2003年5月29日木曜日

4_32 城川:四国の旅3

 全国で市町村合併について話し合いが進んでいますが、愛媛県でも市町村合併として、西予(せいよ)という市が、来年から生まれます。そんな西予市のひとつに城川町があります。今回は、城川町の話題です。


 愛媛県東宇和郡城川町という山間の町があります。四国や愛媛県の人には、ご存知の方がおられるかもしれませんが、ご存知でない方が多いと思います。しかし、じつはこの町のさらに小さな地域の名称が、地質学者には非常に有名なものとなっています。
 その名称とは、黒瀬川構造帯、寺野変成岩、三滝火成岩類などがあり、中でも黒瀬川構造帯は、地質学の世界では非常に有名です。ただし、この地質学的名称が、城川町内の地名が、その由来だとは知らない地質学者も、多いかもしれません。
 黒瀬川構造帯は、地質学では、西南日本内帯にある秩父累帯に中にある不思議な岩石がでてくる地帯です。その地帯は、多数の断層によって構成されており、異質で多様な岩石がでるところであります。不思議なというのは、秩父累帯の岩石が、付加体の岩石(海洋底の玄武岩、チャート、石灰岩、陸から供給された堆積岩)でできているのに対して、まったく異質な岩石からできているからです。その異質な岩石の中に、寺野変成岩や三滝火成岩類があります。
 寺野変成岩や三滝火成岩類は、約4億4000万年前のものです。これらの岩石は、秩父累帯がたまった海とはまったく別の環境である大陸を構成していたものだということです。それは、黒瀬川古陸とも呼ばれ、ゴンドワナ大陸とという大きな大陸から分かれてきたのではないと考えられています。
 これらの黒瀬川構造帯の岩石が、城川町内によく分布しているのです。黒瀬川とは、城川町がまだ黒瀬川村と名乗っていた時代に、この地で精しく調査されたため、命名されました。また、三滝変成岩の三滝とは、花崗閃緑岩という岩石からなる三滝山に由来しています。寺野変成岩の寺野とは、三滝よりさらに上流にいったところにある地名に由来します。
 もう一つ、地質学者でもあまり知られてないのですが、重要な地質学的証拠の一つが、この城川町の地層から見つかっています。それは、生物の歴史で最大の絶滅のおこった古生代と中生代の境界(P-T境界、2億4500万年前)の地層が、城川町の田穂(たほ)の石灰岩の調査で見つかっていることです。
 現在の日本では、P-T境界の地層は、東から西に並べていくと、岐阜県大垣市赤坂(石灰岩)、愛知県犬山(チャート)、愛媛県城川町(石灰岩)、宮崎県西臼杵郡高千穂町上村(石灰岩)の4ヶ所しかありません。そのうちの一つが、この城川町にあるのです。これらは、秩父累帯とその東側の延長に当たる美濃帯の地層の中にあります。距離からすると、現在でも500km以上離れています。
 秩父累帯の地層は、付加して、現在は陸地なっていますが、もともとは海洋域で形成された岩石です。石灰岩海山や海洋島で、チャートは海底でたまったものです。海洋域にたまる地層は、陸地に見られる局所的な気候や変動に左右されない堆積物がたまります。そんなところに、P-T境界の異変が記録されていたのです。P-T境界時代の海という環境を探るには、非常に重要な資料となっています。
 田穂の石灰岩をP-T境界と最初に認定されたのは、横浜国立大学(当時)の小池さんで、その重要性を指摘されたのは、東京大学の磯崎さんです。その研究は現在進行中であります。

・城川町立地質館・
地質学的興味のあるかたで、
城川に行かれる機会があれば、
ぜひ、この地域の地質を紹介していている博物館、
城川町立地質館を訪ねてみてください。
そこでは、この地域に産出する代表的な標本と、
その解説があります。
訪れる人は少ないですが、地質学者には、
結構、魅力のある博物館だと思います。

・調査の成果・
愛媛県松山空港から、高知県の四万十川を下り、河口の中村市まで行き、
そして、松山へもどりました。
ゴールデンウィーク中の6泊7日の家族旅行です。
私は、高知県の四万十川の源流から河口までの岩石調査が主な目的でした。
他に、愛媛県の面河川、肱川なども調査をしました。
岩石の標本を320個ほど、砂の標本を13ヵ所で採取し、
写真を880枚ほどとりました。
成果はこれから実験室にもどって細かな記載をしなければなりません。
これが、なかなか大変です。
でも、この苦痛に類することも研究の一環です。
それに、北海道の冬は野外調査ができないので、
室内作業をする余裕はたっぷりあります。

