2005年8月25日木曜日

4_61 マンモス

 暑い夏に、寒い氷河期のことでも思いをはせるために、氷河期の代表的生き物でもあるマンモスを見に行きました。

 愛・地球博(愛・地球博は愛称、略称は愛知万博で正式名称は2005年日本国際博覧会)では、8月にはいってからは、連日10万人超す入場者を記録しているようです。中でも、冷凍マンモスが話題になっているようです。そのマンモスは、地名から「ユカギルマンモス」と呼ばれています。しかし、私は、別のところで、冷凍をマンモスを見ました。それも並ばず、無料でです。
 札幌近郊の人は思い当たったでしょうか。北海道大学の博物館でおこなわれている特別企画展示の「マンモス絶滅の謎に迫る シベリア・マンモス展」でマンモスのお尻の部分が展示されていました。じつは、このお尻の標本は、愛・地球博で、一時的にマンモスの頭部と一緒に公開されていたものです。
 シベリアのマンモスは、永久凍土の中に冷凍保存されていたため、皮膚や毛、尻尾まで、なまなましく保存されています。もともと北大の博物館には、北大の研究チームがシベリアで発見し、持ち帰ったマンモスの歯や毛髪マなどの展示がされていました。そんないきさつから、お尻の標本を借りて、冷凍のまま展示されたのです。
 ご存知でしょうが、今から氷河期の終わりに(正確には1万1000年から1万年前の間)、マンモスはシベリアの大地から、突然、絶滅してしました。なぜでしょうか。
 400万~500万年前にアフリカで生まれた人類の祖先は、50万~60万年前に現在の中国の地域及び東南アジアへ広がっていきました。彼らは、モンゴロイドという黄色人種で、北京原人やジャワ原人などの化石人類として発見されています。モンゴロイドの一部は、北に向かいマンモスだけを狙って狩っていました。彼らはマンモスハンターと呼ばれ、40人ほどの集団で暮らし、年間4頭ほどのマンモスを狩っていたようです。しかし、アジアに広がっていたモンゴロイドは、氷河期最盛期に絶滅してしまいました。
 かつては、マンモスハンターの過度の狩猟によるためと考えられていたのですが、どうも原因はそれだけではないというころがわかってきました。
 マンモス絶滅の有力な原因として、激しい気候変動による可能性がでてきました。
 ヨーロッパとアメリカのチームがグリーンランドの氷床で2本のボーリングコア(GRIP、GISPと呼ばれています)から、過去10万年以上の気候変動が読み取られました。そのデータによると、氷河期の終わりは、短い周期で気候が激しく変動していたことがわかってきました。
 温かくなりつつあった氷河期の終わり頃、1万1500年前に一時的に寒い時期(ヤンガー・ドライアス期と呼ばれています)がきました。その様子は、想像を絶するものだったようです。寒い時期から、約10年のあいだに気温が約7.7度以上も上昇したと推定されています。氷河期からの急激な温暖化によって、北半球の氷床は融けだし、大量の淡水が大西洋に流入していきました。その結果、海洋・気候のシステムに大きな影響を与えました。
 シベリアでは、大量の雨や雪が降りました。大量の積雪は植物を隠してしまいます。それまで、シベリアは乾燥した大地で、柳やイネ科の草が広がる草原でした。マンモスにとっては、冬期にエサがないという環境では生きていけませんでした。
 さてさて、マンモス絶滅の謎は、まだ解けていません。温暖化、人為どうも1万数千年前に起こったことのですが、現在の人類が直面している状況と似ているような気がします。果たして、私たちはマンモスの絶滅から学ぶべきことはないでしょうか。

・最後のマンモス・
マンモスについては、いろいろな説があります。
実は4000年前(紀元前1700年頃)に、
北極海のウランゲル島で、
体高1mほどの小型のマンモスが発見されています。
コビトマンモスとも呼ばれ、この小型化は、
乏しくなった食料で生きていくための
適応ではないかと考えれられています。
最後のマンモスがこの島で原住民に狩猟され、
マンモスが絶滅したとも考えられています。
すると、上の気候変動説も、本当の原因ではないことになります。
さてさて謎はますます深まります。

