえば、少なくとも地下150kmより深い条件でないと、炭素がダイヤモンドに変わりません。
 もう一つ、ダイヤモンドの発見のために重要な条件は、たとえ地下深部にダイヤモンドが存在したとしても、それを手にできません。手にするためには、地表にダイヤモンドが上がってこなければなりません。
 もし、ダイヤモンドが、ゆっくりと地表に上がってくると、低温低圧で安定な結晶である石墨(グラファイトと呼ばれます)に変わってしまいます。ダイヤモンドが石墨にわかる前に、地表に上がってこなかればなりません。つまり、地下深部から高速で上昇して上がってこなければなりません。そのためには、深部でできたマグマが、高速に上昇してくる必要があります。それは特殊なマグマということになります。
 もうひとつのダイヤモンドが地表にでてくる可能性は、大陸同士の衝突帯にみられるのですが、地下深部で形成された超高温高圧変成岩と共に上がってくるようなメカニズムです。これは、低温を維持しながら深部の物質が上昇するという特殊な条件を満たさなければなりません。
 このような条件が日本列島のようなプレートの沈み込み帯で満たされることは、一般的にはないと考えられます。ですから、日本ではダイヤモンドは見つかるはずはないと考えられていました。これは、地質学者、日本だけでなく世界中の地質学者の常識でした。
 もしかりに日本列島の深部にダイヤモンドがあったとして、日本列島のマグマができる場所が、ダイヤモンドができるよりずっと浅い場所なのです。また、日本列島には大陸が衝突したような痕跡もありません。ですから、ダイヤモンドが日本で見つかるはずがないと考えられていました。
 今回ダイヤモンドが見つかった四国の地下には、沈み込んだプレート(フィリピン海プレート)が浅い位置あり、プレートはもちろんマグマが形成されるマントルさえも浅いところにあり、タイヤモンドができる条件ではありませんでした。どう考えても、そんなところでダイヤモンドは見つかるはずがありません。
 そもそも発見者の水上さんも、ダイヤモンドを発見しようとして調べていたのではなく、別の目的を持って研究されていました。しかし、それでも、ダイヤモンドは発見されました。その話は次回としましょう。

・教訓・
常識は、大発見の妨げになることがあります。
水上さんがもし、別の目的か、別の手段か
別の石かを研究されていれば、
多分ダイヤモンドは発見されなかったでしょう。
そして、今後しばらくは発見はできなかったでしょう。
今回の発見を契機にして、一気に
もっと多様な場所でのダイヤモンド発見の可能性が広がりました。
もし、形成条件が特定され、
同じようなメカニズムが起こる環境が
別のところでもあることが判明すれば、
ダイヤモンドが見つかる可能性がでてきました。
いずれにしても、今回の常識を打ち破る発見は、
今後地球の仕組みを考える上で重要な情報となりました。
なんといっても、常識にとらわれてはいけないという
大きな教訓を与えてくれました。

・退官祝い・
先日、恩師の退官祝いで鳥取に1泊2日で出かけました。
恩師といっても、直接の指導教官ではなく、
精神的に世話になったので、
私がかって恩師だと思っているだけです。
あわただしい2日でしたが、
懐かしい当時の大学院生が多数集まり、
懐かしく話をしました。
その大学院生の大半が指導を受けてないものばかりでした。
師の人徳というべきでしょう。
私は、それほどの人徳がないのですが、
彼を見習っていきたいと思っています。
今後定期的に、師を囲む会をしようということになりました。
さてさて、本当に実現するのでしょうか。

2008年4月17日木曜日

4_78 オフィオライト:若狭の旅3

 このたびの春休みにいった若狭への旅のエッセイは今回が最後になります。しかし、今回は行った場所ではなく、行きたかったが行けなかったのところの話題です。雨の岬は、春休みだというのに人気がなく、寒々していました。

 今回の若狭の旅で、天候の悪い日が何回かあり、いくつかの場所を断念しました。その一つに、福井県の大島半島の東端にある赤礁崎(あかぐりさき)がありました。
 実は、ここには、大学院生の頃に中国地方から近畿地方を広域に調べる調査の一環で、一度訪れています。その時は、夏の海水浴シーズンで、海水浴客でにぎわう海岸をわき目に、暑い中を調査のために、歩いたことが強く印象に残っています。
 今回、赤礁崎に再訪して見たいと思っていたものは、夜久野オフィオライトという岩石でした。オフィオライトとは、かつては海洋地殻とその下のマントルを形成していた岩石が、大地の営みによって陸地に持ち上げられたものです。大島半島全体がオフィオライトからできています。ですから、オフィオライトのメンバーの岩石は、道路わきの崖でも点々と見ることができました。
 大島半島の西に「待ちの山」という2つのこんもりした山があります。この山はマントルの岩石(ハルツバージャイトとよばれるかんらん岩の仲間)からできています。「待ちの山」はもともと島として独立していたのですが、半島とは、宮留の砂洲でつながり半島の一部になりました。その「待ちの山」の東はずれに赤礁崎があります。赤礁崎へは遊歩道があり、歩いて行きたいと考えていたのです。
 さて、夜久野オフィオライトの夜久野とは、地名です。大島半島より西、京都府夜久野町に分布しているのが典型的なオフィオライトで、最初に詳しく研究されたため付けられたものです。
 私は、夜久野オフィオライトの類似の岩石が見つかる西端にあたる岡山県井原で研究をして、修士論文を書きました。それを井原オフィオライト(正式にはディスメンバード・オフィオライトと呼びます)と名づけました。博士論文では、井原から研究する地域を東方に延長して、夜久野オフィオライトまでの連続性と性質の変化を調べていくことにしました。それらのオフィオライトの全体を「舞鶴構造帯」と総称しました。最終的に、舞鶴構造帯が、かつてはどのような場所であったのかを調べるのが目的でした。
 私より前から夜久野オフィオライトを研究されている金沢大学の石渡明さん(現在は東北大学)とは、共同研究をしました。彼が記載した岩石を、私が分析や年代測定をして、共著の論文を書いたこともあります。
 そのような舞鶴構造帯の研究も、博士課程修了と共に終わりました。当時の一連の野外調査は、2年間におよび、車で移動しながら点々とキャンプをしながら調べていました。そのため、多くの場所を訪れたのですが、中でも赤礁崎のきれいな景色と多様な岩石が印象深かったのです。今回、自身の古戦場を訪れるつもりで、赤礁崎の岩石を見ようと考えていました。しかし、残念ながら、車で行けるとこまではいったのですが、雨がひどく、赤礁崎への遊歩道を歩けそうになかったので断念しました。

