2006年1月26日木曜日

4_67 球磨川の鍾乳洞:九州2

 九州の第二弾です。今回は、球磨川の調査時に立ち寄って球泉洞という鍾乳洞を紹介しましょう。

 九州の調査の一環として、球磨川を訪れました。当初は、源流をたどって阿蘇山に向かう予定でしたが、雪で通れないようなので、人吉で球磨川の調査はあきらめ、九州自動車道で熊本から阿蘇に向かいました。でも、4箇所ほどで、球磨川の調査をすることができました。
 日本三大急流と呼ばれる河川があります。最上川と富士川、そしてあと一つが、熊本県を流れる球磨川です。
 最上川は、標高2035mの吾妻山を源流とする山形県内を流れる229kmの全長を持つ川です。米沢、新庄を経て、庄内平野を流れ、酒田で日本海に注ぎます。富士川は、山梨県の南アルプス鋸岳(2648m)や八ヶ岳(標高2899m)を源流として、甲府盆地から富士市をへて駿河湾に注ぐ、全長128kmの川です。球磨川は、標高1721mの市房山を源流とする熊本県内を流れる115kmの川です。人吉から八代を経て、八代海へと注ぎます。
 高い標高から短い距離で、一気に海まで流れ下りますので、急流になります。急流としての趣を出すのは、地質や地形にもよります。
 昔から球磨川の急流下りとして有名なのは、人吉から下流にあたるとことです。切り立った崖の一部は、石灰岩という岩石からできています。しかし、この地域の石灰岩には、時代と所属の違うものが混じっていて、非常に複雑な地質構造となっています。
 九州大分県の東部、豊後水道に面する臼杵湾から、球磨川河口の八代まで、秩父帯という地質帯が、九州の中央部を北東から南西に分布しています。秩父帯の南側は、仏像構造線によって四万十帯と接しています。秩父帯の北側は、臼杵-八代構造線で、三波川帯と肥後帯に接しています。
 秩父帯の中には、黒瀬川構造帯とよばれる地質帯が混在しています。先ほど出てきました石灰岩は、秩父帯と黒瀬川構造帯に属するものがあります。同じ石灰岩なのですが、黒瀬川構造帯の石灰岩は、古生代、約4億年前のシルル紀からデボン紀にできた古いものを含みます。一方、秩父帯の石灰岩は、中生代、主に約1.5億年前のジュラ紀にできたものです。いずれの石灰岩も礁を作っていた生物によってできたものです。
 球磨郡球磨村の球磨川沿いにある球泉洞という鍾乳洞は、秩父帯(神瀬層)の石灰岩が侵食されてできたものです。もともと洞窟は、国道から200mほど山を登ったところに、70mの竪穴があったのですが、現在は、トンネルで国道沿いの施設から入ることができます。そして、球泉洞の下には、もう一つの鍾乳洞が大瀬洞あり、球磨川に入り口があります。
 この鍾乳洞は、全長4800mもあり、九州では最長で、岩手県の安家洞(8000m)、山口県の秋芳洞(5900m)についで、全国でも3番目の長さがあります。そして、なんといっても1973年に見つかった非常に新しいもので、比較的きれいな状態で内部をみることができます。だた、いたるところに柵があり、うまく撮影ができないのが残念です。

・川辺川ダム・
八代平野には、農業用の井戸がたくさん掘られています。
たびたび水不足になり、農業用水のためのダムが必要とされています。
その目的で球磨川支流の川辺川にダムが計画されました。
川辺川ダムについては、全国にニュースで流れ、
多くの人の注目を集めているところです。
1966(昭和41)年の構想発表から、40年を経過して、
本体着工のめどが、いまだ立っていません。
巨大公共工事の是非を論点としたまま、まだ論争中です。
開発と自然保護には、いろいろな利害がかかわるので、
なかなか難しい問題となっています。

