2005年5月26日木曜日

4_59 白神岬:春の渡島半島3

 北海道の最南端にある白神岬を訪れた日は、風の強い日でしたが、晴れていました。運良く青森県を眺めることができました。しかし、私は、遠くより足元の石を眺めることに、たくさんの時間を使いました。

 道南にある渡島半島は、南側で東西2つに分かれています。東側は亀田半島、西側は松前半島と呼ばれています。北海道の最南端は、松前半島の松前町にある白神岬です。白神岬は、青森県の下北半島より南にあります。JRの津軽海峡線は、青森県の津軽半島から青函トンネルでこの白神崎の東側を通り、知内(しりうち)町で陸に顔を出します。
 白神岬に向かう国道228号線は、トンネルと覆道の連続する道です。覆道の途切れたところに駐車場があり、白神岬という石碑があります。天気さえよければ、津軽海峡をはさんで津軽半島、下北半島、そして北海道の亀田半島も見ることができます。私が行った日も天気がよく、少々霞んでいましたが、遠くまでよく見ることができました。ゴールデンウィークでもあったので、多くの車が止まり、海越しに遠くの景色を眺めている観光客が後を絶ちませんでした。
 さて、この白神岬は、ちょっと変わった石がみられます。私は、景色をほどほどにして、石を見にきました。駐車場の一番奥に海岸に下りる階段があります。そこから海岸に下りると、岩礁があり、岩石が出ているので、見ることができます。ここには、ほとんど人は来ません。
 海岸の岩礁には、地層が見られます。この地層は、何種類かの石が複雑に入り乱れています。よく見るとぐにゃぐにゃに曲がったり、違った種類の石が入り混んで、混在しています。それぞれの石の境界は複雑ですが、はっきりとしています。階段付近にはチャートと呼ばれる深海底でたまる石があります。黒っぽいもの、白っぽいもの、緑がかった灰色のものなど、いろいろな色のチャートがあります。少し離れると緑色の玄武岩、泥岩と砂岩の繰り返しの地層もあります。
 でも考えると、これらは不思議な石の組み合わせです。玄武岩はマグマが固まったものです。チャートは深海底にたまった生物の死骸が固まってできたものです。泥岩と砂岩の地層は陸から運ばれた土砂がたまったものです。
 もう少し詳しくいうと、玄武岩は、海底の中央海嶺でというところで、海底火山によってできました。チャートは、中央海嶺から離れた海底で静かに、玄武岩の上にたまったものです。泥岩と砂岩の地層は、陸の近くで河川によって土砂が運ばれてくるような大陸棚でたまったものです。
 いろいろな場所でできた石が、今や、がっちりとくっついて固まり、今の海岸で見られるのです。これらの石が、硬く固まっているということは、どこかで出会い、地下の深いところで固められたということになります。海でできた石と陸の近くでできた石が出会い、固まるような場所、それは沈み込み帯と呼ばれるところです。
 陸近くの大陸棚と、海から来たプレートが沈み込む海溝のあるところが沈み込み帯です。海洋プレートの上部は玄武岩でできています。海洋プレートが海嶺から海溝まで長い時間移動している間に、生物の死骸が玄武岩の上にたまり、チャートという岩石ができます。海洋プレートが沈み込むときに、マントルまでいかずに、一部が陸側に剥ぎ取られてることがあります。剥ぎ取られた海洋プレートの一部は、大陸側の岩石の中にまぎれこんでいきます。このようにしてできた石の混合物からできた地質体を、付加体(ふかたい)と呼んでいます。
 付加体の形成は、地殻深部での出来事なので、圧力の高い状態で起こります。そこでは、石が割れることなく変形したり、条件によっては割れてくっついたり、複雑な状態になって固まっていきます。このような付加体が白神岬には顔を出しているのです。その付加体ができたのは約2億年前のことだと考えられています。
 波が洗う岩礁に、地球の歴史が読み取れるのです。私は、今の景色にそんな過去の歴史をダブらせながら白神岬を眺めていました。

