2003年7月31日木曜日

4_34 尻別川:夏の道南2

 今回の道南の旅のいちばんの目的は、尻別川の調査でした。周辺には湧水で有名な羊蹄山もあり、きれいな川を期待していました。さてさて、その結果はどうだったでしょうか。


 尻別川は、126kmしかない短い一級河川です。道南ではいちばん長い川ですし、流域にはニセコ連山や羊蹄山、さらに上流には洞爺、徳瞬瞥、無意根などの火山が連なっています。そこは、峨々としてた深い山並みとなっています。蹄山には、多くの湧水あることで有名です。京極町では水を商品として、売っています。もちろん、湧水は地下から湧いているので、冷たく綺麗なのですが、それが川に流れ込むと、川もきれいなはずです。
 今回の道南行では、尻別川は、河口、下流、中流、上流の4ヶ所の川辺で調査しました。
 上流の水はきれいでした。川原には、バッタや川原の草花、そして釣りをする人の姿もありました。ところが、上流以外は、川の水が汚いのです。川原の石が、コケではなく、水垢のような汚れで、ぬるぬるしています。乾いた石は真っ白な汚れがついていて、石の模様もよく見えなくなっています。とっても泳げるような水ではありませんでした。
 うちの子供たちも足だけはつかっていましたが、全身ぬらして水遊びをするような気も起きませんでした。石を集めて調査はしたのですが。下流と中流、特に下流の石はぬるぬるして、あまり気持ちがよくありませんでした。調べる時には、よくタワシで洗わなければなりません。尻別川の中流には、ラフティングをするようなところもあるようなのですが、私は、この川の水につかる気がしませんでした。その周辺のとった石も綺麗ではありませんでした。
 羊蹄山周辺は、いくつもの湧水があり、京極町では名水100選にも選ばれています。湧水がひとつの観光となり、かたやその観光の影響で川が汚れるとなると、なんとなく納得がいかないものを感じました。同じ川が、中流、下流になると、周りの景色は、緑あふれる山や田園風景なのに、川の水だけがこのように汚れているのは、川がちょっとかわいそうな気がしました。
 汚れている理由は、定かでないのですが、下水処理設備がなく、家庭用排水がそのまま川に流されているのではないかと思われます。日本で下水処理をしている地域は、人口密集地の一部でしょう。農村地域では、生活廃水は、浄化槽を経て、川に流れ込むのでしょう。これは、田舎では当たり前のことでしょう。
 ただ、尻別川の流域には、ニセコ、羊蹄山、ルスツなどがあり、スキーと温泉、遊園地などの観光地も多いため、関連施設が多いようです。このよな観光に力をいえているせいで、もしかすると川を、より汚しているのかもしれません。
 尻別川が特別汚いのではなく、たぶん、このような川は、日本では、ごく普通にみられる川、ごくありふれた川なのではないでしょうか。四万十川を春に見て、尻別川にも同じようなイメージを抱いて出向いたおかげで、このような気分になったにすぎません。私も通りすがりのものですから、根拠もなく、批判めいたことをいうのはよくないと思います。
 水は、人間にだけでなく、生物に不可欠のものです。そんな人間の生活とは切っても切れない水の最終到達地が、川なのです。だから、川を見たらその地の暮らしぶり、あるいは、生活基盤が何によっているかが、ある程度想像つくのかもしれません。尻別川流域は、農業と観光なのでしょうか。

・湧水・
この年の夏は、例年になく、涼しいのですが、
羊蹄山の周辺にいるときは、天気もよく暑い日になりました。
子供たちは、汗だくで走り回っていました。
そして、湧水があるたびに、
ペットボトルに冷たい水を汲んでは、飲んでいました。
もちろん大人も飲んでいました。
いつも旅行に出かけると、飲み物をコンビで買うのですが、
羊蹄山の周辺を巡っているときは、
飲み物を買う必要がありませんでした。