・賛否両論・
川辺川ダムは、現在まだ、着工されていません。
もう一つ近くの開発でニュースになった
長崎県諫早湾の「潮受け堤防」と呼ばれるものも
今回の旅でみました。
干潟の重要性が認められている時期に
巨大公共事業として巨額の国費を投入して建築されました。
そして、1997年4月に堤防が締め切られました。
そのときのニュース映像が、私には強く記憶に残っています。
実はこの問題は、堤防の完成で終わったのではなく、まだ継続中です。
干拓事業ですので、堤防をあければ、
時間がかかるかもしれませんが、
もとの干潟に戻せるかもしれません。
しかし、堤防を開けてしまっては、
巨額の税金を投入した意味がなくなってしまいます。
その賛否が、またまた問題となっています。
技術の力で自然を大規模に変貌させられるから
こんな問題が起こってしまうのでしょう。
しかし、私たちは、その技術力に頼って、生活の基盤を築いています。
技術を生むもの人です。
技術を使うのも人です。
そして技術に被害を受けるもの人です。
それだけで済めば、すべて人の輪の中で済んでしまうのですが、
技術と人の間に、自然があるから、問題が深刻になります。
賛否両論があるのですから、一筋縄ではいかない問題です。

2006年1月19日木曜日

4_66 神々の降臨した柱状節理:九州1

 2006年1月5日から12日まで、九州を巡りました。今年は九州も寒波のせいで積雪があり、予定通り見れないところがありました。今回は、高千穂峡を紹介しましょう。

 阿蘇山は、日本でも有数の大きなカルデラを持つ火山です。現在のカルデラの壁をつくっている外輪山を東に乗り越えると、かつてあったであろう阿蘇山の火山の裾野にでます。なだらかな傾斜の斜面に、深い谷が刻まれています。そんな位置に高千穂峡があります。
 高千穂峡の谷は、柱状節理が作り上げています。柱状節理とは、マグマや岩石が冷めるときにできる割れ目です。マグマが固まり、熱い岩石が冷めるとき、少し体積が減ります。そのときに、岩石に割れ目ができます。その割れ目は、冷める方向に対して垂直にできやすくなります。高千穂峡の柱状節理は、垂直に立っていますから、上下から冷えたことになります。
 柱状節理の上部では、柱状ではなく、放射状の節理もあります。ここでは、表面に近く、丸くなるような冷え方をしたようです。自然の造形ですから、同じようでも、2つとして同じものはありません。
 垂直の柱状節理は、川によって侵食されていくと、柱が一つ一つ倒れていきます。ですから、切り立った崖として侵食され、深い谷ができます。高千穂峡も、そのような作用でできました。
 この柱状節理は、阿蘇山の火山のふもとにありました。ですから、阿蘇の火山によってできたものです。柱状節理をよく見るとそこには、黒っぽいガラス状の石が延びて含まれています。これは火山の火砕流によって放出された軽石などが、熱のために溶けてガラス状になったものです。火砕物が溜まった時の圧力で、平たく伸ばされたものです。このような岩石を溶結凝灰岩といいます。柱状節理は、阿蘇の火山噴火で火砕流が起き、火砕物が溜まり、再度熱くなり固まり、それが冷えたときできたものです。
 阿蘇山は、過去に4度の大噴火を起こしています。最初は26.6万年前で、2度目が14.1万年前、3度目が12.3万年前、4度目が8.9万年前です。3度目と4度目の大噴火の時、火砕流が高千穂を襲い、火砕堆積物を堆積しました。これが、今では柱状節理となっています。
 火砕流は、マグマが地表付近で大爆発して、膨張したものが、流体として熱いまま流れていきます。600度から1000度ほどの熱い流体で、高速で流れていき、山があっても乗り越えて、遠くまで達します。
 阿蘇山の4度目の火砕流は、非常に大規模で広範囲に及びました。この火砕流は、南は人吉盆地まで達し、南以外はすべて海にまで達しています。北は海を越え山口県宇部市、東は五ヶ瀬川の河口から海へ、西は海を越え、島原半島、天草下島にまで達しました。その規模は、火砕流だけで、九州を半分近くを覆うような大火砕流だったのです。また、火砕流だけでなく、火山灰も大量に放出し、北海道東部でも15cmもたまっています。
 そんな大噴火によって形成された高千穂峡ですが、今ではそんなことに気づく人はどれほどいるでしょうか。高千穂峡を橋の上から見下ろすと、そこには切り立った崖と、音も無く落ちる滝、そして静かな水面という、神秘に満ちた景観をみせてくれます。時折静かな水面をボートが行きかい、これが現代であるということを、思い出させてくれます。こんな景観の中で、いろいろな神話が生まれたのも納得できます。

