2003年11月27日木曜日

2_24 最初の生命探し

 最初の生命探しは、どのようにしておこなわれるのでしょうか。そして、それはうまくいっているのでしょうか。見ていきましょう。

 最古の海の証拠である最古の堆積岩で、もし生命の痕跡が見つかったとすると、生命とは、水が存在する環境であれば、比較的簡単に、あるいは惑星ができて短時間で誕生するということを示す重要な証拠となります。
 太陽系では、火星にも惑星誕生の初期には海があったと考えられます。ですから、水を持つ惑星は他の太陽系でも、案外ありふれた存在なのかもしれません。するとそれは、生命は宇宙では特別なものではなく、ありふれた存在といえるかもしれません。
 誕生した生命が、他の生命や天体に思いを馳せるような人類のような知性をもつにいたるかどうかは、また別の要因があります。たとえば、進化に適した環境が維持されているか、進化に方向性はあるのか、絶滅の危機を乗り越えられるのかなどが複雑に絡み合っています。
 さて、最古の堆積岩での最古の生命探しについてです。
 この堆積岩で生命の発見は、1978年にドイツのフラッグ(H.D. Pflug)がイースト菌のような丸いかたちをしたものを化石として報告したのが最初でした。しかし、その後の研究で、その丸いものは、石英の中にふくまれていた液体の部分(包有物(ほうゆうぶつ)とよばれます)だとわかりました。生命の化石ではなかったのです。
 続いて、ドイツのシドロウスキー(M. Schidlowski)は、最古の堆積岩にふくまれている石墨の炭素同位体組成から、生物起源の炭素であると報告ました。炭素の同位体組成はバイオマーカーと呼ばれ、生物の痕跡を見つけるのに利用されています。しかし、その時報告された炭素同位体の組成は、無機的(生物によらず)に合成できることが証明されました。やはり、生命の証拠が否定されたのです。
 1996年にモージスら(S. J. Mojzsis et al.)が、堆積物の中の丈夫な鉱物(リン酸塩鉱物、アパタイトとよばれるもの)に含まれている炭素同位体組成が、生命活動によるものだと報告しました。しかし、2002年にその岩石が火成岩で、堆積岩でなく、火成岩であることがわかりました。火成岩はマグマからできた岩石です。そんなマグマの中には生物は住めません。ですから、火成岩からどんな証拠がでてきも、それは生物とはみなせません。またまた、否定されたのです。
 見つかったとうい報告の後に、それは間違っているという報告が繰り返しなされてきました。それは重要だから、研究者も真剣に追試するのです。そして、現在のところ、最古の堆積岩に生命の痕跡はまだ、見つかっていません。
 逆にいうと、新しい視点やアイディア、あるいは新しい道具や技術を導入することによって、生物の痕跡が見つかる可能性がでてきたのです。これは、大きなチャンスで、宝物がそこには埋もれていることでもあります。たぶん今後も、グリーンランドの最古の堆積岩では同じような挑戦が繰り返しおこなわれるでしょう。そして、いつの日か、だれものが納得する証拠が見つかるかもしれません。そんな日が来ることを私は楽しみにしてます。

2003年11月20日木曜日

2_23 生命誕生の必然性

 生物は、地球環境の影響を敏感に受けます。そして弱いものは滅び、強いもの、適応性のあるだけが生き延びます。そして生き延びた生物は、ライバルのいなくなった環境で、勢力を広げていきます。生物とはたくましいものです。そんな生物のたくましさをみてきましょう。