・科学のロマン・
白神岬に立つと、かつての地下でおこった激しい運動を感じます。
大地の、ゆっくりとはしていたでしょうが、
激しい営みがあったことが、複雑に入り混じった石から想像できます。
これは実際に誰かが見たわけではなく、
地質学という科学が解き明かした
もっともらしい説を私が信じているからです。
その科学を信じる心が、ここでは大地のダイナミックな営みが起こったと、
私にそんな想像をもたらしたのです。
実際のところ、本当かどうかはわかりません。
私は科学を信じているから、そのような想像ができたのです。
でも、それが本当かどうかはわからないと、言えるところに、
更なる、科学の進歩があるのでしょう。
しかし、私は、そこにこそ、科学のロマンを感じるのですが。

・花見・
北海道も先週末の土曜・日曜日が暖かい日で、春を満喫できました。
一家で、小学校の父母会主催による花見に参加しました。
宮司さんが父母におられるので、
神社の境内を貸しきっての、昼からの花見大会です。
学校先生たちも参加していました。
その神社の参道は桜並木になっています。
紅白の幕を張り巡らし、他の氏子さんも一緒に花見です。
みんなでジンギスカンを食べました。
また、ジンギスカンを食べ終わるころ、
花見に参加していた子供たち20名ほどは、
近所の家の棟上式で餅まきがあるので、
子供全員が、数台の車に便乗して餅拾いにいきました。
うちの子たちも、いっぱい餅や、お菓子をもらってきました。
地元の祭りに参加しているという気がします。
その後、酔っぱらった大人たちは、カラオケ大会に突入しました。
我が家は、そこで終わりにして、近所の温泉にいきました。
夕食は子供たちがもらってきた紅白の餅を
いろいろに調理して、お腹いっぱい食べました。
子供たちは、拾ってきたおやつも食べました。
春を満喫した一日でした。

2005年5月19日木曜日

4_58 メノウ:春の渡島半島2

 ゴールデンウィークの前半に、渡島半島を訪れました。海岸沿いでは風の強いところが多く、ヤッケが必要なときもありましたが、幸い天気に恵まれて、春めいた暖かい日の渡島半島を見て回りました。渡島半島の東側を回ったときに、黒岩というところがありました。今回は黒岩の話をしましょう。

