2004年4月30日金曜日

1_28 熱から年齢を求める(2004年4月30日)

 地球は、私たち人間一人一人にとっては、とてつもなく大きいものです。この大きさが、実は、大きな役割を果たします。大きなものは、冷めるのにも時間がかかります。そんな例を見ていきましょう。

 「地球はいつできたのか」という問題は、大きなナゾです。「地球はいつできたのか」とは、「地球の年齢」ともいえます。地球の年齢を探るために、多くの研究者は知恵を絞りました。そして、今でもよりよく知るために知恵を絞っています。
 かつて西洋世界では、キリスト教がすべての考えの中心となっていました。ですから、「地球はいつできたのか」という問題についても、キリスト教的な考えに基づいて、答えを求めました。
 その方法とは、キリスト教の拠り所である聖書を用いることです。旧約聖書には「創世記」の天地の創造からはじまり、神が地球になした歴史がすべて書かれてると考えられてきました。ですから、聖書を読めば、たいていの問題は解決できたのです。また、科学や学問全般の聖書というべきアリストテレスの学問体系があります。ほとんど疑問は、聖書とアリストテレスの考えで解くことができました。そのような学問をしてきたのが、スコラ哲学者たちでした。
 アリストテレスや聖書を読めば、そこに答えが書いてあったのです。聖書やアリストテレスがある限り、「地球はいつできたのか」というのは、問題ではなかったのです。答えのわかりきったものだったのです。そんな時代もあったのです。
 17世紀のアイルランドの大司教ジェームズ・アッシャーは、約6000年前の紀元前4004年10月13日に天地創造があったと計算しました。ライトフットは、さらに計算を進めて、紀元前26万4004年10月26日午前9時を地球誕生としました。
 このような聖書を拠り所にされる一方で、聖書やアリストテレスの記述で、科学的根拠を考えると、根拠がなかったり、希薄だったりするなどの問題があることがわかりはじめました。13世紀ごろから、聖書やアリストテレスなどの聖域ともいうべき分野で、知識の蓄積、観察の集積によって、問題が浮かび上がってきました。
 問題を地球誕生にしぼりましょう。最初に科学的な方法で、「地球はいつできたのか」という問題を考えたのは、かの有名なニュートンでした。最近ではよく知られるようになりましたが、ニュートンは、化学や錬金術の実験をさかんにしてました。その中に、熱した鉄が冷めていくことに関する実験がありました。この方法を地球に適用すれば、「地球はいつできたのか」を計算できます。ニュートンは、その結果から、地球の年齢を5万年と見積もりました。17世紀末のことです。さすがにニュートンです。考え方や数値は、今のものとはまったく違っていますが、論理的であります。
 その方法をより精密にしたのは、フランスのビュフォンでした。ビュフォンは、地球が熱い状態から、現在の温度まで冷めてきたという前提を置きました。いろいろな物質を暖め、その冷めるスピードを求めました。1778年に、その計算結果から、7万4800年前に地球ができたという報告しました。さらに、9万3219年後には地球が完全に冷めるという予測もしました。
 その後、イギリスの有名な科学者ケルビンは、いろいろな球状の物質の冷却時間を測定しました、さらに、もともと地球が熱くなったのは、重力によって収縮するという作用によるものだという別の考えを導入しました。そのような作用から考えると、地球の年齢は、2000万年から4億年となるとしました。1862年のことです。やたら誤差が大きい見積もりです。その後、1897年にケルビンは、この値を修正して、2000万から4000万年としました。余談ですが、ダーウィンは、「種の起源」の第6版(1872年)では、生物の進化には長い時間が必要で、ケルビンの2000万年では短すぎると考えていました。
 地球の年齢は、物質が冷めるという作用によって推定しようというがその方法でした。この方法で正確に時間を測定するのは、現在では難しいことがわかっています。放射性核種を用いるというまったく別の方法によって、地球の年齢が求められています。
 今までの話で、地球の熱が、地球の年齢を見積もる上で重要な役割を果たしました。熱が地球で果たす役割は今でも、重要なまま変わっていません。そんな熱の役割の話は、次回としましょう。