・大飯原発・
大島半島は、かつて、陸続きでありながら道路がなく
連絡船で通わなければならないような不便なところでした。
まさに陸の孤島ととも呼ぶべきところでした。
しかし、今では海水浴客が多数訪れるところなりました。
それは、大島半島の先端に大飯原子力発電所が建設されたおかげで
立派な橋と道ができ、車で簡単にいけるようになりました。
今回赤礁崎までいったのですが、雨でどこにもいけなかったので、
大飯原子力発電所のPRための「エル・パークおおい」の
展示館「おおいり館」を訪ねました。
本来なら発電所内をシースルー見学できるはずなのですが、
今では「国際テロ情勢を踏まえた警備上の理由」で、
入ることができなくなっています。
福井県は原子力発電所が多数あるところです。
それらの原子力発電所から近畿地方に
多くの電力供給を行っています。
中でも大飯原子力発電所は
その発電量も最大で、電力供給には
非常に重要な役割を果たしているようです。

・模索のスタート・
北海道も平地の残雪もほとんど消え、
いよいよ花の季節になります。
フキノトウが一番に芽を出しました。
木々の新芽も開きはじめました。
大学の講義は、1週間が経過して、
いよいよ本格的に始動しました。
それに伴って、学生ともども教員も忙しくなります。
教員は、講義とその準備の合間に、
いろいろなことをこなさなければなりません。
今年からは、我が学科も3年目で専門のゼミナールがスタートします。
専門ゼミナールの延長が卒業研究になります。
その指導も教員は始めてのことになります。
どうしようかとの模索しながらのスタートとなります。

2008年4月10日木曜日

4_77 恐竜博物館:若狭の旅2

 北陸の旅の目的として、福井県立恐竜博物館の見学がありました。なぜ福井に恐竜の博物館があるのか、と思われる方もいるかもしれませんが、実は福井県は日本でも有数の恐竜の産地なのです。今回は、恐竜博物館の話をしましょう。

 福井県立恐竜博物館は、若狭から北陸の旅の最後の目的地でした。今回の旅行は、主に海岸線を見てまわっていました。しかし、恐竜博物館は、内陸に車で1時間ほどいった勝山市にあります。山がせまっているため、3月30日でしたが、北海道さながらに、春まだ浅く雪があちこちに残っていました。行った日は残念ながら、冷たい小雨の降る天気で、博物館の外にある公園を見ることはできませんでした。しかし、もともと恐竜の化石をみることが、目的でしたのでよしとしましょう。
 以前、博物館の特別展のために、資料を提供したことがあったのですが、行くことはできませんでした。私も、今回が初めての訪問なので期待していました。子供たちも、たくさんの恐竜の化石がみることができるので、楽しみにしていました。
 博物館の展示は、噂にたがわず、30体以上もある恐竜骨格のコレクションは見ごたえのある見事なものでした。中でも、福井で産出した恐竜化石として、新種のフクイラプトルとフクイサウルスの復元された全身骨格は、圧倒されました。
 フクイラプトル(学名:Fukuiraptor kitadaniensis)は、中生代白亜紀前期の肉食恐竜(カルノサウルスの仲間)です。勝山市北谷で体の各部の化石がいくつも見つかっており、全長4.2mと推定されています。勝山市の北谷で見つかったことにちなんで名づけられました。
 フクイサウルス(学名:Fukuisaurus tetoriensis)は、北谷から頭骨や体の部分の化石が多数見つかり、それを手がかりに全身骨格が復元されています。全長4.7mもあったと推定されています。白亜紀前期のイグアノドンの仲間の草食恐竜です。手取(てとり)層群から見つかったことにちなんで、命名されています。
 いずれの恐竜も、手取層群から見つかっています。実は、この手取層群は、日本でも恐竜の宝庫として有名な地層なのです。手取層群は、福井県だけでなく、石川県、岐阜県、富山県と広く分布している地層です。そして、各地から恐竜などの化石が見つかっています。その中でも、福井県では、化石を産出する手取層群が広く分布しており、日本で有数の恐竜産地となっています。1989年以来、何度も発掘調査が行われ、現在も新しい化石が見つかっています。
 手取層群は、中生代の地層ですが、化石がたくさん見つかる中・上部は、白亜紀に当たります。白亜紀は、全地球的に暖かい時期でした。その頃、日本列島はまだ独立しておらず、大陸の端にくっついていた時代でした。手取層群がたまった環境は、海に面し、内湾から淡水のまじるような河口(汽水域といいます)、そしてより内陸の川や湖(淡水域)などにかわっていく湿潤な環境のところにたまったものです。つまり、暖かい地域の大きな川が流れ込む広大な氾濫原から海岸にかけてたまったと推定されます。そのような場所は、現在でもそうですが、多様な生物が生きていくのにいい環境でした。そのため、恐竜の体の化石だけでなく、鳥類や恐竜の足跡の化石、ワニやカメなどの化石も見つかります。
 恐竜博物館のある勝山は、私が訪れた時は、氷雨降る残雪の山里でしたが、昔は恐竜の闊歩する暖かな海辺の低地だったのです。そんなことに思い馳せながら、博物館を後にしました。