・野菜の季節・
羊蹄山周辺は、農産物の産地でもあります。
ジャガイモ、キャベツ、アスパラガス、トウモロコシ、かぼちゃ。
私が行ったときには、ジャガイモの淡い紫を帯びた白い花が
あちこちで見かけられました。
イチゴとサクランボのもぎ取りもありました。
海沿いの雷電温泉に、2泊目は宿泊したのですが、
ここは雷電スイカで有名です。
これから北海道は、野菜や果物がおいしい季節です。
毎日、露地ものの野菜がいろいろ食べられます。
楽しみな季節です。

・夏が忙しい・
調査には行きたし、でも、時間がない。
仕事があると、自由に時間を使って調査ができません。
夏は北海道、海外にもいきます。
学会もあり、他の共同研究にも参加しなければなりません。
ゼミの夏合宿、採点、成績など夏休み中の公務もあります。
ですから、夏休みが、私にはいちばん忙しい時となります。
こんな忙しさの合間を縫って、
調査するからその味わいも深くなるのかもしれません。

2003年7月24日木曜日

4_33 利別川:夏の道南1

 昨年(2002年)12月に訪れた道南地方に再度でかけました。昨年暮れの調査は雪のために、十分できなかったからです。当たり前のことですが、北海道の冬は雪があって地質調査はできないのです。でも、少しくらいはという期待のもとに出かけたのですが、惨敗でした。今は夏です。去年の雪辱を果たすためにいきました。


 瀬棚郡今金町(いまがねちょう)美利河(ぴりか)というところにある温泉宿泊施設に泊まりました。昨年来た時も、ここに泊まりました。
 昨年は冬だったので、ホテルの裏山は、スキーのゲレンデになっていました。今年の夏は、今北海道ではやっているパークゴルフのゲレンデコースとなっていました。ホテルの正面には、平地のパークゴルフ場があります。こんな小さなところに、2つものコースがあるというのは、すごいブームだということです。でも私が泊まったときは、平日で天気が悪かったせいか、だれもコースにはいませんでした。温泉だけでは、今や集客力がなくなったせいでしょうか。どこにでもあるパークゴルフ場をつくるということは、他の施設と差別化がはかれないような気がしますが、大きなお世話でしょか。
 さて、今金町に再訪したのは、一級河川の利別川(としべつかわ)の河川の石ころ(転石)の調査と、ピリカカイギュウの化石をみること、そして、河川礫としてマンガン鉱石やメノウの転石が採集するというのが目的でした。
 利別川では、上流と河口付近で石ころの統計的採集をする予定でしたが、河口では、石がたまっているところがなく、砂だけでした。砂の採集をして終わりました。また、カイギュウは、展示室が金・土・日曜日の3日しかやっていません。私は木曜日に行きました。ですから、今回も見ることができませんでした。今金の有名な石ころも、河口で転石がなかったので、拾えませんでした。でも、地元のメノウは、物産店で磨いたコースター状の板を2つ購入しました。これで良しとしました。川の各所で、転石を探せば、目的のものを見つけられたかもしれませんが、まだ先のある旅でしたのであきらめました。
 この地での一番の目的は、利別川の調査でした。利別川は、十勝川の同名の支流と区別するために、正式には後志(しりべし)利別川と呼ばれています。源流を長万部岳とする流路延長が80kmしかない短い川です。短い川ですが、上流へいくと、山の奥深くでいかにも源流に近づいているというようなところでした。でも、今回は源流を調べるのが目的ではありませんでしたので、できるだけ上流まで林道を進み、林道の橋の下の河原で調査をしました。
 明け方まで降っていた雨で、川に下りるだけで、草露で靴の中までぐっしょり濡れてしまいました。冷たかったですが、心地よいものでした。深山幽谷という気分にさせられるところでした。
 教科書どおり、上流では、石の大きさは不揃いで、角張っています。そんな当たり前のことを、これからしばらく研究していくつもりです。地域の自然そのものをデータベースとしたいと考えています。もちろん科学的原理の追及は重要ですし、行なうつもりです。素朴に自然を感激できるようなデータベースを構築したいと考えています。
 まだまだ、途上ですが、北海道のすべて一級河川の石ころと、北海道の全火山、北海道の河川と海岸の砂のデータベースをつくりたいと考えています。数年かけてつくり上げていくつもりです。その利用方法や、科学的な部分も、遊びの部分も、これからいろいろ考えながら、少しずつ充実していくつもりです。
 いつの頃からでしょうか、私は、人里はなれた山奥にくるとホッとした気分になります。最初は一人で山に登ったりするのは怖かったのですが、大学生のころ、自分の好きなところを、好きのときに、好きなように登りたいと思うようになり、単独行の山登りをはじめまして。その後、地質学を目指す学生として、調査は一人でするのが当たり前となり、深い山をひとりであるくようになりました。
 天気が悪いときは嫌な時ももちろんありましたが、気分のいい時、すばらしい沢を登っている時など、渓流の奥深くに滝や野生で生物に出会ったとき、こんな景色、こんな気分を独り占めする幸せを味わっていました。そのころからでしょうか、人里はなれた山にくると、なぜかホッとした気分になるようになったのです。