・天候の変化・
北海道は、天候がめまぐるしく変わっています。
私が住んでいる地域では、平野の雪は、なくりました。
しかし、先日の4月24日から25日にかけて、寒くなり、雪が降りました。
25日の朝は一面雪景色となっていました。
もう、北海道の松前では桜の便りも聞かれます。
なのに雪です。
もちろん寒波が来ているせいでしょう。
26日には快晴でしたが、放射冷却で霜が降り、氷もはっていました。
晴れて風がない日には、Tシャツでも大丈夫なほどです。
若者たちは、Tシャツで外で遊んでいます。
以前は、ゴールデンウィークころまで、雪が降っていたそうですから、
4月下旬に雪が降ってもおかしくはありません。
でも、ここ数年の早い春しか知らない私は、
このめまぐるしい天候には驚かされます。

・道北へ・
今年のゴールデンウィークは、我が家では、道北にでかけます。
5月1日から5日までの4泊5日の旅をします。
家族旅行として、家から自家用車でいきます。
家族旅行ではありますが、私にとっては、野外調査の一環です。
海と川で試料を採取したり、データをとったり、写真を撮ったりします。
北海道のゴールデンウィークは春真っ盛りです。
花が一斉に咲きはじめます。
桜も、梅も、レンゲも、つつじも、一気に咲き始めます。
北海道のゴールデンウィークはそんな季節です。
ですから、北海道の人は、待ちかねた春を、
ゴールデンウィークには満喫します。
長い冬を過ごしてきた北国の人には
そんな春を大いに謳歌したくなります。
春は動き回りたい気分にさせられます。
さてさて、どんな旅になるでしょうか。

2004年4月22日木曜日

5_33 普遍的分類3:スタートとゴール

 普遍的な分類として、化学組成がいいと紹介しました。しかし、一見普遍的にみえる化学組成を分類の基準としても、一筋縄ではいかないことがありそうです、という話をしました。今回はそこから話を進めましょう。

