2003年12月25日木曜日

2_27 塩分地獄

(2003年12月25日)
 生命は、地球の思わぬ変化に直面しました。それは、海水の塩分濃度が急激に上がるという事件です。それは、海水のマントルへの逆流という事件に伴って起こったものです、生命は、そんな事件にも対処してきました。

 地球ができたてのころは、岩石もとけてマグマの海ができるほどの高温の状態でした。しかし、地球はその後、ずっと冷え続けてきました。それは、絶対3度という宇宙空間に地球がおかれているためです。地球という暖かい物体が、周りの冷たい空間に熱を放出して冷めているわけです。温度が下がることによって、地球にはさまざなま変化が起こります。
 地球の熱は、対流という作用で地球内部から外に向かって移動します。対流といっても地球の内部は芯が鉄(核と呼ばれているところ)、その周りが岩石からできていますから、鉄が核の中で対流し、その外にある岩石も、鉄からの熱を受けて暖められて、対流します。そして岩石は、地表で熱を放出します。このような岩石の対流を、マントル対流と呼んでいます。岩石も温度と圧力が高いところでは、流れるように移動していくのです。
 マントル対流のいちばん大きな出口が、海底の山脈、海嶺とよばれるところです。海嶺では、海洋地殻がつくられ、そして海洋プレートとして海底を移動してきます。十分に冷えた海洋プレートは、海溝でマントルに沈みこんでいきます。沈み込んだ冷たい岩石は、マントルを冷ますという作用をします。
 地球は冷めてきています。地球ができてすぐのころは、冷めることによってさまざな事件が起こりました。マグマがさめて岩石に変わり、大地ができました。水蒸気がさめて液体の水となり、雨が降り、川ができ、海ができました。
 その後も地球は冷めてきていますが、大きな変化が見られませんでした。しかし、ひとつ大きな事件があったことを、私たちは読み取ることができるようになりました。
 それは、沈み込む海洋地殻の中で起こりました。鉱物には、水を結晶の中に含んでいるもの(含水鉱物といいます)があります。海洋地殻の中にもそんな含水鉱物があります。マグマから海洋地殻ができたときは含水鉱物はできていませんが、海洋底で変成作用を受けると、含水鉱物が形成されます。その水はもちろん海水からもたらされたものです。地球は熱かったときは、海洋地殻の含水鉱物は、海洋地殻がもぐりこむときにはすべて分解されて、抜け出ていました。つまり、海洋地殻が海底で取り込んだ水分は、また、地表に戻っていたのです。ですから、海水には変化はなかったのです。
 地球の温度が冷めてきてきたことで、あるときから変化が起こりました。プレートがもぐりこむとき分解されていた含水鉱物の一部が、分解されずに、マントルまでもぐりこむようなことが起こりはじめたのです。水が、マントルに入り込むということが始まったのです。この事件は、海水のマントルへの逆流と呼ばれています。
 7億5000万年前ころから、含水鉱物がマントルへ入り込み始めたと考えられています。7億5000万年前から5億5000万年前ころにかけて、海水は、じょじょに減っていきました。約2億年間、水の逆流がおこったのです。そしてやがて逆流は平衡に達したと考えられています。もぐりこむ量と海嶺やその他の火山から放出される量が同じ程度になったのです。現在もその平衡状態をたもったままであると考えられています。
 鉱物に含まれる水は、重量にして数パーセントで、岩石にしても0.数パーセントに過ぎません。しかし、海溝は広く、長く、地球は長い時間を活用します。
 海水のマントルへの逆流によって、深さ600m分の海水が、マントルに入ったと考えれます。海水とはいっても、鉱物の中の水分(H2O)として入りますので、塩分は海水の残ります。つまり、海水から水分がなくなると少ししょっぱくなるのです。
 また海水が減れば、陸地が広がります。逆流がはじまるまでは、陸地は地球の表面積の10から20%くらいだったのが、現在の30%くらいにまで広がったと考えられます。広がった大陸地殻では、大河ができ、急激に侵食されはじめます。岩石の中の水に溶けやすい成分が、大河によって海水に加えられます。その結果、海水にとけている成分が急激に変わります。中でも、海水の塩分濃度が大きく変化した考えられています。
 これは、生命にとって由々しき環境変化です。それまで薄かった塩分が、急激に濃くなったのです。すると、細胞の中の水分は、海水と平衡を保つために、抜けていきます。つまり、細胞は脱水症状を起こし、干からびていきます。それは、死を意味します。
 この塩分濃度の変化には、2億年という長い時間がかかります。ですから、生物にも十分な時間を与えられていたのです。時間をかけて、塩分濃度の変化に対応したと考えられます。
 そして、今生きていている生物は、この塩分濃度の海に対応できた生物の子孫なのです。もちろん私たち人類もその仲間です。そして私たちの細胞や血液の塩分濃度も、そのころから現在まで続いている海水の濃度を持っているのです。