・夏が忙しい・
とりあえず、昨年の雪辱は半分くらいは果たせました。
でも、まだまだ、心残りがあります。
出かけるたびに、その地は、いつの日にかまた来たいという気持ちが残ります。
こんな地が増えていきます。
調査が目的となると、ある程度の収穫があると、
次の目的の地へと進まなければなりません。
とどまることはできないのです。次を目指さなければなりません。
北海道は広いです。
上で述べましたような目的を数年で果たすには、
何度も調査にでなかればなりません。
でも、限られた時間、許された時間で行なわなければなりません。
本当に目的が果たせるのでしょうか。
でも、調査していて楽しいのがいちばんです。

・調査の成果・
今回の道南の調査では、次のような成果をあげました。
デジカメによる撮影は、1,269枚で、
一部動画を含みますが、1.6Gbになりました。
調査した川は、国縫川、後志利別川、尻別川で、
国縫川以外は、目的の一級河川です。
石の調査は、8ヶ所でしました。
そのうち統計的調査は、5ヶ所でおこない、700個以上の資料を採集しました。
砂は、15ヶ所で採集しました。
火山の撮影は、室蘭岳、有珠山、昭和新山、羊蹄山、尻別岳、
ニセコアンヌプリ、 雷電山、洞爺湖中島の8山でおこないました。
支笏湖周辺の火山を、最終日に撮るつもりでしたが、
小雨で霧のため、撮影できませんでした。
これから、調査の写真と資料の整理が控えています。
これが、時間がかかり、単調ですが、楽しいものでもあります。
面白い結果が出そうな予感があります。
そして、データを出しながら、次なるターゲットに向けて、夢が膨らむみます。

2003年7月17日木曜日

5_25 海底は何からできているか(その2)