 石ころがあるとしましょう。その石の化学組成を、現在では、適切な分析装置を使えば、正確に決めることができます。その石ころがしましま模様を持っていたとしても、決めることはできます。
 しま模様が白と黒だったとしましょう。典型的な白い部分や黒い部分を取り出して、そこを分析すればいいのです。すると、白と黒のそれぞれの部分の化学組成を求めることができます。
 でも、白と黒の石をつくる作用がはたして、ひとつものから由来しているかどうかです。白と黒がたとえば、違ったマグマから由来していたとしたら、それを一緒にして考えることは、間違った結論へと導かれます。また、白には、違った由来のもの2つ、それも同じ化学組成を持っていたとしたら、などと考えると、白の化学組成を考えるだけでは、本質を見誤る可能性があります。
 マグマからできた石であるデイサイトという火山岩が、日本にはたくさんあります。たまたまある川の河口付近に見つかるデイサイトには、まったく別の火山、それも時代の違ったマグマからできたものが混じっているかもしれません。でも、あるものは同じような化学組成を持つことがあるかもしれません。ですから、同じような化学組成をもっていたとしても、同じ起源とは言い切れないのです。
 そのためには、どこのマグマから、つまりどの火山からその石がもたらされてきたかを知ることが大切です。その石が転がってきた崖、露頭の状態を詳しく調べます。そして、同じ石はどこまで広がっているか、他の石とどのような関係を持っているかなど調べていきます。このような情報を産状(さんじょう)といいます。石を調べるにも、その石が、より多くの、より変化を受けてない情報をもつころこまで遡ることです。できるだけ、根源的なものまで、体を使って、野外調査でたどっていくことです。でも、このような野外調査をするということは、実は、石の個性をより詳細に記述することに他なりません。
 野外調査で探れる以前のこと、たとえばその火山のマグマは、本当にひとつの起源だったのか、ほんとうに同じ時代のものなのか、などは、見えないことです。地層をつくっている砂や石ころ粒は、今は存在しない山から転がってきたのかも知れません。このような見えないものが、石ができた背景にはあるはずなのです。
 話をもどして、しま模様だけれども、平均的な化学組成が欲しいというときも、方法はあります。石を砕き、砕いた石を紙の上に広げて、田の字型に4等分します。そして、その対角のある石を2つ集めて、今度はそれをさらに砕きます。このようにして石のムラをなくす方法(4分法とよばれています)があります。しかし、これは、昔、手で砕いてた時代の方法です。手で砕くと石の不均質がそのまま残ることがあるので、このような方法をとりました。しかし、最近では機械で砕きますので、このようなことはしなくなりました。つまり、石全体の化学組成を知りたいのなら、石を丸ごと砕いて、その砕いたものの化学組成を調べればいいのです。
 たとえば、川原に落ちているしましまの石を10個拾って、平均的な化学組成を調べたとしましょう。たぶん、それぞれが違った化学組成を持っているはずです。それは、それぞれの石の個性というべきものです。
 10個の石の個性から、より本質的なものを考えると、しましまの石の個性は、黒と白の多い少ないという比率の違いを反映しているはずです。ですから、このしましま石を、本質的に分類するためには、白と黒のそれぞれの化学組成を調べて、その白と黒がどの程度の割合で混じっているかを調べればすみます。白と黒の化学組成と、その比率を調べることの方が、より本質的であるはずです。つまり、石の分類は、石をつくる構成物とその構成物の比率を調べればいいということです。
 これを進めていくことは、以前ダメだとした鉱物の化学組成とそれぞれの鉱物の比率を調べることにつながります。鉱物にも個性があるために、元素という化学組成までたどり着いたのです。ですから、鉱物と化学組成という関係でなく、石のつくり(組織といいます)と化学組成の関係としてみていった方がいいはずです。もちろん組織を構成するものは鉱物です。鉱物の化学組成も関係しますが、ここではそこには踏み込まないことにします。
 問題はつくり、組織です。組織は、石ができたときの条件、環境などさまざまな複合的なものが反映してできていきます。石の組織をうまく読みとれば、石の素性をかなり詳しく読みとることができます。もちろん、定性的ですが。でも、そこに化学組成という定量的なものを加味することによって、組織の定性的な性質を、定量化することができます。これは、詳細な個性の記述につながります。
 今まで、いろいろ石の普遍的分類を調べてきました。石ころから、より普遍なものを求めてスタートして、さまざまな考えを巡らしました。石ころの個性は、それぞれの化学組成や組織、野外調査から、詳細に記述できます。しかし石の普遍的分類を調べていくことは、どれも、石ころの個性を詳細に調べていくことになりました。普遍性を求めることとは、実は石を調べるためのゴールだったのです。スタートラインこそが、実はゴールだったのです。詳細な個別の個性をいくつも集めて、より普遍的な分類の方法、あるいは石の起源などの本質に迫ることは、地質学の目的だったのです。
 今噴火した火山、今たまっている地層、でも、自然はすべての情報を、私たちに開示してくれていません。見えないところで何が起こっているのか、そこに働く原理は何か、見えないものは、推理するしかないのです。その推理をより説得力を持たすために、断片的な個性の詳細な記述、つまり証拠から、論理を用いて、普遍性を求めることに、地質学者は日夜知恵を絞っているのです。

2004年4月15日木曜日

5_32 普遍的分類2:化学組成

 前回は、石の分類として、起源に基づいた堆積岩、火成岩、変成岩という分類は、惑星レベルまで普遍化をすすめて考えると、普遍とはいえなかったり、その起源が必ずしもはっきりしていないことなどを紹介しました。今回は、もっとも普遍的と思える方法を紹介しましょう。

