2004年9月30日木曜日

6_39 季節感

 今年の北海道の夏は特別暑く、夏に台風の被害を受けました。このような自然現象は、例外的とみなされ、済まされてしまいます。でも、少し違うのではないかと感じています。

 地球には、さまざまな環境があり、それに応じて多様な生物が暮らしています。そのような環境と生命の織り成す総体を自然と呼ぶのでしょうか。
 自然は、大きな国土を持つ国では多様すぎて、その国の典型的な自然というものは成り立ちません。
 例えばアメリカ合衆国を考えると、首都ある大西洋岸地域の自然を教科書的に示したとしても、その自然観や季節感は、その地域の人だけに通じるものにしか過ぎません。ロッキー山脈の中の人、南部のメキシコ湾岸の人、フロリダの湿地帯の人、大陸の真ん中の大草原の人、太平洋岸の人、アラスカの人、ハワイの人には、まるで異国の自然にしか見えないでしょうか。ですから、アメリカのような大きな国土の国では、これがアメリカの自然だというひとつの典型が示されるのではなく、この地域にはこんな自然が、あの地域にはあんな自然がある、といろいろな自然を記述していくことになります。
 このような多様な自然や季節感は、大国だから起こることです。でも、日本のような小さな国土ではどうでしょうか。小さいのでアメリカ合衆国のような多様性はもちろんありません。学校の理科の教科書に書かれ、俳句の季語になり、詩や小説、歌詞などに利用される典型的な季節感があります。多くの人は、その季節感に基づいて、会話やニュース、音楽、芸術を理解していきます。
 桜といえば春、紫陽花といえば梅雨、セミといえば夏、コスモスといえば秋、雪といえば冬というような季節感が、日本人には定着しています。しかし、こんな狭い日本においても、この季節観に符合しない地域があります。それは本州の関西や関東などでつくられた季節感によるためです。
 この季節感を否定するものではありません。その地域ではそれが当たり前の季節感だからです。しかし、季節感とは、本来、人がその地で暮らす中で生まれ育って感じたことを基礎に成り立っているはずです。その自分の自然体験による季節感が、教科書的な季節感に合わないとき、それは自分の地域が、東北だから、沖縄だから、北海道だから、小笠原だからということで、目をつぶってしまいます。これはよく考えると、主客転倒のような気がします。
 俳句の季語、詩や小説、歌詞なども、本来、人が自然に接したものから抽出されたれ成立したはずです。いつのまにか一人歩きしていき、それらが季節感を定義し、その季節感あわないものは、例外として排除されるようになってきました。私が言いたいことは、現実の自然がもっと尊重されるべきではないかということです。
 沖縄では冬に桜が咲き、北海道では秋や春に雪が降ります。このような季節感でも、その地域に住む人たちの常識的な季節感のはずです。それを小さいとはいえ、多様性のある日本の季節感として認めることが、多様な自然を容認する一歩ではないでしょうか。
 俳句の季語に詳しくありませんが、その地の季節感を反映した季語のようなものがあってのいいのかも知れません。あるいは、その地域の自然史がまとめられ学校で利用されてもいいのではないでしょうか。北海道では、4月に残雪が町中にあり、時には5月にも雪が降ることがあります。夏にコスモスの満開があり、タンポポが春から秋までずっと咲いています。1年の半分近くが冬のような地域の季節感があってもいいはず。
 私が北海道に引っ越してきて、2年半がたちました。いつも感じることは、北海道の季節感と本州の季節感は違っているということです。この季節感のズレは、北海道だからとついつい例外的にみてきました。しかし、北海道の季節感こそ、北海道にすむ人にとって常識的な自然の感覚であるはずです。それを頭でねじ伏せるはよくないことではないでしょうか。今、そんなことを考えています。

・北海道の秋・
北海道は、山では紅葉の真っ盛りです。
紅葉は山を下り、北から南へと下ってきます。
秋は、春とは逆のコースをたどってきます。
ですから北海道から秋が始まります。
9月からもうすでに秋が始まっています。
晴れた日のその澄み具合が、秋のものです。
9月の積丹半島ではサケの遡上を2つの川で見ました。
まわりの木は、葉を落とし始め、
ナナカマドの実も赤く色づいています。
まだストーブをたくことはないですが、
朝夕は上着がないと寒いくらいです。
北海道の短い秋は真っ盛りです。