・ギャラリートーク・
福井県立恐竜博物館は2000年7月14日に開館しました。
当時、私はまだ神奈川県立生命の星・地球博物館にいました。
ですから、同業の開館ですから、気にしてました。
でも、ついつい行く機会がなくして、そのままにしていました。
そして、今回はじめて、見学することができました。
毎週日曜日に開催さているギャラリートークにも参加しました。
ギャラリートークとは、学芸員が展示物を用いて解説するというものです。
そのときは、海から陸への進化(魚類から両生類へ)
の話を聞くことができました。
子供には少々難しかったようですが、私にはなかなか面白かったです。

・レストラン・
恐竜博物館で子供たちが期待していたものに、
館内のレストランにあるプテラノ丼、恐竜の卵などの
変わった名称のメニューを食べることがありました。
残念ながら恐竜の卵は10食限定のようで、食べられませんでしたが、
次男が楽しみにしていたプテラノ丼を頼むことができました。
また、福井の名物であるソースカツ丼も食べることができました。
なおプテラノ丼は、鳥肉の丼でした。

2008年4月3日木曜日

4_76 琴弾浜:若狭の旅1

 若狭湾から越前、東尋坊の海岸を旅行しました。雨と晴れの繰り返しの天候の中、観光地を訪れました、残念ながら雨で断念した場所もありましたが、いくつかの目的地を訪れることができました。

 3月25日から31日にかけて、若狭と北陸の海岸の旅をしました。その時、京都府、丹後半島の西の付け根にある京丹後市の琴引浜を訪れました。琴弾浜は、名前が示すとおり、琴を弾くような音を出すことから名づけられた海岸です。つまり、鳴き砂のある海岸です。英語で海岸の鳴き砂は、ミュージカル・サンドやシンギング・サンドなどと呼ばれています。
 砂ならどこの砂でも鳴るわけではなく、砂の性質がある条件を満たさなければなりません。それは、粒径が0.2から0.6mm程度の砂で、その主成分が石英で、砂粒の表面がきれいである必要があります。このような条件を満たしていれば、その砂は鳴ります。海岸の砂でなくても、砂漠の砂でも鳴きますし、人工的に作ることもできます。
 鳴き砂がなぜ鳴るのかというと、それは砂の主成分である石英の性質が反映されているためです。きれいな石英の表面は、摩擦係数が大きくなるという性質があります。力を加えても、摩擦のために動きづらいのですが、一定以上に力が加わると、耐え切れなくなり動きます。その動いた砂の塊が振動して音を出します。
 しかし、実際にはこの条件を満たすところは、日本ではそれほどありません。それは、石英を主成分とする砂浜が少なく、きれいな海岸が少ないためです。鳴き砂のある海岸は、30ヵ所とも40ヵ所ともいわれていますが、私もいくつか行きましたが、1ヵ所でしか聞くことができませんでした。また、以前は鳴いていたのに、今では鳴かなくなったような海岸もあります。それは、海岸の砂浜が汚れてきたこと、護岸や防波堤などで砂浜が安定しなくなったことなどが原因と考えられます。少しでも汚れると、砂は鳴らなくなります。タバコの灰などで少し汚しても鳴らなくなるといいます。琴弾浜は、今でも鳴る砂浜です。
 そんな琴弾浜ですが、危機が訪れたことがあります。
 1990年2月4日、丹後半島先端の伊根町の海岸にマリタイムガーディニア号が座礁し、流出した重油が琴引浜にも漂着しました。海岸保護のボランティアや町の職員の除去作業で、美しい砂浜を取り戻しました。また、記憶にも新しい1997年1月2日、ロシアのナホトカ号の事故もありました。ナホトカ号が、島根県の隠岐沖で破断し、大量の重油が流出し、日本海沿岸に漂着しました。その重油が、琴引浜にも漂着しました。3月末まで重油回収作業が行われ、のべ12万7000人もの人の努力で、約250トンもの重油が回収されました。このような努力によって、鳴き砂の浜は、今も守られているのです。
 調べたところ、波打ち際から4~5mの砂浜で、足をするようにして歩くと、「キュッキュッ」とか、場所によっては「ドンドン」という音が聞けるとありました。琴弾浜の海岸で、ぜひ、砂が鳴く音が聞こうと思っていました。でも、いろいろ試してみたのですが、残念ながら、聞くことはできませんでした。多分、訪れた時、海岸の砂が湿っていたためのようです。前夜雨が降り、湿気も多かったので、砂が完全に乾燥していなかったようです。鳴くためには砂は、乾燥していなければならないようです。
 ぜひとも、鳴き砂の音は聞いてみたかったのですが、別の機会となりました。

・天然記念物・
2007年7月、琴引浜が国の天然記念物と名勝に指定されました。
これからは、広くこの海岸の重要性が
認識されていくことになると思います。
鳴き砂とは、環境変化に対して非常に敏感であります。
これは、言い換えると、環境変化を知らせる指標ともなります。
ですから、琴引浜を天然記念物として守ることは、
周辺の環境を守ることともいえます。
いつまでも琴引浜が鳴き続けることを祈っています。
すると、今回聴けなかった音でも、
いつか聴けるかもしれないからです。