 分類を普遍的にするために、石の「起源」という考えを捨てて、別の本質的な基準をもとに考えていきましょう。その候補として考えられるのが、石をつくる基本的な成分からみていく方法です。
 基本的な成分として、石をつくるより小さな粒である鉱物を基に考える方法もあります。でも、鉱物にも地域性があり、地球に固有と考えられる鉱物や、月固有、隕石固有の鉱物なども結構あります。そんな特異性をできるだけ除いていくべきです。
 成分も普遍性があったほうがいいはずです。一番普遍的な成分としては、元素というものがあります。元素は宇宙共通の基本的で普遍的な成分です。ある石を、どの元素がどれくらいの割合でつくっているかということを調べていく方法は普遍的です。この方法は、実際の研究でも非常によく使われています。石の化学組成と呼ばれています。
 化学組成は、すべての元素でおこなうことが理想です。しかし、現実には、それは、なかなか困難なことです。なぜなら、分析の方法が元素の種類や含まれている元素の量によって違っていきます。
 ですから、すべての元素の分析がなされているの石は、それほどたくさんありません。各国が提供している標準試料とよばれるものや、特殊な隕石、月の石くらいです。
 標準試料とは、代表的な岩石の粉を各国公的機関が国内外の研究者に配布し、その試料を基準として、研究室間の分析値に違いがないかチェックしたり、研究室の分析精度を示したりするのに使われます。もちろん日本でも、に経済産業省の産業技術総合研究所地質調査総合センターが配布しています。標準試料に関しては、ほぼすべての元素のさまざまな分析方法で出されたデータが集められています。また、世界中の標準試料とその分析データは一冊の本として発行されています。
 元素の含まれている量が多ければ、分析は比較的楽ですが、量が少ないと大変になります。ひとつの元素を分析するのに、ある研究所のある装置でしか分析できないということも起こりえます。ですから、すべての元素の組成がそろっているのは、その石がそれほど苦労してまで分析をするに値するものであるかどうかにかかっています。
 研究者が石の化学成分をすべての元素で欲しいとといっても、手軽に手に入れるわけにはいかないのです。ですから、岩石の中でも多い化学成分10種類くらいを分析して、それで分類や比較するということがおこなわれています。最近では、分析装置の進歩によって、同じ手順で、20種類くらいの元素が分析できるようになってきました。石だけでなく、石の成分である鉱物にもこの化学組成による研究は進んでいます。
 化学組成は、定量的で非常に客観的です。ですから、この手法は、どこの石にも適用できます。ただし、注意が必要です。
 化学組成が同じであっても、起源が同じとは限りません。成分が違っていても起源が違うとは限りません。化学組成は分析した石の化学的性質の保障はしますが、それ以外の情報を引き出すときは、化学組成の情報だけでは足りないということです。
 わかりやすい例として、しましま模様の石を考えてみましょう。白と黒のしましま模様の石です。もちろん、色の違いは化学的な性質の違いを反映しています。ですから、白の部分と黒の部分との化学組成は違っているはずです。でも、このしましま模様は、同じマグマが固まるとき一連の作用でできたとしたら、起源は同じと考えて研究していく必要があります。
 またこのしましま石をとって分析するとき、白だけの部分、黒だけの部分、白と黒の混じった部分では、化学組成が違っているはずです。また、同じ白や黒の部分でも、崖の上と下では、違っているかもしれません。
 今は白と黒の明瞭なしましま模様を例としてましたが、複雑なつくりをした岩石を分析をするとしたら、場所ごとに化学組成が違ってくるはず。そんなときはどうすればいいのか、どう考えればいいのか。などなど、一見普遍的にみえる化学組成を分類の基準として考えるときにも、一筋縄ではいかないことがありそうです。
 まだ、普遍的分類に対する答えは出てきません。もう少し続けて考えていきましょう。