・秋の調査行・
10月には、北海道の秋を味わうことになりそうです。
春のゴールデンウイークには残雪と雪解け水に阻まれて
調査できなかった道北の再調査を10月の連休におこないます。
また、昨年11月に訪れ、どこも見れなかった支笏湖周辺へ
今年は、閉鎖される前の10月下旬の土・日曜日にでかけます。
季節は出かける日によって決めることができます。
しかし、その日の天候ばかりは予想がつきません。
野外調査の一番のつらさは、その日が雨のときです。
そのかわり快晴の日の爽快感は
何ものにも換えられない満足感があります。
さて、今年の秋の調査はどうなることでしょうか。

2004年9月23日木曜日

4_47 積丹半島2:火山と侵食

 台風18号が積丹半島に大きな被害を与えた直後に訪れました。今回は、その2回目で、積丹半島の地形、地質について書いていきます。積丹半島の象徴として、積丹岬と神威岬がありますが、両者はまったく違った岩石からできてます。

 積丹半島の先端には、観光名所として名高い積丹岬と神威岬があります。半島の東側で突き出ているのが積丹岬で、西側に突き出ているのが神威岬です。どちらも岬と呼ばれているのですが、違った特徴を持っています。どちらも先端までいくとわかるのですが、まったく違った石ですが、でも両岬を広く見渡すと共通した石がみられます。
 積丹岬は、急な崖を降りて海岸線にたどりつきます。積丹岬のごつごつした景観は、貫入岩や溶岩の火山岩がつくっていものです。そして青く澄んだ海の色は、心惹かれるものがあります。神威岬の海岸には、色々な種類の火山岩がころがっています。火山活動は、1000万から900万年前ころの時代です。しかし遠くには、水平でやや傾いた地層(尾根内層と呼ばれています)が見ることができます。
 一方神威岬は、海に突き出たやせた尾根の上を、転げ落ちそうなほど細い道を先端まで歩いて行きます。その先は、また断崖で、海まではまだ高いところにあります。神威岬では、やわらかそうな水平の地層(余別層と呼ばれています)が見られます。しかし、海の中に切り立ったような形状の岩や、遠くの崖には貫入岩や火山砕屑岩が侵食に耐えて不思議な地形をつくっています。また、そこらじゅうに、火山岩(角閃石を含んだ安山岩)の礫がころがっています。こちらの火山活動は、積丹半島よりやや新しく、600万年前ころのものだと考えられています。
 さて、この積丹半島は、小樽の西にあり、日本海に突き出ています。札幌や小樽に近く、有名な地域ですが、開発が遅れています。その理由として、地形と気候の険しさがあるのかもしれません。
 積丹半島は北西に日本海に突き出ています。険しい地形で、海岸線沿いをへばりつくように半島の周回道路である国道229号線があります。ですから、半島の西半分は冬には季節風が激しく、いい道路ができるまでは、天候が荒れると、通行ができず、陸の孤島のような状態になっていました。峠越えの道も、風と雪が強く、冬場は通行に支障をきたすこともあるようです。
 積丹半島と同じような条件の地域は、道南の瀬棚や雷電、道央の雄冬など、北海道にはいくつかあります。今でこそ道路がよくなったため、冬でも通ることができますが、道路が海岸わきを通っているため、上げしい雨が降ったり、波が高いと、崩落の危険性があるために、通行止めになります。
 このような危険な箇所なら道路や町をもっと内陸につくればいいのですが、そうはいきません。住んでいる人たちは、漁業を生業としているため、海沿いで生活し、集落があります。そのような集落を結んで道ができますから、どうしても海沿いに道ができます。今では、道路を頑丈につくったり、険しい箇所はトンネルをつくっていくなどの技術力で自然の険しさに対抗しています。しかし、それでも、崩落はおきます。それは、侵食という自然現象だからです。1996年2月の古平町豊浜トンネル付近の大規模な崩落は、記憶に新しいものです。
 なぜ、地形が、海岸から切り立ったようになっているのでしょうか。まず、上であげたような地域には、共通した特徴があります。それは、海側に飛び出た地形になっています。それがどうも切り立った地形を作っているようです。
 積丹半島だけでなく、北海道の日本海側に飛び出た地域には、いずれも新第三紀や第四紀に活動したマグマでできた岩石があります。それ以外の穏やかな海岸地域は、堆積岩からできています。
 火山のマグマの性質にもよるのですが、積丹半島の火山の上は比較的なだらかな台地状の地形をしています。マグマでできた岩石は、同時代の堆積岩より一般的に硬いものです。ですから、本来なら侵食で削られるべき地域が、まだ、残っています。これが海側で飛び出している理由だと思います。
 積丹半島には、神威岬にあったような堆積岩でできた地層もあります。特に西部の海岸ではよく見られます。堆積岩でできた地域は比較的やわらかいので、海の波による侵食を受けます。その結果、新しいものでは海食崖、古いものでは海岸段丘などの地形ができます。海岸段丘は積丹半島の西側で、海抜50mあたりによく見られ、最後の間氷期のものであることがわかっています。弱いがために侵食を受け、段丘と海食崖で険しい崖となっています。また、半島中央部の火山活動に関連したマグマの活動によって、地層中には火山砕屑岩や貫入岩がいたるところにあり、侵食を免れて切り立った地形をつくっています。
 このような地質の背景が、積丹半島の海岸での生活を厳しいものにしています。でも、侵食がつくりだしたが、奇岩や地形が、素晴らしい景観をつくっています。これが自然の荒々しさを味わう観光として人を集めています。