・予定変更・
今回の旅行は、計画の段階からいろいろ予定変更が続きました。
当初は、鳥取砂丘からスタートして、玄武洞などを見て回りながら、
小松空港まで行く予定をしていたのですが、
東京-鳥取間の飛行機が取れなくて、
小松-千歳空港間の往復を余儀なくさせられました。
そのため、最初の移動距離が長くなるので、
鳥取と兵庫はあきらめることにしました。
この周辺は、大学院の頃調査で、散々走り回った地域です。
兵庫と京都は、その時見て回っています。
しかし、再度見ていこうというのが、
今回の旅行の目的だったのです。
しかし、若狭から北陸にかけてが、目的となりました。

2008年3月27日木曜日

3_69 多様性の単純な原理:日本列島の石4

 列島の岩石の多様性は、沈み込みという非常に単純な原因で説明することができます。その説明を今回は完成しましょう。


 沈み込むプレートが、日本列島の多様な岩石を生み出す原因となっていることを、前回紹介しました。沈み込むプレートによって、列島の高まりができることと、海溝と列島の間の地下には、付加体ができること、そして地震が起こることを説明してきました。次は、沈み込むプレートによって、列島の他の特徴を説明することです。
 沈み込むプレートは海洋地殻を構成している岩石からできています。そのような海洋地殻が沈み込むと、付加体の中に紛れ込むことがあります。海洋プレートが沈み込むとき、出っ張っているもの(例えば海山)は、陸のプレートに引っかかります。また、海洋プレートの上に載っている軽い岩石、ときには海洋地殻の重い岩石も、そぎとられて陸側のプレートに挟み込まれることも起こります。付加体全体としては、列島が削剥された堆積物を主とするのですが、その中には海洋地殻の岩石が紛れ込んでいます。このような付加体が列島で陸化したとき、見つかります。これが列島の岩石が陸岩石だけでなく海洋域の岩石を持っている原因です。
 もぐりこんだプレートは、冷たいですが、深さとともに圧力がかかっていきます。温度はすぐには上がりませんが、圧力によって海洋プレートに含まれていた水分が絞りだされ、のぼっていきます。その結果、陸側のマントルの中に水分が付け加わることになります。陸側のマントルは熱いままですから、そこに水分が加わると、マントルの岩石は溶け出します。溶けた岩石が集って、マグマなります。マグマは、周りの岩石より比重が小さいですから、上昇していきます。マグマが、地殻の中で固まれば深成岩、地表に噴出すれば火山岩になります。
 列島の火山が海溝と平行しているのは、海洋プレートから水分が絞りだされる条件を満たす場所が定まっているためです。圧力は地下では深さによって決まります。もぐり込むのは板状のものですから、ある深さに達すのは、ひとつのプレ-トでは、海溝に平行になります。その水の絞り出される上部がマグマ発生ゾーンなり、地表では火山列になると考えられます。
 この考えで高圧の変成岩も同時に説明できます。火山が発生するのは列島の内部で、山ができているとろこです。火山も新たな高まりとして加わります。あるいは列島が高まった地下は、高圧のかかる場所となります。さらにそこがマグマが上昇するような場になれば、高温の場ともなり、高温高圧の変成岩も形成されます。あるいは浅いところでマグマに接すれば、マグマの周りだけに高温の変成岩ができます。
 列島では沈み込むプレートに圧されているため、激しい上昇の場となります。山が常に形成されているような場では、侵食も激しくなります。侵食が進めば、深部で海溝と平行に形成された深成岩や変成岩が、地表に顔を出すことになります。列島の侵食の速さを示す例として、世界で一番若い深成岩が(約140万年前の滝谷花崗閃緑岩)、日本列島で見つかっています。もちろん、他の地域でも新しい時代にできた深成岩や変成岩も出ています。
 また、海洋プレートの沈み込みは、一箇所だけで継続するわけでなく、ジャンプしてより海側に移ることがあります。また、一つの海洋プレートが全部沈み込んでしまうと、違うプレートがまた沈むことがあります。大陸プレートは沈むことは決してありません。日本列島は大陸プレートの縁にありますので、常に沈み込みにさらされている場所となります。古い沈み込みで形成された列島に、次の時代の沈み込みの現象が上書きされる場となります。ですから、いろいろな時代の多様な岩石が、日本列島で見つかるのです。
 列島の岩石の多様性は、実は海溝での海洋プレートの沈み込みという非常に単純な原因で説明することが可能なのです。

・人類の営み・
日本列島は、地質学者も多く、いたるところが調査されつくされています。
ですから、日本列島の地質の生い立ちは、かなり解明されています。
シナリオはほぼできているといえます。
しかし、いくら研究が進んでも、目的が違えば、
同じ対象でもあっても、新たなデータがとられ、新しい発見があります。
その成果が研究論文と公表されます。
成果の数は、増えることはあっても、減ることありません。
つまり、どんなにたくさんのことがわかってきても、
研究、つまり知たいことには終わりなく、
そして新たの発見が行われます。
終わることのない営みです。
これが、人類の営みなのでしょう。

・春・
いよいよ春です。
北海道でも春めいてきました。
道路の雪はほどんとなくなりました。
先日の週末には、子供たちとともに自転車をだして掃除し、
空気を入れて、今シーズンはじめて、自転車に乗りました。
快晴で天気は良かったのですが、
まだ風は冷たく手袋と防寒の帽子が必要でした。
しかし、外で体を動かしていれば、
上着が必要なくなるほどの陽気になってきました。
春の花も、もうじきのようです。