・北大博物館・
北大の博物館を見学しているとき、
ボランティアでマンモスの解説のところにいた方を見かけました。
よく知っているAさんでした。
Aさんは今年の春、北大を定年退職されたのですが、
ボランティアとして博物館の展示場で週に一度解説をされ、
それ以外の日には研究を続けられているそうです。
話し込んでいて、実は展示の解説をよく見ることができませんでした。
申し訳ないことをしてしました。
せっかくの解説を聞かずに、
近況報告をし合っていました。
できれば、機会があればもういちど見に行きたいものです。

2005年8月18日木曜日

1_47 中生代(2005年8月18日)

 地質時代のシリーズです。今回は中生代です。中生代は現在人類が直面している地球環境問題の起こっていた時代でした。そんな中生代を概観してみましょう。

 中生代は、2億5100万年前から6550万年前の間の1億8550万年間の時代です。中生代は、三畳紀(2億5100万年前~1億9960万年前:5140万年間)、ジュラ紀(1億9960万年前~1億4550万年前:5410万年間、白亜紀(1億4550万年前~6550万年前:8000万年間)に細分されています。
 中生代の特徴は、一言でいうと「現在につながる時代」ということになります。生物のタイプでいいますと、現代型生物の出現してきた時代です(1_46 古生代から中生代へ3:生物の変化を参考にしてください)。また、古生代末にできたパンゲア超大陸が分裂する時代(1_45 古生代から中生代へ2:絶滅の原因)で、中生代を通じて温暖な時期となります。
 この温暖で安定した気候の時期が、陸上生物の発展をもたらしました。それは、恐竜の時代ともいうべき時期であります。恐竜の仲間は地球のほぼ全域に進出しました。陸だけででなく空へも翼竜が、海へも魚竜が進出しました。陸上の恐竜には恒温性を持っていた可能性もありますが、変温性でも暖かい時代であったので、十分勢力をもって繁栄できる時代でした。
 温暖化の程度は、白亜紀には年平均気温で10~15℃も高かったという見積もりがあります。こんなに暖かいと、氷床はほとんど融け、世界的な海進が起こっていました。また、海洋生物の生産量が増え、有機物が地層中にたくさん蓄積され、石油がたくさん形成されました。
 この温暖化のそもそもの原因は、パンゲア超大陸を分裂させたプルームの活動です。古生代と中生代の境界に起こった事件ですが、その後も活発にプルームが活動したと考えられています。プルームは激しい火山活動を伴います。火山から放出された二酸化炭素が大量で、その温室効果で、気温が上昇したと考えられています。
 軽く「年平均気温で10~15℃も高かった」と書きましたが、もし二酸化炭素が中生代の温暖化の原因だとすると、現在人類が直面している温暖化は、中生代に起こったほどのものではありません。地球にとってはその変化は「ささやか」といっていいかもしれません。
 P-T境界という古生代から中生代への境界で、原因不明の生物史上最大の絶滅がありました。その結果、現在型の生物が現れたのですが、新しい時代には新しい生物が発展しました。それが恐竜たちです。恐竜たちは、中生代の温暖化の時代を最大限に利用しました。
 このように地球の歴史を眺めていくと、地球環境に激変があっても、生物たちはタフに生き延びます。そして新しい地球環境に適応して、新しいタイプの生物が繁栄していきます。そんなタフな生物たちに、6550万年前にさらなる試練が待ち構えています。これは次回以降の話としましょう。

・水泳の夏休み・
今年の北海道は、暑かったです。
特に6月から7月に、蒸し暑い日が何日もありました。
この暑い夏を、我が家の子供たちは、水泳に明け暮れました。
夏休みに入った早々、スイミングスクールに5日ほど通いました。
その後は、近所の小学校のプール解放にほとんど毎日のように通いました。
まだ次男が小さいので母親が付き添わないとだめなので
家内も子供と一緒にプール通いました。
しかし、お盆ころから、昼間どんなに暑くても
朝夕は涼風が吹くようになりました。
そろそろ北海道の暑い夏も終わろうとしています。
そして子供たちの夏休みの終わりです。
夏休み最後の日は、山のきれいな川に
家族でいって、川遊びをしてきます。
山の川は水が冷たくで泳げませんが、
いろいろなものがあるので、川は面白いです。