 まず、生物誕生の時から話を始めましょう。生命の誕生は、地球誕生のころに遡ります。地球の誕生のころといっても、海が地球にできるようなころの話です。海がいつできたかは、定かではありません。しかし、約38億年前、地球が誕生して、7、8億年後には、りっぱな海がありました。りっぱというのは、広くひろがる今のような海という意味です。
 そんな海が、生命誕生の場となります。なぜ、誕生の場が海なのかという疑問がわきます。可能性として、生命は大気や陸などでも誕生するかもしれません。しかし、現在生きている生命の多くは、海と切っても切れない関係があります。細胞の大部分は水からできてます。また、太古の生物は水の中に住んでいたものばかりです。ですから、水の中で誕生するというストーリーが考えられています。
 もちろんこれは、私たちが知っているのが地球の生物だけだから、水との関係が強いのかもしれません。もっと他の誕生の場があってもいいかもしれません。でも、私たちは、地球の生命以外の生物は知らないのです。いろいろな生物の誕生の可能性が考えられたとしても、地球外生命を見つけない限り、実証する手立てはありません。ですから、現状では、仮説にとどまります。生命の誕生については、地球生命で考えるしか選択しかなさそうです。
 では、水のある星なら、あるいは水があれば、すぐに生命は誕生できるのでしょうか。それとも偶然にしか誕生しないのでしょうか。もし、偶然だとすると地球生命は非常に特殊なものとなります。地球外生命を探すなどということも無駄になってしまうかもしれません。
 その答えはまだ見つかっていません。しかし、見つかる可能性があります。もし、水ができてすぐに生命が誕生したという証拠があれば、生命とは結構簡単に誕生できるという可能性がでてきます。つまり、最古の海の証拠から生物の化石あるいは生物の痕跡を見つければ、海の誕生と生命誕生の必然性の関係が大きくなります。
 地質学者は、最古の堆積岩を手がかりにして、最古の生物化石探しを続けています。その結果については、次回紹介しましょう。

・生命のたくましさをたどるシリーズ。
生命は、ひとつひとつを取り上げてみていくと、
ちょっとした環境の変化が起こると死んでしまいます。
そういう点では、生き物とは、か弱い存在であります。
しかし、生命全体としてみると、なかなかタフな存在となります。
つまり、生命を個々の生き物としてではなく、
生物全体として考えるということです。
地球上でどのような環境の変化が起こっても、
生命は耐え抜いて生きてきました。
それどころか、生命はそんな逆境を生き延びるために会得した新たな能力を、
今度は、自分たちが生きていくときに
すごく有利な能力へと転用していきました。
そんな生命のたくましい生き方をシリーズとしてたどっていきましょう。

2003年11月13日木曜日

1_27 長い時間と子孫たち(2003年11月13日)

 だいぶ以前のことです。ある読者からのメールの一節に「星の寿命って私たち人類と比べるとずっといんですよねー」というのがありました。そのとき私が書いたメールから次のようなエッセイを書きました。

 「星の寿命って私たち人類と比べるとずっといんですよねー」そうなんです。星の寿命は、すごく長いのです。わかっていても、実は、100億年や50億年という時間の流れは、人類にとっては、長すぎます。ですから、多分だれも、実感できないと思います。