 八雲町の町から北の方に10kmほどいくと、海岸線に山が迫ってきます。国道とJR函館本線が交差するあたりに、黒岩と呼ばれる集落があります。そこに、黒岩奇岩と呼ばれるところがあります。
 黒岩自体小さな町なので、注意していないと通り過ぎてしまいそうなところです。黒岩奇岩は、名所とされて、地図にも出ているのですが、目立たないために、見落としてしまいそうです。また、行こうと思っても、民家の庭先のような狭い道を通っていくので、ここでいいのかな思いながら進まなければなりません。着くと、小さな看板があり、トイレもあり、一応観光名所というべき目印があります。
 コンクリートの堤防を越えて、海岸にでると、なるほど奇岩とも呼ぶべき、ごつごつした岩礁が見えます。砂浜の中に、まさに忽然とあらわれます。あづまやがあり、その横には、赤く塗られた鳥居と、隣の岩の上にある祠(ほこら)に行くために赤い欄干の橋があります。名所らしい装いをもっています。
 この奇岩は、流紋岩という火山岩からできています。流紋岩という火山岩が観察できます。この流紋岩は不思議なつくりをしています。場所によっていろいろな姿に見えます。
 全体としては、ごつごつした岩ですが、場所によっては、いかにもマグマの固まったように見えるがっしりとしたところや、流紋岩という名前の起こりである流れるような模様のところあります。時には、枕状溶岩かのような放射状の割れ目もあります。数cmからこぶしくらいの大きさで丸い形をした石がたくさん含まれているところがたくさんあります。その様子は、一見すると、礫岩のように見えます。
 この火山岩は、マグマが海底で噴出したとき砕かれてできたものです。水中で壊されたものなので、ハイアロクラスタイトと呼ばれるものです。ときどき、白色や灰色、透明感のある丸い粒や脈のようなところがあります。これは、メノウです。大きいものや小さいもの、形も色も、いろいろあります。
 ここのメノウは、岩石がまだ熱い状態のときに、マグマと一緒に熱水も上がって来てできたと考えられます。熱水の中には二酸化珪素(SiO2)という成分も含まれていて、それがメノウをつくったと考えられます。二酸化珪素はメノウの主な成分です。
 メノウが見つかっても、うまく割れそうにもありません。私は、砕けた破片をひとつ拾ってきました。でも、よく見るとあちこちで、メノウを採ろうとした形跡があちこちにあります。もともとはきれいであったであろうメノウが、採集できずに砕かれて無残な形として残されています。
 黒岩奇岩の流紋岩とメノウは、看板にも書かれていませんから、一般の観光客にはわからないはずです。しかし、ここのメノウのことは、地質のガイドブックに紹介されているので、調べればすぐにわかります。私もそれを見て、ここに来たのですから。メノウに興味のある人たちが、取りに来るのかも知れません。あるいは私のような地質学者が採集するのかもしれません。
 私が訪れた春の黒岩奇岩には、ゴールデンウィークだというのに観光客は誰もいませんでした。近所の人が、何組か散歩に来ていました。多分この地域の人たちにとっては、身近で愛すべきところなのでしょう。そして、ここは祠もあり、大切に今も守っているところに違いありません。静かな観光地にも、いろいろな物語があったのようです。

・科学が教えてくれること・
流紋岩の中には、時々透明できれいなメノウが時折あります。
このようなごつごつとした岩の中に、
自然の美しさが隠されているのです。
その理由を科学は探ることができ、
そして解明できるのは、すばらしいことです。
私が見たところ、きれいなメノウは、あまり見当たらず、
あっても誰かが採ろうとしてしくじったのでしょうか、砕かれています。
奇岩を身近な自然と感じている人。
奇岩を信仰対象とする人。
奇岩より自然の神秘を見る人。
奇岩を科学の対象として見る人。
奇岩を観光資源とする人。
奇岩を寂れた観光地と見る人。
自然の造詣を我が物にしようとする人。
それをいろいろ思い巡らしながら見守る私。
いろいろな見方ができることを、
この黒岩奇岩から感じることができました。

・心で感じること・
八雲町で黒岩奇岩は、朝日の名所だそうです。
考えてみると東向きの海岸であれば、
どこでも朝日は海岸線から昇るのが見えるはずです。
あえて、ここが、名所とされるのは、多分、
この黒岩奇岩や鳥居や祠のシルエットを前景にして
朝日をみると幻想的な景色になるのかもしれません。
私が訪れたのは、午前中で陽は高く上っていました。
科学は、この奇岩の由来が
流紋岩のマグマであることは説明してくれます。
しかし、砂浜の海岸に忽然と現れる不思議さは説明してくれません。
そして、奇妙に思える気持ちだって説明してくれません。
そんなことは、科学の領分ではないのでしょう。
ただ、そのその不思議さを心で感じればいいのだけなのでしょう。

・砂鉄・
ここの砂浜には黒っぽいところと、
普通の砂のところがあります。
黒っぽいところは、砂鉄がたくさん含まれています。
黄色っぽいものや緑色っぽいものは、輝石です。
砂鉄とは磁鉄鉱のことで、
火山岩の中に含まれていたものが、集まったものです。
内浦湾一帯の海岸には砂鉄がたくさんあり、
かつては砂鉄をとっていたことがあります。
そんな思いで、ここの砂を、2種類持ち帰りました。

