2002年1月16日水曜日

1_21 エイコンドライト(2002年1月16日)

 私の引き出しの中には、3種類の隕石が入っています。そのうち一個が、エイコンドライトというタイプで、ユークライトとよばれる種類に分類されるものです。今回は、このエイコンドライトという種類の隕石についてみていきましょう。

 隕石には、石からできた石質隕石、鉄からできた鉄隕石、石と鉄からできた石鉄隕石があります。石質隕石には、丸いつぶつぶのコンドリュールというものがみられるコンドライトと、コンドリュールのみられないエイコンドライトがあります。
 隕石は、種類ごとに、それぞれ複雑な経歴があります。なかでも、エイコンドライトは、複雑な経歴を持っています。
 エイコンドライトは、コンドリュールという太陽系で最初にできた固体物質が、見えないものです。エイコンドライトに、コンドリュールがみえないということは、コンドリュールがもともとなかったか、なにかの原因でコンドリュールが消されたのか、のどちからになります。
 現在の太陽系形成モデルのなかでは、すべての固体物質は、小さな粒からスタートします。小さい粒は、太陽系の成分、つまり宇宙の平均的な素材では、コンドリュールと氷(H2Oの固体)です。太陽に近いところ(小惑星帯より内側)では、H2Oは水蒸気になるので、石の成分だけが、固体物質となります。
 原始的な隕石は、すべて、コンドリュールを、もともともっていたと考えられます。では、エイコンドライトは、どのような作用でコンドリュールが消えたのでしょうか。それは、やはり太陽系形成のモデルと、密接な関係があるのです。
 太陽系の惑星形成の物語は、小さな固体物質からスタートします。小さな固体物質は、コンドリュールが集まったコンドライトとよばれるものばかりでした。コンドライトは、太陽の周りを回っています。あるものは、衝突し、あるものは、弾き飛ばされ、軌道を変えてしまいます。
 偶然大きくなった隕石ができると、その隕石は、回りや同じ軌道付近の小さな隕石たちを集めはじめます。すると、すごい勢いで、その偶然選ばれた隕石は成長していきます。このような成長は、暴走成長と呼ばれています。
 選ばれた隕石は、暴走成長によって、やがて小さな惑星といえるものまでなってきます。このような小さな惑星とよべるものを、微惑星といいます。
 微惑星では、まだまだ衝突が続きます。その衝突の際に発生するエネルギーで、微惑星は溶けていきます。
 このような微惑星では、コンドライトに含まれていた成分は、その物理的、化学的性質によって、分化していきます。その原理は、単純です。温度が上がると溶けやすいものが溶け、ぬけやすいものがぬけるという原理です。さらに、重いものは下、つまり惑星の中側、軽いものは上、惑星では外側と、いう原理です。そのような原理に基づいて、コンドライトに含まれている鉄の成分は、微惑星の中心部に落ち、気体になりやすい成分(二酸化炭素、水、窒素の成分は、微惑星のいちばん外側にぬけていきます。それぞれ、核であり、大気であるわけです。
 微惑星は、コンドライトのたんに集積したものではなく、一つの星というべき別の道を歩みだしたのです。こんな星では、石の成分も、分化したもの、つまり溶けやすいものが溶け、抜けやすいものが抜けたものとなります。もはや、コンドリュールはなくなってしまっているのです。
 さて、いくつかの選ばれた微惑星ですが、まだまだ過酷な運命が待ち受けています。さらに選別が起こるのです。軌道には、選ばれたもの、一つだけしか残れないのです。そして、その選ばれしものが、今の惑星たちです。そして、かろうじて吸収、あるいは衝突・合体を免れた微惑星のいくつかが、惑星の衛星としてかろうじて残っされているにすぎません。
 エイコンドライトは、今は亡き、微惑星の破片なのです。そして、このようなエイコンドライトから、惑星の形成のプロセスを探ることができるのです。

・隕石シリーズ・
隕石シリーズが、再開です。
少し間が開いてしまいましたが、こりずに、また続けていきます。
今回は、私の机の中にある、2番目の隕石に焦点をあてました。
隕石を書くときは、注意が必要です。
変換ミスや誤字をよくやらかします。
注意しなければなりません。
今回こそは、ミスがなければいいのですが。

・成人・
巷には、成人式のニュースが流れています。
そのニュースの多くは、
新成人たちが暴れたとか、騒ぎをおこしたというものが多いようです。
その、ニュースを聞いて、ふと、考えました。

報道と実態。
実態として、そのような暴動があったはずです。
でも、普通の新成人がいなかったのでしょうか。
ニュースになりにくいから、普通の新成人のあつかわれることが
少なかったのではないでしょうか。
報道の視点が、そのようにゆがんでは、ないでしょうか。

学生運動と暴走。
報道の姿勢だけでなく、青年たちの行動には、
背景は違いますが、なにか通じるものを感じるのは、私だけでしょうか。
個々の主張ではなく、
成人という世代が、なにかをしたい、何かを訴えたい、
のではないでしょうか。

時代は移ろい、そして人も変化します。
昔のままの、自分たちの成人式と同じような新成人たちを
「大人」たちは、期待しているのでしょうか。
あるいは、みんながみんは、優等生であることを期待しているのでしょうか。
いつの時代にも、優等生も、普通の人も、
そして目立つことを身上として暴れる人もいたはずです。
どう見るか、どう報道するか、どう捉えるか、
そんな時代の本質。
移ろわないものと、移ろうものを、見つめない、
画一化した、似たような視点での報道のほうが
恐ろしいことではないでしょうか。

・子育て・
上の成人式と通じるところがあるのですが、
子育てをしていると、つくづく思います。
子供というのは、思い通りならないものだと。
こんな子供に学ぶべきことは、
親の気持ちとは裏腹に、子供は、
さまざまに変動しているということです。
そして、親は、そんな変動を目の当たりにすると、
自分の理想の子供像、子育て論など、
所詮理想にすぎないことを思い知らされます。
時代、環境、親、そして子供自身の個性など、
すべてが複雑に融合して、子供は成長していきます。
それは、子供だけのせいだけでもないし、親のせいだけでもないし、
環境のせいだけでもないし、時代のせいだけでもありません。
子供のせいでもあり、親のせいでもあり、
環境のせいでもあり、時代のせいでもあるのです。
その全体のせいなのです。
そして、できあがった成人には、多様性が生まれていくのです。
それは、親の理想で、決まるものではないのです。