・お詫び・
前回のエッセイで観光客を悪く書いてしまいました。
その観光客の中に、以前からの読者のKogさんがおられ、
観光客も台風の被害を感じていたといられてました。
それ対して、私は次のような返事を書きました。

「積丹の台風被害に関する件で、観光客を悪者にしたような書き方をしました。
しかし、考えてみると私も観光客ですし、
観光客にもKogさんのように台風の被害者の方もおられるわけです。
そして、一番災害のひどいところを見なくても、
周辺の状況から被害の程度も予想できるでしょう。
観光客でも被災地を思い、心を痛められている方も多くおられたはずです。
ですから、あのエッセイの書き方は、思慮のない書き方をしたと思います。
反省しています。
別の見方をすれば、積丹においては観光業は大きな産業のひとつでしょう。
台風の直後にもかかわらず、
それも、すべてのコースが見れないというハンディを承知で
観光に行くということは、
復興への間接的な援助ともいえるのと思います。
観光とは、その地の自然、風景、暮らしぶりを見ていくことで、
その地に金をお金を落としいきます。
意識的であろうが、無意識であろうが、
結果として、私が、落ちりんごを買ったのと同じことをしているわけです。
いや、金銭的には、もっと大きな援助をすることになるでしょう。
そんな面もあるということを失念いたしてました。
多分、積丹から帰ってきてすぐあの文章を書いたので、
感情的に書ききってしまったようです。反省しています。
(中略)
重要なご指摘、ありがとうございました。
勉強になりました。」

というものです。
この返事どおり、反省しています。
観光客は決して悪者ではなく、観光地にとっては、
その地域の需要な産業を担っている人たちに当ります。
それをあのような書き方をしたのは、間違いでした。
どうも済みませんでした。

・家族旅行・
神威岬の先端、そして積丹岬の海岸まで、
いずれも6歳と4歳の子も一緒に家族でいきました。
神威岬は、それほど急な上り下りはなかったので、
子供でも足元さえ気をつけていれば大丈夫だったのでした。
しかし、積丹岬は一気に、70mほどを下ることになります。
帰りが大丈夫かなと思ったのですが、
4歳の子供でもゆっくりと時間をかければ大丈夫でした。
でも、このように好きなとこを好きなだけ
時間をかけてみることができるのが、
個人旅行の有利な点でしょう。
我が家は、子供がまだ小さいので、
団体旅行をしたことがありません。
団体旅行には、安く効率よく観光地を回るという利点があります。
それに、道中のトラブルは添乗員が処理してくれるので、
その気安さは何事にもかえられないものだと思います。
そのおかげで多くの人が旅行ができるのですから。
でも、まだ、私は、手間がかかり、お金もかかるのですが、
個人旅行でいこうと思っています。