 でも、科学者たるもの、わかったふりをします。でも、それは頭でわかっているだけで、実感がなかなか沸かないのも事実です。こんなたとえ話をしましょう。(このたとえは、私が返事のメールで使ったものです)
 人間の1世代を30歳としましょう。30歳で子供を産みます。すべて、30歳で次の世代を一人作るとします。では、その家系で、地球の寿命分の時間(46億年)で生まれた子供の数をすべて足すと、日本の人口より多いでしょうか。少ないでしょうか。どちらでしょう。
 答えは簡単に求められます。30年にひとりの子供が生まれるのですから、
46億年÷30年 = 1億5000万人
です。日本の人口を、1億3000万人とすれば、ほぼ、日本の人口に匹敵します。それくらいの時間が経過しています。すごく大きいでしょう。
 というような、たとえ話をしました。あまりいい例では、なかったでしょうか。
 もうひとつこんなたとえはどうでしょうか。毎日1万円の貯金をしましょう。一生かければ46億円たまるでしょうか。
 これも答えは簡単に求めることができます。80歳まで生きるとしましょう。
 1万円×365日×80年 = 2億9200万円
となります。46億円ためるには、1260年必要となり、一生では到底貯めることができません。
 それくらい、長い時間ということをいいたかったのですが、たとえが、こちらの意図しているとおり伝わるとは限らないのです。
 たとえば、1番目の例で、15歳から30歳まで毎年子供を作れば、一人が一生で15名の子供が作れから、46億年たつと、22億5000万人子供をつくれるのか。もし、3名からスタートすれば、たった3つの家系で人類全部がつくれるのか。などというイメージがつぎつぎと膨らんでいくこともあります。2番目の例では、1万円ずつ毎日ためれば、一生で3億円貯められるのかという印象を抱く人もいるかもしれません。
 すると、伝えたい数値が、どこかへいってしまい、3名とか、22億、3億などの別の数値が頭に残ってしまいます。これでは、いけません。困ったことになります。
 このようにたとえによって、違ったイメージが植えつけられるとこまるので、それくらいなら正確な数字を用いればいいのという当たり前の結論に達します。
 問題を生じやすいのは、この例では、人ととか、お金とかをたとえにしました。すると、時間の流れを、別の価値観のある数に置き換えてしまっています。これが問題を生む危険性があります。時間を別の次元や価値観の数字に置き換えているようなときは、注意が必要です。
 よく使われるたとえで、地球46億年の歴史を1日、あるいは1年にたとえると、というようなことがります。これは、親しみのない時間を、別の身近な時間に置き換えて、特に、人類の歴史の少なさを実感させるためにたとえとして利用されています。これはこれでよくできた、たとえでしょう。でもそれは、時間が短いということだけに、専念したためです。
 しかし、大晦日に人類が生まれたと、大晦日の12時直前に生まれたというようなたとえでは、伝えたいの数値であれば、このような似た性質のたとえは、誤解を招きやすくなります。
 さらに、たとえでは、日本の人口を多い、人類の歴史を短いという意味を持たせました。このイメージが多くの人が共通に持つものでないといいたとえとはいえません。人口が1億じゃ少ないと思う人、1年の大晦日の夜や、数秒が短いと思えない人がいれば、このたとえは通じません。
 つまり、たとえはしょせんたとえで、あるイメージを抱かせるためにもので、正確にはやはり数値があるなら数値で示すべきでしょう。特に重要なことを伝えるためには、たとえには注意が必要です。