 研究者は智恵と技術によって海底の石を手にとって調べることができるようになりました。そんな知識から、海底の姿がわかるようになってきました。

 ボーリングという大地をくりぬく技術が、海底でもできるようになって、海底をつくっている岩石の様子が、わかるようになりました。海底の岩石を順番に見ていきましょう。
 海底のいちばん表層には、堆積物があります。海底の堆積物とは、微生物の遺骸です。潜水艇がもぐる映像をみると、真っ暗な深海に雪のように降り積もるものがあります。これは、プランクトンの死骸です。死骸の有機物の部分は時間がたてばなくなりますが、硬い殻の部分が残ります。硬いからは二酸化珪素からできます。これが固まったものが、チャートと呼ばれる岩石です。
 チャートは縞状をしています。これは、プランクトンの活動が活発なときと活発でないときがあるためだと考えられます。例えば、暖かい時と寒い時、雨期と乾期などの季節変化が起こる場合です。
 生物の活動の低下しているときには、チャートになるために二酸化珪酸はほとんどたまりません。二酸化珪素がたまらないときには、量は少しですが、遠くの火山から飛ばれてきた火山灰やはるか大陸から飛んできた細かいチリが、粘土としてたまっていきます。このような季節による生物の活動量の変化が縞模様に原因となります。細かいチリは、いつでも少しはふっているですが、生物の活動が活発なときには、ほとんと目立たなくなります。
 チャートの下には、玄武岩とよばれる黒っぽい火山岩があります。玄武岩は、富士山や伊豆大島などの陸上の火山でも見られる岩石です。しかし、同じ玄武岩でも、海底の玄武岩は、枕を積み重ねたような不思議な形をしています。このような玄武岩を枕状溶岩と呼んでいます。
 枕状溶岩は、海底あるいは水中でしかできないつくりです。マグマが水中で噴出すると、水は冷たく、マグマを急速に冷まします。冷めたマグマは岩石として固まります。でも、表面が岩石として固まっても、中にはまだ溶けたマグマあります。岩石自身は断熱効果が強く、熱を伝えにくいためです。
 あたからあとからマグマが噴出す火山噴火では、岩石の弱いところを見つけて、マグマが飛び出します。それは、まるで、マヨネーズをチューブから押し出したように、丸い円筒状にマグマか流れ出ます。そんなマグマも水に冷やされ岩石として固まります。海底火山では、これが繰り返されることになります。枕状溶岩は、水中でのこのような繰り返しでできたものです。
 枕状溶岩の下には、不思議なものがあります。それは、溶岩の数cmから数十cmくらいの厚さの岩石の板が平行に並んでいるものです。一枚一枚が枕状溶岩を供給したマグマの通り道だと考えられています。
 マグマが地下から上昇してくると、上にあった岩石が割れてます。するとその割れ目が、直線的に延びるため、マグマもその割れ目を埋めていきます。マグマの供給が止まると、その通り道が岩石の板として固まるのです。このような岩石は、岩脈(かんみゃく)と呼ばれます。岩石は玄武岩か玄武岩がややゆっくりと冷えて粒の大きくなったドレライトと呼ばれるものからできています。海底では、マグマがいつも同じ割れ方をするところに供給されていることがわかります。
 岩脈の下には、マグマがたまっていた場所である「マグマだまり」が固まったものがあります。斑れい岩と呼ばれる岩石からできています。斑れい岩は、玄武岩と同じような成分の岩石ですが、ゆっくり冷えたため、粒の大きな結晶からできています。
 マグマだまりの底には、マグマが冷えるといちばん最初にできてくる結晶でマグマより重い鉱物が沈んでいきます。マグマの底には、このような鉱物が縞状になってたまっています。これを層状かんらん岩とよんでいます。かんらん岩とは、マントルを作っている岩石と同じものです。ですから、このかんらん岩から下は、地震波などでマントルと同じ様な性質をもったものとなります。
 さらにした下には、マントルのかんらん岩でも、上の方に玄武岩のマグマを供給した残りかすのマントルがあります。このようなマントルの岩石はハルツバージャイトとよばれるものです。
 さらに下には、溶けた経験のないかんらん岩からできたマントルがあります。
 これが、海底下にある大地の構成です。多くの海底を調べた結果、この岩石の並びや、岩石の性質が非常に一様で似ていることが、海底の大きな特徴となっています。つまり、これは、陸地の岩石と違って海底の岩石が、いつでも、どこでも同じようなつくられ方をしていることを意味しています。

・科学者も人間・
Shiさんから、私は、「感情の薄い方」だと思われていたようです。
それが、私の前の母に関する文章で、そうでなかったと気付かれたそうです。
そんなメールに対して、私は、つぎのような返事を書きました。