・若者の適応・
北海道では、今年は、雪の降る間隔が長いようです。
ですから、札幌のような都会では、ヒートアイランドの影響でしょうか、
道路の雪が溶けてしまって、自転車で走れるようです。
でも、私が住む町外れは、そんなには暖かくありません。
つるつるのスケートリンクのようなアイスバーンになっています。
私は越してきて2度目の冬ですから、こんな道は不慣れで、
おっかなびっくり歩いています。
もちろん地元の人もすべって転んでいます。
しかし、中には、こんな道を平気な人たちもいます。
若者たちです。
私は、早朝、研究室に向かうのですが、
6時過ぎのあだあけていない暗い中、
アイスバーンをこわごわ歩いています。
そんな横を、二人の若者が、冗談交じりの会話しながら
早朝のジョギングをしてました。
特別な靴を履いているわけではありません。
普通のスノトレです。
もちろんすべるのでしょうが、すぐに体勢を立て直せるのでしょう。
アイスバーンをものとせず走っていました。
あるときは、寒さをものともせず、
すべる道をスケートのように滑りながら
学たちは、遊んでいるのです。
私は、すべるのは靴が改良されないからだ、
と技術の進歩が必要だと考えていました。
しかし、なんのことはない、若者たちは、適応していたのです。
与えられた環境を自分の能力だけで乗り切り、
そしてそんな環境を楽しんでたのです。
歳をとるというこは、体力以上に
適応力の衰えを伴うものなのかもしれません。
アイスバーンで走ったり、遊んだりして適応している若者をみて、
将来への明るさを感じました。
それと同時に、自分が適応できない側になっているという失望も感じました。

・ネタ・
さて、この号が今年最後です。
早いものです。
2000年9月20日が第1号の発行です。
それから、3年3ヶ月がたったわけです。
その間、休むこと毎週発刊することができました。
よくネタが尽きないと自分でも不思議ですが、
このメールマガジンを、私は、楽しんで書いています。
地球や宇宙には、いろいろな面白ことがいっぱいあります。
それは、昔の人が発見したことでもあるし、
現在進行中の研究でもあるし、
あるいは、私が思いついたこともあります。
一回の分量もちょうどいいようです。
なにか思いついたことを、一気に書けるからです。
でも、考えてみると、まだまだ書きたいことがいろいろあります。
私自身、地球のことで知らないことも、まだまだたくさんあります。
そして、そんなことを学びながら、私自身研究を続けています。
そんな学びや研究の中から面白いなと思ったことを話題にしています。
ですから、研究に終わりがないように、
このメールマガジンのネタ、話題にも終わりがありません。
もし、終わりがあるとすると、私の能力、
おかれている環境によるものでしょう。
できれば、そんな日の来ることがなく、継続できればと思っています。
でも、こればかりは、予測できません。
環境変化とは、予期できないものです。
願わくは、若者のようにいくばくかの適応能力を
残していることを祈るのみです。
では、最後になりましたが、よいお年をお迎えください。