2003年11月6日木曜日

6_33 それぞれの境界:KT境界

 平らな畑の先に、断崖絶壁があります。すとんと切ったような大地の切れ目が、あまりにも唐突にあります。断崖は数十メートルの落差があります。その断崖の先は、海です。そんな断崖に地球の大異変が記録されていました。

 デンマークは、スカンジナ半島にむかって突き出した形のユトランド半島といくつかの島からなっています。東にある大きな島、シェラン島には、首都のコペンハーゲンがあります。コペンハーゲンの南へ、車で2、3時間ほど走るとスティーブンクリント海岸というところがあります。
 スティーブンクリント海岸は、ささやか観光地ですが、観光客がバスで乗りつけるようなところでもありません。ほとんど人の来ないひっそりとした観光地です。そこは、小さな教会が一つ、小さな博物館が一つ、レストランが一つだけの、ささやかなものです。
 私が訪れたのは、2000年7月の夏でした。2日間いたのですが、観光客はぽつりぽつとしかみかけませんでした。スクールバスで、子供たちが乗りつけ、その周辺を散策して、断崖の下の海岸におりて、そんなに広くない海辺で遊んでいました。ここには、海岸におりるための階段が作られているのです。でも、泳ぐ人は、見当たりしません。もっとも、岩がごろごろした海岸なので、泳ぐことはできそうにありませんし、何といっても寒かったのです。ダイビングをする2人連れをみかけましたが、寒むそうでした。
 こんなとりたてて見るべきもののなさそうなところに、なぜ来たかというと、海岸へ降りるところにある1枚の色あせた看板が、その理由を物語っています。じつは、ここには、KT境界があるのです。
 KT境界とは、白亜紀と第三紀の時代境界、あるいは中生代と新生代の境界ともいえます。KT境界では、恐竜の絶滅が起こっています。その時代の境界は、各地にあるのですが、ここでみられる境界は明瞭で、だれもがその境界を簡単に見つけて、みることができます。
 境界の上下の地層は、チョークと呼ばれる白っぽい岩石からできていて、時代境界のところだけ、黒っぽい粘土からできています。ですから、色がはっきりと違うので、だれでも見分けられます。
 チョークは、黒板に字を書くチョークの原料で、かつては黒板用に本物の岩石が用いられていましたが、今ではチョークも工業的につくられています。チョークとは、日本語で、白亜(はくあ)とも呼ばれています。まさに白亜紀の白亜です。チョークは石灰質の泥が固まったものです。石灰質の泥とは、海の有孔虫やココリスなどの微生物の遺骸が海底にまたったものです。チョークは暖かい海でたまってできるものです。このような白亜の崖は、北アメリカ大陸やヨーロッパの大西洋岸に広がっています。
 でも考えると不思議なことです。時代境界の上下が同じ石なのに、時代境界だけが違う石でできているのです。つまり、白亜紀の終わりも第三紀の初めのころも、同じようなチョークがたまる暖かい海であったのが、白亜紀と第三紀の時代の境界だけが、違う石がたまる環境となったということです。つまり、何らかの環境変化があったということです。その環境変化によって、恐竜絶滅がおこったのです。
 では、その環境変化は、なぜ起こったのでしょうか。環境変化は、一般には、寒冷化や温暖化などの地球全体の気候変動、あるいは、プレートテクトニクスなどによって、大陸の位置や配置、地形が変わることによっておこります。しかし、そのような環境変化は、ある日突然訪れるのではなく、ゆっくりと何万年もかけて起こる変化です。そのようなゆっくりとした変化なら、多くの生物が絶滅したとしても、ある種類の生物はそんな環境の変化に対応して、進化していくものもでてくるはずです。でも、白亜紀末には、多くの生物が、突如として、姿を消したのです。つまり、この環境変化は、生物に進化する余裕もあたえず、おこったものだと考えられます。
 それは変化というのではなく、突如起こった異変ともいうべき、突然の出来事だったはずです。その異変は、隕石の衝突によるものだと考えられています。直径10kmほどの隕石が、中部アメリカのユカンタン半島に落ちたと考えられています。その時の事件のシナリオはいろいろなものが考えられていますが、概略としては次のようなものです。
 隕石がぶつかった直後は、ものすごい衝撃波や熱が走り抜けます。これは巨大な爆発と同じことが起こります。爆発によって、周辺の生き物は焼く尽くされてしまいます。しかし、その被害は爆心地周辺だけです。問題は、そのあとです。巨大津波、大気の上空まで舞上がる埃やすすなど、私たち人類が経験もしたことのない、想像を絶するような異変です。
 世界中の低地は津波に洗われます。なにより問題は、大気上空に舞い上がった埃やすすです。地表には光が届かないほど、多くの埃が成層圏に上がり、何年も落ちることなく、地表を真っ暗にします。光のないところでは、光合成をしていた植物は死に絶え、草食の生物は餌がなくなり死に、肉食の生物も死にます。そして、他の生物の死骸を分解していた生物も死にます。つまり、地球全体の生態系がつぶれてしまうのです。特に大型の恐竜のような生物は、絶滅してしまいます。また、海洋の微生物にもその影響は及びます。
 こんな大異変がチョークの間の粘土層には記録されています。粘土層ができたのは、チョークのもととなる海の生き物が死に絶えたからです。それまでも、粘土の成分の堆積はあったのですが、チョークの量の多さに隠れて、存在がわからなかったのが、チョークが堆積できなくなったことによって、粘土層として現れてきたのです。
 世界中のKT境界の地層を調べていくと、隕石から由来した粒や、イリジウムという地表の岩石にはほとんど含まれず隕石にはたくさんある元素や、衝撃でつぶされた鉱物、飛び散ったすすなどが含まれていることがわかってきました。これらは、すべて隕石の衝突を物語る証拠とされています。
 ところが、生き残った生物もいました。それが、私たちの祖先の哺乳類であり、粘土層より上のチョークを作った微生物であります。生物は弱さと強さの両面を持っています。ある過酷な環境が訪れた時、それに耐えられないものは絶滅し、それを耐えにいた生物は後に大繁栄できます。生き抜いた微生物は、やがて暖かい海で再びチョークを作れるほどに大繁栄しました。哺乳類も新生代には大繁栄し、KT境界の大絶滅を考えるような生物、ヒトが誕生しました。
 スティーブンクリント海岸の色あせた看板には、KT境界がここで見られるという説明があり、小さい博物館では、KT境界についての説明がされていました。観光客は小さな教会を訪れ、子供たちは海と陸の境界に遊びます。私は過ぎ去ったKTの時代境界に思いをはせました。