・化学分析・
化学分析には、私は苦労しました。
3年間それにかかわったことがありました。
鉛の分析(正確には鉛の同位体組成といいます)の仕組みをつくるのに、
ゼロからはじめて3年かかりました。
鉛はどこにでもあり、簡単に汚染されます。
ですから、微量の鉛を精度よくするには
空気、水、薬品などありとあらゆるものの鉛汚染を
除去するということをやらなければなりません。
しかし、3年目には、なんとか世界の研究室の分析精度に
並ぶほどのまでに、たどり着きました。
日本で、地質学のそのような分析をしている研究室は、
当時、他にはありませんでした。
日本人の地質学者が出した鉛の分析値は、
すべて海外の研究所で出したものでした。
ですから、日本では、なにもかもが初めてです。
さまざまな論文を参考にしました。
しかし、論文には書かれてないノーハウもありました。
ですから、自分で工夫しながら試していきました。
まったくゼロからでも、集中して取り組めば、
数年で何とかなるものだということが経験できました。
この経験は私にとって何事にも変えがたいものでした。
このエッセイを書きながら。そんなことを思い出していました。

・春・
4月10日と11日に岐阜へいってきました。
今年はこれが最初ですが、
昨年は、3回通いました。
今年も何度か通わなくてはなりません。
岐阜は、桜がきれいでした。
満開は過ぎていたようですが、まだまだあちこちに咲いていました。
菜の花、つつじの咲いているもの見かけました。
研究の合間をみて、早朝宿から近い、金華山に登ってきました。
これで2度目ですが、
やはり、朝の空気の中をひと汗かくのは爽快です。
北海道でもやったそんな気分を味わえるようになってきました。

2004年4月8日木曜日

5_31 普遍的分類1:普遍と特異の狭間

 「いろいろな石」がなぜあるのか、というテーマで話が続いています。今回は、どのように分類していくか考えていきましょう。

 「いろいろな石」があるということは、人間が石の違いを見分けているということです。つまり、人間には、本能的にものを分類ができるのです。しかし、本能だけに頼っていては、進歩がありません。必要とする目的にしたがって、適切な分類をすることが知恵というものです。
 分類に知恵を使うには、どうすればいいのでしょうか。その分類方法が、普遍的で場所や対象によって、いろいろ変わることなく、どこでも、なんにでも使える方法がいいはずです。石にはいろいろなものがありますので、分類するにしても、なにか、基本的なものを基準にして分けたほうがいいはずです。その基本的なものとはなんでしょうか。地学の知識が少しある人は、石の起源をもとに考えればいいと思いつくでしょう。しかし、少し待ってください。本当にその方法は普遍的なものでしょうか。よく考えてみましょう。
 まず、起源をもとにした石の分類は、堆積岩、火成岩、変成岩に区分されています。これに従うと非常に客観的にみえますが、実は、境界があやふやだったり、量的にアンバランスがあります。
 境界があやふやだというのには、分類においては、混乱を招きます。客観的でなく、主観的でもあります。たとえば、変成岩は他の石が熱や圧力によって溶けることなく、別の石に変わったものです。どからを変成岩にするのかというのは、じつはあいまいとしています。研究者によっても違っています。私は、ある研究者は変成岩とみなしているようなものを、火成岩として扱ってきました。その方が、その火成岩をつくったマグマがどのようにしてできたかが理解できるからです。その方がより自然の本質に迫れると考えたからです。
 量的にアンバランスがあると、量的に少ないものもひとつの分類群として考えることになります。そうなると、例外的なものが多いときは、むやみに分類の数を増やすのですが、本質的なことは多数の中にあるかもしれません。つまり、例外的な分類に惑わされて、本質的なことを見失ってしますことになりかねません。
 3つの起源による分類では、量としては、堆積岩がいちばん少なくなっています。地球全体として考えると、地球をつくっている岩石は、火成岩と変成岩がほとんどだと考えられます。堆積岩は、水の作用の働く地表付近だけにできる石です。地表から見た地球と、全体として見た地球とは、自ずから違っています。地表に住む私たちが、一見すると堆積岩が多いように思いますが、実は、量的には非常に少ない、稀なものなのです。大気や海洋についても、同じことがいえます。
 堆積岩は、地球全体としてみたとき、珍しいものであるという考え方は、他の惑星でもいえます。他の惑星でも、ほとんどが火成岩と変成岩からできていると考えられます。私たちがイメージする地層をなすような堆積岩があるとすると、水のある地球と、水があった火星だけでしょう。
 他の天体の堆積岩は私たちが想像する地層はつくりません。似たようなものがあったとしても、それは、起源が違ったものです。隕石が衝突して飛び散ったものが、砂や土としてあったり、衝突によって固まった衝突角礫岩ともいうようなものになります。でも、天体の表面は、地球の堆積岩とはまったく違った堆積岩が広く覆っています。同じ堆積岩というものに分類しても、じつは起源がまったく違ったものになっていきます。
 不思議なことが起きました。起源による分類をもちいて話を進めていったら、同じ分類に、違った起源のものがあったということになりました。これは、地球の堆積岩が、特異で、その起源もはっきりと定義していないためにおこったことです。
 また、惑星の主要部分となる、火成岩と変成岩ですが、火成岩と変成岩の境界があいまいです。ひとつにして考えてしまうと、分類する意味がなくなります。では、どうのように分類をしていけばいいのでしょうか。振り出しに戻りました。ややこしくなってきました。ここから先は次回にしましょう。