2008年3月20日木曜日

3_68 沈み込みが原因:日本列島の石3

 日本列島は多様な岩石があります。その多様性が、実は、単純なメカニズムに起因しています。


 日本列島には、他の地域と比べて、多様な岩石があることを見てきしました。この特徴は、日本列島にだけ見られるものではなく、海溝をもつ列島全般に見られるものであることがわかってきました。
 では、次のステップとして、なぜ、列島には多様な岩石があるかということです。その原因を探ります。日本列島を例にしていくとわかりやすので、日本列島で考えていきましょう。
 日本列島には、火山があります。火山は、列島の延びている方に並んでいます。堆積岩は、大陸棚にたまったものや海底にたまったものなどがあります。地層の伸びる方向も、列島に平行しています。深成岩があり、それと並行するように変成岩があります。両岩石の並びも列島に平行です。海に近いものは新しい時代にできたもの、離れているものは古い時代にできたものという一般的な規則性があります。大雑把にみるとこのような傾向が見られます。大雑把な傾向ですから、もちろん例外もありますが、日本列島だけでなく、多くの列島にも同じような傾向があります。
 これらは、すべて重要な特徴ですが、並びに重要な意味があります。並びが伸びている方向は、列島の伸びる方向でもあり、海溝の伸びる方向でもあります。実は、列島のすべての特徴は、この海溝に由来していることがわかっています。
 海溝は、海洋プレートが沈み込んでいるところです。この海溝での沈み込みが、多様性形成のはじまりです。
 考えると不思議な現象ばかりです。海溝では、冷たい海洋プレートが下に向かって沈み込みます。なのに列島では、上に向かって、作用が起こります。海でたまった岩石が陸に上がり、地球深部でできた変成岩や深成岩が地表で見られます。また冷たいものが沈み込むのに、熱いマグマが形成され、深成岩や火山ができます。さまざまな現象が起こります。これらの現象が、海洋プレートの沈み込みで、本当にすべて説明できるのでしょうか。
 列島が高まる理由は、海洋プレートが沈み込む時に、陸側のプレートを押しているためです。陸側のプレートは圧縮されていきます。大地が圧縮されると、場所によってはくぼむところがありますが、全体としては盛り上がります。なぜなら、陸地をつくっている岩石は、地下深部のマントルを作っているものより軽いからです。下にくぼみたくてもいけません。いけるのは上だけです。だから、押されている列島には高まる力が働きます。
 海溝では、陸側の岩石は、沈み込むプレートともに引きずられてもぐりこもうとしますが、軽いのでもぐりこめません。そのため岩石には強い力がかかり、歪として蓄えられます。しかし、沈み込みが起こっている限り、継続的にこの力は加わりますから、やがて岩石が歪を吸収しきれなくなったとき、一気に上に跳ね返ります。このとき岩石は破壊されならが歪が解消されていきます。これが沈み込み地帯にそって起こる地震となります。このような海洋プレートの沈み込みに伴う現象で、陸側の岩石の陸化が起こっています。
 これらの作用の繰り返しで、堆積物が陸に付け加わります。陸側の大陸斜面の下部にできる堆積物を、付加体と呼んでいます。
 列島側の陸に高まりができると、侵食にさらされていきます。侵食を受けた岩石は、砕かれ、海に向かって堆積物として流れ込みます。一部は海溝まで達することもあります。海溝では、常に沈み込みによって堆積物が陸側に付加する作用が働いています。だから、海溝は沈み込みが起こっている限り、深い場所となります。
 まだまだ沈み込みによって岩石に多様性が生まれるメカニズムが働いています。それは、地下深部の出来事ですが、次回としましょう。

・論理学・
今論理学の入門書をいくつか読んでいます。
論理学自体は、まささに論理的で理詰めですべて話が進んでいきます。
数学以上に簡潔に証明がなされていきます。
できればそれも学びたいのですが、
まず、論理の基礎的な概念をつかむために、
いくつかの入門書を読んでいます。
大いに学ぶとこと大です。
そして、応用できるところ大です。
ただ、私が目指している方向性とは、少々違う気がします。
しかし、基礎的な教養、道具としては必要なので、
もう少し、深く学んでいくつもりです。

・卒業式・
先日大学の卒業式に参列してきました。
学長の送辞として、何人かの学生の大学生活が紹介されていました。
もちろん彼らは大学でがんばって、それなりの成果を挙げた学生です。
このような話を聞くと、教員をやっていてよかった思える瞬間です。
しかし、学生はどう思うでしょうか。
がんばったと思っている学生はどれほどいるでしょうか。
夢を見つけ、そしてその夢に向かって
新たなステップを大学という場で踏めたのでしょうか。
そうであればすばらしいことです。
もし、大学生活に不満や思い残すことがあった学生いたとしたら、
彼らは成功した学生の話をどう聞いていたでしょう。
かろうじて卒業した学生、
就職が決まっていない学生、
何をしたいかまだ決められない学生、
彼らにとって、卒業は喜ぶべきことなのでしょうか。
式の最中に不謹慎にもそんなことを考えてしまいました。

2008年3月13日木曜日

3_67 小さいのに多様:日本列島の石2

 地球の表面は、大気(気体)か海洋(液体)が覆っています。しかし、固体としての地球は、岩石が主役になります。日本列島は本当に多様かどうか、他の地域との比較によって比べていきましょう。


