2000年12月23日土曜日

6_3 自然:地球とヒト

 今年もあと少しで終わりです。今年の最後に少し重い話題ですが、自然について考えていきましょう。なぜ、ヒトは、自然を守ろうと考えるようになったのでしょうか。自然とは、守るべきものなのでしょうか。地球とはそんなに、か弱いものなのでしょうか。自然と地球とヒトの関係を考え直して見ましょう。良いお年を迎えてください。

 私たちに身近な地球は、大気、海洋、生命、そして大地からできています。大気、海洋、生命、そして大地の相互作用によって、現在の地球の営みがあります。相互作用の時間的変遷が、地球の歴史といえます。
 従来からあったこのような相互作用を、人類が乱そうとしているため、自然保護や地球環境問題が生じてきました。しかし、自然保護や地球環境問題も根っこを掘り下げていくととんでもないものが見えてきます。少しうがった、あるいは偏屈な見方かもしれませんが、実は非常に重要なことだと思いますので、紹介します。
 地球における壮大な時間の流れ、あるいは生命の進化の果てに、私たち人類がいます。かつて、人類も自然の一部でした。しかし、今や、自然と人類は相対するもの、あるいは、人類が守るべきものとして自然があるというようになってきました。人類があたかも自然を支配しているように考えがちです。でも、実は、反対なのです。
 地球という視点、あるいは自然という視点で考えますと。人類は所詮、何百万種ある生物種の1種にすぎません。ということは、人類も多様な自然のひとつに過ぎないのです。人類が地球をどうイジロウとも、地球はびくりともしません。人類が自然をどうイジロウとも自然はびくりともしません。変化するかもしれませんが、地球や自然はなくなりません。地球や自然は、それほど大きく強い存在なのです。
 人類は一個人としては微力ですが、科学技術を使うことによって、非常に大きな力を手にいれました。一個人では長い時間かけてこなわなければならないことも、技術力を活用すれは短時間におこなうことが可能になりました。
 例えば、ピラミッドを作るには遠くから、石を大量に切り出さなければなりません。長い時間と多くの人手をかけて、ピラミッド建築はおこなわれたはずです。切り出された石の総量は、一山がなくなるほどかもしれません。今や、新興住宅地をみますと、一晩とはいいませんが、非常に短期間で、それもたいした人手をかけずに、科学技術によって、一山くらい簡単に消し去ってしまいます。
 このような力を持つことに、人類は、自分ら自身で恐怖を感じはじめたのです。そのために、自然を保護や地球環境を考え出したのではないでしょうか。

2000年12月14日木曜日

3_2 地球の層

 地球の構造を一口に言いうと、層構造をしているということです。そして、中心部に重いもの、外にいくほど軽いものからできています。このような地球の姿ですが、私たちの日常的な感覚とは大きく違っています。それは、私たちが地球の表層の一部に住んでいるためです。海や大気が大きく見えますが、地球の大きさに比べると、それは、非常にはかないものです。


 地球の構造を一口に言いうと、層構造をしているということです。そして、中心部に重いもの、外にいくほど軽いものからできています。
 地球で一番多くて重いものは鉄です。日常感覚からすると鉄がそんなに多いものと思えませんが、地球全体では半分以上は鉄です。鉄は地球の中心部に集まっています。鉄からできている地球の中心を核(かく、コア)といいます。核は、固体鉄、つまり鉄の結晶からできいる内核(ないかく)と、液体の鉄からできている外核(がいかく)に分けられます。中心から約3500キロメートルが核にあたります。
 鉄の外側には、石からできている層があります。マントルと呼ばれます。マントルは、かんらん岩と呼ばれる岩石からできています。かんらん岩は、きれいな透明感のあるオリーブ色のかんらん石からできています。かんらん石の英語名はオリビン(olivine)です。オリーブ色の結晶ですからオリビンです。かんらん石は鉱物の中では比較的比重の大きなものです。マントルの厚さは約2900キロメートルです。
 地球の半径の6380キロメートルのうち6350キロメートルが核とマントルが占めています。ですから、地球はほとんど鉄とかんらん岩からできているといってもいいわけです。
 マントルの上には軽い2種類の岩石が浮かんでいます。2種類の岩石のうち重いほうが玄武岩(げんぶがん)、軽いほうが花崗岩(かこうがん)と呼ばれます。玄武岩は、黒い岩石で海底をつくっている岩石です。花崗岩は、白い岩石で大陸をつくっている岩石です。玄武岩と花崗岩の部分をあわせて地殻(ちかく)と呼ばれます。その厚さは、海洋部で5キロメートル、大陸部では40キロメートル、平均で30キロメートルほどです。地球全体で比べると、半径で0.5パーセント、体積で1.4パーセントにすぎません。地球をりんごにたとえて、地殻をりんごの皮に見立てることがされますが、間違いです。地殻が地球全体に占める割合は、もっと薄いのです。
 以上が固い地球の部分です。柔らかい地球あるいは軽い地球の構成物がその上に乗っています。まず、水です。水は海をつくっています。地球の水の厚さは、平均すると3.8キロメートルです。地球を水の惑星といいますが、水は地球の大きさに比べて非常に薄いのですが、表面を覆っているため、海の惑星に見えるのです。海の上には大気があります。地球の大気は空気と呼ばれます。空気は酸素を20パーセント含む特殊なものです。
 人間の住んでいるのは、地球の表層の部の大陸の上で、大気の中でもあります。人間も含めて生物は、海、大陸、大気の境界部分に生存してます。生物の地球の水の中で生まれたのですが、その生息域は、海にとどまらず、今や陸地の至るところから空まで進出しています。
 これが、地球の基本的構造です。

