2003年6月26日木曜日

5_23 大地は何からできているか(その2)

 量を比べるときは、範囲を限定しなくていはいけません。大地は何からできているかという場合、「陸地の表面」ということに限定しましょう。

 大地、つまり地殻をつくっているものは石です。どのような石が、地殻全体にわたって、どこに、どれだけ分布しているかが正確にわかっているわけではありません。表面部分だけであれば、地質図を手がかりに知ることができます。でも、地殻の深い部分まで含めて全体にわたって知ることはできません。
 表層について知ることも大切です。そこに深部を知る手がかりがあるかもしれません。大地の表層が、どんな石からできているか、見ていきましょう。
 手元ある理科年表(2003年版)を参考にしていきます。日本列島と北欧、北米での岩石の比率が出ています。まずは、日本列島から見ていきましょう。
 日本列島における岩石の分布面積が示されています。一番多いのが。堆積岩で58%(面積では22.0万平方km)です。次いで、火成岩が38%(14.2平方km)で、その内訳は、火山岩が26%(9.8万平方km)、深成岩が12%(4.4万平方km)です。一番少ないものは、変成岩で4%(1.6万平方km)となっています。
 日本列島をつくる石は、堆積岩が一番多かったのです。堆積岩と考えた人は正解でした。私たちが、日本全国の山や海岸で見かける崖の半分以上は堆積岩が占めていたのです。ただし、これは、平均です。住んでいる地域によって堆積岩ではなく、火山岩や深成岩のがけが多いところも、もちろんあるはずです。でも、平均すると上で示したような値となる訳です。
 さて、日本列島を覆っている岩石を見ていきましたが、日本列島の値が地球の陸地の平均となるのでしょうか。それを比べるために大陸地域である北欧と北米を見ていきましょう。
 北欧のノルウェー(2ヶ所)とフィンランド(1ヶ所)のデータがあります。ノルウェーの1ヵ所は、日本と似たようなできかたをした造山帯のデータです。造山運動とはいっても、日本のものと比べて、もっと古い時代の6億から3億年前の古生代におこったカレドニア造山帯とよばれるものです。ここでは、いちばん多いのは堆積岩とその変成岩で、51%です。ミグマタイトと呼ばれる岩石が溶け出しかけた変成岩が36%で、いちばん少ないの火成岩の13%です。
 堆積岩が多いのは日本と似ていますが、高度の変成岩が多いのは、ノルウェーのカレドニア造山が古い時代のものだからです。のちの時代の変成作用を受けていることと、長い年月で上の地層や岩石が侵食でなくなったので、深部の岩石が地表にでていることで、変成岩の比率が多いと考えられます。
 
 ノルウェーのもう一つのデータは、先カンブリア時代の楯状地とよばれる古い大陸地殻のものです。このデータでは、48%が高度の変成岩であるミグマタイトで、花崗岩を主とする火成岩が35.8%になり、堆積岩は12%です。先ほどとは違った答えが出てきました。堆積岩がいちばん少ないのです。それに対して、火成岩や変成岩の比率が多くなっています。この傾向は、フィンランドのデータも同じような傾向を示しています。火成岩が61%で、変成岩が22%で、堆積岩が18%です。
 火成岩の中でも花崗岩の比率が多くなっています。ノルウェーの先カンブリア時代の花崗岩は33%、フィンランドでは53%になります。
 大陸地域では、造山帯は堆積岩が多いのですが、古くなると堆積岩の比率が少なくなり、変成岩と火成岩の比率が多くなります。古生代以降の造山帯は、世界各地で見られますが、全大陸で占める割いは、多く見積もっても、半分にはなりません。その造山帯でも、堆積岩の占める割いは、52%ですから、陸地全部の中では、30%前後にしかならないでしょう。
 火成岩は花崗岩が多くなり、変成岩も花崗岩起源のものが増えてきます。大陸は、花崗岩およびその変成岩が、そのおもな構成物とみませます。つまり、大陸は、花崗岩とその変成岩からできているといえます。やっと答えがでてきました。

・発展と不便・
Shiさんからの環境問題についてメールがありました。
環境問題について、私は、次のような考えを示しました。

「地球というレベルで考えると人類のしていることは、ささやかなことです。
でも、人間のレベルで考えると、ことは重大になります。

人間とは、身勝手なものです。
智恵があるために、寒かったら暖かくしたり、
不便だったら便利にしたりします。
これが人類を大いに発展させたのです。
かつては、生存競争のために智恵を使っていたのですが、
今では楽をするために智恵を使っているのです。
人間とは、身勝手なものです。

自分たちが楽したいために、我慢をするということを
捨てているように思います。
まさに「飽食」の種ではないでしょうか。
地球の今までの蓄えも食いつくし、従来の生態系や環境システムも、
変更を余儀なくさせる存在なのです。

でも、地球生命として生まれたのですから、
これも何かの必然が働いているのかもしれません。
もしかすると、先にあるのは人類という種の自滅でしょうか。

ほんの2、300年前までは、少なくとも日本人は
自然を食い尽くすようなことはしていませんでした。
自然と共存していました。
まさに持続可能な自然と人間生活の共存です。
そのかわり大いなる発展は放棄していました。

江戸時代の人たちと現代人は、どちらが智恵がある生き物なのでしょうか。
わからなくなります。

私も現代の便利な世界に生きる人間です。
ですから、飽食の片棒を担いでいます。
いまさら、江戸時代の生活にもどれといっても不可能です。
かといって、贅沢を知り尽くした先進国の人間に、
どうすれば地球に優しい生き方ができるでしょうか。
たぶん、自律的に達成することは不可能だと思います。

なにかの緊急事態がおきて、それで仕方なく不便を強いられるとか、
生か死かという選択で生を選び不便でも生きているほうがいい
というような事態がないと不可能かもしれません。

地球環境の変化を人類は智恵を持って防ごうとしています。
でも、発展を維持しながら、贅沢をしながら、環境も守ろうというのは、
虫が良すぎるのではないでしょうか。
やはり、持続可能な自然との共存には、発展を捨て、
不便に耐えなければならないのではないでしょうか。

と、人類の未来を考えるとどうしても、小さい視点で、
「わが身かわいさ」の発想をして、最終的には、悲観的結論になります。
なるようにしかならないという、あきらめに似た気持ちとなります。
ですから、私は、あまり人類の未来を考えたくないのです。

でも救いは、人類が何をしようとも、地球や生命の総体、
環境は少々変化しますが、残るはずです。
それは、いままでの地球や生命が潜り抜けてきた激変に比べれば、
人類のしていることはささやかなことだからです。
私は、地球的発想で考えていきたいと思います。

ちょっと暗い話なりました。」

という返事を書きました。