2001年1月25日木曜日

1_4 冥王代(2001年1月25日)

 地球の時代区分で、最初の時代を冥王代(めいおうだい)と呼びます。地球の始まりの45.6億年前から38億年前までの時代です。冥王代とは、どんな時代でしょうか。それは、地球上で起こったすべてのことの原因がここから始まったのです。すべての始まりの時は、少し前までは、まるで黄泉の国のように闇に閉ざされた時代でした。しかし、最近、冥王代にも、少しずつ科学の光が当たりだしたのです。
 冥王とは、ギリシア神話の暗黒の王プルートに由来しています。プルートは冥王星の名前に使われています。天文学では、惑星や衛星にはギリシア神話の神の名前付ける風習があるからです。
 冥王代は、日本固有の名前です。冥王代は、英語ではヘーディアン(Hadean)といいます。冥府の王プルートの住む黄泉の国、冥府のハディス(Hades)の意味です。正確には、黄泉代あるいは冥府代の方が正し訳ですが、今では冥王代が使われています。
 地質学の世界で、冥王代は、地質学的証拠のない時代です。ですから最古の地層や岩石より前の時代となるわけです。しかし、時代区分の境界は、一度決定されると簡単に変えることは、あちこちで支障をきたすのであまり好まれません。冥王代の岩石が見つかっても、そこが冥王代より新しい時代である太古代とは、すぐにはされません。ですから、地質学的証拠のない時代の証拠の岩石や鉱物という矛盾したものが発見されるわけです。
 年代でいいますと、冥王代は地球の形成された45.6億年前から38億年前までの時代です。38億年前というのは、1980年代までは最古の岩石や地層が出ていたグリーンランドの太古代の地層から定義されています。
 現在までに、多く地域から38億年前より古い岩石や地層が発見されてきました。一番衝撃的だったのは1989年のカナダのアカスタ地域から発見された39.8億年前の岩石です。一気に2億年も、最古の岩石の記録を塗り替えたのです。その後、アカスタではさらに古い40億年前の岩石も発見されました。さらに、アメリカ合衆国、中国、南極など各地から古い岩石が発見されてきました。
 ちなみに地球最古の物質は、オーストラリア西部から発見された鉱物で、42億年前のものです。
 冥王代の地質学的証拠はそれほど豊富ではありませんが、それぞれが非常に重要な証拠となっています。このようなほんの少しの手がかりから地球の誕生や地球の創世の物語が読み取られるのです。

2001年1月18日木曜日

1_3 時の境界(2001年1月18日)

 2000年12月31日から2001年1月1日に変わるとき、千年紀(millennium)という今まで日本ではほとんど使ったことのないような単語を用いて、その区切りを祝いました。西洋で使われている太陽暦のグレゴリオ暦では、大きな区切りですが、他の暦ではたいした区切りではありません。目に見えない「時」に境界線を引き、その「時の境界線」に意味を見出すのは文化というものなのかもしれません。
 科学や歴史の世界にも「時の境界」を重要視することがあります。それは、時代の区分です。しかし、それは明らかに人為的な境界線を引いたものです。その例を紹介しましょう。
 「時の境界」の前の後には客観的にみてもたいした変化がないときがあります。例えば、個人の歴史・履歴、自分史などの自伝、ある視点に基づく文化史のようなものは、設定した人にのみに存在する「時の境界」があります。他の人や他の分野ではその境界は意味をなしません。
 ある地域、ある国、ある文化、ある分野にだけ存在する「時の境界」もあります。それは、ミレニアムがそれです。グレゴリオ暦を使用している国、地域にのみ存在します。
 日本で太陽暦が採用されたのは1873年(明治6)で、それ以前に使用されていたのは太陰太陽暦、いわゆる陰暦または旧暦と呼ばれるものです。本居宣長は有史以前の日本人の暦日についての認識を考察して《真暦考》を著した。宣長は、日本では中国から暦法が入ってくる前は太陽暦思想があったとして、「かの空なる月による月(朔望月のこと)と年の来経(きへ)とを、しひてひとつに合はすわざ(太陰太陽暦のこと)などもなくて、ただ天地のあるがまゝにてなむありける」といっています。
 現在、世界中のほとんどの国で用いられている太陽暦が、グレゴリオ暦です。西暦年数が4で割り切れる年を閏(うるう)年としますが、100で割り切れる年は100で割った商をさらに4で割って割り切れる年のみを閏年とするというものです。400年につき,1年365日の平年が303年,1年366日の閏年が97年ですので、1年の平均日数は365.2425日となります。1年の長さ(1太陽年)は、理論的には、
 365.24219878日-6.14日×10E-6×T
で与えられます。T の単位は100年と考えて差し支えありません。この式は1900年1月0日に基づいていますが、1年の長さが少しずつ短くなるため、グレゴリオ暦との差は少しずつ大きくなります。その差は、1900年から2621年で1日をこえ、1万年では6日ばかり違ってくる計算になります。
 ある時代の数え方、特にそのスタートをどこにするかという点が、全く変わってしまうということです。果たしてそのスタートにどれほどの意味があるのでしょうか。例えばイランでは春分を年初とするペルシア暦があります。また、太陽暦によって調整されたユダヤ人のユダヤ暦は、創造紀元によって年号を数えはじめ、ティシュリ月(9~10月)が新年となります。ラビの計算によると、世界創造後3830年にエルサレム第2神殿が破壊されました。これはキリスト紀元70年の事件ですから、創造紀元から3760年引くことにより、キリスト紀元の年数を得ることができます。ご存知のように、現在のグレゴリオ暦のスタートは、キリストの誕生としています。クリスチャンでない人の意味のある境界とは思えませんが、一応グローバルスタンダードとなています。
 「その時」という境界は明瞭でないときもあります。ルネサンスや産業革命、宗教改革、明治維新など正確なスタートはありません。あっても、単に「ある時」を境界としましょういう便宜的なものです。
 「時の境界」にはどうもいかがわしいものがたくさんあるようです。科学の世界ではどうでしょう。一番重要な「時の境界」は、地球史の年代区分です。その客観的な評価はどうでしょうか。いかがわしいものはないでしょうか。その話は次回でしましょう。