 日本列島は、地球の全表面積からすると、非常にささやかな存在にすぎません。そのようなささやか列島が、なぜ、多様な岩石からできているのでしょうか。まず、多様さを確認しておきましょう。
 地球の3分の2を占める海からみていきましょう。海は液体ですから、海底から下が固体部分となります。海底の主体は、海嶺で形成された火成岩からできています。その火成岩は、海底では噴出して火山岩になり、深部では深成岩になります。海嶺では常にマグマが活動してて火成岩が形成されますので、古い海底の岩石は、海嶺の両側に押しやられます。
 海面近くに棲息しているプランクトンは死に、その遺骸が海底に降り積もります。遺骸がでる量は少ないのですが、時間と共に着実にたまってきます。ですから、古い海底にはウーズとよばれる生物の遺骸からできた堆積物、深部ではそれが固まったチャートと呼ばれる岩石が覆っています。地球の大半を占める海底が、このようなかなり単調な成因の岩石からできていることになります。
 目を大陸に移すと、列島とは比べ物にならないくらい雄大な景色が見られます。アメリカ大陸は、中部から西部にかけては、雄大さの典型ではないでしょうか。中部は広大な大平原が広がります。その地下は、長い年月をかけてたまった堆積岩からできています。西部のロッキー山脈になると標高が上がり、堆積岩が河川の侵食を受けています。ロッキー山脈の中にあるグランドキャニオンは、日本人には想像もつかないほどの大きな川と侵食地形が見られます。削られた谷の断面では堆積岩がきれいな地層を見ることができます。グランドキャニオンの北にはイエローストーン国立公園があります、イエローストーンは火山活動の活発なところで、今でも温泉や噴気がでています。グランドキャニオンから西に向かうとシラネバダ山脈があります。そこには有名なヨセミテ国立公園の渓谷があり、その巨大な渓谷を構成するのは花崗岩です。その花崗岩が、氷河によって削られたもの雄大な渓谷となっています。すべてが巨大です。
 大陸の雄大な景観も、同じ成因の岩石類からできています。広大な範囲が同じ成因の岩石からできているのです。大陸や海底では、似た成因の岩石からできることのほうが、地球では一般的なのです。
 それと比べると、小さな日本列島に実に多様な成因の岩石があります。これは、やはり特別なことだと考えられます。他の地域でも同じような多様性が見られるのでしょうか。実は、いくつもあります。もちろん多様であるために、日本列島と同じものはありませんが、似たような多様性をもつ地域があります。
 そのようなものは、アラスカのアリューシャン列島、カムチャッカ半島、インドネシアの大スンダ列島、中央アメリカの西インド諸島や大アンチル諸島などがあります。すべてに共通しているのは、海溝が近くにあることです。もちろん日本列島も海溝に面しています。千島・カムチャッカ海溝、日本海溝、伊豆小笠原海溝、東海トラフ、南海トラフ、南西諸島海溝などが平行しています。
 どうも日本列島の多様性は、海溝が重要な役割を果たしているようです。

・日本の役割・
地質学は、欧米、特にヨーロッパで発展してきたものです。
欧米は、大陸に属しますので、単調な成因の岩石が分布する地域です。
ですから、列島の多様さは、あまり考慮されずに地質学が進んできました。
明治以降、日本では多くの地質学者が調査研究をしてきました。
その結果、列島は、大陸とは違う特殊なところだということがわかってました。
現在では、大陸の形成において、
列島が重要な役割を果たしていることもわかってきました。
小さな列島ですが、地質学では、重要な役割を担っています。
また、日本の研究者もその役目を果たしているのです。

・季節は巡る・
大学は入試の後半と卒業を迎えています。
北海道も暖かい日が続いて、雪解けが進んできました。
先日は雨が降りました。
冬は北海道では傘を持ちあるかないので、皆少々戸惑っています。
しかし、長く待ち望んだ春が、もうそこまで来ました。
今年の冬は前半は暖冬でしたが、後半に大雪が何度もあり、
積雪は例年を上回ったようです。
それも、もう過ぎたことです。
まだ何度も雪は降るでしょうが、季節は確実に巡っています。

2008年3月6日木曜日

3_66 多様な岩石:日本列島の石1

 日本列島は、多様が岩石からできています。当たり前のようにみえますが、よくよく考えると、それは非常に不思議なことです。日本列島の多様性の不思議をみていきましょう。


 日本列島は、非常に多様な岩石が見つかります。先カンブリア紀の岩石こそ少ないですが、種類として、非常に多種多様な岩石があります。
 地球の地下や地表の環境は多様で、環境は時間と共に変化してきます。ですから、場所や時代が違えば、形成される岩石は違ったものとなっていきます。ですから、岩石が多様であるのは、当たり前のような気がします。多様でも、分類できるということは、岩石には、それなりの共通点や、系統的な差異があることになります。
 一番大きな岩石の分類は、成因による区分です。それは、堆積岩と火成岩、変成岩の3つに分類されています。堆積岩は、土砂が地表でたまり、固まったものです。火成岩は、地下深部でできたマグマが、地表もしくは地表付近で固まったものです。変成岩は、地下で温度や圧力によって、もとの岩石が溶けることなく別の岩石に変わったものです。
 日本列島では、成因の違った3種の岩石が、複雑に分布しています。そして、そのできた年代や条件が、それぞれに異なっていて、多様になっています。
 堆積岩では、ごく普通の礫や砂利などからできている岩石、生物の遺骸が集まった岩石、温泉や海底などで沈殿したものなどがあります。できた時代も、古生代から、つい最近できた地層まであります。できた場所も、海でたまったもの、湖でたまったもの、陸地でたまったものもあります。
 火成岩では、火山岩や深成岩もあり、その種類や出かた(産状といいます)も多様です。火山岩では、白っぽいデイサイトや流紋岩から、灰色の安山岩、黒っぽい玄武岩やピクライトまであります。深成岩でも、花崗岩、閃緑岩、斑れい岩、カンラン岩などがあります。産状も、火山灰などの火山から吹き飛ばされた火山砕屑岩、水中で噴出した枕状溶岩やその破砕岩(ハイアロクラスタイトと呼ばれます)、マグマが地表で流れ出た溶岩、地中で岩石を貫いた貫入岩、地下深部でゆっくりと冷え固まった深成岩まであります。
 変成岩は、温度条件の変化として、マグマによる加熱、地下深部の温度上昇(地温勾配といいます)によって変成を受けたものがあります。また、圧力条件の変化として、地球深部の圧力で変わったもの、プレートの沈み込みによって地下深部に持ち込まれたものもあります。また、温度と圧力の両方が上がってできたものもあります。また、機械的物理的に砕かれて変成を受けたものもあります。このような温度と圧力などの条件に違いによって多様になります。さらに、もとの岩石の種類によっても多様性が増します。
 ある地域の岩石が、たとえ一つの成因だけでできていたとしても、よく見れば、どの地域をとっても、その大地を構成する岩石は、多様であることがわかります。そのような大地の岩石には多様性があることがわかっていても、やはり日本列島を形づくっている岩石は、多様だといえます。
 その多様性は、たまたまなのでしょうか。それとも何か訳があるのでしょうか。それは次回としましょう。