・地球環境・
人類が直面している地球温暖化は、
地球にとっても、生物にとっても初めてのことではありません。
上で述べたように中生代に経験しています。
生物は地球の環境の変化を受け入れるだけです。
たとえそれが他の生物が引き起こしたことだとしてもです。
しかし、ひとつの種にとっては、環境の変化は死活問題になりかねません。
同胞の死、家族の死、自分の死は、受け入れがたいことです。
このような思いは、何も人類だけでのものではないはずです。
しかし、人類以外の生物は、それに黙って耐えてきました。
知恵を持った人類は、それを受け入れることを良しとせず、
何とか回避しようとしています。
自分で蒔いた種を、自分で摘もうとしています。
しかし、気をつけなくてはいけないのは、
その回避方法を展開するときに、
他の生物を犠牲にしていないか、
あるいは今まで他の生物を犠牲にして
その問題を起こしてこなかったかということです。
そんなことを深く考えながらよく、
いろいろな方策を考えていかないのと、
新たな問題を引き起こしかねません。
地球は人類のものではありません。
地球は地球自身のものです。
そして他の生物のものであります。
もっと人類は、もっと知恵を使っていかなければなりません。

2005年8月11日木曜日

4_60 十勝岳

 7月下旬の夏休み前の連休に十勝岳にいって来ました。調査が目的なのはもちろんですが、観光もしてきました。今回は十勝岳の周辺の火山について紹介していきましょう。

 北海道の中央部には、南北に50km以上にわたってのびる火山の列があります。北の大雪山から南の十勝岳までに多数の火山から構成されてる列です。この火山列の南側は、十勝火山群と呼ばれ、北東から南西にかけて延びる前富良野岳、富良野岳、上ホロカメトック山、十勝岳、美瑛岳、オプタテシケ山があり、その列と交差するように南東側に、下ホロカメトック山や大麓山などがあります。いずれも、1500mの越える標高の火山で、中でも2077mの十勝岳が主峰ともいうべき山となっています。
 十勝火山群は、50万年前から現在まで、繰り返し活動をしていきた成層火山群です。北海道でも有数の活火山で、何度も噴火が起こっています。北海道の中央部には、十勝岳火山群の火山噴出物が広く積もっています。
 十勝岳火山群の活動は詳しく解明されています。活動は、古期、中期、新期の3つに区分されています。歴史時代でも活動は続いていて、1857年、1887年、1836年、1962年、1988-89年の火山活動の記録があり、現在も噴気が上がっています。
 中でも1926年の噴火は大きな被害を出しました。1926年2月から小規模な噴火を繰り返していていたのですが、5月24日正午過ぎ、中央火口丘の北西部から水蒸気爆発が起こり、小規模な泥流が発生しました。泥流は6kmほど下の白金温泉まで流れ下りました。午後2時にも小規模な噴火があり、午後4時18分に大規模な水蒸気爆発が起こりました。この噴火により熱い岩屑なだれが形成されて、積雪が融けて、大規模な泥流が発生しました。噴火の1分後には2.4km離れた硫黄鉱山事務所を襲い、24分後には25km離れた上富良野や美瑛町を襲いました。死者・行方不明者144名、負傷者約200名におよぶ大災害となりました。この噴火によって北西に開いたU字型の火口(450×300m)が形成されました。
 その後も噴火を繰りかえし、9月には行方不明者2名を出す噴火があり、大正火口ができました。1928年12月にようやく一連の噴火がおさまりました。
 十勝火山群は、現在も小規模な火山活動が続いています。1998年、2000年にはやや活動が活発化しました。その後も毎年のように小規模な火山活動が繰り返されています。
 私が行った7月下旬は、北海道にしては蒸し暑い天気でした。しかし、標高が1000m以上にもなるとさすがに涼しくなります。7月下旬ですが、まだ日陰には残雪が残っていました。残雪の向こうには十勝岳の噴煙が見えました。そして私の足元には高山植物が花盛りでした。
 私には、この火山の噴煙と高山植物が、どうも落ち着かない取り合わせに感じられました。なぜかはわかりません。高山植物の艶(あで)やかさと噴煙の禍々(まがまが)しさが、どうも相容れないものに感じました。植物はたくましく生きている生命の営みです。噴火は大地の営みです。大地の営みのもとで、生命の営みがなされます。ですから、艶やかさの背景の儚(はかな)さを感じてしまうのかもしれません。
 バスで訪れた観光客も、噴煙と高山植物を眺めていました。さて彼らには噴煙と高山植物はどうのように映ったのでしょうか。