2003年12月18日木曜日

2_26 酸化地獄

 約20億年前、生命は未曾有の危機に襲われます。地球史上最大の絶滅になったはずです。しかし、その危機を乗り越えた生物は、大きな飛躍をすることになったのです。

 生命の絶滅は、それまで生きていた生物がいなくなることによって、その絶滅の規模が考えられます。絶滅した生物の種類数などの統計によって、その絶滅の程度がわかります。あるいは、その後に出現した新しい生物の種類数でも、絶滅の程度が推定できるかもしれません。しかし、絶滅した生物の種類数も、その後の出現した生物の種類数もわからないときは、絶滅の規模は想定できないのでしょうか。
 そのような情報がなくても、大絶滅があったであろうことが想定できるときがあります。それは、大規模な環境変化があったときです。近年話題に上っている地球環境問題などの比ではなく、とてつもない環境変化が起こった場合です。
 約20億年前、その大異変が起こりました。28億年前に起こった激しいマグマの活動によって、陸地がたくさんできました。それまで地球の表面には、列島程度の大きさの陸地はたくさんあったのですが、あまり面積として多くなかったと考えられています。ところが激しいマグマの活動によって、大陸と呼べるような陸地がいくつもできました。すると、陸地の周辺にはたくさんの浅い海ができました。
 浅い海には、太陽の光が届きます。そんな環境に適応した生物として、光合成をする生物が生まれました。そんな生物がつくった岩石としてストロマトライトというものがあります。ストロマトライトとは、シアノバクテリアがコロニーをつくって住んでいた場所にできた地層のことです。このストロマトライトが20億年ころに大量に見つかります。つまり、浅い海には、光合成をする生物が大繁栄をしたことを意味します。
 光合成生物が大繁栄するということは、大量の酸素が作られるということです。それまで地球上には、酸素がありませんでした。二酸化炭素と窒素を主成分とする大気を持っていました。ですから、海水にも酸素が溶け込んでいませんでした。ところが光合成をする生物の大量発生によって、今までない酸素が大量に海水中に放出されたのです。
 酸素がそれほど多くないときは、環境にそれほど影響はありませんでした。酸素は、海水中に溶け込んでいた鉄のイオンを酸化することによって、消費されていました。鉄イオンがある限り、海水中の酸素はできてすぐに使われてしまうので、それほど増えることありませんでした。しかし、やがて海水中にとけている鉄が使い尽くされるときがきます。その時、大きな環境の変化が訪れます。
 酸素は、生物にとっては有害なものです。体の中に入ると、体の成分が酸化されて別のものになっていきます。そうなると生存ために必要な機能が失われます。もちろん、そんな生物は死んでしまいます。
 海水中に酸素が増えていくということは、今まで海で生きていた生物は、今までの生き方では、もやは生きていけないことを意味します。生き延びていけるのは、酸素を解毒できる生物だけです。一番最初に酸素を克服した生物は、細菌の仲間(好気性細菌)だと考えられています。酸素をうまく解毒し、利用することもできるような生物が誕生したのです。
 あるとき、そんな好気性細菌が他の生物と共生をします。つまり、酸素を苦手とする生物(嫌気性生物)が、自分の体の中に、好気性細菌を取り込みます共生の始まりです。好気性細菌は嫌気性生物の体内の酸素を解毒します。嫌気性生物は住みやすい環境と栄養を好気性細菌に与えます。葉緑素をもつ光合成生物はやがては植物に、葉緑素を持たない生物は動物になっていきます。好気性細菌は、今では細胞内のミトコンドリアとして、多くの生物が持っている組織となっています。
 このような共生関係が果たせなかった生物は、死ぬか、酸素のない限られた環境でしか生きていけません。このような形成関係を結べる生物は少数派だったでしょう。ですから、ほとんどの生物は、この環境変化に耐え切れず、絶滅したはずです。
 酸素の形成は、地球史上もっとも大きな環境変化がおこったのです。それは、酸化地獄とも呼んでいいほどの環境の激変でした。それに伴う絶滅は、地球史上最大のものだと考えられます。20億年前の生物の化石は少なく、種類数も充分把握できていません。ですから、どの程度の大絶滅があったはわかりません。
 酸素を利用しない生物がブドウ糖(1mol)から作り出せるエネルギーは50kcal程度なのに対し、酸素を利用する生物はミトコンドリアの働きによって700kcalものエネルギーを作り出せます。エネルギーで見ると10数倍も効率がよくなったのです。酸化地獄をなんとか生き延びた生物は、その副産物として大きなエネルギー効率を手に入れたのです。私たちの祖先もその生き残り組みでした。生物とは逞しいものです。