「科学者も人間です。
そして、私は、理性的でありたいとは思っていますが、
感情に負ける人間です。
それは、つくづく思います。
以前、べつのところでも書いたことがあるのですが、
曽祖母や祖父の死の時はあまり感情的にならなかったのですが、
身近な肉親のして父の死があり、そのとき感情に理性が負け驚きました。

その父は、数年に亡くなりました。
実家は京都の田舎なので、田舎風の昔ながらのやり方で、葬式をしました。
初七日まで、毎日人がきて、何らかの行事がありました。
毎晩、喪主として立ち会わなければいけませんでした。
当時、Y大学で非常勤の授業を受け持っていたので、
たった1講のために京都-横浜間を新幹線で日帰りをしました。
でもこんな忙しさも葬式につきもののようで、
気を紛らわすという効用もあったようです。

それまで、自分は科学者であり、
おっしゃるように非常に理性的で、
感情に負けない理性を持っていると思っていました。
それまで、涙は出なかったのですが、
しかし、父の棺を閉める時、焼却炉の前で最後の別れの時、
突然自分でもわからないほど、涙が出て止まらなくなりました。
そのとき、心の隅に追いやられていた理性が、最後の最後に思ったことです。
「やっぱり自分にも、どうしようもない感情があったのだ」ということです。
それがもしかすると、理性に偏りすぎた私の生き方に対して、
最後に父が教えてくれたことかもしれません。

それはあまりにも大きな教えでした。
私は、すべてを合理性や理性によって考えることが正しいと考えていました。
そして、自分は今までそうしてきたし、
他の人も自分と同じように、頑張ったり、望んだりしたら
合理的な考え方になれるものだと考えていました。
でも、そんな理性的である自分のような人間にも
おさえ切れない感情があること、
そして当然他人にも同じような感情があることを身をもって知ったです。

自分にも他人にも、感情を認めることにより、
今まで簡単に解決できると考えていたことに、
解決不可能な部分があることが、身につまされて教えられたのです。
理屈では済まない部分を認知するということです。
その土俵でも、ものごとを考えなければならないということです。

私の興味はそちらに急速に向かっていきました。
父の出した宿題をすることです。
でも、これは、理性で感情をコントロールしようとしても
「いくらやっても解決できない」ということが、
私の現段階での答です。
人間である限り、感情の世界は捨てきれません。
感情の存在、それが心の全域を覆うこともあるということを
認めることにしました。
ごく当たり前の答えです。
でも、私は、感情に流されながらも、私は合理性の世界を目指します。
つまり、感情と理性の全面解決は求めない。
少しでも多くの人の役に立てばと考えるようになりました。

こんな簡単な答えを出すのに5年もかかりました。
もう父の宿題も終わりにしようと考えています。
大変、長い時間のかかった宿題でした。
でも、自分の世界を大きく広げる結果となりました。
父に感謝しています。
そして、母を大切にしていきたいと思っています。
ありがとうございました。」

というものです。
私も、そしてすべての科学者も人間です。
ただ、理性を重んじています。
でも、感情も併せ持つ人間です。

2003年7月10日木曜日

5_24 海底は何からできているか(その1)