・視点を変えて・
石の素朴な疑問シリーズです。
私たちが、本質的だと思っていたものも、
より普遍的な視点で考えていくと、
どうもある特異な枠組みの中で考えていたことに
過ぎないことがわかってきました。
これは、重要な教訓であります。
違った視点、広い視点で問題を考えてみると、
まったく違ったことを見せてくれます。
それは、もしかすると非常識に見えるかもしれません。
でも、今まで自分が問題にしていたことの答えは
まったく違ったところあるということを
教えてくれるのかもしれません。
常識の中に大発見はありません。
一見非常識に見えるものの中に、本質があるのかもしれません。

・北国の春・
入学式も各地でおこなわれています。
大学の入学式も終わり、
我が家も、入学というセレモニーが
今週で終わります。
北海道も春めいてきました。
昼間はストーブが要らなくなりました。
朝夕も暖かいときはたかずにすみはじめました。
やっと自転車で通える季節になりました。
道路の雪は消えましたが、
まだ、雪はあちこちに残っています。
桜はまだまだですが、
フキノトウや福寿草が芽吹きはじめています。
北国は、冬が厳しいだけに、
春はありがたいものです。
これから、いい季節になります。

2004年4月1日木曜日

5_30 適切な分類

 石の素朴な疑問シリーズをはじめましたが、沖縄の地学紀行で一時中断していました。「いろいろな石」がなぜあるのかというがテーマで進めていました。続きをしていきましょう。