2003年12月11日木曜日

2_25 最初の生命

 約38億年前の地層からは、まだ生命は発見されませんでした。では、現在、多くの研究者が認めている最古の生命は、どこにいるでしょうか。そんな話題を紹介しましょう。

 堆積岩が最古の生命探しの重要な素材になります。ですから、38億年前の最古の堆積岩が、最古の生命探しの舞台となりました。でも、今のところ、何度も試みられましたが、まだうまくいっていません。最古の生命とは、どこから見つかったでしょうか。それは、やはり、堆積岩の中でした。それも、いろいろ問題のある堆積岩なのです。
 最古の生命は、西オーストラリアのマーブルバーの西にある約35億年前のダッファー層の中から、発見されました。1978年に、ダンロップ(J.S.R. Dunlop)が、直径数μmの球状の化石を数百個発見を発見しました。化石の形から、シアノバクテリア(藍藻類)と考えられました。
 その中には、2つや4つに細胞分裂しているものも発見されていました。また、同じ地域から、1987年にショップとパッカー(J. W. Schopf & B.M. Packer)が、タワー層とアペックス玄武岩層中のチャートから、球状のコロニーのような化石と繊維状の化石を発見しました。それもシアノバクテリアの化石と考えられました。
 その証拠となったのが、いちばんは形態(細胞)の特徴でした。でも、これは、必要条件ではありますが、これだけでは確実な証拠とはいえません。なぜなら、単細胞の形は単純で、生物の作用でなくも(無機的に)、そのような形のものは、できるかもしれないからです。ただし、細胞分裂しているような形態は非常に重要です。なぜなら、複雑だからです。
 ショップらは、形以外に、化学成分を証拠として示しました。バイオマーカーと呼ばれるものです。
 バイオマーカーとは、生物指標化合物ともよばれます。化学的に安定な炭化水素(炭素と水素の化合物)を、生物の指標として考えようというものです。炭化水素の炭素同位体は、生命起源の研究には、非常に有効であることがわかっています。ですから、この炭化水素という化学成分は、化石であるという証拠として利用できます。ただし、グリーンランドの38億年前のものには、バイオマーカーがみられたのですが、否定されました。それは、無機的にでもできるからです。慎重になるべきです。
 ここの化石は多くの研究者が化石であると認めています。ですから、多分、なんらかの生物であったことは確からしいのです。でも、どんな生物であったかに関しては問題があります。
 ショップらは、シアノバクテリアであるという見解を示しました。それは、形やそのサイズ、地層にストロマトライト状の構造がみえるなどのことから推定したものです。ストロマトライト構造とは、同心円状の縞模様で、シアノバクテリアがつくる構造のことをいいます。
 その化石がシアノバクテリアであるとなると、いくつか重要なことがわかってきます。それは、シアノバクテリアが光合成をする生物だからです。35億年前に光合成する生物がいたということは、生命の誕生はさらに遡ることになります。なぜなら、光合成という作用は、複雑な機能によっておこなわれます。ですから、最初に生まれた生命が、そのような複雑な機能をもっているとは考えられません。もっと単純な機能しかないものから、進化してきたはずです。そのためには時間が必要です。ですから、生命の誕生は35億年前よりさらに昔になるはずなのです。
 その後の日本人の研究者たちが、別の説を出したのです。彼らは、化石産地周辺の地層を非常に詳しく調査しました。そして、地層ができた環境を復元していったのです。すると、地層から復元でされたのは、中央海嶺の熱水噴出口周辺の環境だったのです。
 中央海嶺は海の深いところにあります。深海とは、数1000mの深さの海の底です。そんな深い海底には太陽の光は届きません。ですから、光合成をする生物はいたとしても、住めないのです。ショップらがストロマトライトと呼んだ構造も、層状のチャートの地層とされました。ですから、ショップらのシアノバクテリアの根拠がつぎつぎと崩されていったのです。
 では、いったいどんな生物だったのでしょうか。そこで登場したのが、そんな深海の熱水噴出孔に好んで住む高熱性嫌気性古細菌というものです。いや、そんなところで生きていけるのは、高熱性嫌気性古細菌の仲間だけなのです。そして、そこは、生命誕生の場としてもふさわしいところでもあるのです。
 なぜなら、まだ、当時の地表付近は危険でした。太陽の光は紫外線が強く有害です。海岸付近は、いつ変化するかわからない不安定な場所です。当時の地球で一番安定していて、安全なところは、深海底です。そして、海嶺の熱水噴出孔はエネルギーを大量に発生しているところです。熱水噴出孔からは、栄養もたくさん放出されます。こんなところは、初期のか弱い生物が発生し、暮らし、そしてゆっくりと進化していくにはいいところではありませんか。もちろん今でも、熱水噴出孔では高熱性嫌気性古細菌は暮らしています。
 生命は、誕生間もないか弱いうちから、自分たちにとって一番安全で最適な場所を選んで生きていく能力が備わっていたのです。いやそうしなければ、生き残れなかったのかもしれません。

2003年12月4日木曜日

6_34 科学する心を育む

 私が、北海道に転居して、はや2年が過ぎようとしています。この2年間に、私は北海道の各地を回りました。今までにはない日数を野外調査で過ごすことになりました。そんな野外の自然から感じたことを、最後のエッセイとして綴りましょう。