・風邪・
九州調査から帰ってすぐ、私は風邪でダウンしました。
長男は、旅行中の10日の夜にダウンし、
救急車で運ばれ治療を受けました。
長男はお腹に来る風邪で激しいを嘔吐を伴いました。
私は、一般的な風邪の症状で、
悪寒から、周期的な発汗でした。
私は、食欲も落ちることなく
発汗による不調だけで、4日ほど寝込み、直りました。
この時期の旅行なので
インフルエンザの予防接種は家族全員で受けていました。
出かける前に、次男と家内が風邪を引き、
旅行中に長男が、旅行後に私が、
それぞれ別の風邪を引いたようです。
私の風邪は、ほぼ治ったのですが、
ただ、咳がなかなか抜けません。
私は、いつも風邪を引くと咳が抜けませんが、
今回もそうでした。
教員にとって、この咳は大問題です。
講義が非常にやりづらいですし、
学生も多分聞きづらい講義となります。
こんなとき、教員というのは、非常につらい仕事であると思います。
講義を他の人に頼むことができません。
その時期の講義の全体を掌握しているのは、本人だけです。
急遽代役を立てることはできません。
教員として、研究者や教育者としての素養も重要ですが、
健康であることが非常に重要となります。
私は、怪我だけはしないように、
スポーツの旅行も注意し選択しています。
怪我はかなり予防できるのですが、
ただ、病気だけはなかなか予防し切れません。
病気になりたい人はいません。
ただ、教員は多くの学生の前で話し、
対面するものですから、
どうしても風邪などの伝染病にかかりやすい環境にいます。
どう注意しても、1、2年に一度は風邪にかかります。
そのたびに私は咳に悩まされます。
困ったものです。

・異常気象・
雪の九州という異常な気象条件のもとでの調査となってしまいました。
6日に島原から、雪の中、ノーマルタイヤで、
雲仙温泉までなんとかたどり着きました。
しかし、濃霧で視界が利かず、
普賢岳を眺める有料道路も通行規制がかかっていました。
ですから、スリップしながら命からがら降りてきました。
残念ながら、普賢岳を近くから眺めることはかないませんでした。
また、長男の急病のため、後半の目的であった
日南海岸の四万十層と桜島は
ほとんど見ることができませんでした。
11日は宮崎の旅館から桜島の旅館への移動。
12日は、旅館から鹿児島空港までの移動だけでした。
まあ、長期の旅行では、こんなこともあるでしょう。
残念ですが、これも旅の思い出としておきましょう。

2006年1月12日木曜日

1_55 新生代4:人類の登場(2006.01.12)

