2001年1月18日木曜日

1_3 時の境界(2001年1月18日)

 2000年12月31日から2001年1月1日に変わるとき、千年紀(millennium)という今まで日本ではほとんど使ったことのないような単語を用いて、その区切りを祝いました。西洋で使われている太陽暦のグレゴリオ暦では、大きな区切りですが、他の暦ではたいした区切りではありません。目に見えない「時」に境界線を引き、その「時の境界線」に意味を見出すのは文化というものなのかもしれません。
 科学や歴史の世界にも「時の境界」を重要視することがあります。それは、時代の区分です。しかし、それは明らかに人為的な境界線を引いたものです。その例を紹介しましょう。
 「時の境界」の前の後には客観的にみてもたいした変化がないときがあります。例えば、個人の歴史・履歴、自分史などの自伝、ある視点に基づく文化史のようなものは、設定した人にのみに存在する「時の境界」があります。他の人や他の分野ではその境界は意味をなしません。
 ある地域、ある国、ある文化、ある分野にだけ存在する「時の境界」もあります。それは、ミレニアムがそれです。グレゴリオ暦を使用している国、地域にのみ存在します。
 日本で太陽暦が採用されたのは1873年(明治6)で、それ以前に使用されていたのは太陰太陽暦、いわゆる陰暦または旧暦と呼ばれるものです。本居宣長は有史以前の日本人の暦日についての認識を考察して《真暦考》を著した。宣長は、日本では中国から暦法が入ってくる前は太陽暦思想があったとして、「かの空なる月による月(朔望月のこと)と年の来経(きへ)とを、しひてひとつに合はすわざ(太陰太陽暦のこと)などもなくて、ただ天地のあるがまゝにてなむありける」といっています。
 現在、世界中のほとんどの国で用いられている太陽暦が、グレゴリオ暦です。西暦年数が4で割り切れる年を閏(うるう)年としますが、100で割り切れる年は100で割った商をさらに4で割って割り切れる年のみを閏年とするというものです。400年につき,1年365日の平年が303年,1年366日の閏年が97年ですので、1年の平均日数は365.2425日となります。1年の長さ(1太陽年)は、理論的には、
 365.24219878日-6.14日×10E-6×T
で与えられます。T の単位は100年と考えて差し支えありません。この式は1900年1月0日に基づいていますが、1年の長さが少しずつ短くなるため、グレゴリオ暦との差は少しずつ大きくなります。その差は、1900年から2621年で1日をこえ、1万年では6日ばかり違ってくる計算になります。
 ある時代の数え方、特にそのスタートをどこにするかという点が、全く変わってしまうということです。果たしてそのスタートにどれほどの意味があるのでしょうか。例えばイランでは春分を年初とするペルシア暦があります。また、太陽暦によって調整されたユダヤ人のユダヤ暦は、創造紀元によって年号を数えはじめ、ティシュリ月(9~10月)が新年となります。ラビの計算によると、世界創造後3830年にエルサレム第2神殿が破壊されました。これはキリスト紀元70年の事件ですから、創造紀元から3760年引くことにより、キリスト紀元の年数を得ることができます。ご存知のように、現在のグレゴリオ暦のスタートは、キリストの誕生としています。クリスチャンでない人の意味のある境界とは思えませんが、一応グローバルスタンダードとなています。
 「その時」という境界は明瞭でないときもあります。ルネサンスや産業革命、宗教改革、明治維新など正確なスタートはありません。あっても、単に「ある時」を境界としましょういう便宜的なものです。
 「時の境界」にはどうもいかがわしいものがたくさんあるようです。科学の世界ではどうでしょう。一番重要な「時の境界」は、地球史の年代区分です。その客観的な評価はどうでしょうか。いかがわしいものはないでしょうか。その話は次回でしましょう。