 野外調査から研究がはじまる地質学では、野外調査に多くの時間を費やします。しかし、多くの研究者は年齢を経るにしたがって、仕事が忙しくなったり、体力も衰えたりして、野外調査の日数が減っていきます。以前の職場では、私がそうでした。年間を通じて野外調査にでることは、海外調査を除くと、年間に数日程度でした。地質学とは自然の中にある地層や岩石を詳しく調べ、試料を採取して、それを室内で詳しく調べていくというもののはです。そんな調査を10年以上おこなってこなかったのです。そんな自分が、自然や地球について市民に語っていたのです。これでは、いけないと強く感じました。
 北海道にきて、私は自然に接することを心がけました。そのひとつの活動として、今まで怠っていた野外での地質調査を再開することにしました。私がいる大学は、文系の大学で、理系の教員も少なく、地質学をおこなっているのは私一人です。大学の理学部でおこなっているような地質調査からはじまる一連の研究をしていては、独創性が発揮できません。そこで、私は、特別な道具がなくてもできる野外調査を中心とした地質学をおこなおうと、テーマの模索を始めました。
 でも、テーマ決定よりも、まず最初にすべきことは、自分自身の自然への回帰でした。北海道の自然によりよく接すること、つまりは自分自身の自然に対するリハビリテーションに1年間を費やしました。北海道でのテーマ探しは、その後のことです。
 そして今年の春から、本格的に野外調査をはじめました。数えてみると、昨年12月から今年の11月末までの1年間で、私は55日間を野外調査に費やしたことになります。この調査時間は、地質学者として多いかどうかわかりません。多分、少なくはないはずです。もっと長時間、野外調査に費やされている方もおられるでしょうし、以前の私のように室内実験を中心にされている方もおられるはずです。なにを目的にするかの違いでもあります。私は、野外調査を研究手段として重視することにしました。
 私の野外調査は、テーマも変わっていますが(あとがきを参照)、やり方も変わっています。多くの研究者は、野外調査にでるとき、一人か、あるいは共同研究者、大学院生、学生などと一緒で、同業者ともいうべき地質学を研究する人と一緒に行きます。以前の私もそうでした。
 多分、自分の家族とともに出かけることは、ほとんどないでしょう。でも、私は、北海道に来てから、個人でおこなう野外調査では、可能限り家族を同伴するようになりました。もちろん、家族が一緒ではだめな野外調査もありますが。
 なぜこのようなことをしているかというと、それは、私の野外調査では家族が一緒でもできるような手法であることもさることながら、子供たちが私の研究していること面白く思えるかどうかを確かめる意味もあったからです。家族同伴の野外調査を昨年の12月から数えてみると、29日になります。この日数は家族サービスにしては度を越えています。家族サービスではなく、家族の言動や反応を観察することも、私の研究だと考えていました。家族の振る舞い、特に子供たちの自然に対する行動、好奇心の持ち方、私の説明に対する反応などを、ちらちらと観察していたのです。
 おかげで我が家の子供たちは、いろいろなところに出かけていきました。今年だけでも、四万十川、石狩川、留萌川、尻別川、後志利別川、沙流川、鵡川、十勝川などで、源流から河口までたどる調査に同行しています。5歳と3歳の男の子ですが、たいていのところへは、一緒についてこれました。次男が無理でも、5歳の長男であれば、たいていところは手を貸せば、崖でも藪の中でもついてこれます。かえって家内のほうが足元のおぼつかないときもあります。
 調査地点につくと、私は予定の調査をはじめます。調査は30分から1時間ほどかかります。その間、子供たちは川原で自由に遊びます。石や砂、泥、水などがあれば、子供たちも家内も楽しく遊んでいます。
 私が求めているのは、これです。知識などなくても、自然の中に連れ出せば、好奇心をいっぱいにして夢中になれるのです。自然は、好奇心を起こさせるもっとも手っ取り早い場であり、素材です。あとは、好奇心を探求する心へどう導くのか、あるいは科学する心を育むにはどうすればいいのか、これらが課題として残ります。これが、私の研究テーマのひとつなのです。