 今まで大地をつくる石といいながら、陸地ばかりを見てきました。海の底にも大地、つまり地殻は広がっています。海底をつくる石はどのようなものからできているでしょうか。

 地球の表面の3分の2は海が占めています。しかし、海の下にも大地は広がっています。では、海の下の大地が、どのような石からできているかを見ていきましょう。
 海底の石がどのようなものからできているかを知ることは、科学者の長年の夢でもありました。でも、なんといっても海は広く深く、なかなか海底の石を調べることはできませんでした。しかし、科学者は、さまざまな智恵と技術によって、科学者は世界各地の海底の石を調べることができろようにないました。
 鉄の網でできたカゴにひもをつけて、海底におろし、船でそのカゴを引っ張ります。網の目を粗くしておくと、その目より大きなものだけが残ります。それを引き上げると、海底に転がっている石ころをとることができます。言葉でいうと簡単ですが、4,000、5,000メートル、時には10,000メートルあるような深いところを、カゴをひきずっていくわけです。ひもは丈夫なワイヤーにしなければなりません。すると数1000メートルのワイヤー自身の重さも大変なものになります。おろす時間、上げる時間を考えると大変な労力が必要です。このような調べ方は、ドレッジと呼んでいます。ドレッジ専用の海洋調査船が必要になります。
 ドレッジによる調査を世界各地の海で行うことによって、海底に転がっている石の様子を知ることができます。でも、これには問題があります。もし、陸地で同じようなことをして、石ころを集めたとすると、その問題点がわかります。
 石ころは、たまたまそこに落ちていたものです。そこの大地をつくっていたものかどうかはわかりません。さらに、石ころは表面に転がっているものです。これは、陸地の表層を調べるときに地質図をつくりましたが、そのとき無視していたものにあたります。
 ですから、本当に海底をつくっている石を知るには、なんとか、海底深くの岩石を手に入れる必要があります。そこで、考え出されたのが、海底を掘り抜く方法です。ボーリング(掘削)と呼んでいます。陸地でも、大きな建造物をつくるときは、たいていボーリングをします。穴の開いた筒を大地に突き刺し、その穴の中に大地の岩石をくりぬいて地表に持ち上げる方法です。この方法を海底でもおこなえばいいのです。
 ところが、これも大変な技術を必要とします。数1,000メートル下の海底めがけて、長い筒を下ろして掘り進まなければなりません。数1,000メートルの長さのボーリングの筒の重さは並大抵ではありません。
 それに、海底の石を取ってくるためには、ちょっちゅうボーリングした筒を船の上まであげて、岩石を取り出し、またおろすというという作業が必要です。大変な手間がかかります。
 さらに大変なのは、ボーリングの筒を同じ穴に下ろさなければならないのです。ボーリングの先端の直径を50センチメートルしましょう。海底の深さを5,000メートルとしましょう。これを陸地の場合を考えてみましょう。5キロメートル先の50センチメートルの的を狙うことになります。あるいは500メートル先の5センチメートルの的を狙うことになります。見えないような的を何度も狙わなければなりません。それも的に当たらないと作業が始まらないのです。さらにこの作業の大変さは、海面は波でゆれたり、風や海流によって流される作業船の上からしなければならないことです。でも研究者はそのような困難な作業を成し遂げました。
 その結果は、次回紹介しましょう。


・母について・
前回の私の母に関する文章は思わぬ、波紋をよんでいます。
Kabさんから、いただいたメール対する私の返事です。

「私の祖々母と祖母は、自宅で母の介護の後、自宅で死にました。
父は大腸ガンでしたが、入退院を繰り返しながら、
最後は、自宅療養し、病院に入院した直後になくなりました
医者嫌いの父は、自宅で母にわがままを言いながら介護を受けていました。
母は、3人の肉親を介護し、見取ったのです。
私は、祖々母以外は、自宅を離れていたので、
その苦労を目にすることなく、母から聞くだけでした。
その母が、今は高齢なので、心配です。
近所に住んでいる弟夫婦がいくいくは同居する予定なので、
少しは安心なのですが、それほど喜ばしいことでもなく、
心配でもあります。
母をこちらに呼ぼうと思ったのですが、
やはり長年住み慣れたところがいいと、
私とは同居するはなく、京都を離れません。
足が痛いようですが、天気さえよければ、
畑で野菜をつくる日々を送っています。
現在の状況が、母にとって健康にも、
精神的にもいちばんよさそうなので、
できる限りそうしてもらっています。
そして、チャンスさえあれば、こちらに呼んで、
温泉などに連れて行ってます。
でも、限られた時間ですので、
母を疲れさせるだけのようで心苦しい気もします。
でも、余り長い滞在だと母が嫌がります。
今回も10日か2週間ほど滞在するようにさそっていたのですが、
畑の世話や家を空けることが心配といって、
6泊7日の滞在となりました。
あと何度、母と顔をあわすチャンスがあるでしょうか。
私が、学生時代からすれば、母と顔を合わす機会、
電話をする機会は大部多いです。
でも、母に残された時間を考えると、
今までの親不孝を考えると、
できる限り、あっていこうと思います。
私がなにをいっても自宅を離れたがらないのですが、
子供たち、母からすれば孫たちが電話でおいでさそうと、
その気になってくるようです。
ですから、電話のたびに子供たちにはおいでというようにさせています。
Kabさんの介護の話から、私の母の話へとなりました。
私事ばかりになりました。」