・遠方の友を訪ねる・
今回の旅行のもう一つの目的は、
城川町にいる後輩でもある友人を訪れることでした。
彼とは1年に一度会うか会わないわからないですが、
可能な限り会うようにしています。
家族ぐるみの付合いをしています。
もともとは大学の後輩ですが、
城川町立地質館の作るとき、
わたしが、手伝って、現在でも、交流を続け、
町の子供たちの夏の講座を開催したり、
資料の交換、データの交換などのネットワークの実験をしています。
そんな関係で、私は、この10年ほどの間に、
何度も城川町を訪れているのですが、
家内は2度目、子供たちは始めてです。
友人や子供たちは、私のところに行事で訪れたりしているので、
うちの家族には会っていました。
そんな遠くの友人と旧交を温めるのも、
楽しいものです。

2003年5月22日木曜日

4_31 四万十:四国の旅2

 四万十川への旅の話の2回目です。四万十川は、水清く、純朴な人が川とともに生活していました。四万十川の地質について考えましょう。


 今回の旅行は、四国西部の南北を縦断する旅でした。そして、このような旅をすることによって四国の地質を大局的に眺めることができます。
 四国には、地質学的に有名な中央構造線が東西に走っています。その構造線のために、四国の中央部は東西に延びる山脈ができています。そして、中央構造線の方向にすべての地質体は、配列しています。
 日本列島は、中部地方を南北に走るフォッサマグナを境にして、西側を西南日本、東側を東北日本と呼んで、区分しています。そして、西南日本には、東西に走る中央構造線が走っています。中央構造線は、四国を通っています。中央構造線の北側を内帯、南側を外帯と呼びます。四国には、西南日本内帯の一部と西南日本外帯という地質体があります。その境界が、中央構造線です。
 今回の旅では、その両帯を車で、一気に走り抜けました。
 西南日本外帯は、北側から、三波川帯、秩父累帯、四万十帯という大きな区分があります。三波川帯は、片岩を中心とする高圧の条件で形成された変成岩からできています。秩父累帯は、かつての大陸のふちに、沈み込むプレートからはがれさた堆積物がくっついたもの(付加体)からできています。四万十帯は、秩父累帯より新しい時代の付加体です。
 このような大きな地質帯の境界はたいてい大規模な構造線となっています。三波川帯と秩父累帯との境界は、上八川(かみやかわ)-池川(いけがわ)構造線とよばれる大断層で、秩父累帯と四万十帯の境界は、仏像(ぶつぞう)構造線と呼ばれるものです。
 今回は、四万十川の流域を中心としましたが、愛媛県上浮穴郡美川村のきれいな河原では、高知県吾川郡春野町で太平洋に流れ込む仁淀川の上流の支流、面河(おごも)川では、三波川帯の片岩の石ころがたくさん見ることができました。美川村の河原の砂は、緑色片岩の破片が多いせいか緑色をしていました。四万十川では、秩父累帯や四万十帯の堆積岩の石ころをたくさん見ることができます。
 四万十川の河原では、礫岩、砂岩、泥岩や石灰岩の石ころが多く見かけました。そして、四万十川の河原では、なぜが砂がほとんどなく、石ころばかりの河原でした。中村市の四万十川の河口では、砂を見ることができました。四万十川近くの海岸でみた砂浜は、白から茶色っぽい、よく見かける砂でした。
 河原の石ころや砂は、その地域の地質を反映した標本箱のようなものです。そして、その一部はやがて堆積岩となっていくものです。

・四万十川の味・
四万十川の源流周辺は四国カルストにあたります。
そして、源流のカルストには天狗高原があります。
そこに宿泊したのですが、
地酒は「てっぺん四万十」というものでした。
飲み水は、「四万十源流の水」でした。
もちろん味わいました。
高知では、カツオのタタキ、タコ、イカの刺身などの海産物だけでなく、
ヤマトテナガエビ、アユ(まだ解禁されていませんので冷凍でしょう)、
アメゴ、川ノリ(セイラン)、アオノリなどの川の産物もいろいろありました。
愛媛では、うどんが美味しかったです。
このように遠い土地に出かけると、いろいろな味覚を楽むことも
旅行の醍醐味でしょう。

・快晴の四万十川・
四万十川の源流の四国カルストの天狗高原についた日は、
濃霧に曇っていました。非常に肌寒く、北海道のような気候でした。
夜から晴れはじめ、放射冷却で、車の窓ががりがりに凍っていました。
まるで北海道の朝のようでした。
冷え込んだ日、四万十川を下る日としては、絶好の快晴でした。
そして、四万十川を巡る3日間は快晴だったので、
家族一同、すっかり日焼けしてしまいました。
温泉にはいると、肌がひりひりしました。
これも家族にとっては大切な旅の思い出でしょうか。