・二度と採れない・
日本列島は、岩石だけでなく、鉱物も多様に産出します。
岩石が多様だから、鉱物も多様になります。
多様性を知ることができたのは、
実は、日本は狭い国土に多くの地質学者が
研究を続けてきたためです。
明治以降、鉱山が各地で開発され、採掘されたため、
多様な鉱物が発見されてきました。
大型の貴重な鉱物標本は大学や博物館などに保管されていますが、
その鉱山で、当たり前の鉱物標本が、案外なかったりします。
今では閉じられた鉱山の標本は、もはや手に入れることができません。
ですから当たり前のものが非常に貴重になります。
幸い、鉱物を収集しているマニアが日本にいたので、
その人の標本が残っていることがあります。
もう二度と採れない標本は、
今あるものを大切にしなければなりません。
これは、鉱物標本だけでなく、
すべての自然物についていえることですね。

・術後・
眼の手術をしました。
1週間は安静にして、毎日通院して検査を受けていました。
その後、1週間は雑菌を入れないようにしながら、
無理をせず、日々を過ごしていました。
しかし、仕事があるため、自宅で少し仕事をしたり、
大学にも午前中だけですが、でていました。
そして今日、最終的に検査を受ける予定です。
一応経過は良好なので安心していますが、
眼の中を縫っていて、糸が解けるまで1月ほどかかるので、
ホコリがはいると、いつまでも眼が開けらない状態になります。
まあ、無理をせずに復帰していくつもりです。

2008年2月28日木曜日

3_65 PETM 3:結果

 PETM後の温暖期に、北極海では、アカウキクサ・イベントと呼ばれる異変が起こります。PETMシリーズの最終回として、その異変を見てきましょう。


 PETM後のEocene Optimumでは、全地球的な温暖期で、大気中の二酸化炭素も現在よりもっと多く、現在の10倍ほどの3500ppmもあったようです。北極海では、この温暖期に大きな環境変化が起こります。その記録は、北極海の海底堆積物から読み取ることができます。
 北極海の海底には、現在、8mほどの堆積物がたまっています。それらの堆積物は、珪質砕屑物とプランクトンを原料とする有機物が主成分としていますが、その中にアカウキクサの化石からできている数mmの薄い層(ラミナと呼ばれています)があります。このアカウキクサの薄い化石の層に、じつは重要な意味があるのです。
 アカウキクサの薄層が、北極海のどこからの海底堆積物からも見つかることが、いくつかのボーリングコアで確認されています。その薄層がたまった時代は、4900万年前です。また、詳細な古地磁気と花粉の研究から、その薄層の形成された期間が、80万年間であることも突き止められています。
 これらの証拠から、4900万年前の北極海で、一時的ですがアカウキクサが大発生したと推定されます。これをアカウキクサ・イベント(Azolla event)と呼んでいます。このイベントは、ある地域である一種が大繁栄をしただけのことですが、注目されるには訳があります。
 アカウキクサとは、直径1から2cmほどの小さな葉を持つ、淡水に生息する浮遊性のシダ植物です。日本でも近畿以西の本州、四国、九州などで見られ、熱帯から温帯の暖かい地域に生息している植物です。アカウキクサは、繁殖力が旺盛で、条件さえよければ、2、3日で葉っぱが、2倍に増えていきます。
 北極海は、PETMの前後の大陸移動があっても、現在と同じような高緯度に当たっていました。ですから、北極海は当時も地球上では一番寒い海に当たります。極寒の海であるはずの北極海に、なぜか。熱帯や温帯でしか育たないアカウキクサが大発生したのです。
 さらに、このイベントと同時に、大気中の二酸化炭素の量が、3500ppmあったものが650ppmに激減します。二酸化炭素が、一気に約82%も減少したのです。これは、現在の地球温暖化問題の解決に重要なヒントを与えてくれそうです。ですが残念ながら、これらの因果関係は、まだ定かでありません。
 ある試算では、当時の北極海の広さ(約400万平方km)に、80万年間に渡ってアカウキクサが覆い繁殖をしつづければ、この単独のイベントで、大気中の二酸化炭素を2割に減少させることも可能だとされています。
 地球史上のPETMという一つの異変が新たな異変を引き起こします。これが因果の連鎖というもので、非常に複雑な因果が絡み合って起こるはずです。このような連鎖を過去の歴史から探ることは、科学が進んだ現代でもなかなか困難なことなのです。もし過去の一つの事件の解明された因果関係を、安易に現在や未来の問題に適用するのは、危険なこともあはずです。しかし、過去は現在に重要な示唆を与えてくれます。地球はさまざまな異変を経てきました。その事件の発見と研究は、今の私たちが進むべき道標となるはずです。今後も研究を続ける必要があります。