・贈る言葉・
私の教養のゼミの学生のA君が就職の内定が出たといって連絡がありました。
そんなA君に向かって私は、次のようなメールを送りました。

「内定、おめでとうございます。

じじ臭いですが、お話を一つ。
会社は、あなたという人間をみて、採用してくれたのだと思います。
では、来年春から、あなたは、会社の期待通りの社員になりたいですか。
そうすれば、多分、あなたも会社もやりやすいでしょう。

私は、期待を外れて欲しいと思います。
あなた自身の期待からも、外れて欲しいと思います。
つまり、現在の自分から、より大きな自分にむけて、脱皮して欲しいのです。
そのために残された半年を有効に使って下さい。
もしかすると、変わったあなたは、
会社のあなたに対する期待とは違うかもしれません。
でも、あなたが会社のために良かれと思って変わるのであれば、
いいのではないでしょうか。
その時は、期待から外れてしまうかもしれません。
でも、もしかするとそんな期待から外れることが、
将来、あなたにとっても、会社にとっても、
より大きな益となるかもしれません。

今の自分に決して満足することなく、
奢ることなく、
浮かれることなく、
我を忘れることなく、
あと半年間の大学生活を、付録と思わず、
生きていって下さい。
変わった自分を会社に見せつけるほどの気持ちをもって、
半年間を私はこんなに使い、
こんなに自分は変わったのだといえるような、
学生生活を送って下さい。

たった半年。されど半年。
気持ち次第で活用ができるはずです。
これからが、あなたの本当の価値が問われるのではないでしょうか。
そして、もし変われた自分がつくれるのであれば、
そんな能力はきっとこれから役に立つはずです。
社会に出てからできないことが、
この大学できっとできるはずです。
考えて下さい。
悩んで下さい。
そして成長して下さい。
期待しています。
ではまた。」

私にとっても、時間は同じように大切であるはずです。
それを再確認するメールでもありました。
半年後の私は、成長しているでしょうか。

2003年7月3日木曜日

6_29 川と人との共存

 「日本最後の清流」と呼ばれる四万十川ですが、四万十川は清流というだけでなく、日本の川として今では他の川であまり見かけなくなったものがあります。それは、川が人々の中で活きているということです。日本の川と人とのいい付き合い方が、ここにはあるような気がします。かつては、日本中でみられた川と人の付き合い方が、今でも残っている数少ない川ではないでしょうか。