2005年5月12日木曜日

5_42 活火山

 かつて火山の区分には、活火山、休火山、死火山という3つがありました。しかし、活火山以外の、休火山、死火山という用語は使わなくなりました。まさに、死語となりました。しかし、活火山という語は現在新たな定義で使われています。活火山という言葉を考えてみました。

 火山噴火予知連絡会が、国際的な研究動向にあわせて、平成15年1月21日に、活火山を「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動がある火山」という定義に改定しました。その結果、それまで86個あった活火山が、108個になりました。正式に死火山や休火山が消えたのは、2年ほど前のことなのです。
 火山噴火予知連絡会というのは、火山噴火があるとニュースでよく聞く組織の名称ですが、「噴火予知に関する研究・開発の促進、火山活動の総合判断、研究観測体制の総合的検討を行うために」昭和49年に設置されたものです。研究者と防災関係者、30名以内で構成されています。
 平成15年まで火山は、歴史的な記録がある2000年前くらい目処にして、活動期録があるものを「活火山」、活動記録がないものを「死火山」、活動記録があるが現在火山活動をしていない火山を「休火山」と呼んでいました。しかし、このような区分は、人間のライフサイクルと比べると十分はスパンをとっているように見えましたが、火山のライフサイクルは、数100年単位ではなく、数1000年、数万年単位となることから、このような区分は適切でないことがわかってきました。
 そのような問題は、1979年(昭和54年)に、「死火山」とされていた木曽御嶽山が水蒸気爆発を起こしたことが、契機となり表面化しました。それまでの火山の区分が誤解を与えること、現状にそぐわないこと、その後の研究の進展によって、多くの火山は2000年以上の活動周期をもつこと、などの理由から見直しがされたのです。
 現在、火山噴火予知連絡会では、活火山の定義は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動がある火山」とされています。しかし、これにも問題がないわけではありません。火山のライフサイクルを考慮して、1万年という期間を設けたのですが、それで十分という保障はありません。
 しかし、防災という側面を考えたとき、現段階で噴火の危険性がある程度判定できるものとして、「活火山」という用語は必要となります。防災のための監視を、どの火山で、どの程度すべきかを示唆してくれるからです。
 その防災のために「活火山」は、A、B、Cの3つのランクがつくられ分類されています。ランクは、「過去100 年間に組織的に収集された詳細な観測データ」によって計算された100 年活動度指数と、「過去1万年間の地層に残るような規模の大きい噴火履歴(活動頻度,噴火規模及び活動様式)」によって計算された1万年活動度指数から、分類されています。
 ランクAは13火山、ランクBは36火山、ランクCは36火山、対象外として23火山があります。また、各火山のうち、12の火山では、0から5の6段階の「火山活動レベル」を、それぞれの火山で気象庁のホームページで常時掲載されています。
 火山活動というのは比較的理解しやすい概念です。地下にあったマグマや火山性ガスが地表で活動をはじめたものが火山活動です。火山活動によって形成された山が火山です。しかし、活火山はどうも一筋縄ではいきません。活火山は、一応上記のような定義はできますが、活火山に上げられたから今後噴火するかどうかはわかりませんし、今まで活火山とされていない火山でも噴火するものがあるかもしれません。あるいは、まったく今まで火山と関係のなかった地域で火山活動が起こることこともありえます。
 たとえば、富士山も、最初から高い山があったわけではなく、あるときから火山活動を開始して、現在のような火山になってきたはずです。あるときに始まりがあるのです。ですから、活火山とは、言葉上の定義ができたとしても、それで十分といういうわけではありません。もちろん防災の面からもです。
 これが、私たちの知識の現状なのかもしれません。火山噴火の予知は、だいぶ進んできました。特に火山観測網が十分なところでは、噴火の前にはさまざまな予兆的現象が記録されていきます。しかし、活火山は、どれほど監視しても、いつどこでどれくらいの噴火が起こるかを正確に予知できるとは限りません。
 活火山という言葉から、いろいろなことを考えてしまいました。