2001年1月6日土曜日

6_4 保護:ヒトが守るとは

 あけましておめでとうございます。昨年末から続いて、ヒトと自然保護について考えましょう。ヒトが守るべき生き物、自然、地球。いつからそのような考えができてたのでしょうか。ヒトはいつから他の生き物にを守るなどという優位を持つようになったのでしょうか。それは、他の生き物、自然、地球は望んでいることなのでしょうか。実は、ヒトが望んでいるのではないでしょうか。

 人類を守るためには他の動物を犠牲にして良いのでしょうか。人間が動物と共存していた時は、他の動物を犠牲にして生きていくことに問題はありませんでした。それが、人類という生物種の生き方だったのです。強いものが勝つという原理、弱肉強食、が自然の中ではありました。それは、食べるためでした。あるいは、欲しいものを手に入れるという純粋に欲望という名のもとにおこなわれる営みでした。
 文明や貨幣経済の訪れとともに、必要以上のものをとったり、集めたりしだしました。しかし、地球や自然から考えてみれば、社会性を営む科学技術を使う新たな生物種が1つ生まれたに過ぎないのかもしれません。何も考えず、地球や自然から搾取するだけであれば、何も地球や自然に反した行為ではなかったのです。
 ところが、この行為に対して疑問持った時点から、人類は、地球や自然と相対するものとなったのです。あるいは考慮すべき一番重要なものとして、地球や自然が生まれたのでした。
 野生生物保護や地球環境保護も、その免罪符的行為として生まれてきました。野生動物の保護の例をとりましょう。人類は「思いやり」の精神から、絶滅危惧種を守るために、彼らが生活しやすい環境を整えたり、守ろうとしてきました。時には、絶滅危惧の生物を守るために、天敵を人為的になくしたり、食料になる生物を持ってきたりしました。トキを守るためにどれほどの犠牲が払われたのでしょうか。片や、絶滅危惧生物であってもヒトに被害を与える猛獣や害獣は容赦なく殺されました。これはヒトのエゴイズムといわずして何というのでしょうか。ヒトは、絶滅危惧の生物を守るために、他の多くの命を犠牲にしてきました。希少価値があれば、他の多くて価値の低いものは犠牲になるのです。動物に対する牧畜や植物に対する農業の裏返しが、絶滅危惧生物の保護ではないでしょうか。ここに、まさに現代社会の構図が見え隠れしてきます。つまり、人間の営みは資本主義的なものなのかもしれません。
 今盛んにおこなわれている保護の影には、このような殺戮が、「正義」や「保護」の名のもとにおこなわれています。「命」という総体に対して、非常に失礼なことをしていないでしょうか。
 人類が自分が食べるため、あるいは人類全体のエゴを全面に出していれば、このような殺戮は必要悪でまだ救われる気がします。つまり、牧畜や農業はまだ救いがあると思います。それは、元をたどれば、人類が食うためにやっていることです。でも、正義や保護の名のもとにおこなわれる行為は、一歩間違えば神をも恐れぬ残虐非道の行為ということになります。
 自然が変わって困るのは、人類自身なのです。今まで地球や自然からの恵みを一方的に享受してきた人類が、地球や自然に限りがることに気付いたのです。そして、一方的な搾取には限度があるということに気付いたのです。
 21世紀を目前にして、「21世紀に残したいもの」、「21せいという世紀とは」、あるいは「20世紀を振り返って」などの回顧がおこなわれます。たのえば「21世紀に残したいもの」などは、いくつかの語句が欠落しています。「私たち人類」が、「自分たちの種の後継者」に対して21世紀「残したいもの」という意味ではないでしょうか。
 人類があろうとなかろうと、地球や自然は残ります。それは、生命の大絶滅があっても地球や自然は残ってきたことが証明しています。
 地球環境問題といっていますが、実際は人類にとっての問題です。人類が地球を守ろうとかをうんぬんかんぬんするのは、地球を研究するものの目からすると、非常に不遜な考えだと思います。人類があろうがなかろうが、地球が存在しつづけます。「21世紀に残したいもの」の本当のところは、人類が自分たちの種にとって、住みよい環境でありつづけて欲しいというエゴを、オブラートに包んで表現したものではないでしょうか。最近の環境問題はそこのところが曖昧にされた奇麗ごとだけで、語られています。もう少し根本に帰って考えてみる必要があるのではないでしょうか。