2004年9月16日木曜日

4_46 積丹半島1:災害の直後に

 積丹半島へ調査に行きました。調査中は、幸い天気に恵まれましたが、台風による災害の跡が生々しく残っていました。そこで感じたことをつづります。

 九州をかすめて日本海に出た台風は、9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を北上しました。台風18号は、衰えるどこか成長して、15m以上の強風域が南東側に600km、北西側が410kmと北海道を覆いつくすような状態にまでなりました。
 網走管内雄武町で最大瞬間風速51.4m、札幌市でも50.2mを観測し、道内の観測点の14ヶ所で過去最高を記録しました。強風による高波によって、海岸付近では被害が大きなものとなりました。死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える災害となりました。その被害は、青函連絡船が強風で転覆し、約1600名の死亡者を出した1954年9月26日の「洞爺丸台風」に次ぐものではないでしょうか。
 北海道には台風があまり来ないために、いったん来ると被害が大きくなりますが、昨年の台風10号の教訓はいきています。でも、今回は、日本海で成長するという予想に反する台風の挙動が災害を大きくしたのかもしれません。
 9月10日の午後から9月12日まで、2泊3日の予定で、積丹半島を一周する予定を立てていました。台風18号の影響で、半島を周回する国道229号線が、途中で通行不能になっているということを、9日の夕刊で知りました。調査を中止するかどうか迷いました。昨年の台風10号と地震の後の沙流川と鵡川の調査を思い出しました。しかし、意を決して出かけることにしました。そして、できれば、被害の状況も遠目で見ることにしました。
 情報では、積丹半島の西側の中央に位置する神恵内村の大森から柵内間で高波で橋が壊されたということでした。事前に通行止めにしていたため、死傷者がなったということも聞いていました。昨年の台風10号で通行止めの判断が遅れ道道で8人が死亡者を出した教訓が、いかされたのだと思います。
 現地に行ってみて、驚きました。高波で海岸沿いの人家がかなり被害をうけていたのです。国道脇では、被害を受けた家の人たちが、水に濡れた家財道具や家屋を乾かしていました。私が訪れたのは、そんな災害直後の復旧作業をしている最中でした。私は、その地に入り見ているうちに言葉がなくなりました。家内も同様でした。
 考えてみれば当たり前のことです。頑丈につくられた海沿いの国道の橋が壊れるほどの高波が襲ったのです。周辺の人家や施設にも同様の被害があったことは容易に予想がついたはずです。それをよく考えずに行ったので、惨状にショックを受けました。晴天の海岸線に、被災者の方々の黙々とした復旧作業が言葉を奪います。
 この人家や施設の復旧にどれくらいの時間がかかるかのでしょうか。国道の復旧はいつになるのでしょうか。神恵内の町は、国道の破壊で2つに分断されました。当丸峠を越えて積丹半島の東側にまで出て、半島を周回し、村の反対側にいかなければなりません。今までほんの数分の距離が1時間半ほどかかるようになったのです。
 積丹半島の最大の観光地である神威岬や積丹岬は、半島の先端にあります。国道が通れば、神恵内の村から、車でほんの10分か15分ほどでいけるところです。そこは、観光客でにぎわっています。観光バスで乗りつけた人たちは、台風による惨状を見ることなく、楽しかった思い出だけを胸に帰っていくのでしょう。
 それでもちろんいいのです。観光という産業も必要です。かたやその地で漁業や農業で生活している人たちがいて、非日常的な状態ですが、災害に見舞われている人たちも同じ時刻にすぐ近くにいます。両者を一緒に見ると、どうもそのギャップが頭の中で消化できません。
 そんな未消化な心持ちで、積丹半島から帰ってきました。