 今回のエッセイは、気象庁のホームページと、山里 平さんの
http://homepage3.nifty.com/hyamasat/levelrank.html
を参考にさせていただきました。

・休火山・
前回のエッセイで「休火山」という言葉を
不用意に使ってしまいました。
Aihさんから、その指摘を受けました。
この「休火山」という言葉は、
上で書いたように今では使わないのです。
以前に私もこのことをどこかで書いたことがありました。
まったくもって、私の不注意でした。
反省の意味をこめて、このエッセイを書きました。
申し訳ありませんでした。
改めてお詫びします。

・研究者の苦悩・
火山の定義はできます。
過去に活動した火山も、その定義に入れることができます。
しかし、古い火山の多くは、もはや活動しません。
では、活動しない火山と活動する火山は、
どこで線を引けばいいのでしょうか。
現状の科学では、線を引けません。
自然はそれほど単純ではないようです。
したがって、活火山の認定は、
人間への危険性という点に配慮して考えられます。
過去の火山の研究から、
「1万年」というタイムスパンを
火山活動のひとつの目安としたわけです。
しかし、その「1万年」という区切りは、
経験則とでもいうべきもので、科学的根拠はありません。
ですから、活火山として認定されてないから
活動しないという保証はないのです。
そこが困ったところです。
学術的には火山として
たとえば、いつごろからいつごろまで、
どのような活動して、現状はどうなのかを示せば、
用が足りるかもしれません。
しかし、人間生活への影響を考えると、
そう大雑把なことではすまなくなります。
学問が現実に、人間生活に応用、適用されるときの
苦悩がそこには、感じられます。
そして、研究者の苦悩も見え隠れしているように思えます。