2003年5月15日木曜日

4_30 活きている川:四国の旅1

 「日本最後の清流」と呼ばれる四国高知県を流れる四万十川の源流から河口まで、丸3日間かけて、川沿いを車で巡りました。そのときの感想を書きましょう。


 四万十川は、不入山(いらずやま、標高1336m)の東側斜面、標高1200m付近を源流としています。四国カルストの南側の斜面にあたります。そのため、源流の岩石には、石灰岩が目につきました。
 源流へは、林道を車でしばらく入ったのち、車を降りてから、しばらく歩きます。でも、有名な四万十川ですから、道がはっきりしています。そんな山道をしばらく歩くと、源流にたどりつきます。源流には、看板がありました。親切だし、ありがたいことですが、その親切さが、すごく自然の中に人工的なものを感じ、違和感がありました。
 源流には、きれいなせせらぎありました。いかにも源流、という雰囲気を見せていますが、本当の源流はさらに上部のところにありそうです。その道は、さだけでなく、険しくなっていきそうです。これ以上いってもきりがないかも知りません。
 源流付近のきれない水の流れが見られのは、このあたりなのでしょう。それが源流の看板がありました。車を降りてから、20、30分ほど歩いたあたりですので、それなりの雰囲気がありました。それに、多くの人間がむやみに分けるいることは、余りしないほうがいいに決まっています。
 なにより、あの有名な四万十川の源流が、私のように遠くから訪れたものにとっては、はっきりとわかり、道もはっきりしているので助かります。さて、この源流から、今回の川の旅がはじまります。
 四万十川は、全長196kmあり、全国では11番目の長さとなっています。上流は急傾斜ですが、中流からは、蛇行を繰り返しながら、河口へいたります。しかし、今回、砂と石の資料を収集しながら、歩いたのですが、砂がすごく少ないような気がしました。河口にはもちろん、大量の砂が、ありましたが、砂を探すのに苦労しました。川の石は、さすがにダムがないので、きれいなものが、とれました。河川の石は、上流では、角ばっていましたが、河口では、教科書どおり、石は丸く平べったくなっていました。
 四万十川は、「日本で最後の清流」といわれているように、確かにきれいな川でした。しかし、ところどころに、コンクリート護岸されているところもありました。取水堰もありました。河口は、激しくいじられていました。港を守るためでしょうが、自然が多く残されれいるだけに、人工の部分がすごく不自然に目立ちました。上流から、自然の河川をみてきたので、下流の人為には、すこし興ざめしましたが、でも、四万十川は、いい川でした。
 なぜなら、なによりそこには、川で生活している人、川を楽しんでいる人、川を利用している人、川と共存している人がいます。つまり、川を川として利用されている川がありました。川と人、自然が共存していると感じました。人ともとに生きてきた川がありました。

・語源・
源流の看板には、「シ・マムタ」の川と書いてあった。
「シ・マムタ」とは、アイヌ語で、「はなはだ美しい」という意味だそうです。
それが、四万十の語源という説もあります。
四万十川の名称には、他にもいろいろ異説があるようです。
四万川と十川という川の名が一緒になったとか、
支流が、四万十本もあることからとか、
流域の山林が、四万石の船で10回採集できるほど
などの説があります。
本当のところは決まっていないようです。
しかし、流路に対して流域面積は、12km2/kmとなり、
日本では最小とされています。
つまり、狭いところを蛇行をして流れ下っています。
川の中流で海まで8kmしかないところがありますが、
地形の関係で、遠回りして、四万十川は海へと向かいます。

・源流へ・
源流は、未舗装の林道をしばらく走ることになります。
林道をしばらく走ると、碑があり、そこから約30分、登ることになります。
上り始めてすぐに、バイクのライダー姿の若者が、
なかなかたどりつかないので途中で引き返してきた、といってたので、
子供づれだったので、登れるかどうか心配でしたが、
なんとか登ってくれた。
のんびり登れば、5歳と3歳の子供連れであるいても、ゆっくりいけました。
3歳の子供は、危ないところは抱っこやおんぶはしまたが、
5歳の子供は、手を引くだけで、歩ききりました。
往復1時間ほどの山登りでした。
子供は探検をしたと喜んでいましたが、
小さな子供づれだったら
四万十川の源流へ行くことはあきらめなければならないかな
と覚悟をしていましたが、
私は、なんとかいけたことが一番うれしかったです。