・落ちりんご・
今回の台風で収穫直前の農作物も多大な被害を受けました。
果樹園では、落ちたりんごを市価の4分の1程度で
訪れた人に売っていました。
それでも「多くの皆さんが来ていただいてすぐに売りきれました」と
果樹園主は現金収入になったこと喜んでいるのを
ニュースで聞いていました。
りんごはまだ熟していませんし、傷も付いています。
商品価値があまりありませんから、
それを承知で買っていく人に感謝していたのでしょう。
積丹半島の付け根にある余市町と仁木町も、果物の産地です。
もちろん台風の被害を受けました。
余市の観光案内所で落ちりんごを売っている果樹園を聞きました。
そこで、落ちりんごを一袋買ってきました。
つめ放題で300円で売っていましたので、
子供たちはたくさんつめました。
そのりんごを近所におすそ分けしました。
すっぱいかな思っていたのですが、甘みがありました。
もちろん、完熟の甘さには及びませんが。
毎日、災害の甘酸っぱさを家族で味わっています。

・台風遭遇・
台風18号に私は四国で遭遇しました。
そのあと北海道に帰ってきたので、
北海道での台風の状況は体験していません。
わが大学も近所の大学でも倒木の被害がたくさんありました。
今回の台風は全道的に大きな被害をだしました。
特に道南、道央、道北の被害が大きかったようです。
家内は北海道でこの台風の経験しているのですが、
風が強かったというだけで、
普段と変わりない生活をしていたようです。
どうも現実離れしているようです。
今回のエッセイはちっと暗い話でした。
もちろん調査ですから、海岸沿いの砂や石ころ
そして地質をみてきました。
次回は、積丹半島の地質の話をしましょう。

2004年9月9日木曜日

3_35 化石を探す人たち

 化石のマニアやアマチュアは、化石を見つけることが一番目的です。ところが、研究者は化石を地層から見つけることが目的です。化石探しには違いないのですが、実は大きな違いがあります


 化石は多くの人を惹きつけます。特に子供たちは化石には目がありません。恐竜の化石ともなれば、いつまでも見入っています。化石を探すことも、なかなか面白いものです。でも、化石はどこでもすぐに見つかるとは限りません。やはり限られた場所に出ます。そんな化石を探すにも、研究者は、それなりの注意をはらっています。研究者でも、古生物学者は、化石を見つけることも重要な仕事なります。しかし、化石ハンターや化石マニアとは明らかに違ったアプローチをします。
 すべての堆積岩に化石があるわけではありません。化石がたくさん含まれる地層とほとんど含まれない地層、その間の少ないけれどもときどき含まれている地層などあります。その違いは、地層がどんな環境で溜まったかによります。例えば、北アメリカ大陸で恐竜がたくさん出る地域は、深く南北に延びた湾の海岸沿いに溜まった地層のあるところです。モンゴルでは砂丘のようなところでたまった地層から恐竜がみつかっています。
 地層がどんなとろにたまったものなのかは、地質調査がされた結果とし、その見解をもとに地質図が作られます。日本では、地質図の説明書として、同時に出版されています。その情報をもとに、化石が出るところ探すことになります。
 例えばある地域のある時代の生物を調べるとしましょう。研究者は、まずはじめに、その時代のその地域の地層のことを、できるだけ詳しく調べた論文をたくさん探して調べてます。そして、化石がなんという地層のどこに出るかを調べていきます。そして、その場所がわかったなら、たとえそれがどんなに大変なところであろうと、その目的を達成するために、その地層の出るとこへ入ってきます。滝があろうが、熊が出そうでも、いきます。そして、地層から化石をみつけるまで、永遠と発掘を続けていきます。それが研究者です。
 古生物学者は、特別に珍しいものをのぞき、地層の中にあるものを見つけることに専念します。化石には、河原にころがっている石ころの中にも入っていることがあります。しかし、そんな化石は学術的には価値が低くなります。なぜなら、河原の石ころは、もともとそこにあったわけではなく、上流から転がってきたものです。ですから、どの地層から、どのような状態で見つかるかが、非常に重要な情報となります。
 たとえば、恐竜の卵の化石などは、卵がどう並んでいたのか、巣のようなものがあったのかなどは、ばらばらの卵の破片の化石では知ることができません。そして、地層の中から卵の化石がみつかれば、その情報を探ることができます。そして巣があれば、恐竜は卵を産みっぱなしではく、子育てをしていたことがわかります。
 また、恐竜の体が埋まった状態がわかれば、その恐竜がどのように死んだのかわかります。砂の穴に落ち込んでもがきながら生き埋めになった状態の恐竜化石が見つかっています。子供を守るようにして死んでいる親の恐竜化石も見つかっています。
 研究者たちは、化石から生きていた時のこと、その当時のことを知るために、よりたくさんの情報がみつかる地層からの化石の発掘をしていきます。
 考えてみれば、化石とは死体の一部です。でも、長い時間を経てきたものは、死体とはいえ、人を惹き付けるものに生まれ変わるようです。これは時間の効果でしょうか。時間には浄化作用があるのでしょうかね。