2005年5月5日木曜日

4_57 柱状節理:春の渡島半島1

 ゴールデンウィークの前半に道南に出かけました。今回は、渡島半島をぐるりと一周しました。そのときに見た地質現象と感じたことを紹介しましょう。

 春の渡島半島の海岸沿いを、3泊4日で一周しました。北海道南部の渡島半島にあたる地域は、道南とも呼ばれる地域です。私は、以前にも渡島半島は何度か回っています。今回は、海岸線の調査として、全道をつなぐために、渡島半島を一周することにしました。
 時計回りに半島を巡りながら調査をしました。噴火湾沿いに海岸を走り、渡島半島先端の東半分の亀田半島をめぐり、函館湾、そして渡島半島先端の西半分の松前半島を回りました。幸い天気に恵まれて予定通り調査を進めることができました。
 渡島半島は活火山や休火山などが各地にあり、火山岩やその砕かれた岩石などを、いろいろな火山岩の形態を見ることができました。
 ほぼこの今回と同じコースを、反対周りに、以前、まわったことがあります。もう30年近く前になります。巡検とよばれる地質見学旅行で、当時私は大学の2年生として、先生に連れられて、このコースを巡りました。そのときの記憶はそれほど残ってないのですが、いくつか思い出されるものがあります。そんな記憶を、今回は思い出しながらまわることになりました。
 現地を見るまでまったく記憶から消えていたところが、現地にいってみると、思い出されることがありました。それまで一度も思い出すことがなかったのに、現地に行った瞬間に思い出すのです。30年近く前の記憶だというのに不思議なものです。
 そんなひとつに柱状節理がありました。実は、その柱状節理の崖の光景だけは鮮明に覚えていたのです。しかし、その柱状節理を、渡島半島のどこで見たのか正確に覚えていなかったのです。実は渡島半島の東側の海岸で見たのではないかと勘違いしていました。しかし、この乙部町の柱状節理を見た瞬間、「あ、ここだ」と鮮明に記憶が蘇りました。
 友人が立っていた光景、先生が説明されていた姿(内容は申し訳ありませんが覚えていません)も、道路わきで車が時々通るのも、同時に思い出しました。しかし、その景観の不思議さだけが記憶として残っていたのでした。
 乙部町の海岸沿いにみられる崖に、柱状節理がきれいに出ています。ここの柱状節理は、安山岩のマグマが岩石として固まったときに、できたものです。一般にマグマは、固まるとき体積が少し縮みます。その減った分が割れ目(節理といいます)となります。割れ目には、規則性があります。マグマが固まるときの形と冷えるときの冷え方によって割れ目のでき方が、いろいろな形状となります。長く柱状になって節理ができたものを、柱状節理といいます。他にも板状、方状、放射状などの形状ができることがあります。
 今回見た柱状節理は乙部町鮪ノ岬(しびのみさき)というところにあります。岬の付け根辺りに道路があり、道路はトンネルでその岬を潜り抜けます。岬は海に向かってゆるく傾斜して、海に入り込んだような形になっています。その傾斜はマグマの形を反映したものです。マグマが岩石の中に入り込んで(貫入といいます)冷え固まったのです。
 ここでは、柱状節理はマグマの真ん中部にできています。柱状節理の高さは、トンネル付近では10mほどの厚さがあります。上部と下部にも節理があるのですが、不規則な割れ目となっています。下部は海岸の波打ち際で海食台のようにみえます。
 不規則な節理の間に、整然とした柱状節理が岬の先端に向かって伸びています。まるで人工物のような不思議な景観をかもし出しています。この不思議な景観を30年近くたった今も、私は覚えていたのです。
 これが人工的なものだときっとこの不思議さは出てこなかったでしょう。自然の柱状節理と人工物との違いは、その不規則さです。柱の形は、だいたい5角形になってるのですが、どれひとつと同じものがありません。また、5角形だけでなく、4角形、5角形、6角形もあります。また、正4角形、正5角形、正6角形になっていものは、ひとつもありません。でも、全体としてみると整然と柱が密集して並んでいるように見えます。
 こんな不規則でいて、全体として規則的に見えるものなど、果たして人工的につくることができるのだろうか、ついつい考えてしまいます。もちろん乱数やカオスなどを発生させればできるでしょう。でも、人工物はきっと何のためということが前提にあるでしょう。
 しかし、ここの柱状節理は、自然がつくった、ただあるがままの造形です。そこには存在意義を問うこともありません。意義と問うのは人間の側で、自然には正確につくらなければならない必然性もありません。そんことを考えていくと、自然の不思議さがますます増してきます。多分私は、この柱状節理は一生忘れ得ないものとなったでしょう。そして、その場所も今度は覚えていることでしょう。

・道南の黄砂・
道南は天気がよかったのですが、
初日の夜に黄砂とともに雨も降りました。
雨の黄砂のつくるまだら模様は、これまら不思議な模様でした。
窓ガラスは拭いたのですが、
旅行中ですから車を洗うこともできず、
黄色いまだら模様のまま走り続けました。
この時期、北海道でも道南の方では
よく黄砂は見られるらしく、
地元の人は驚かないようです。
私の住む札幌近郊ではまれに降ることありますが、
珍しい現象となります。
桜より先に、大陸から春の便りが来ました。

・子供の見方・
今回の調査は家族連れで行きました。
乙部町の柱状節理のある場所で、
子供に「柱は何角形か」聞いたら、
一生懸命子供が数えて「11角形」と答えました。
大きな割れ目も小さな割れ目を区別せず数えたのでしょう。
私としては、5角形か4角形と答えてもらいたかったのですが、
実際に近づいて数えてみようとすると、
確かに正多角形ではなく、いびつな形をしています。
ですから、4、5とか6とはっきりとしたものもありますが、
不規則な多角形もたくさんあります。
さすがに11角形は、細かい角も数えすぎかもしれませんが、
先入観を持ってみているせでしょうか、
あるいは知識を優先しているのでしょうか、
はたまた、ざーっと見ているせいでしょうか
5角形が多いような気がします。
こんな柱状節理は、私のように子供の記憶にどれだけ残るでしょうか。
こればかりは親の思い通りにはいかないはずです。
子供の自身の記憶ですから。