2003年5月8日木曜日

5_20 地球は丸い

 地球が丸いことは、誰も知っています。でも、日常生活で、地球が丸いことを、あなたは実感できますか。多分、実感はないと思います。別のいい方をしましょう。地球が丸いことを示す証拠を、あなたはいくつ挙げることができますか。

 地球が丸いことは、よく知られていることです。いちばん手っ取り早いのは、宇宙から撮った地球の写真をみせることです。そうすれば、地球が丸いことが直感的に理解できます。
 直感的に理解できても、実感できることとは違います。宇宙船も飛行機もない時代の人も、地球が丸いことを知っていました。そんな昔の人の智恵を見ていきましょう。
 古い例では、エラトステネスが、同時刻に同経度の場所の影の長さの違いから地球の円周を測りました。これは、地球が丸いから起こる現象を利用したものです。
 教科書によく出ている証拠としては、海で、近づいてくる船は上部から見えだし、船体はその後みえるというものです。これは目のいい人が多かった時代の例なのでしょうか。本当は、船から陸の山をみると、山の頂上からだんだん裾野まで見えていくというものだったようです。
 月食とは、月が地球の影に入る現象です。この現象から、地球の影が丸い、つまり地球が丸いことがわかります。これは、ガリレオが思いついた方法です。
 さて、私が思いついた、いくつかの方法を羅列しましょう。
 手間はかかりますが、実感できる方法としては、80日間世界一周と同じことをすることです。つまり。地球を西か東にまっすぐ進めば、出発地点に戻るということです。
 先ほど海の船の例を示しましたが、逆に、見る側が上昇すれば、より遠くが見えるというものです。それは、東京タワーに上るとか、山に登るとか、気球に乗る、ヘリコプターに乗るなど、視点を上昇させることによってより遠くが見えるという方法です。
 今の方法と関連しますが、高くなるほど、地平線は遠く、広く見えます。非常に高くまで上がれば、地球の丸みが地平線となります。
 北極星は現在、北の自転軸にの延長線にあります。地平線から北極星の見える高さは、北に行くほど高くなる。これも、地球が丸いからです。
 他の天体と比較して類推するという方法もあります。地球から見えている天体で、その形が分かるものはすべて丸いのです。ですから、多分、地球も丸のだろうなという類推です。
 理論的類推から一つ。重力によって集積したものは、球になるという推定です。例えば大きないびつな形のものがあるとします。そこに、小さな粘土(マメ粒ほどの大きさ)をいっぱい投げつけるとします。ひとつひつの粘土は、ぶつかるとくっつくとします。この粘土を、いろいろな方向からたくさんぶつけ続けると、ボールは、だんだん大きく丸くなっていくはずです。それを永遠と続けると、大きな球になります。地球のできかたもこうではないかと考えられています。

・柔軟な頭・
このエッセイは、子供からの質問に答えたときの答えを
いくつか集め、修正・加筆したものです。
子供の質問には、ときどき、足元をすくわれるようなものが潜んでいます。
彼らは、そこまでの答えを要求していなのかもしれません。
簡単に答えられない場合や、
簡単なことででお茶を濁すことは、答える側の気持ちが、許さない場合、
があります。
この質問も、両方を意味がありました。
地球が丸ということにたして、どれくらい自分は証拠が提示できるのか、
考えついたのが上のような答えでした。
もっともっといっぱいあると思います。
頭の柔軟な人には、もっともっといい一杯答えがあるはずです。
なにも科学的なものだけが答ではありません。
詩的なものだっていいはずです。
例えば、
地球が丸くないと端っこにいくと落ちる人がでてくるから、とか、
地球が丸いとどこに住んでいても、
自分が真中と考えることができてだれでも平等になるから、とか
いろいろあっていいはずです。
他にもなにかいいい証拠がありませんか。
素晴らしいのが見つかったら、ぜひ教えて下さい。

2003年5月1日木曜日

6_27 酸素の誕生:地球史上最大の絶滅

 前回は、鉄鉱石の起源について紹介しました。今回は、鉄鉱石の由来と大きくかかわっていた酸素について紹介しましょう。酸素も、不思議な由来をもっているのです。酸素が大量につくられた証拠は、カナダの極北の地にありました。