・富良野・
北海道の中央には、テレビドラマで有名になった富良野があります。
私はテレビドラマで有名になる前に、
調査で富良野に何度かきていました。
もう20数年も前のことです。
そのころの富良野は、スキーのワールドカップが開催されたスキー場があり、
ウィンタースポーツの地として、ニセコとともに有名でした。
夏は、ただ静かな田園風景が広がる地域でした。
そんな印象があるので、富良野の東部にある十勝岳の調査のついでに、
今回も静かな富良野の田園風景を見るつもりでいました。
ところがどうでしょうか。
富良野に向かう道がかなり混んでいました。
これは、このままいくと大変だという気がして、
人気のないところへ、逃れました。
確かに穏やかな田園風景、そして瀟洒な店は観光客を誘うに十分です。
その道は北海道とは思えない車の列となっていました。
でもこれも北海道なのでしょうね。

・芦別・
富良野の混雑を避けて行ったのは芦別でした。
そちらはもとは鉱山町でしたが、
現在では炭鉱はおこなわれていません。
今では、大きな観光宿泊施設があり、
観光に力を注いでいるようです。
今回紹介した調査とは別に、
7月下旬から8月頭に3日間、私は芦別に行きました。
星槎大学という通信制の大学が芦別にあり、
その大学の主催のシンポジウムがあったのと
私が参加している研究会の集まりがあったからです。
そのときに市長や地元のもと炭鉱マンとも話をする機会がありました。
いずれもなかなか面白い話が聞けました。
多くの経験をしている人は面白ですね。
私もそんな人間になりたいと思っています。