 地質時代シリーズで新生代の4回目で、いよいよ終わりに近づいていきました。今回は、人類の歴史になります。

 ヒトの定義は、なかなか難しいものです。人類学的な定義としては、直立二足歩行、音声言語の使用などがあげられていますが、まだ確定しているわけではありません。直立二足歩行は、霊長目の中で人類だけに見られる特性です。しかし、その特性の解明は、人類学上の難問の一つとされ、まだ定説がない状態です。
 人類は、生物学的にはヒトと呼ばれて、霊長目真猿亜目ヒト上科ヒト科に属しています。学名は、ホモ・サピエンス・サピエンス(Homo sapiens sapiens)です。ヒト科には、現生種としてはヒトが1種だけです。しかし、絶滅した種も含めて、広義に人類と呼ばれています。
 鮮新世から現在に至る約400万年の間に、地球上に生息した人類には、ほぼ連続的な形態の変化が起こっています。
 鮮新世と更新世(洪積世)の古人類は、時代順に、アウストラロピテクス群(猿人)、ピテカントロプス・シナントロプス群(原人)、ネアンデルタール群(旧人)、ホモ・サピエンス群(新人)に分けられています。それぞれが、人類の進化段階を代表するものです。彼らの文化のほとんどは、狩猟採集を基盤とする旧石器でした。
 中期更新世の終り(200万年前)から後期更新世の半ば(100万年前)にかけて、新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の出現と人種の分化が起こりました。脳容積は、猿人から原人へと増大し続け、リス/ウルム間氷期に、最大になりました。それ以後、今日まで脳容積は変化していません。
 現代人と変わらない大きな脳をもつ、リス/ウルム間氷期とそれに続くウルム第1亜氷期に存在した人類は、ホモ・サピエンス・サピエンスとホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスという学名を持つ2つです。ネアンデルターレンシスもホモ・サピエンスに属しますが、亜種のレベルで区別されています。ホモ・サピエンス・サピエンスとホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスとの二つの亜種は、人類の進化からみると、新人と旧人に相当します。
 新人は、今から約3万年前のウルム第1亜間氷期に出現し、今日に至るまでの全人類を含んでいます。現生人類は、新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)として、生物学上の進化はすることなく、道具を使い、文明を構築し、科学を知り、技術を利用するようになったのです。
 そして、不思議なことに、ヒトは自分自身の歴史や、地球、自然について考えるようになりました。

・大学の暦・
松の内の終わりです。
いよいよ本格的にはすべての社会活動がじまります。
大学も、もうスタートしています。
3週間ほどの講義をして、あとは定期試験です。
2月には卒論発表、入試など、忙しくなります。
でも、これも年初めの年中行事です。
慌しさがあるため、一気に正月気分が抜けていきます。
ありがたいのか、厳しいのかわかりませんが、
これが大学の暦です。

・九州調査の終了・
やっと九州調査から帰ってきました。
といってもこのエッセイは、出かける前に書いて発送しています。
ですから、九州調査の話は、別の機会にしましょう。
長らく留守にしていて申し訳ありませんでした。
メールをいただいた方早急に返事をしますが、
今、しばらくお待ちください。