2000年12月3日日曜日

4_2 日食

 私がはじめて見て感動した天文ショウは、カナダの奥地で見た部分日食でした。偶然からのスタートですが、非常に興奮した記憶があります。そして、幸いなことにその天文ショウをカメラで撮ることができました。そこから、天文への興味がわいてきました。


 1990年、夏のことです。もう10数年前のことです、初めて日食を見たのは。実は、日食を見ようとして見たわけではありませんでした。カナダへ地質調査にいっている時に、偶然見たのです。カナダ北西準州アカスタという人跡未踏の地にいるときでした。ブリティッシュ・コロンビアで大規模な山林火災が数十日にわたっておきました。その煙がアカスタまできて、昼間でも薄雲がかかっているような状態でした。そのため太陽も肉眼で直接見ることができたのです。そのときに、たまたま空を見上げた私には、どうも太陽が欠けているように見えました。そこで現地の研究者に尋ねると、"elicups"だといいます。最初、意味がわからなかったのですが、同行の日本人研究者に、「それは日食の意味だ」と教えてもらい、やっとわかりました。その時、望遠レンズで写真をとった記憶が、今での生々しく残っています。
 この日食は、偶然、接した天文ショウだったのですが、私にとっては大変インパクトが強く、強烈な記憶として残っています。中学生のときだったか、部分月食があるというので夜遅くまで起きていて見た記憶がありますが、寒くて眠かったという記憶しかありません。その月食以降も、天文への興味は、純学問的な部分だけで、天文観測へとは至りませんでした。しかし、カナダでの日食が天文観測への興味をかきたてました。その後、チャンスがあれば、細々と趣味的な天文への興味を維持してきまし。一時小さな望遠鏡を購入しようかと考えしたが、私には無謀な試みとしと考えて、今のところあきらめている。そこで、小さな趣味として、天文ショウには取り組むことにしました。

2_2 生命とは

(2000年12月3日)
 生命とは、不思議なものです。長い年月をかけて研究者たちはその秘密を解き明かそうとしてきました。まだ、その完全なあるいは誰もが納得するような答えを、私たちは得ていません。でも、あえて問いましょう。生命とは、なにかを。
 「生命とは何か」これは難しい問題です。実は答えはありません。なぜかというと地球の生き物すべてを網羅的に定義がおこなえないのです。
 では、私たちが生命を認識ができないかというと、そうではありません。たとえば、4本足で立っているイヌと4本足のイスがあるとします。すると、私たちは即座に、イヌが生き物で、イスは生き物でないとわかります。なにも、こんな極端な例ではなくても、たとえば、昼寝しているイヌと死んでいるイヌは、ちょっと観察すればわかります。では、どう違うか説明しろというと、これがなかなか難しい。ここではイヌが生きているか死んでいるかを議論するとこでないので、ひつこく言いませんが、実はこれがまた難しい。人間では脳死問題につながるほど、微妙な問題です。このあたりは立花隆氏の脳死に関する書物を読まれると面白いと思います。
 生物すべてに共通の定義はできませんが、最大公約数的な定義が可能です。
・自分をもっていること
・食べてウンチをすること
・子供をつくること
・子供が親とは少し違っていること
の4つが、その定義です。私たちヒトからすると、当たり前のことのようですが、他の生物では、この定義でもはっきりしません。この4つの定義を少し詳しく見ていきます。
 「自分をもっていること」といいうのは、自分であるところと自分でないところがはっきりしていることです。ヒトで言えば、体がはっきりしていることです。当たり前のことですが、微生物になると、一つの生物なの複数の生物なのかがはっきりしないことがあります。この自分というものは、個体といいます。「自分を持っていること」とは、個体があることといい換えることができます。
 次ぎは、「食べてウンチをすること」です。食べるということは、体の外から、自分のエネルギーのもとを取り入れるということです。ウンチをするということは、体の中のいらなくなった物質を排泄することです。このような個体内での、エネルギー変換システムを、代謝といいます。
 「子供をつくること」ということは、繁殖するといことです。生物というのものは、自分と同じ仕組みを持った子供を作らないと絶滅してしまいます。現在地球に生物がいるということは、常に子孫を作りつづけてきたからです。そうでなければ、一つの個体が、無限の寿命を持たなければなりません。しかし、私たちは、死んでいくいく生き物を見ています。それと、子供を作らないとすれば、最初の生物はどうしてできたという問題にたどり着きます。神様がつくったとにでもしないと、解決できない問題となります。
 最後は、「子供が親とは少し違っていること」とは、3番目の定義と矛盾しそうですが、この仕組みが今の多様な生物世界を形成してきたのです。ヒトでも、親と子とは似ていますが、少し違います。二卵生双生児でも似ているけれども、どこか違います。このような違いが、やがてはある生物を別の種類への生物へ変えていきます。このようは仕組みを、進化といいます。
 この4つの定義を満たさないと、それは生物と言えないかといいますと、そうではありません。実際にそのような生物がいます。じゃあ、この定義のいくつかを満たせばすべて生物かというと、生物でないものでも、上のいくつかの定義を満たすことがあります。このような生物らしくない生物や、生物らしい生物でないものについては、別の機会に紹介しましょう。