・再確認・
PETMという事件は、私は以前から知っていました。
しかし、Azolla eventというものは、
今回PETMを調べていく過程ではじめて知りました。
H. Brinkhuisと35名におよぶ共著が、
北極海のボーリングコアをもとに
2006年にNatureに発表したのがきっかけのようです。
少々専門が違うので、この論文は知りませんでした。
この時期に北極海の温暖化が起こっていたのは、
以前からわかっていたのですが、
北極海が淡水で、ここまで温暖であるとはだれも気づきませんでした。
この新たな証拠の発見で、PETMの温暖化のすごさが再確認されました。
今後、この研究はますます注目されていくのでしょう。

・手術・
私は、先週の19日に眼の手術を受けました。
日帰り手術ですが、少なくとも1週間は
自宅で安静にしていることなります。
経過によっては、2週間以上療養が必要かもしれません。
ですから、このメールマガジンは、
18日に発行しています。
次回からは、復帰して、メールマガジンを発行していると思います。

2008年2月21日木曜日

3_64 PETM 2:原因

 PETMと呼ばれるイベントは、なぜ起こったのでしょうか。その原因は、どうも海と大陸の配置、そして火山活動、海流や気候変動など複雑だったようです。


 PETM(Paleocene-Eocene Thermal Maximum)とは、暁新世-始新世境界温暖化極大イベントと呼ばれ、今から約5500万年前に起こった急激な地球温暖化事件のことです。それを呼応したように暁新世-始新世の時代境界では、大絶滅が起こっています。PETMがどのようにして起こったのかは、興味があるところです。現在、多くの科学者が、研究しているホットな話題となっています。
 PETMは、1990年に海洋学者のケネット(J. Kennett)とストット(L. Stott)の論文がきっかけになりました。彼らは、海底の堆積物の分析から、北極海では始新世の始まりに、海水面だけでなく海水温全体が突然高くなり、深海では酸欠になり絶滅が起こったと考えました。その報告をきっかけに、北極海の異変が全地球的な絶滅を起こした、という説を唱える研究者が何人もでてきました。もしこれが本当なら、PETMは北極海周辺の局地的な現象ではなく、全地球的な大事件になるわけです。問題は、PETMが、なぜ起こったのかです。
 PETMが起こった5500万年前ころは、現在の大陸配置とはだいぶ違っていました。研究者によって過去の大陸配置の復元は、その詳細においてはいろいろ違いがありますが、あらすじは一致しています。
 PETMの前後に、インドがユーラシア大陸に衝突しました。その影響で、ヒマラヤ山脈ができ、世界各地で火山活動が活発化しました。また、すでに開きはじめていた大西洋は、さらに開きはじめます。
 多くの研究者は、この時期に、大陸の衝突の影響で各地で火山活動が活発化し、大陸と海洋の配置が変化したことで海流にも大きな変化が起こし、気候変動へとつながったと考えています。
 PETMのころの北極海は、今よりも閉ざされた、いくつかの海峡で外洋とつながっている海でした。ヨーロッパとアジアの間には、広い海峡(ツルゲイ海峡:Turgay Strait)があり、別々の大陸となっていました。その海峡は、北極海と、当時はまだ広かったテチス海(後に閉じてきて地中海になります)をつないでいました。グリーンランド-北アメリカ大陸間とグリーンランド-ヨーロッパ大陸間は、くっついていたか、あるいは細い海峡しかありませんでした(復元は人によって違います)。いずれにしても、北極海は、今よりもっと閉ざされた内湾の環境だったようです。
 その後、グリーンランドの東側にあった大西洋の中央海嶺と、西のバフィン湾周辺での火山活動が活発になります。その結果、グリーンランドは、北米大陸やヨーロッパ大陸と完全に分裂していきます。その分裂時に起こった火山活動で、大量の溶岩が噴出した直後に、PETMが起りました。
 このように時系列に並べた地質現象をみていくと、誰もが、大規模な火山活動とPETMの関係づけたシナリオを考えたくなります。多くの科学者も、それぞれが得た証拠をもとに、いろいろな仮説を出してきました。火山活動によって直接二酸化炭素の放出を考える説、海嶺のマグマが海底の堆積物に含まれていた二酸化炭素やメタンの放出をさせた説、海底に大量にあったメタンハイドレートが一気にメタンとして放出される説などがあります。
 現在のところ、PETMのシナリオは、まだ確定していません。大気中に大量のガス(いわゆる温暖化ガス)が放出され、温暖化が起こるというシナリオが共通しているようです。その急激な環境変化が引き金となって、大絶滅が起きたようです。では、PETMの結果、次の異変が起こりました、その話は次回にしましょう。

・大陸配置・
PETMのころの大陸配置の復元は、
http://www.scotese.com/newpage9.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Early_Eocene_Arctic_basin.PNG
などがあります。
両者をよく見ると、結構違いが目に付きます。
データがないあるいは少ない時代や地域では、
研究者独自の考えで大陸配置をしなければなりません。
大陸配置は、新たな研究成果が出れば変わることがあります。
たとえば、時代決定が正確になれば、今まで同時期だとされたものが、
実は違う時代の事件になることも起こります。
あらすじはあまり変わらないようです。
なぜなら、あらすじとは、基礎的なデータに基づいて
大陸配置が復元されているためです。
これからも、研究が進めば、より詳しい復元がなされていくでしょう。
もしかすると、決定的な新事実が見つかれば、
新しいあらすじも生まれるかもしれませんね。

・雪庇・
先週は爆弾低気圧のために、全国的に雪模様になったようです。
北海道は、数日で大量の降雪となりました。
雪かきがどこの家庭でも苦労しています。
我が家でも、雪庇がせり出してきたので、
業者に頼んで、雪下ろしてもらいました。
一人の人が2時間ほどで終わらせてくれました。
我が家は雪庇の落下で以前ガレージのシャッターを
破損したことがあります。
もし下に人がいた大事になっていました。
今度の冬に備えて、雪が解けたら、
屋根に雪庇よけの工事をしようかと考えています。