 日ごろ何気なくすっている空気。ご存知のように、空気のなかには、酸素が含まれています。私たちは、空気中の酸素を吸い込み、利用し、酸素から二酸化炭素に変え、吐き出します。これが呼吸と呼ばれているものです。酸素を利用し、炭素を二酸化炭素にすることによってエネルギーとして利用することを、広い意味での呼吸と呼んでいます。広い意味での呼吸は、ほとんど生物がおこなっている作用です。では、生物が吐き出した二酸化炭素は、どこに行き、生物が吸い込む酸素はどこから来るのでしょうか。
 教科書には、酸素は光合成をする生物がつくり、その光合成に二酸化炭素が利用されている、と説明されています。光合成では、二酸化炭素から取り出された炭素が、生物の体をつくる材料となります。
 光合成生物によって酸素がつくられているのなら、光合成生物がいなくなれば酸素がなくなるはずです。時間を遡れば、光合成をする生物が誕生することによって、酸素は生産されはじめ、それ以前は酸素のない世界だったわけです。ですから、光合成生物の誕生、あるいは光合成生物の大量発生の時期が、酸素の生成の時期となるはずです。
 光合成生物は、いったいいつごろ誕生したのでしょうか。その答えは、光合成生物の化石や痕跡を探すことによって見つけ出すことができます。
 約32億年前の地層から光合成をするシアノバクテリアの化石が発見されています。もっと古いものがあったとする説もありますが、今のところ研究者の合意を得ていません。多くの研究者が認めているのは、約32億年前のものです。
 約32億年前に最初の光合成生物が生まれ、約27億年前には、光合成生物が大量発生したと考えられています。なぜなら、約27億年前の地層からは、大量のシアノバクテリアの化石が見つかっているからです。
 その化石は、ストロマトライトとよばれる岩石からみつかっています。ストロマトライトとは、上から見ると直径数10センチメートルの同心円状の形をしており、断面をみると高さ1メートル程度のマッシュルームのような形で、中には数ミリほどの幅の細かい縞模様が見えます。そのストロマトライトは、小さなシアノバクテリアがたくさん集まってつくりあげた構造なのです。ストロマトライトが地層の中に大量に含まれています。
 私は何箇所かでストロマトライトをみていますが、カナダ北西準州のグレート・スレイブ湖の東岸でみたものには圧倒されました。約20億年前の地層で、その中には大量のストロマトライトが含まれています。
 まさに累々という形容詞がふさわしいものです。マッシュルームのような形態のストロマトライトを含む地層が、延々と湖岸に続いてみられるのです。その湖岸には水上飛行機でいったのですが、上空からもその地層が累々と続いているのが見ることができました。
 前回の鉄鉱石は、海水中の酸素が増加することによって、鉄が沈殿したと説明しました。その酸素を生産したのが、ストロマトライトという化石になっているシアノバクテリアでした。大量の鉄鉱石と大量のストロマトライトができた時代は、呼応していたのです。
 地球の大気中に酸素を付け加えはじめたのは、シアノバクテリアでした。では、酸素が付け加えられる前の大気はどんなものだったでしょう。それは、もちろん酸素のない、二酸化炭素と窒素を主とする大気だったはずです。
 酸素のある大気は、酸素のない大気に比べると、生物にとっては大きな差となります。現在の生物は大部分は酸素を無毒化し、有効利用するシステムをもっています。それは細胞の中にあるミトコンドリアという器官のはたらきによっておこなわれています。
 酸素のない時代の生物にとって、酸素のある環境は、生きてはいけない環境だったはずです。酸素が細胞内に入れば、酸化によって体内の成分が分解されてします。つまり、ミトコンドリアもたない生物にとっては、酸素は猛毒として作用しました。
 20数億年前、シアノバクテリアよって、酸素が大量に生産されはじめると、その当時生きていた大部分の生物にとっては、とんでもない地球環境破壊がおこったのです。地球規模の酸素の汚染です。もちろん、汚染の行き着く先は、大絶滅です。多分、当時の生物の大半は絶滅したと思います。実態は定かではありませんが、地球史上最大の絶滅が起こったはずです。
 現在、地球環境問題が取りざたされています。でも、地球は、もっとすごい大激変を経験しているのです。そして、素晴らしいことに、そんな大激変も生きぬいたいくつかの種類が生物がいたのです。さらには、多くの生物の殺した猛毒の酸素を利用して、より効率のよりシステムをつくり上げた生物もいたのです。それは、もちろん、現在の生きている生物の、そして私たちの祖先であったのです。

・現在、旅行中です・
ゴールデンウイークに、家族ともども、四国を旅行しています。
愛媛県松山空港から、高知県の四万十川の河口まで、
6泊7日の旅行をしています。
私は、四万十川、肱川などの河川の調査を、
家族は観光をします。
懐かしい友人も訪れるつもりです。
その様子は、近々、紹介します。お楽しみに。