 私は、四国には住んだことはありませんが、縁があって、四国にはたびたび出かけます。そして、四万十川も、出かけるたびにではないのですが、ときどき訪れるチャンスがありました。しかし、それはちょっと立ち寄るという程度でした。先日、四万十川だけを、じっくり眺めにでかけました。
 四万十川を源流から河口までたどってみて、いちばん感じたのは、激しく蛇行している川だなということです。まるで、大陸を流れる大河の小型版を見ているような気がしました。四万十川は、四国山地を源流としていますので、上流の川は急流ですが、少し下ると、もう穏やか流れとなり、蛇行をはじめます。そして、いったん海に8kmまで近づくのですが、まだまだ長い流れを経た後、やっと海へと注ぎます。
 四万十川の川原の石や砂を調べながら下っていくと、不思議なことに気づきました。川原をみると、石ころは一杯あるのですが、砂が非常に少ないのです。もちろん皆無ではありませんが、探して採集しようとするとなかなか見つかりません。
 なぜでしょうか。多分、2つの原因による蛇行によって流域面積の狭さためではないでしょうか。
 川が蛇行をしているのは、傾斜の緩やかな平野や平らなところを流れるためです。蛇行をするようなところでは、川の作用として削剥や運搬より、堆積の作用が働くところです。ですから、砂のような堆積物がたくさんたまっていいはずです。
 ところが、四万十川の場合、四国山地の奥深くを急流として流れる面積が少ないのです。つまり、削剥をうけ、砂を供給する面積が少ないということです。さらに、四万十川は、それほど広い地域から水を集めているわけではないのです。四万十川の流域面積は2270平方kmで、流路(幹線流路延長)は196kmです。流路に対して流域面積は12km2/kmとなり、日本の大型河川でも、もっとも小さいものとなっています。
 川の長さに比べて、流域面積が小さいということは、砂を集め、つくるための面積が少ないことになります。蛇行が激しいと、川が運搬の過程で石を砕くという作用も、それほど強くないことを意味しています。ですから、石ころだけで、砂だけが少ない川となるのでしょう。
 もちろん洪水があれば、激しい削剥、運搬の作用が働きます。でも、その洪水が収まると、小さく軽い砂は運ばれ続けますが、大きく重い石ころは川原に残るのです。このような原因によって、四万十川には砂があまり見当たらないのでないでしょうか。
 四万十川で、このようなことがわかるのも、川が本来もっている特徴をよく残しているからです。それは、四万十川がもっている蛇行が、人によって矯正されることなく、大型のダムもなく、ありのままの姿で流れているからです。もちろん、護岸をされているところや、堰も、生活廃水がそのまま流されているところもあります。ビニールやビンなどのごみもみかけます。ですから、まったく自然のままの川の姿というものではなく、人手が加わっています。
 ごみをみて自然じゃないというの早計です。人の生活の痕跡は、人がその地で暮らすとき、きっと残るものです。里山や雑木林も同じようなものでしょう。人がその地で生きるということは、自然から恵を得るということです。自然は恵みだけでなく、災いももたらします。もちろん、災いはありがたくないものですから、人は災いを避ける努力をしてきましたし、これからもしていくでしょう。
 それを、どこまで、どの程度おこなうか、どのような視点で考えておこなうかが問題ではないでしょうか。例えば、川をまっすぐに矯正すること、護岸をすることで得られるメリットとデメリットを、慎重に考えることが必要だと思います。
 もちろん、そのような対策をすれば、当面の災いをそれで取り除けるでしょう。でも、長い時間、数10年や数100年のスケールで考えて処理すべきではないでしょうか。いちどいじった自然を元に戻ることほど、ばかげたことはありません。それに、多くの河川や海岸線でそのような矯正の実例は、一杯あります。そこから学ぶべきでしょう。
 長い時間を視点にした川との付き合い方を忘れてはいけないような気がします。これこそ今よくいわれる持続可能性だと思います。そんな長い時間をかけた川との付き合いは、じつは何100年にもわたって私たちの祖先はやってきました。もちろん治水もやってきました。でも、過去の治水は、四万十川でみたような、人がそこで川を最大限に利用して生活できる程度のものであったはずです。祖先たちは、川の本来の姿を残したままの付き合い方をしてきたのです。
 智恵ある生物、人として、同じ失敗をしないだけの智恵、うまい付き合いの方法を忘れないだけの智恵を持ちたいものです。