2005年8月4日木曜日

2_41 進化論の進化4:進化論の更なる進化

 「進化論の進化」のシリーズも、いよいよ最後です。今回は、進化論が現在直面している問題点と今後の展望を見ていきましょう。

 遺伝子はDNAの分子配列によって決まりました。DNAの変化が子孫に伝わることが進化のメカニズムの核心でした。しかし、そのような分子レベルの変化が生物の進化を生み出すことに、どうしても賛成できない研究者もいます。
 との一つが、生物とは、DNAのような生物に内在するも要因ではなく、個体が集まった集団、グループが一斉に変化していくという考えに立つものです。
 例えば、フランスの生物学者のラマルクは(1744~1829)、ダーウィンと同時代に生きたい人で、早い時期に進化説と唱えました。だた、ダーウィンの進化論とは違っていまし。進化は、環境によって成長に影響を与え、身体が変化し、その後天的に得た変化(獲得形質といいます)が子孫に伝わるという考えでした。この説は、用不用説とも呼ばれています。ラマルクの進化論は、ある個体が獲得した形質がどのように遺伝するかが説明できないため、批判され、認められることはありませんでした。いくつかの実験結果から、この説を裏付ける証拠が得られたのですが、現在では、その実験の信憑性が疑われています。それに、後天的に得た形質を、どのように子孫に遺伝させるかが、解決されていません。
 この考えの延長線上に、前に話した定向進化説があります。今西錦司(1902~1992)の唱える進化論(今西進化論と呼ばれます)があります。今西は、カゲロウの研究から、棲む環境が異なると多くの種が同時に、異なる形態をした種になっているという「棲み分け」という現象を見つけました。この棲み分けから、環境に適合するために形態を進化させるという進化論が生まれました。この説は、総合説のようなゆっくりとした進化ではなく、急激な進化が必要になるため、対立します。しかし、今西の説は、どのようなシステムで進化が起こるのかが解明されていないため広まりませんでした。
 もう一つの大きな反論は、大進化を一番よく見ている研究者からのものです。総合説は種分化のような小規模な進化には適用できても、今までにない新しいタイプの種や大進化には適応できないという反論です。
 この考え方は、古生物学の分野から出てきました。1972年に発表されたエルドリッジとグールドとの断続平衡説と呼ばれるものです。比較的短期間(断続的に)に爆発的な種の分化がおこり、あとは長期の安定期(平衡状態)が続くという考え方です。その根拠は、中間種的な化石が極めて少ないこと、大量絶滅などの環境の激変の後に新しい形質の爆発的な出現すること、が挙げられています。これはなかなか手ごわい反論ですが、まだ決着はみていません。
 次なる反論は、ダーウィンの進化論では進化が連続的に起こりますが、非連続的な進化の実例が見つかってきたことです。それも、生物の進化における重要な局面においてです。
 それは、マーギュリスが唱えた細胞共生説というものです。真核生物のミトコンドリアや葉緑体、鞭毛など、生物において重要な器官が、別の単細胞生物が共生することによってできたものだという考えです。これは、自然選択とはまったく違った方法で進化が起こるというとことを示しました。高等動物でも、微生物やウイルスの遺伝子に影響を受けている可能性があります。現在では、この説が正しいことが証明されています。そして、このような影響も、進化の過程にはあったことが、総合説でも受け入れられています。
 分子レベルの研究からも反論が出てきました。それは、木村資生が唱えた中立説というものです。中立説によると、分子レベルの進化は、突然変異と遺伝的浮動(定常的に起こっている変化)によって説明でき、分子が環境とは無関係に進化するというものです。この説は、分子レベルの議論を中心にした総合説は、衝撃を与えました。しかし、現在では、重要な遺伝子にかかわる分子の進化は、自然選択によって抑制されることがわかってきました。そのため、現在では総合説と矛盾しないと考えられています。
 いくつかの反論は、総合説に取り入れられました。また、科学の進歩によって、分子レベルでみた総合説の教義(ドグマ)と考えられていた、DNA→RNA→たんぱく質へという遺伝情報の流れが、逆転写現象の発見によって崩れ去りました。総合説自身の研究からも、変化を求められています。
 上で述べたように、まだまだ、白黒のついていない問題も残されています。まだ、進化論は完成していないのです。新しい知識をとりいれた、よりより進化論が必要なのでしょう。まだまだ進化論は進化していきそうです。

・世の常・
今年は、7月下旬から北海道は天気が悪い日が多いようです。
雨でなくても、湿気も多く蒸し暑い日が多いです。
それでも本州の暑さに比べればましなのですが、
北海道の涼を求めてこられている人には、
期待はずれのような気がするのでしょうね。
でも、これも北海道です。
北海道の夏は、涼しいことは涼しいのですが、
盛夏ともなれば暑い日もあります。
蒸し暑い日だってあります。
砂漠にだって雨が降ることだってあります。
一般論はあったとしても、
ある個別にみれば、それなりの変化があるのです。
これは世の常でもあります。

・停電・
夕方から雷が鳴っていたのですが、
雨で夜は涼しいので窓を閉め切っていました。
まして、テレビをつけていると外の音はあまり聞こえません。
その夜、数分ほどでしたが、停電がありました。
私も子供も寝ていたので、騒ぎはしませんでした。
程なく停電は回復しました。
回復してから時計を見ると家内が
まだ起きている時間なので、さぞかしあわてていたことでしょう。
朝起きたら、あちこちの電化製品がリセットされていました。
常時電気をつけていると、便利なこともあるのですが、
非常事態には不便なものです。
この街に引っ越して4年目ですが、停電は初めてのことでした。