 「いろいろな石」を調べるためには、よく見ること、そして分類して名前をつけることが大切であるということを、説明してきました。さらに話を進めましょう。
 分類して名前をつけることで、実は、答えが出ているのです。「いろいろな石」があるということがわかるということは、分類ができるからなのです。でも、じつはそれほど簡単なことではありません。そうはいっても具体的ではありませんね。少し、具体的に話をしていきましょう。
 川原で同じように見える石ころを2つ拾ってきたとしましょう。川原の石ころは、落ちていたところより上流のどこかから転がって、今ある川原に転がっているのです。落ちていたところより上流とはわかるのですが、ではどこから転がってきたかは、なかなかわかりません。もしそれを知ろうとするとたいへんです。よっぽど特徴のある、珍しいものでないとむつかしいものです。
 もし、その2つの石ころを調べたとしたら、その石が違うかどうかは、細かく分類することで、見極めることができます。たとえば、見た目がどんなに同じように見えても、化学成分が同じものからはできないということを示していたり、年代測定の結果が、別の時代にできたものだというを示していたら、その2つの石は、違っているものであるといえます。
 調べられる範囲で同じであるということがわかったとしましょう。でも、それは、同じところの石という保障はありません。もし、上流のあるところに同時期に活動した2つの火山があったとしましょう。でも困ったことに、この火山は、同じ性質のマグマが別の噴火口からでてきたものです。ですから、別の火山というべきなのですが、同じ成分のマグマが活動していることになります。
 もし、この2つの火山からそれぞれ石ころが来ていたとしたら、そっくりなもので同じ分類の石ころとなります。地質学的には別の物と判別すべき石ころですが、川原に転がってきた石ころでは、区別できないこととなります。
 もうひとつ、別の例を出しましょう。ある崖の同じ露頭から2つの標本をとってきたとしましょう。ところが2つの標本は見かけがだいぶ違います。その露頭は、マグマがゆっくり冷え固まった深成岩からできていたとしましょう。同じマグマのはずなのですが、見かけがだいぶ違っていたとしましょう。ひとつは黒っぽくみえます。もうひとつは白っぽく見えます。
 この2つの標本を詳しく調べると、違った性質が見えてくるはずです。となると分類も石の名前も違ったものになります。でも、地質学的には同じ区分として扱うべきでしょう。そのマグマからできた深成岩には、白っぽいものと黒っぽいものをつくる性質があるということになります。
 川原の石ころにこれを適用すると、石ころの分類が違ったとしても、違うとはいえないし、分類が同じ石でも、地質学的は別ものとすべきこともありえます。
 何が言いたかったかというと、石を詳しく調べて分類するとしても、必要に応じた程度でするべきだということです。石ころを調べたければ、地質学的にどのような関係にあるのかを十分知った上でやらなければならないということです。

・川原の石・
上の例で、川原の石ころをどのように調べればいいのか
ということを述べました。
普通の地質学者は、川原の石ころを研究材料にはしません。
でも、私は、この川原の石ころを研究材料にして、日々悩んでいます。
川原の石ころは、上流から流れてきたものです。
川原の石ことを分類にするにしても、
どれほど分類していいか、基準が難しいのです。
分類しても、詳しく調べても、
それがなかなか役に立たないのです。
でも、私は、なんとかこんな川原の石ころを相手にして、
分類しています。
そんなに詳しく分類してもしかたがありません。
ほどほどにすべきでしょう。
でも、その兼ね合いがよくわかりません。
同じ分類名になっても、なんと違った見かけのものがあるのでしょう。
まったく違ったでき方をしたのだなあと思えるものもあります。
多分、その川原に転がってきた石には、
それぞれに固有の履歴があるはずです。
しかし、今の私にはその履歴を読み取る能力がありません。
石ころは、そんな驚きに満ちています。
それぞれの履歴に違いがある、ということだけしかわかりません。
石ころも自然の一部です。
こんな自然の切れ端に、悩む日々が続いています。

・エプリルフール・
今日は4月1日です。
世間は、エプリルフールでしょうか。
私の大学では、儀式的ですが、
全学の教員が集まっての全学教授会があります。
もちろん、教員全員は出席しません。
もし集まったとしたら、会議室には入りきれません。
まあいってみれば、学長のこの一年の考え方や方針を
周知するためのもの会議かもしれません。
私の大学では、今年度から学長が変わります。
これから私学は厳しい時代です。
今のままでは、存続は不可能です。
いかに進むべきか。
いかに変わるべきか。
その指針が問われます。
決してエプリルフールではすまないことです。