 逆に教えられることも、いろいろあります。十勝川の川原では、十勝石(黒曜石のこと)を探したのですが、見つけたのは私ではなく家内でした。家族は見たこともない石を私から口で説明を受けただけで、探して見つけたのです。これには私も面目をなくしました。実は、私はこのあたりには十勝石が少ないだろうという先入観があったため、家族には探せといっていたのですが、内心では、ないだろうなと思っていたのです。ですから、見つけようとしていないものは、見つかるはずがありません。多くの一生懸命な目でみると非常に稀なものでも見つかるのです。家内が見つけたあと、私も目の色を変えて探したのですが、面目は立ちませんでした。
 先日支笏湖に出かけました。11月中旬だったので、あちこちの道が冬季閉鎖がはじまり、通行禁止になっていました。これは誤算でした。しかし、樽前山はまだ、閉鎖されていませんでした。7合目より少し上の展望台まで子連れで登りました。大きな段差の階段状の登りがしばらく続きましたが、次男も家内、もちろん長男も登ってきました。森林限界を越えたところが展望台です。一気に展望がひろがり、きれいな樽前山やその向こう側の風不死岳の姿、さらに向こうには支笏湖と外輪山の山々が見えました。樽前山はまだ、噴気活動が活発で、火口内には立ち入り禁止です。
 ここから見える山々すべてが火山の活動でできたというと、長男は理解したようです。足元にあるすべての白っぽくて軽い石(軽石)が上に見える火山から飛び出してきたものであること。あちこちに転がっている直径50cm以上もあるような大きな重そうな石(火山弾)も、噴火口から飛んできたということ。そんなことを体感できたようです。さらに、下に見える大きな支笏湖(カルデラ)も火山の噴火でできたというと、驚きをもって実感したようです。カルデラをつくるような火山活動は、今見ているような穏やかな山の姿ではなく、とんでもなく激しいものだということが、見えない過去を想像しながら、理解できたようです。
 子供には地図は理解できません。カルデラの規模や外輪山の規模は、見ることでしか確認できません。でも、目で見たことは、体感的に理解できます。そして、周りの山々がすべて火山で、その中にある大きな湖から、大規模な火山の規模が想像でき、それがとんでもない事件だということを、子供にも理解できるのです。こんな気持ちを育むことが、自然のよき理解へとつながるのではないでしょうか。
 自然という野外でしか見れない素材はインパクトのあるものです。生の自然を自分の目で見て感ることから好奇心が生まれます。そんな好奇心から、深く考えることで、目では見えないけれども、過去に起きた大事件がわかるのだということを身を持って理解できます。誰でも同じような感動や理解が得られるはずです。私は、そんな、感動や理解を与える方法、わかりやすく科学を伝える方法を開発したいと考えています。完成にはまだまだ時間がかかりそうですが、私の目指すべき方向です。
 さて、今回がこの連続エッセイの最終回となります。最後が家族の話なのでどうしようかと思いましたが、樽前山をテーマに書き出だしたら、このような話になりました。でも、この1年間、私が力を入れてきたテーマでもあります。だから親ばかと呼ばれるかもしれませんが、掲載することにしました。
 研究者としてやるべきことには、幅があります。先端の分野を追いかけて成果を上げることも科学です。ひとつの地域、ひとつのテーマを深くじっくりと追求していくことも科学です。市民にわかりやすく自然の面白さを伝えることも科学者の仕事のはずです。科学する心も芽生えさせるのも科学者の仕事です。いろいろな科学の仕事があってもいいはずです。
 研究者は、研究テーマとなっている自然や、それを科学することを面白い思っているはずです。そんな気持ちをより多くの人に伝える機会や場がもっとあっていいはずです。研究の成果だけを専門家間で伝えあうことだけが科学ではないはずです。市民にわかりやすく伝えることも重要なはずです。自然や科学することが面白いと思う気持ちをより多く人に起こしてもらうこと、これを私は重要な研究テーマとして取り組んでいます。
 より多くの人たちが、科学に対して理解してくれれば、その延長線上に、科学のために国の予算が使われていることも納得されるのだと思います。そんな科学への理解がより深まることを願って、このサイトでのエッセイの連載を1年間続けてきました。
 もともと1年間の予定ででもあったし、ERSDACが業務の合間にホームページを作成するもの大変になってきたので、これで区切りといたします。今後、私が衛星画像とどうつきあうかは、自分自身で考えていかねばなりません。その答えはまだ出ていませんが、宇宙からの視点は、興味深いものです。子供が川原の石で好奇心をもつように、私も衛星画像を好奇心いっぱいに眺めていこうと思っています。