・化石を見つけるには・
Matさんとのメールで、恐竜の化石の話をしているときに、
ふと思いついたのが、このエッセイです。
アマチュアが化石を探すコツは、
まず、化石が出そうな堆積岩が分布しているところを
探さなければなりません。
どこに化石のよく出る地層が出ているかの情報は、
地質図や地質のガイドブックで得ることができます。
日本では、すべての地域で精度はさまざまですが、
地質図はそろっています。
少なくとも20万分の1の縮尺のものは全国の分があります。
さらに精度の高い5万分の1の縮尺は、まだそろっていませんが、
多くの地域のものがあります。
そして、地質図の説明書や地質のガイドブックなどで、
化石の出る場所の情報をえて、
その地域を丹念に探していきます。
ひとつ見つけるまでが大変です。
どれが化石かが、なかなかわからないからです。
そんなとき専門の案内者がいるとすぐに見つけられるようになります。
ひとつの化石を見つけると、つぎつぎと見つけられるようになります。
そんな宝探しのような醍醐味が化石探しの魅力でしょうかね。

・城川から積丹へ・
9月に2日から9日まで、
四国の西予市の城川にでかけていました。
このメールが届くころを
私は北海道にもどっています。
明日からは北海道の積丹半島をめぐる調査をしてきます。
四国は私一人でしたが積丹半島は家族も一緒です。
私は、海岸線沿いの調査していくつもりです。
家族は海遊びです。
問題は天候です。
さあどうなることでしょうか。
こればかりは、心配してもしょうがありません。
まずは、足を運ぶことが大切でしょうから。