2006年1月5日木曜日

6_42 自然と人工について

 明けましておめでとうございます。年頭に私達人類の進む道について考えました。

 皆さんは、自然というと、どのようなものを想像しますか。
 昨年自然遺産に指定された知床のような、人手のあまり入っていないものでしょうか。人里はなれた森や林の緑でしょうか。人が長年暮らしてきた里山や、人が手を入れ続けてきた雑木林でしょうか。田畑の広がる田園風景でしょうか。緑の木々や芝生のある公園でしょうか。植物や野生の昆虫などが来るビル街の屋上に作られたビオトープでしょうか。室内の観葉植物や熱帯魚でしょうか。
 上であげた例は、意図的に書いています。人間の関与が少ない順です。皆さんは、どこまでを自然と呼びますか。それともすべて自然と呼びますか。
 このような自然の人間が関与して自然らしくないものの境界は、それぞれの人が自然をどのようなものと考えるかということになりそうです。つまり、自然と人間が関与の境界をどのように定義するかという問題になると思います。
 その定義において重要となるのは、人間の関与の程度です。人間の関与とは、人間と自然とが対峙する構図から生まれる考え方です。人間の関与したもの、人間の作ったもの「人工」は不自然なものだという考えです。人工は自然と反対語とされているのです。
 では、人間は、自然の一部ではないのでしょうか。もしそうなら、いつ、なぜ、そうなったのでしょうか。
 考えると、少々不思議な気がします。人間は、生物です。生物ですから、霊長類、哺乳類、脊椎動物、動物、多細胞生物、真核生物などのグループに属し、他の類似の仲間がいます。人間は、生物学的分類上は、あくまでも生物であります。実際に人間は、生物として生きています。
 生物を分類するとき、各生物の特長によって種というものに分けられますが、人間もある特徴を持って、そのひとつを占めています。人間は生物の一種なののに、どうも自然を人間とは相容れない対峙する構図へと、いつの間にか作り上げられていったようです。
 日本では、自然を敬う気持ちが強かった明治以前は、自然と何とか共存しようと考えていたような気がします。いや、共存というより、自然の脅威をなんとか凌ごう、耐えようと日々苦闘していたはずです。そして、自然の災害にあわなかったときは、儲けものと思っていたはずです。そんな脅威の自然は、恐れ、敬い、祈ることでしか、対処できなかったのでしょう。このような時代においては、人間は弱いもので、自然は支配的だったのではないでしょうか。
 しかし、技術の進歩によって自然を人手で大きく改変できる力を人類が身につけたころから、自然は敵対し、対峙するもの、あるいは自然を支配下に置くようになったのではないでしょうか。そして、他の生物は、人間のためにあり、人間が生殺与奪の権利を持つようになりました。生物を、時にはほとんど殺しつくし、しかしそれではいけないと保護したりました。一つの生物の種にすぎない人間が、他の種を殺したり、守ったりしています。どこかに矛盾を感じます。
 発達した文明は、コンクリートのジャングルでストレスを感じながらも、人工の自然の中でしか生きていけない、多くの人間を生み出しました。ナチュラリストという人たちの多くも、快適な人工環境の中で暮らしながら、休日にコンクリートから離れて、緑の多いところに出かけ、つかの間の自然を味わい戻ってきます。これが自然への本当の接し方でしょうか。私のその一人です。
 自然について深く考え、現状をなんとしなければという気持ちを、もっと多くの人が持つ必要がないでしょうか。私達人類が進んでいる道は間違っていないでしょうか。快適さ、便利さ、経済性だけを求め続けて、もっとも大切なものを、どこかに忘れてはいないでしょうか。取り返しのつかないことを、私達はしていないのでしょうか。立ち止まって考えるときがきているのではないでしょうか。考える時期を逸していなければいいのですが。
 年頭に、そんなことを考えました。

・母の訪問・
明けまして、おめでとうございます。
昨年はメールマガジンを購読いただきましてありがとうございます。
本年もよろしくお願いします。
よい正月をお迎えになったでしょうか。
我が家には、離れて暮らしている母が、
昨年の暮れから正月にかけて来て、一緒に過ごしました。
母には、大阪から飛行機で千歳まで来てもらっていますが、
自宅から空港までは安い送迎タクシーのサービスがあり
千歳までは私達が送り迎えするので、
なんとか一人でも来てくれます。
母は足を痛めているので、
温泉に日替わりで、3回連れて行きました。
そのうち1回はいつも泊まっている
温泉リゾート施設に宿泊しました。
考えると、母が来るたびにそこには宿泊しています。
今年も、私は母の元気な顔を見ることができ、
母に孫達の顔を見せることができてよかったです。
しかし、温泉の宿泊から帰った日が寒かったので、
母も子供も風邪を引いてしまいました。
でも、母は早めに風邪薬を飲んだので大丈夫であったようです。
一安心です。

・九州調査・
私は、このエッセイが配信されるころは、九州にいます。
1月5日から12日まで九州の中部から南部を調査で回っています。
今回も家族も一緒です。
前にもお話しましたが、北海道の小・中学校は
夏休みが30日ほどで短い分、
冬休みが1月15日までと、一週間ほど長くなっています。
ですから、冬休みに家族旅行がしやすくなります。
でも出かけるのは、暖かい南の方になります。
今回は、まだ調査していなかった九州地方です。
普賢岳、阿蘇山、桜島などの火山と
九州の代表的な河川として
球磨川と五ヶ瀬川、大淀川などの川と海岸の砂や石を、
いつものように調査してきます。
ですから、返事は少し遅れるかもしれませんが、ご了承ください。