2004年9月2日木曜日

5_38 年代を決めるということ

 年代測定の話の続きです。どこにでもある石ころや砂つぶでも、年代測定はできるのでしょうか。そのような疑問についてみていきましょう。

 絶対年代の測定は、放射性元素を利用しておこないます。年代を決めるためには、石ころや砂つぶに、測れるだけの成分があるかどうかが問題になります。放射性元素の種類ごとに、正確に測れる量が違います。同じ元素でも、使う装置や、研究室の環境は研究者の腕によっても、正確に測れる量は違ってきます。ですから、測定を目的としている研究者は、少ない量の試料で、どれほど正確に測れるかを目指して、他の研究室をにらみながら、日夜凌ぎを削っています。
 ウラン-鉛による年代測定を例にみていきましょう。現在の技術では、二次イオン質量分析計という装置をもちいて、ジルコンというウランが比較的たくさん含まれている鉱物なら、20ミクロンメートルの範囲で、年代を測定できます。20ミクロンメートルとは、0.02ミリメートルですから、石ころはもとより、砂つぶひとつでも、充分測れる技術です。
 二次イオン質量分析計は、ジルコンのような鉱物を分析装置の中に入れて、そこにイオンビームをあてて、表面の元素を掘り起こしながらウランと鉛だけを検出装置まで導き、測定していきます。ですから、装置自体は大掛かりですが、コンピュータ制御されています。分析する研究者は比較的楽で、ひとつの鉱物の表面で、いくつも場所の年代を測定することも可能です。
 しかし、同じウラン-鉛による年代測定でも、別の方法もあります。それは、化学分析でウランと鉛を抽出して、表面電離型質量分析計という装置でおこなうものです。ウランと鉛は別の元素と事前に分離していますので、この分析のほうが、精度は格段によくなります。しかし、試料がある程度の量が必要なことや、実験室がきれいでなければいい精度が得られません。それになんといっても化学的に抽出するのに何日もかけなければなりません。もちろんその抽出過程では、研究者の腕も問われます。それに、使ったジルコン全体の平均的な年代を求めることになります。
 二次イオン質量分析計で年代測定をする重要な目的は、ひとつぶのジルコンの中に、さまざまな事件を記録を読みとれることです。地球最古の岩石の年代や地球最古の砂つぶ(地球最古の固体物質と考えられています)の年代、隕石の年代なども、この装置とジルコンをもちいて行われています。砂つぶひとつのなかに、さまざまな歴史を読みとることができるようになってきたのです。
 もちろんこのような装置は高価ですし、世界にも10台もないような装置ですから、多くの研究者が利用したがって、分析の順番を待っています。ですから、何でもかんでも測るということはありえず、研究上重要なものが優先されます。そして、その成果はすぐにでも論文を書けるようなものが、順番待ちをしています。
 二次イオン質量分析計を使うには、ジルコンという鉱物や、古さが必要です。ジルコンでなくても、ウランをたくさん含んでいる鉱物であればいいのですが、鉱物ができた後の変化でウランや鉛の出入りのない鉱物はあまりありません。また、ジルコンがあったとしても新しいものでは、ウランが壊れてできる鉛が少なすぎて正確に測定できません。ですから、いろいろな条件を満たしたものだけが測定可能となります。
 上で述べたようにどちらの方法にも長所と短所があります。でも、二次イオン質量分析計が、鉱物さえ分離しておけば、それ以降は、完全にコンピュータ制御された装置になっていますので、研究者の腕があまり問われません。ですから今後は二次イオン質量分析計が主流の分析装置になっていくのかもしれません。
 ウラン-鉛の年代測定を中心に述べてきましたが、他の放射性元素でも事情は同じです。年代を決めるには、その試料の古さに見合った放射性元素が含まれているかどうか、そしてそれを測定する技術があるかどうかです。これを満たさなければ、この測定法は役に立ちません。
 でも、いろいろな年代測定のための元素や測り方があります。ですから、たいていの場合、絶対年代を決めたければ、しかるべきところに行けば求めることができるはずです。年代測定は科学技術とともに進歩しています。ですから、昨日まで年代測定ができなかったものでも、今日はできるかもしれません。

・質問に答えて・
前回の誤差の話と今回の測定の方法の話で
Namさんの質問である
「どこにでもある石や砂でもその年代を正確に測定できるのでしょうか。
もし放射性元素が見つからない場合は、
この測定方法は役に立たないのでしょうか。」
に答えることができました。
今まで量が少なくって測れなかった試料の年代も
ある時から測定できるようになることがよくあります。
逆に、理論的にはこうすれば年代測定できるということがわかっていても、
実現する装置がまだないものもあります。
先端技術の進歩によって、
ひとつずつ研究者の夢が実現されていきます。
逆に研究者の夢が、技術を促しているのかもしれません。
楽しみな時代でもあります。

・ウラン-鉛法・
私は地質学の研究で年代測定も手法として用いていました。
3年間は、ある研究所で、ゼロの状態から
ここで紹介したウラン-鉛法の精度をあげることに全精力を注いでいました。
その結果、世界でも有数の汚染の少ない
研究システムを作り上げることもできました。
でも、今はそんな一線から退きました。
それは、私自身の職の変遷のせいであります。
実は、二次イオン質量分析計の2号機を導入すると話があり
その装置を使える人としてあるところに呼ばれました。
現実はバブルの崩壊で導入できませんでしたが、
私は転んでもタダでは済ましませんので、
そのときにいろいろなことを学んでいき、
今の自分があると思っています。
その3年間の研究漬けの日々は大変でしたが、
充実したものでした。
そして何より、地道な努力を3年間、継続、専念して行えば、
世界の一流になれるということを
身を持って体験することができました。
これは何事にも換え難い経験となって
今の私を支えてくれています。
そんなことを懐かしく思い出しながら、
今回のエッセイを書きました。